もうひとつの「歴史認識」

3月21日、日中韓外相会談が3年ぶりに開かれた。尖閣諸島問題で中国が反発し、途絶状態にあった日本と中韓の対話が、外相レベルとはいえ復活した。
流れを変えたのは昨秋の日中首脳会談で、少しずつ各分野での対話も動き始めている。
ただ、戦後の節目の総理談話として「戦後50年の村山談話」、「60年の小泉談話」があり、戦後70年を迎えた今年は「歴史認識問題」への対応が避けられない。
前述の外相会談後の共同報道発表文でも「歴史を直視し、未来に向かう」との文言が盛り込まれた。
安部首相が「戦後レジームからの脱却」を掲げているだけに、「戦後70年談話」において、どのようなメッセージを発するかは、単に日・中・韓の三国間の関係に収まりきれない波紋をよびそうだ。
さて、戦後50年談話と60年談話には「過去の植民地支配と侵略に対し痛切な反省と心からのおわびを表明する」という文言が入っていた。
安倍首相は、歴代政権の談話を「全体として引き継ぐ」としているものの、「今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権としてどう考えているのかという観点から談話を出したい」とも述べている。
安部首相は、過去よりも未来に向けてウェイトを置く談話にするようだが、中国や韓国そしてアメリカも、安部首相のメッセージが「過去」をどう総括するかに注目している。
いくら安部首相が「発展的」としても、周囲から「後退」トシカ受け取られないならば、それは大いに国益をそこなうことになる。
さてここでは、日中関係の「負の側面」に立ち入るつもりはなく、むしろ日中間の「友情」の側面につき敷衍したい。
まずは、日清戦争(1894年)をいう不幸な出来事を通過したにもかかわらず、日露戦争(1904年)後はむしろ清国の若者が日本の「近代化」に学ぼうと多くの留学生を送った事実がある。
そして日本で、こうした若者を中国革命へと組織したにが孫文で、日清戦争の頃から、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた。
では孫文は、日本との関わりはどのように生まれたのだろうか。
孫文は、清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月ハワイで興中会を組織した。
翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起を企てたが、密告で頓挫し、日本にはじめて亡命した。
1895年11月、香港から神戸をへて横浜についた。そして12月中旬には横浜からハワイへと渡るが、出発のさいに陳少白を日本にのこし日本で興中会活動にあたらせた。
この陳少白が、宮崎滔天や平山周ら日本人志士を孫文に引き合わせることになる。
孫文は、華僑の間に興中会の組織を広げようと、ハワイからサンフランシスコ、ニューヨークを経てロンドンにつく。
その時、清朝の公使館員にだまされて館内に誘い込まれ幽閉される危機的状況を体験するが、香港の医学校時代の恩師カントリーらの救援活動が英国政府を動かし、奇蹟的に釈放されている。
そして孫文はこの間の事情を「倫敦避難記」に記し、それがかえって「革命家・孫文」の名を一躍広める結果となった。
そして孫文はそのままロンドンに滞在し、かつて亡命中のカールマルクスがそうしたように、毎日のように大英博物館の図書館に通って、読書と思索にふけった。
その一方で、亡命中のロシアの革命家と知り合ったり、日本の南方熊楠と親交を結んだりしている。
1897年7月、31歳の孫文はロンドンをたち、カナダ経由で8月に横浜に着く。
そして、陳少白の寓居に身を寄せた孫文は、そこにたずねてきた宮崎滔天や平山周と運命的な出会をする。
宮崎の方も香港の同志から、革命家孫文のことを聞いて関心をもって、孫文を訪ねたのだが、「初対面当」の印象は少々失望したようだ。
しかし、話せば話すほどに、孫文の魅力に引きつけられていく。
そして、「余は恥じ入(い)りて、ひそかに懺悔(ざんげ)せり。われ思想を20世紀にして心いまだ東洋の旧套を脱せず、いたずらに外貌によりてみだりに人を速断するの病あり。これがためにみずから誤り、また人を誤ること甚だ多し」と反省している。
そして最終的には「孫逸仙(孫文)のごときは、実にすでに天真の境に近きものなり。彼、何ぞその思想の高尚なる。彼、何ぞその識見の卓抜なる。彼、何ぞその抱負の遠大なる。しかして彼、何ぞその情面の切実なる。わが国人士中、彼の如きもの果して幾人かある。誠にこれ東亜の珍宝なり」と評価するに至っている。
この時、孫文32歳。滔天が27歳である。
ちなみに、宮崎は熊本荒尾出身で、革命の支援の為に生活に困窮し、当時蔑まれていた浪曲界に身を投じ、桃中軒牛右衛と名乗ったのは有名な話である。
また、宮崎を通じて玄洋社の平岡広太郎、頭山満、末長節(すえなが みさお)らと接点をもつことになる。
さて、1899年、山東省で義和団が扶清滅洋をとなえて蜂起し、義和団はたちまち華北各地に広がり、1900年には、天津・北京になだれ込んだ。
これに対し同年6月、列強は8カ国連合軍を編成して義和団の鎮圧にむかった。
このような騒然たる情勢をみて、孫文は「時期すでに発す、断じて猶予すべからず」として、10月広東省恵州で武装蜂起し、1895年の広州蜂起につぎ二回目の蜂起を敢行した。
しかし、孫文が日本で調達し、台湾経由で国内に送り込む手はずになっていた武器弾薬が、日本政府の方針変更で差し押さえられ、後援がつかず蜂起軍は解散のやむなきに至った。
ちなみにこの時、日本人志士の山田良政が犠牲になっている。
山田は青森東奥義塾出身で、孫文に共鳴して この武装蜂起にかけつけた人物である。
そして1900年から04年にかけて、さらに革命の機運は急速な高まりをみせ、東京や横浜など各地で、清朝打倒をさけぶ結社や新聞や雑誌、出版物が次々に発刊された。
また宮崎滔天や平山周を通じて、孫文は玄洋社の頭山満と出会い、頭山と親交のあった後の首相犬養毅と会う。
政界に隠然たる影響力をもつ犬養が早稲田鶴巻町に孫文の住居を斡旋し、玄洋社を創立した平岡浩太郎が孫文の生活と活動費を負担することになった。
そして宮崎や末永節によって、中国料理店の豊楽園で、在日留学生や革命家の間に信望の厚い黄興を、孫文に引き合わせる。
実はこのころ黄興は、留学生を組織して華興会を組織し、牛込の神楽坂で末永と同居していた。
孫文と黄興は革命団体の合同について旧知の仲であるかのように語り合い、1905年7月、赤坂の内田良平の家で中国革命同盟会結成の準備会を開いた。内田良平は平岡浩太郎の甥で、内田と末永とは夫人同士が姉妹という関係であった。
そして8月、孫文の歓迎会が富士見楼で催され、そこには1500もの留学生が集まった。
さらには8月、赤坂霊南坂の代議士坂本金弥別邸で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同して、革命の母体「中国革命同盟会」が誕生したのである。
このとき革命綱領として採用されたのが、孫文の、民族、民権、民生の三大主義で、後に「三民主義」と唱えられる。
孫文はこのことにつき、「全国の俊英を集めて、革命同盟会を東京に結成した日、私ははじめて革命の大業が自分の生涯のうちに成就するであろうことを信ずるにいたった」と述べている。
ところで当時、日本に滞在した清国留学生は5千名ともいわれるが、彼らは、清国に貢献するどころか「革命派」として帰国することになったのは皮肉なことではある。
そして、1906年、革命同盟会成立後、初めての武装蜂起が江西省や河南省で起きる。清朝政府はこれを1ヶ月近くかかって鎮圧するが、反乱の首謀者とみなした孫文の国外追放を再び強く要求した。
孫文はやむなく日本をはなれ、シンガポール、サイゴンを経てハノイに渡る。
そしてハノイを拠点として、各地に革命同盟会のメンバーを派遣して、次々に武装蜂起を起こすが、これから6回にわたる武装蜂起はいずれも失敗に終わる。
しかし、孫文は失敗のたびごとに、本来の面目を発揮する生まれながらの革命家であり、世人は孫文を「成功の英雄ではなく、失敗の英雄」と評した。
そしてついに辛亥の年1911年に武装蜂起した反乱軍が、武昌・漢陽を占領し、「中華民国湖北軍政府」を樹立した。
それから一気に全国各地革命気運に火がつき、中国全土の3分の2にあたる17省で、清朝の反旗を翻す新政権が相次いで生まれた。
孫文はそうした革命勃発の事実をコロラド州デンバーで知るのだが、革命のシンボル的な存在と目されていた孫文は、「臨時大統領」として迎えられ、1912年に中華民国が17省の新政権の代表を集めて南京に成立した。
とはいえ革命政府はいまだ全国を掌握するには至らす、宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となったのは、北方軍閥の袁世凱であった。
しかし、袁世凱は、孫文との約束を反故にして国民党を弾圧する。
これに対抗して、同年7月、袁世凱打倒の「第二革命」がはじまり、さらには袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国大皇帝に即位する。
そして直ちに反袁・反帝政の「第三革命」が展開され、翌年、袁は病死するが、それを継いだのが同じく北方軍閥の段祺瑞であった。
ここの頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、「軍閥割拠」の状況であった。
孫文は、西南の軍閥の力を利用し1917年広州で「広東軍政府」を樹立する。
しかし孫文は、「路線対立」により広州を追われ、再び日本へ亡命した。そしてこの頃、資金援助してくれた梅屋庄吉の仲介で宋慶齢と結婚している。
孫文は、北方軍閥との戦いを有利にするために「連ソ容共」路線をとる。つまり共産主義のソ連と協力する方向への方針転換をはかった。
そのため、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問として、コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンを迎え入れた。
ボロディンはソ連共産党の路線に沿うように中国国民党を再編成し、彼の進言により1924年1月、中国共産党との「第一次国共合作」が成立する。
これによって軍閥に対抗するための土台形成され、蒋介石を校長とする「黄埔軍官学校」も設立された。
1924年10月、孫文は軍閥を一掃するために「北上宣言」を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴え、さらに同11月には神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。
その中で、「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいして、東洋の王道・平和の思想を説き、「日中友好」を訴えた。
孫文没後の国民党は混迷し、次を担う蒋介石と汪兆銘とは対立したが、蒋介石が権力基盤を拡大する。
1926年7月には、約10万の国民革命軍が組織され、総司令官には蒋介石が就任し、孫文の遺言でもあった「北伐」(軍閥の打倒)を開始した。
しかし1927年、蒋介石の上海クーデターで共産党攻撃に転じ、国共合作は崩壊する。
その一方で、国民党は北伐を継続し、1928年6月に北京に入城し、北方軍閥配下の北京政府を倒すことに成功した。

次に孫文と福岡との関わりを敷衍したい。
南京臨時政府が発足し、翌年1912年に、孫文は中華民国臨時大総統に就任しする。
しかしほどなく、軍閥の袁世凱(えんせいがい)に地位を譲るが、翌年の1913年、2月13日から3月28日まで、44日間、「前国家元首」の栄光に包まれ、日本政府の賓客として来日した。
かつて、日本に亡命した孫文を支援したのは玄洋社や宮崎滔天、犬養 毅、一部の炭鉱経営者と限られた人たちだったが、今回は大違いで、宿舎は帝国ホテルで、博多まで特別列車。主要駅では万歳三唱で迎えられ、市長が表敬挨拶して歓待している。
ところで、革命軍を組織する資金で、武器だけでも何万丁を入手するには膨大な金額が必要となる。それは、孫文の財政を支援した人たちも同様である。
1911年、革命軍が武昌で蜂起して革命に成功した辛亥革命において、この挙兵に日本人として一番に駆けつけたのが、玄洋社の末永節(すえなが みさお)である。
また孫文は、平岡浩太郎と中野徳次郎、安川敬一郎ら、福岡の炭鉱経営者に多くの資金援助を受けている。
そして、孫文は福岡へ来た時、革命を支援した玄洋社や炭鉱経営者に感謝の気持ちを述べている。
まず孫文は戸畑で安川敬一郎を訪ね、安川が設立した明治専門学校(現九州工業大学)で講演し、福岡では九州大学、大牟田では三井工業学校(三池工業高校の前身)で、学生たちに演説をしている。
そして、3月17日、福岡着当日午後六時より東公園の「一方亭」に招待され、炭鉱経営者の歓迎会が催されている。
19日には、旅館「常盤館」に宿泊し、平岡常次郎氏の案内で博多聖福寺境内なる故平岡浩太郎氏の墓にいっている。
というわけで、「常磐館」は現在の千代町パピオン・ビルあたりに位置していた。
ところで、戦後の史観では、平岡や頭山の玄洋社は「利権獲得」が目的の右翼集団のようなレッテルを貼られてしまっている。
そのせいか、福岡県人がいかに中国革命を支援したかにつき、表立って語られることは少ない。
しかし、孫文と福岡の人々との交流を見ればそれがあまりにも皮相な見方であることがわかる。
そもそも、孫文清朝の「お尋ね者」にすぎなかったし、革命に成功するかどうか、勝算があったわけではない。
孫文自身も後年、「自分の生きている間に革命が成立するとは思わなかった」と述懐しているくらいだ。
そんな孫文を一貫して支援しているのだから、これは利権というより「こころざし」の領分ではなかったかと思う。
もちろん、それを引き出したのが孫文の「魅力」だったといえる。
しかし、目先の利害を超えた福岡の人々の「義侠心」はどこから生まれたのだろうか。
平岡と安川は玄洋社員であり、平岡は西南戦争で西郷軍に参加し、禁固1年の刑を受けている。
安川の長兄は明治初年の福岡藩の贋札事件で藩主をかばって死刑。
次兄は、明治七年の江藤新平がおこした佐賀の乱に官軍として鎮圧に向い、三ツ瀬峠の戦で戦死している。
こうした時代の激動を身にしみて感じていた彼等からすれば、中国革命に資金援助をするのは、逆境にある人間を支援しようというこころざしなくしては、説明ができないように思う。
ところで、福岡市内で、孫文が宿泊した常盤館以外に、孫文ゆかりの場所を探すと、福岡天神の中央公園、福博出会い橋付近に「旧福岡県公会堂貴賓館」がある。
旧福岡県公会堂は第13回九州沖縄八県連合共進会の開催に際し、会期中の来賓接待所を兼ねて共進会々場東側の現在地に建設された。
数少ない明治時代のフレンチルネッサンスを基調とする木造公共建物として貴重であるため、重要文化財として指定され保存されることになった。
以上まとめると、福岡はただ単に地理的な意味でアジアの玄関であるだけではなく、精神的な意味でも「アジアの窓口」といっていいのではなかろうか。
今、戦後70年の安部首相のメッセージに注目が集まるが、いかに日本が中国革命に関わってきたかについて、日中双方に「歴史認識」がかけているように思える。
もうひとつの「歴史認識問題」といってよいだろう。