個人的「クラシック体験」

クラシック曲「ピアノ協奏曲○番 変○短調」なんていわれても、それだけでは音で何を表現しようとしているのかトントわからない。
つまり自分はクラッシク音楽を解する者ではないのだが、ある出来事が特定のクラッシク音楽と結びつく時、その出来事の感動は曲そのものの感動として焼きついている。
それが、個人的な「クラシック体験」である。
例えば、ソチ・オリンピックにおける浅田真央フリーの曲は「ピアノ協奏曲 第2番」であったが、あの曲の感動は浅田真央の演技の感動とひとつである。
浅田真央は、ショートの演技では何か弦がトンデしまったカンジで、思いもよらず16位に終わった。
しかし、翌日のフリーの演技ではこの「ピアノ協奏曲 第2番」をバックに、浅田は6種類の3回転ジャンプすべて成功し、世界に感動を与えた。
この「ピアノ協奏曲第2番」は、 ロシアの作曲家・ピアニストのラフマニノフによる1901年作曲のピアノ協奏曲で、イギリス映画「逢びき」(1945)で全編バックに流れていた音楽として一躍知られるようになった。
ラフマニノフは、1873年ペテルブルグ南方に位置するセミョノフに生まれた。
12歳の時、ピアニストの従兄アレクサンドル・ジロティに見いだされ、モスクワ音楽院のニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学んだ。
18歳の時に同音楽院ピアノ科を首席で卒業し「ピアノ協奏曲第1番」を完成させている。
しかし24歳にして書いたこの最初の交響曲は、批評家から酷評を受け、以後ノイローゼ状態に陥っている。
しかし、精神科医ニコライ・ダールによる心理療法・催眠療法で精神状態は徐々に回復していき、ようやく自信を取り戻す。
そして28歳の時に完成させたのが「ピアノ協奏曲第2番」であった。
この曲は、初演から成功をおさめ、ラフマニノフの作曲家としての名を世界にしらしめた。
ラフマニノフはこの曲を精神科医のダールに捧げるとしている。
一方、「起死回生」のフリー演技で浅田真央はジャンプを飛ぶごとに今まで自分を支えてくれた人々に感謝を込めながら飛んだと語った。すごい境地である。
遡って浅田真央が14歳の時、グランプリ・シリーズの実績からトリノ・オリンピック出場を期待する声があった。
しかし「五輪前年の6月30日までに15歳」という年齢制限に87日足りず、代表資格を得られなかったことがある。
ちなみに、フライングガールと称された伊藤みどりは、全日本選手権初優勝(1985年)を果たしたのも中学3年生(14歳)の時であった。
伊藤みどりの名前に良く似た名前の世界的バイオリニスがいる。
浅田真央のソチ・オリンピックでの戦いに全く違う世界の五嶋みどりの「タングルウッドの奇跡」を思い起こしたのだが、14歳という年齢にこだわったのは、その時五嶋みどりも14歳であったからだ。
五嶋みどりは、30年にわたりクラシックの世界屈指のヴァイオリニストの1人である。
11歳で世界的指揮者ズビン・メータにその才能を認められデビューしたが、今も語り草となっているのが「タングルウッドの奇跡」である。
タングルウッドはマサチューセッツ州バークシャー郡にある町である。
1850年に「緋文字」で有名な作家・ナサニエル・ホーソーンはタッパンという人物からこの土地のコテージを借り、1853年にギリシア神話を少年少女向けにまとめた「タングルウッド物語」を書いた。
タッパンはそれを記念してコテージを「タングルウッド」と名付け、周辺のタッパン家が所有する土地も「タングルウッド」と呼ばれるようになった。
1936年、ボストン交響楽団が初めてバークシャー郡で演奏会を開き、そのコンサート・シリーズはテントの下で開かれ、1万5千人の聴衆を集めた。
それを聞いたタッパン家の当主が、タングルウッドの一族の土地210エーカーをボストン交響楽団に寄贈したのである。
それ以来タングルウッドは、ボストン交響楽団の夏季の「活動拠点」となっている。
世界的指揮者レナード・バーンスタインの最後の舞台こそは、1990年8月のタングルウッドでのボストン交響楽団との演奏会であった。
この音楽祭で起きたのが「タングルウッドの奇跡」とよばる出来事である。
奇跡の「主人公」は、当時わずか14歳の日本人ヴァイオリニスト「みどりちゃん」であった。
五島みどりは2歳の時、ヴァイオリニストであった母親が数日前に練習していた曲を正確に口ずさんだことから、その優れた「絶対音感」を見出される。
しかしピアノのレッスンに通わせたが3ヶ月程で挫折してしまったものの、祖母が3歳の誕生日プレゼントとして「1/16サイズ」のヴァイオリンを買い与えたのを機会に、ヴァイオリンの「早期英才教育」をうけるようになった。
6歳の時、大阪で初めてステージに立ち、パガニーニの「カプリース」を演奏した。
8歳の時に演奏を録音したカセットテープをジュリアード音楽院のに送ったところ、「入学オーディション」に招かれ、1982年五島みどりは、周囲の反対をものともせず、母に連れられて渡米した。
そして、ジュリアード音楽院において高名な先生の下でヴァイオリンを学び、アメリカの演奏会にデビューするや、日米の新聞紙面に「天才少女」として紹介された。
1986年、当時14歳の五島みどりは「タングルウッド音楽祭」に参加し、ボストン交響楽団と共演した。
レナード・バーンスタインの指揮の下で「セレナード」第五楽章を演奏中にソノ「出来事」は起こった。
ヴァイオリンのE線が切れるというアクシデントに見舞われたのだ。
(ちなみにG線だけで演奏するヴァイオリン曲が「G線上のアリア」)。
当時みどりは「3/4サイズ」のヴァイオリンを使用していたが、このトラブルによりコンサートマスターの「4/4サイズ」のストラディヴァリウスに「持ち替え」て演奏を続けた。
しかし、再びE線が切れるという信じがたいトラブルが起きた。
普通なら動揺して演奏に乱れが生じるはず。しかし二度目も副コンサートマスターのガダニーニを借りて、演奏を「完遂」したのである。
これには、バーンスタインも言葉を失い、演奏後には彼女の前にかしずき、驚嘆と尊敬の意を表した。
翌日のニューヨーク・タイムズ紙には、「14歳の少女、タングルウッドをヴァイオリン3挺で征服」との見出しが一面トップに躍った。
またこの時の様子は、アメリカの小学校の教科書にも掲載された。

個人的には、映像と見事に一体となったクラシック曲で忘れがたいのは、スタンリー・キューブリック監督「2001年 宇宙の旅」で使われた「ツァラストラはかく語りき」(シュトラウス作曲)や、黒澤明監督「羅生門」で使われた「ボレロ」(ラヴェル作曲)で、これらは映像と一体となって感動が蘇ってくる。
ところで「映像」といえば、日本にはベートーベンの音楽に深い強い都市が二つある。
佐賀県鳥栖市と徳島県板東市で、それぞれ「フッペルのピアノ」や「バルトの楽園」という感動的なエピソードが残っている。
1945年6月、鳥栖小学校で音楽を担当する上野歌子先生は、校長室に呼ばれた。校長室に入ったとき、上野先生は、首に白いマフラーを巻き飛行服姿で立っている2人の青年を見つけた。
青年達は、自分達が音楽学校ピアノ科の学生であり、出撃の前に思いきりピアノを弾きたいと告げる。
当時、全国のほとんどの小学校にはオルガンしかなかったが、この鳥栖小学校にはドイツ製フッペルという名器のグランドピアノがあったのである。
グランドピアノがあると聞いて、2人の青年は、長崎本線の線路を三田川の目達原飛行場から、3時間以上(12㎞以上)の時間をかけて歩いてきたのである。
上野先生は急いで2人を音楽室に案内し、大好きなベートーベンの「月光」の楽譜を持ってきた。
それはまるで青年の運命を知っているかのようであった。なぜなら彼の専攻はベートーベンだったからである。
一人の青年が「月光」を弾き、もう1人の青年が楽譜めくった。そして上野先生は、1つ1つの音をしっかりと耳に心に留めておこうと心をこめてその演奏を聴いた。
演奏が終わり2人の青年が音楽室を去ろうとしたとき、上野先生は、この短い時間を共有した証を残してあげなければと思い、白いゆりの花を胸一杯に抱きかかえて来て二人に渡した。
二人は何度も振り返りながら長崎本線の線路を走って戻っていったという。
その約2ヵ月後戦争は終わり、上野先生は二人の青年との再会を願われたが、それもかなわぬまま彼らの消息は不明のままであった。
十数年後、上野先生は鹿児島の知覧平和記念館を訪れ、戦没者の写真によりピアノをひいた方の青年の死を知る。
しかし、元新聞記者やテレビ局などの協力により楽譜をめくっていた方の青年の生存を知り45年の時を経で再会することになる。
その青年は出撃後エンジン不調のために帰還され生存されていた。しかし鳥栖でピアノを弾いた特攻隊の青年のことがマスコミで話題になった時も、自分の過去のことを誰にも語らず家族にも秘匿しておられた。
2人の青年の出来事を伝えつづけた上野先生は、1992年講演先で突然亡くなられた。
なお鳥栖文化会館では現在でもこの出来事を記念して毎年フッペル平和コンサートがひらかれている。
ところで、ベートーベンの「月光」は、どのようにして作曲されたのだろうか。
ベートーベンは1770年ドイツのボンに生まれ、宮廷音楽家だった父親によって、厳しい英才教育を受けた。
モーツァルトとベートーベンは14才の年齢差があるが、モーツアルトは6才の頃にはすでに天才少年として世に知られていた。
9歳になったベートーベンは、先生の指導でピアノだけでなく作曲もするようになった。
そして16才の時、ウィーンで音楽家として活動することになり、あこがれのモーツァルトと出会う。
ベートーベンの曲を聴いたモーツァルトはベートーベンを天才と認め、絶賛したという。
ところがウィーンに行ってわずか2週間後、母親の病を知りボンに戻ったがまもなく母を亡くした。
ベートーベンは、弟たちの面倒を見ながら、寝る間を惜しんでピアノの練習や作曲を続けた。
そしてボンを訪れたハイドンに認められ、ハイドンの弟子になることを許された。
22才の時大喜びでウィーンに向かったが、当時売れっ子だったハイドンはあまり熱心にベートーベンに教えてはくれず、サリエリなど他の先生を自分で探し、猛烈に勉強を始めた。
そして自分の作った曲を発表するや、たちまち売れっ子になり、ジュリエッタという17歳の女性と出会う。
2人はたちまち恋に落ち、ベートーベンがジュリエッタに捧げた曲が「月光」である。
しかし、ジュリエッタの父親は、貴族ではないベートーベンとの結婚を許さず、ベートーベンが30才頃、愛するジュリエッタが違う人と結婚する。
さらに音楽家にとって命ともいえる耳が、聞こえなくなっていることに気がついた。
この2つの出来事はベートーベンを絶望の淵にたたき落とし、 自ら命を絶とうと決心し、遺書まで書いた。
そして死ぬ前に今一度とピアノに向かい、ジュリエッタのために書いた「月光」を静かに弾き始めた。
(この時のベートーベンの気持ちは、鳥栖の二人の特攻兵の思いと少々重なるものがある)
ところが「月光」を弾いているうちに、ベートーベンは音は聞こえないのに、心でははっきりとメロディーが流れていることに気がついた。
そして次々に襲い来る運命に負けてはいられないと、奮起して書いた曲が交響曲第5番「運命」である。
ちなみに「月光」という題名は、ベートーベンがつけたものではなく、詩人ルードヴィヒ・レルシタープが第1楽章を「ルツェルン湖の月光の波にゆらぐ小舟のようだ」と表現したことに端を発しているといわれている。
ちなみにルツェルンとはスイスの湖畔の町の名前で、毎年夏に「ルツェルン音楽祭」が行われる。
日本でもうひとつベートーベンと所縁のある地が、徳島県坂東史である。
ここでベートーベンの「第九」が日本で始めてドイツ人の楽団によって演奏されたからだ。
徳島の「バルトの楽園」の話を新聞ではじめて読んだとき、個人的には痛快、壮快、愉快など「快」が付く言葉をすべてを送りたくなった。
というのも、9・11テロの記憶がまだ新しい時期、敵対する異国の人間同士が、収容所でこのように友好を深めあったということに、いいようもない感動をおぼえたからである。
映画化された「バルトの楽園」は、第一次世界大戦中におきたドイツ人俘虜と徳島市民との交流の物語である。
約4600名のドイツ兵が中国青島で日本に敗れ俘虜になった。第一次世界大戦における中国青島で捕らわれたドイツ人俘虜は日本各地の俘虜収容所に入れられたが、その俘虜達が日本に残した文化の広さと深さにおいて、坂東収容所は突出している。
戦争において、自由を奪われた敗者の側が伝統や風土が違う「勝者」の側に何かを伝えるのは考えにくい。
しかし彼らは日本人がいまだ知らなかった化学、ホットドック、ハム、バームクーヘン、サッカー技術などを伝えた。
また彼等は俘虜の身であったものの、徳島の市民と交流し、山を楽しみ海を楽しみ、そして音楽を楽しむことを許された。そこは「らくえん」のような「楽(がく)えん」でもあった。
また彼らは、ドイツから家族を呼び寄せることを許され、家族ぐるみで日本の片田舎の人々と交流を温め、いつしか日本を愛すようになる。
それは、戦争が終わった時、彼等のうちの少なからぬ者たちが、ドイツへの帰国よりも日本での生活を選んだことにも表れている。
そして徳島の地をドイツ人の俘虜に「楽園」として提供したのは、戊辰戦争で「敗軍の惨めさ」を味わいつくした会津出身の坂東収容所長・松江豊寿であったことも、もうひとつのドラマである。
松江豊寿所長の国際的人道主義に基づいた采配によって、俘虜達はあたかも母国の親善大使のごとき役割を果たすことになったのである。
さて、ドイツ人は音楽好きで各地の収容所で楽団を作ったが、三つの収容所が統合されてできた坂東収容所にはそうした楽団が三つも存在した。
その中のひとつエンゲル楽団は、日本で初めてベートーベンの「第九」を演奏した楽団として知られる。
ベートーベンの「第九」は、光がさしこむようにいわゆる「歓喜の歌」の曲調が兆し、次第に世界を覆うかのように「歓喜の世界」が溢れだし、暗きは割れんばかりの「歓喜」に道をゆずっていく。
一般に「歓喜の歌」と知られ歌詞はドイツの詩人シラーの作である。
♪♪さあ友よ!本当に喜びあふれる歌を歌おうではないか。 友よ。歓喜の優しき翼のもとすべての人々は同胞となる。
今こそ 重き苦悩の雪を払え 鉄の鎖を断ち切れ
断固として夜明けの光を 新しき希望の歌声を もっと快い、もっと喜びに満ちたものを 歌い出そうではないか。苦悩を突き抜けて 歓喜へ♪♪
暗澹たる気持ちで日本にむかったドイツ人俘虜が徳島坂東で出会ったものこそ、予想もしなかった「歓喜の世界」ではなかったか。