360度の敵

先日ラジオで、大分県杵築市で、男が自宅に放火して家族4人が焼死した事件が伝えられ、その直後に国会で安保法案をめぐる質疑の様子が伝えられていた。
この二つはまったく別の話なのだが、自分の中で重なってしまうのは、放火した男性が最近不祥事続きの海上自衛隊出身であったこと、ばかりではない。
すべてを焼き尽くす「放火」というような行為に、ベトナムやイラクから帰還した兵士達が起こした事件をツイ連想してしまったからである。
杵築の自衛隊員はもちろん帰還兵でもなく、仕事の上で前線ではなくむしろ「閑職」に置かれたことがストレスの原因となっていたようだが、人間にはすべてをかき消してしまいたい一瞬があるのかもしれないが、実際に行動に移すというのは、さすがに理解しがたいものがある。
さて続くラジオの国会質疑では、野党議員がイラクのサマワの非戦闘地域に派遣された自衛隊が、戦闘状態寸前の状況にあったのではないかという質問が行われていた。
それに対して、政府側は「ひとりの死者も出さなかったので、問題なかった」という答弁を繰り返した。
しかし、この「ひとりの死者も出なかった」という言葉は、広い意味では正確とはいえない。
先月5月 防衛省は衆院平和安全法制特別委で、イラクなどに派遣された自衛官のうち54人が「自殺」していたという「驚くべき事実」が明らかにされたばかりである。
2015年アメリカ人ジャーナリストが「帰還兵はなぜ自殺するのか」という本に、イラクに派兵された兵士とその家族が、帰還後どういう苦難を生きているかを、膨大なインタビューや取材から得た事実に基づいて書いた。
イラクとアフガニスタンから帰還したアメリカ兵はおよそ200万人。そのうちの20~30%にあたる人が「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」を患っているという。
この本に登場する5人の兵士は、イラクでもっとも戦闘の激しい地域に送られた平均年齢20歳の同じ中隊に所属した仲間で、そのうち1人はすでに戦死し、残る4人は重い精神的ストレス(PTSD)に苦しんでいる。
妻たちが共通していうことが、「戦争に行く前はいい人だったのに、帰還後は別人になっていた」ということである。
自ら志願してイラクに派遣さた彼らは、快活な若者たちだったが、帰還したのち妄想や幻覚に苦しみ、家中の物を投げつけて妻を殴ることもしばしばであった。
夜中に首を絞められることを恐れて妻は枕の下に拳銃をしのばせる。
一方で、彼らはあらゆる機会を狙って自らの命を絶とうとするという。
帰還兵が「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」に苦しむのは1960年代のベトナム戦争の帰還兵にみられるため「ベトナム症候群」という名前さえあり、新しい問題ではない。
しかし著者によれば、イラクやアフガニスタンとベトナムとの間に根本的に違いがあるという。それは戦闘における明確な「前線」というものが存在しないことである。
つまり、360度のあらゆる場所が戦場で、進むべき前線もなければ軍服姿の敵もおらず、予想できるパターンもなければ安心できる場所もなかった。
そういう状況の中で、兵士の中に頭がおかしくなる者が出る。
今、国会で議論されている「戦闘地域」と「非戦闘地域」に分けることについて、実際の現場ではあまり意味をなさないことがわかる。
つまり、「戦闘地域/非戦闘地域」というのは「政治的な概念」でしかないということである。
また帰還兵の中には、自分がアノの時こうしていれば、同僚は無惨な死に方をしなくて済んだのではないかという自責の念にも襲われる者もいる。
国会の質疑で、戦闘はあくまで「自衛」を旨とするものだという政府側の回答があったが、危険な状況で前線に味方を残して立ち去ることが、いかに「非現実的」であるということである。
さて、2003年自衛隊が経験したもっとも「有事」に近い任務といわれる「イラク攻撃」で、自衛隊はフセイン政権崩壊後に人道復興支援を目的にイラクの南部サマワに派遣された。
こ帰還後の54という自殺者の数字をきいて、最初、専守防衛に馴らされていて「精神的なタフネス」に欠けているいるのではないかと思ったが、実は「非戦闘地域」ということは気休めにもならないほどのストレスがかかるものらしい。
自衛隊のイラク派遣駐屯自衛隊が5年にわたる宿営地での任務を1000本のテープに記録していた。
これまで防衛省に保管されて公にされなかったが、その映像が初めて開示された。
このテープには、大半が医療支援や給水、道路の修復など「人道復興支援活動」の様子が記録されており、これまで明かされてこなかったイラク派遣の実態が記録されている。
そこには、現場の緊迫した実態の一端が伝えられているという。
アメリカ・イギリス主導で進められた当時の自衛隊トップだった統合幕僚長は、 隊員に隠して宿営地には極秘裏に棺10個を準備していた。
そして犠牲者が出ることも想定し、遺体をどのように運ぶか、その手順、国主催の葬儀も検討されたこと語っている。
またビデオの中で、ひとりの隊員が当時を振り返る。
派遣から間もない04年3月のある深夜、突然、鉄帽、防弾チョッキの着用命令が下され、「A警備の当番は直ちに指揮所に集合」のアナウンスが流れた。
A警備とは不測の事態に緊急で警戒に当たる警備態勢で、この日の夜、武装勢力が宿営地を攻撃する可能性があるという情報が現地警察から伝えられたのだった。
その1か月後の4月には迫撃砲が宿営地に撃ち込まれた。
迫撃砲やロケット弾による攻撃は13回にも及んだ。
つまり派遣当初から「宿営地」は狙われていたというのだ。
また元統合幕僚長は、「非戦闘地域」といわれたが、実際は対テロ戦が行なわれていた地域への派遣で、派遣部隊から見れば何が起きてもおかしくなかった。
さて、イラクに派遣された陸海空の自衛隊員は5年間でノベ1万人。
幸い戦闘では「ひとりの犠牲者」も出さなかったが、自衛隊員たちにとって、緊張、不安、恐怖の連続のなかで、精神的な不安定を抱えたままの帰国であり、帰国後も「戦場」は続いているといって過言ではない。
しかし、任務を全うし帰国したのになぜ命を絶つのか。
イラク派遣を終え帰国1か月後に自殺した20代の隊員の母親は次のように語った。
息子の任務は宿営地の警備で、息子はジープの上で銃を構え、どこから何が飛んでくるか分からない。おっかなかった。怖かった、神経を使った。夜は交代で警備をしていたようだが、交代しても寝れない状態だったと言っていた。
息子は帰国後にカウセリングを受けたが、精神状態は安定せず、カウセリングにおいて命を大事にしろではなく、むしろ自死しろと言われているのように聞こえたと話していた。そしてその数日後に隊員は死を選んだという。
また帰国後精神に不調を訴え自ら命をたった40代の隊員の妻は、生きていてもらいたいと思って夫をサポートしてきたが、亡くなった人の何十倍もの人が苦しんでいる。自衛隊の活動が広がろうとしている中、隊員が直面している現実をもっと知って欲しいと語っている。
帰国後54人の隊員が自ら命を断たれたのは重い事実だが、防衛省はイラク派遣と自殺は直接の因果関係があるかどうかわからないとしている。
また安部首相は、この事実につき「木を見て森をみない議論」と一蹴しているが、これが「美しい国・日本」を掲げた首相の言かと思う。
さて、杵築市の自宅を放火した男性は、職場や家庭のストレスによって衝動的に放火したように伝えられるが、広く捉えれば今の自衛隊員が置かれている状況と無関係ではないように思える。
基本的に、自衛隊を「保有する自衛隊」から「戦える自衛隊」へ性格を変えていくためにかかる負荷は一般市民の想像を超えたもののようだ。
特に、海上自衛隊はインド洋への海外派兵を至上命題として、それを軸にして活動が組み立てられている。
さらには、実戦的軍事演習、アメリカの軍事戦略への組み込みなどが推進される中で、隊員たちの日常的な緊張が高まっている。
そうした中で2011年5月に起きたのが、海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船の衝突事故で、45000人の巨大組織の海上自衛隊に「異変」が起きていることを示している。
イージス艦「あたご」は、事故の10日程前、ハワイの米軍施設で実際の配備に付くための仕上げを行っていた。魚雷やミサイルを標的に当て「高い評価」を受けていたのだが、その帰り艦内で酒宴がなされ、その結果この事故を起こし、漁船の父子が死亡している。
NHKの番組による「検証」では、海上自衛隊員は任務の増大で隊員が疲弊し、モラルが低下していることが事故の背景にあるという。
インド洋への7年に及ぶ派兵や、イージス艦などでは最新のシステムへの対応で追われ、年間の出航が250日以上に及ぶこともある。
元自衛艦隊司令官は、任務の増大で基本的訓練が十分にできなくなっていると、実態を証言している。
また、現役の海上自隊員が激務によるストレスから精神的に病みがち、大きな事故につながらないか不安になるなどといった実態が綴報告されている。
そうした中、海上自衛隊の不祥事や事故、いじめや自殺などが急増している。
こうした実態を「素通り」したママ、「結論ありきで」時間を費やして「議論実績」を積むかのように進められているのが、今の延長国会なのである。

2009年テレビドラマ化された「兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜」は、なかにし礼の自伝的小説「兄弟」を元にしたもので、つまるところ「帰還兵」の抱える問題をテーマにしたドラマであった。
作詞家のなかにし礼の父は一代で造り酒屋を築き成功し、子供たちは満州で 豪勢な暮らしをしいた。
14も年の離れた兄は戦争で特攻隊に所属、戦後生き残り、日本に引き上げていた家族の元へ戻って来て、父の死後一家の大黒柱として 祖母、母、姉から頼りにされるハズだった。
しかし戦争から帰還した兄は破滅的で大金を投資しては失敗し、借金を抱えた一家は 貧乏のどん底へ。
なかにし礼が小さい時に感じてた兄の存在はケンカが強く、アコーデオンを華麗に弾きこなし、オシャレで頼りになる存在だったが、それがいつの間にか事業に失敗しては借金を繰り返し 横暴で破滅的な存在に変貌していた。
なかにし礼は、大学の頃たまたまやってたシャンソンの訳詞でなんとか生活出来るまでに稼ぎができが、心臓病にも悩まされる。その後、オリジナルで歌謡曲の詞を書き始め、それが次々にヒットする。
なんとか金に困らない生活に変わるが、歌謡曲の詞を書く事に反対だった妻と離婚し、半身不随になった母の面倒を見てた兄夫婦と一緒に住む。
その兄がお金を勝手に使い出し、働いても働いても兄のせいで借金が山になって行く生活になる。
特攻隊で命を投げ出す覚悟をしていた兄は 「れいぞう、地獄を見なきゃな、いい詞は書けないんだよ」と事あるごとにその経験を話す。
なかにしは兄を憎むが、兄嫁は献身的に母を介護してくれてることもあり 兄を切り離す事も出来ない。
実際に、そういう兄の影響で大ヒットした歌もあり、兄の存在なくして自分の才能も開花出来なかったことも知ってるだけに、印税を横領してる兄を告訴も出来ない。
しか、弟が命を削るようにつくる詞も、兄には「金のなる木」にしか見えなかったようだ。
なかにし礼は、2度目の結婚をし、子供にも恵まれるが兄は相変わらず多額の投資に失敗し、印税を横取りしては銀座で遊びまわる。
兄は「なかにし礼名義」で会社を作っては倒産させ、弟一家は借家住いに追い込まれ、債権者に金を返しに回される始末。
しかしそれでもヒット曲が生み出されていった。
そして、兄を受取人として自分に生命保険でかけられていたことを知り、兄と縁を切る覚悟をする。
この物語は16年間会わなかった兄の訃報のシーンから「兄さん、死んでくれてありがとう」と言うセリフで始まるが、その場にいた兄の戦友から戦争現場の辛い現実を聞かされ、兄が「虚勢」を張らなきゃ生きていけなかったことを知る。
兄の死に顔をさえ見る気はなかったが、生き残りたちの悲しみを知り、やっと顔を見る気になるが、死んでまでも「夢がぼやける」と眼鏡をかけてる兄の死に顔を見た時 あれだけ兄に苦しめられ、憎んでいた弟の目から涙があふれ出す。

イラク戦争時のアメリカ軍兵士の大半は、低所得者層の若者、就職できない若者、生活困窮者、米国籍を求める不法移民等々によって構成されている。
彼らは、イラク人に対しては加害者、侵略者であるが、彼ら自身もまた、ブッシュ政権によって戦場に送りこまれた「犠牲者」ともいえる。
その彼らが、戦場で倒れ、ある者は棺に納められ、ある者は肉体的、精神的に傷つき、大量に帰還している。
テレビで見る限り、イラクやアフガニスタンなど中近東を戦場として戦った多くの兵士が「帰還兵」として紙吹雪をもって迎えられる。
しかしそれは帰国時のみで、かつてのように彼らを「英雄」として受け入れる素地はもはやないということも、彼らの社会復帰を困難にしているようだ。
映画「父親達の星条旗」(2006年)は、一枚の「戦場写真」が人々の運命を翻弄していく悲劇を描いた実話に基づく人間ドラマであった。
原作「FLAGS OF OUR FATHERS」は、ジョン・ドク・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリーによって書かれた。
彼は「父の沈黙」に秘められた真実を知るため、何年もの歳月を費やし、父が見た硫黄島の真実に辿り着く。
映画「父たちの星条旗」では、敵方の砦を奪いとって旗をたてた「写真撮影」が失敗し、撮り直しをすることになった。
実際に戦ったわけでもない人々を使って写真の「撮り直し」が行われたのだが、彼等は帰還後アメリカの「英雄」として盛大な式典をもってむかえられた。
要するに皆、「偽りの英雄」なのだ。
それに上手に乗っかって生きるものもいた一方、アメリカの「星条旗」の下に居住地や財産を奪われた歴史をもつインディアンの男もいた。
男は「偽りの英雄」として振る舞うことに耐えきれず、酒におぼれて暴力事件をおこしてしまう。
結局、「父親達の星条旗」のような映画が作られるのも、「アメリカの正義」についての疑念と分裂があるからではなかろうか。
写真の「取り直し」(張替え)なんていうのもシンボリックだし、イラク戦争ではジェシカ・リンチという敵方から救出された女性兵士の「偽りの美談」のことを思い出した。
また、シルベスター・スターローンの映画「ロッキー」では古き強きアメリカをシンボリックに描いたが、逆に「怒りのランボー」ではアメリカのベトナム帰還兵の役を演じてその代弁者となっている。
父のように慕う元上官に対し、ランボーは「戦闘マシーン」の鎧を脱ぎ捨て魂の限りを叫ぶ。
「ランボー!もう終わったんだ、作戦終了だ。」
「何も終わっちゃいない!、何も!!」
「帰って来た俺たちを寄って集って責めるんだ、赤ん坊殺しだの、何のって!」
「戦場にも仁義があった、だがここには何も無い!」
「戦場では数百万ドルの兵器も使えた、ここでは駐車場係の仕事すら無い!」
「ウゥ、アア~!帰りたいよ、仲間のいる戦場に、皆どこに行ったんだ」。
それまでのアメリカでは帰還兵は「英雄」であり敬意も払われたが、イラクの大義なき戦いの末、多大な傷とストレスを抱えて帰ってきた帰還兵は、命を賭したことでさえ社会が認めてくれないことに対して「二重の意味」で傷つくことになる。
そして帰還兵にとって、彼らの意識の中の「前線のない360度の敵」は、帰国後も容易に消えないようだ。
現在国会の議論中の「集団的自衛権の容認」は、そういう「アメリカの戦争」と深く付き合うことを意味する。