野の花、空の鳥

聖書の「創世記」に、ヘビにそそのかされて神が禁じた「善悪の木」の実を食べた人間が、自らが裸であることを知って、イチジクの葉をつづりあわせたものを腰につけたとある。
この「イチジクの葉」は、人間が最初に行った「過剰」といえるかもしれない。
つまり、元来それなしで生きてこれた人間が、それなくしては生きられない「過剰」への第一歩だったということだ。
フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、必要以上のものを過剰に生産し過剰に消費する、そこに快感を覚えるのが人間であるという。
グローバル化の一方で、IS国の破壊行為などを見ると、全体としてバタイユの「過剰生産→蕩尽(破壊)」はとてもよく当てはまっているように思う。
人類学者の川田順三は、人類学という学問について、「歪ん」でしまった人間の、「原型」を追及する学問とした。
人間は、元来しきたりや習俗といった人々が共通にもち、半ば「意識されず」に従う行動様式が人を人たらしめる要素であった。
ところが「善悪の木」を食べた人間は「エデンの園」から追われ(失楽園)、失ったものを取り戻すかのように「過剰」にものを作り出した。
つまり、人間の抑えがたい宿業とは、人間は生きるに「必要以上」のものを作り出し、それがゆえに争いを招いて、自らを滅ぼそうとしている存在なのかもしれない。
自然界の摂理は、与えられた環境に対して「過剰」なものは常に滅びていくからだ。
川田氏が5年以上も前に西アフリカで研究を始めた頃、文字を知らない現地人と暮らすうち、コミュニケーションが多様で豊かなことを知り、この人々は「文字を必要としなかった」のではないかと思うようになった。
そして、文字に頼りきった現代人が忘れているものを思い知らされたと、一つの思い出を紹介している。
農閑期の夜、熾き火(おきび)を囲み、子供達がお話を皆に聞かせるときの喜びの表情と声の美しさを忘れることができないという。
昼間は大人にこき使われていた子供達の、どこからこんな傑作な話が出てくるのか、文字教育で画一化されていない「アナーキーの声の輝き」とよんだ。
録音して日本に持ち帰り皆に聞かせたら、皆声の美しさに驚き、その伝える喜びや躍動に、人間が「文字」の世界に支配されるにつれ、こうした声や表情を失ったのかもしれないと思うようになったという。
さてバタイユの思想に啓発を受けた人類学者の栗本慎一郎は、金銭・性行動・法律・道徳や戦争までを「パンツ」という比喩で表わし、人間を「パンツをはいたサル」と表現した。
とするならば、文字でさえも栗本氏のいうところの「パンツ」、聖書でいう「イチジクの葉」といえるかもしれない。
そして重要なことは、人間が生きるに必要なだけの食糧や金で生きられる存在ならば、きっと核兵器をもつことも、遺伝子を操作することも、スマホで空しい時間を過ごすことも、人間の能力を超える人工頭脳を制作することもなかったに違いない。
そしてこういう抑えがたき「過剰さ」こそが、人間の最大のリスクになっているのではなかろうか。

新約聖書に「野の花を見よ 空の鳥を見よ」(マタイ6章)という言葉があるが、動物番組を見ていてシバシひきこまれるのは、その社会に人間界の「縮図」を見るからだ。
また「個」として見る場合には、そこに人間の「原型」をみるような可笑しさや、せつなさを見るからだ。
例えば、鹿児島の出水に毎年やってくるタンチョウ鶴達のダンスを見て、微笑ましさと同時に「何か」忘れかけていたようなものを思い起こさせられる気がする。
さらには、動物の世界にも、「右傾化」「婚活」「ブラック企業」「オレオレ詐欺」「草食系/肉食系」などを連想させるものがある。
人間は不安や恐怖を体験すると、ひとりでいることが怖くなる。多くの人と連帯して、多数派に身を起きたい気持ちが強くなり、「集団化」が加速する。
今の日本の「右傾化」は保守化を指摘する人は多いけれど、その一面は「集団化」で群れることではなかろうか。
群れはイワシやカモを見ればわかるように、全員が同じ方向に動く。違う動きをする固体は排斥したくなる。
そして共通の敵を求め始める。
また、チンパンジーの世界では、下位のものがボスの毛づくろいをしたり、アゴ下をナゼてご機嫌をとる。
ボスは地位が下の仲間からゴマをすられて悪い気はしないし、下位のチンパンジーはケンカが起きた時のボスの助けを期待できる。
一方、カラス世界のボスは、ナント地位の低いオスに「毛ヅクロイ」する。
相手がおびえていてもオカマイなしに無理やり「毛ヅクロイ」する。
なぜ相手が喜ばないような毛ヅクロイをするのか。
「群れ」が結婚前の若者の集団であることが影響している。つまりは「女性の視線」を意識しているのだ。
メスにもてるために、仲間をイタワル自分の姿を見せて「優しさ」をアピールしているのだという。
つまりこれも「婚活」の一種なのだ。
南北アメリカ大陸に棲息するクロコンドルの場合には、パートナー以外の異性と関係を持とうとすると、パートナーだけでなく、周りにいるクロコンドルからも攻撃されてしまう。
つまり、「浮気をさせない監視社会」という恐ろしい社会を形成している。
しかし、浮気する個体がいると、ほかの個体になにか不都合でも起きるのだろうか。
言い換えると、クロコンドルが浮気を監視してまで、「同じ」相手とペアを組み続けることにはどんなメリットがあるのか。
単純な理由として考えられるのは、オスとメスの個体数の比率が1:1に限りなく近いため、浮気をする個体が存在すると、そのバランスが崩れてペアになれないものが現れるということがある。
他の遺伝子をもつ子を育てるとなると「子育て放棄」か手抜きになるので、浮気を防ぐことは卵やヒナの面倒もシッカリ見ることに繋がる。
ところでハクチョウなどはペアを替えずに同じ相手と生涯をともにする。
これは繁殖期のたびに連れ合いを探してさまよったり、闘争したりする無駄を省くのに役立つからである。
クロコンドルの場合、ほかの個体が一度できたペアを続けるよう「無理強い」するのだから、群れ全体で「非暴力」「省エネ」を考えているということになる。
ところで、人や動物が動き回るのは食べ物を手に入れ子孫を残すためである。
一方、植物は動かなくてもそれができる。そのための戦略をたくさん持っているからだ。
したがって、人間が植物より上というのは思い上がりかもしれない。
人や動物はあちこち動きまわって「婚活」するが、植物にも「婚活」はある。
ただブランド物で着飾り、念入りに化粧して望むようなことはしない。
花の色や香り、蜜の味。手づくりの魅力で虫や小鳥を引き寄せて花粉を運んでもらう。
芽生え、花を咲かせ、身を結んでいく植物。それぞれの段階で努力する姿はアッパレというほかはない。
曲がった木は使えないというが、曲がった木だから誰にも刈られずに生き残るということもある。
道路や線路脇からブロック塀まで、と金はかなり高い所、アリが入るスキマもないようなところでも、あらゆる場所に植物が生えている。
植物はもともと、スキマをうまく使って生きるものである。
広々とした野原は植物にとってよい環境に見えるが、みんなよければそれだけ厳しい競争がある。
つまり光をとるために少しでも早く上へ上へと茎を伸ばしていく。
気苦労も絶えず、厳しい競争をやりたくない植物にとって実に過酷な環境である。
外から見た居心地よりも、自分にとっての居心地を選択する植物もいる。 スキマは狭いが光は取り放題で無理に伸びる必要もない。
電信柱の下だと「定期的」に肥料もふってくる。 天敵といえば、雑草と見れば抜きたくなる「人間」ぐらいで、抜くのは惜しいと思わせるようにきれいな花をさかせてその存在価値をアピールしたりする。
雑草は、時間をかけて大輪のきれいな花を咲かせるよりは、小さくても早く花を咲かせることを選ぶ。
また小石に埋もれるくらいに自らを低くして、庭掃除という「撹乱」にも、危機を逃れやすくしたりもする。
植物は窒素がないと生きられず、少なくなると、危機を察知して花を咲かせて種を残そうとする。
「撹乱」(自然災害や人的災害)が起こる場所では、樹木のような大きく成長する植物が生き残っていくのは難しい。
たとえば、畑地では、人が耕運機で土を掘り返したり、雑草が取り除かれたりする「攪乱」がおきる。
樹木は、ほかの植物より、高いところで光を浴びるために、幹が伸びるのにエネルギーを使っている。
しかし、耕運機で土を耕す「攪乱」(=災害)がおきれば、樹木の芽が取り除かれてしまい、子孫も残せず、今まで使ったエネルギーが無駄になってしまい、「子孫」を残すことはできない。
土を耕す「撹乱」がおきる畑は、「撹乱」の影響を除けば、光も水も土もある恵まれた環境である。
畑地雑草は、土が耕される「撹乱」が終った後、光があたるようになると、スバヤク芽を出す。
しかし、すばやく芽を出して大きくなったとしても、次の「撹乱」がおこってしまえば、畑地雑草は子孫を残すことなく、取り除かれてしまう。
そこで、畑地雑草は、早く種子の形をつくって「撹乱」を「種子」の形で乗り切りる。
そのため、畑地雑草は、小さな目立たない花を咲かせ、できたところからドンドン「種」をつくっていく。

新約聖書「マタイの福音書」6章のイエスの言葉は、人間の「原型」を教えているかのようだ。
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26.空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 27.あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28.また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29.しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30.きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 31.だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 32.これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 33.まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 34.だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
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現代人はこの聖句のようにはなかなか生きられないが、歴史上この聖句どうりに生きた、あるい「生きようとした」人の名は、今アメリカの都市の名「サンフランシスコ」として残っている聖フランチェスコである。
聖フランチェスコは、中世ヨーロッパで「フランチェスコ会」を開いた修道士である。
聖書にある「野の草を見よ 空の鳥を見よ」(マタイ10章)をそのまま実践しようとした。
彼の生きた時代は12C、十字軍が派遣される教皇権絶頂期の時代で、1972年アカデミー賞ノミネート作品の「ブラザーサン・シスタームーン」という映画となった。
フランチェスコは1182年生まれで、アッシージきっての大商人で毛織物を商っていた。しかし彼は、現代人の「過剰」な生き方に対するアンチテーゼといってもいい生き方を選ぶ。
当時の大修道院は、祈りの場というよりも工場を備えた大農場に近く、莫大な収益をあげながら税金は一文も払う必要がなかったから、その経営者である修道院長が飽食して肥満化し、風紀が弛緩するのも無理はなかった。
彼の説くところは、愛と平和と清貧に尽きていた。人が本当に必要とするのは愛と平和だけである。
そのほかのものはいっさい無用のものであり、罪の源泉となるだけだ。貧しくあることが神への道であり、豊かになることは地獄への道である。彼の貧しさ礼賛は徹底しており、かつその行いによって示されていた。
彼は物質的な豊かさだけでなく、精神的・知的な豊かさをも認めていなかった。
「知識が豊かになって何になろうか。心貧しいことこそ神の御心に沿うのだ。修道士に学問はいらない。書物も要らない。今日の時は自分の言葉と歌を使えばよい。学問好きで理屈っぽい修道士は、いざという時になす術を知らぬものだ」といった。
まして物質的な富などは。物を所有すれば、それを守る腕力が必要になり、腕力はまず愛と平和をぶちこわす。 彼は自己自身との闘争以外の一切の闘争を否認した。

現代社会において、「過剰」と名のつくものを様々思いつく。過剰医療、過剰サービス、過剰接待、過保護。
ここでは人類学のいう「原型」から見て人間に「歪み」をもたらす二点をとりあげたい。
昨今の「決めすぎる政治」も恐いが「つながり過ぎる社会」も恐ろしい。過剰接待ならぬ「過剰接続」である。
電車に乗って周囲を見回すとスマートフォンをいじってどこかにつながる人ばかり。今のネット社会では、ささいなことまでソーシャルネットワーク(SNS)などで「共有」され「可視化」されている。
スマホも普及し、生活の細部と細部がかつてない規模でつながる。「接続過剰」とはそういう意味である。
SNSは、「適度に」参加すれば、アイデアを得たり、共に考えたりできるが、「適度」に放っておかれれば、互いの自律性を確保できるものの、どんどん難しくなっている。
メッセージが来れば、できるだけ早く返信する。相手からの返信が遅ければ、嫌われていないかと不安になる。
最小限でも反応を返すことが「思いやり」として目的化し、形骸化する。
SNSとスマホの普及は、視聴覚を総動員し、ほとんど依存症のような状態を広げている。
かつてはコンビに店の冷蔵庫でアルバイトが寝転がった写真があれば、それを見た人々が「ばかなやつ」で済んだものを、ネット上で公開されて本人が解雇されるだけならまだしも、店自体が潰れてしまう。
今、ネットで発言すると、データベースに保存されるので、消去の操作をしなければ、時につれて「記憶が劣化し忘れられる」ことがありえない。
また、拡散した情報を消去して回ることはきわめて困難である。
さらにもうひとつの「過剰」は、過大評価ならぬ、「過剰評価」である。
ブラジルで昨年開かれたサッカーW杯では、ドイツが優勝した。勝因とされたのが「トラッキングシステム」である。走行距離、短距離のスプリント回数、パスの成功率など選手1人のひとりのプレーを数値化して解析し、戦略に生かす。今期からJリーグでも導入された。
このシステムは、軍事技術のミサイル自動追尾システムを応用したもので、メインスタンドに設置された2台のカメラが、選手やボールをトラッキング(追尾)し、1秒ごとに25フレームの細かさで、ピッチ上のそれぞれの座標を取得する。
そして、この座標を元に、走行距離やスプリント回数といったデータが計算される仕組みになっている。
過剰接続、過剰評価で、職場は「成果」の数字に追いたてられ、試行錯誤や失敗は許されない。
ネットでの検索や買い物で「履歴」が残り、GPSで居場所は常に把握される
。 それは、怠けることが許されないシステムでもあり、美しさや「ひらめき」など数値化できないプレーは「評価の対象外」である。
こういうシステムが仕事の現場に導入されれば、一挙手一投足が評価の対象となり、人間はどこまでも「原型」からはずれていくだろう。