極限での交流

太平洋に面したカナダの港町バンクーバーと大西洋側で内陸に位置する南米ペルーの首都リマは、地理的にも歴史的にもほとんど関係がない。
ただし明治以来、日本人移民が住んできた街であること、日本人が陥った窮地の中、外国人との交流が人々を感動させた点で共通するものがあった。
二つの出来事とは、戦時下における日系人野球チーム「バンクーバー朝日」の活躍と、1996年に起きた「ペルー日本大使館占拠事件」である。
カナダに「バンクーバー朝日」という野球チームがあったことは、当時の選手メンバーの子であるテッド・Y・フルモト氏の本が書いた「バンクーバー朝日」(文芸社刊)によって人々に知られ映画化されている。
さて、日本とカナダとの「最初の出会い」は意外なものであった。
カナダの冒険家ラナルド・マクドナルドが実母である「インディアン」の祖先が日本であると信じて1845年に北海道へ密入国した時とされている。
一方、カナダに渡った最初の日本人は永野万蔵で、1877年にブリティッシュコロンビア州(BC州)ニューウェストミンスターに上陸したとの記録がある。
日系カナダ人が漁業の先駆者達が活躍した太平洋岸のリバーズ・インレットの地域には、標高約1950メートルのマンゾウ・ナガノ山がある。
1977年に日系カナダ人100周年記念の一環として、BC州・移民第一号であった永野萬蔵にちなんでつけられた名である。
永野萬蔵は、長崎の大工見習で船の修繕や改造に携わるようになり、横浜を出港する英国船に貨物と一緒に隠れ、カナダに渡り、フレーザー河で鮭漁を3年続け、それからバンクーバーに移り、木材を貨物船に積み込む仕事をした。
シアトルでは煙草屋とレストランを始め、ビクトリアに引っ越して小さなホテルと商店を開業し、塩鮭を日本へ輸出する事業も行っ た。
財産を築き、カナダの日系人コミュニティで影響力を持つようになったが、結核にかかった上に火災にあい全財産を失った末、落胆した永野萬蔵は家族ともども日本へ戻ってまもなく68 歳でこの世を去った。
1877年には、横浜とバンクーバーを結ぶ蒸気船の航路が開通し、1889年、バンクーバーに日本国領事館が創設された。
初期の日本人移民は漁業労働者であったが、勤勉でよく働く日本人移民に対してカナダ人は反感と移民増加への警戒感を持ち、カナダ政府は日本人に移民制限を課した。
日本政府はこれを受け入れたが、以降も日本人に対する偏見は長く続き、日系カナダ人を苦しめ続けた。
日系人は選挙権は無く、公職に就くことが禁じられ、また、弁護士や薬剤師を含む多くの専門職に就くことも出来なかった。
日系人は肉体労働以外の仕事からは大旨、締め出されていたが、日系人は技術的に優れ船の建造、設計において独創的であっ た。
また日系人の女性たちは、コミュニティーの中で最も企業家精神に溢れていて、商店や下宿屋を経営し、娘たちが洋裁を学ぶための学校を設立した。
1930年代半ばには、バンクーバーには90軒近い日系人の洋裁店があったという。
また新しい移住者たちの福利に気を配り、日系人コミュニティーのなかで援助を提供し、日系人は、病院、学校、そして社会活動グループを設立した。
千葉県市川出身の本間留吉が、1897年日系漁者団体がスティーブストンで設立され、初代の会長には千葉県出身の本間留吉がなり、「日系カナダ移民の父」といわれた。
ところで、映画「バンクーバー朝日」は、カナダに大志を抱き海を渡った日本人たちだが、「排日運動」のサナカ1912年に結成されたアマチュア野球チーム「朝日」の物語である。
1914年に始まった第一次世界大戦では、日系人が大挙してカナダ軍に従軍し命をかけて闘ったものの市民権を得るまでにはいたらなかった。
映画でも描かれているとうり、バンクーバー朝日軍が本当に目指したもの。それは単なる勝利でも白人を倒すことでもなく日本人としての誇りを取り戻すことであった。
日系人チームは他にもあったが、白人チームとは対照的な、犠牲打、盗塁、守備などのうまさで有名となり、日系以外にも大勢のファンを持つに至る。
そして1919年から1940年の間に市のタイトルを10回勝ち取って、チームはバンクーバー・リーグのリーダーとなった。
頭脳プレイを駆使し、朝日軍はンクーバーの大柄で強打の対戦相手を打ち負かし、その当時最も人気のあるチームとなったのである。
そんななか、「バンクーバー朝日」の活躍は、日系人にとっての灯火となり、その絶頂期を通して日系人は遭遇した困難、緊張、差別に 耐え、そして打ち勝つことができたのである。
しかし1941年日本が真珠湾を攻撃しカナダは日本に戦線布告して彼らの運命は一変する。戦時措置法により、日本国籍者は全員敵性外人として登録しなければならなくなり、カナダ海軍によ1200隻におよぶ日系の漁船は没収された。
全ての日本語学校は閉鎖され、保険は解約される。
そしてバンクーバー朝日が解散させられてのは、人気、実力ともに絶頂期だったのである。
しかし、バンクーバー朝日のメンバーは、日系の収容所でも野球をつづけた。
電気も水もなく零下30度まで冷え込む。川まで水を汲みにいく。そして先行きの見通しもない世界で野球を続けた。
野球が単なるスポーツという枠を超えて日系人を一つにまとめ、白人との間では共通言語として機能したのである。
さて、忘れ去られた「バンクーバー朝日」が蘇ったのは、2003年に野球博物館入りが決まったためである。
そが野茂やイチローなど日本人の活躍に触発されどうかはよくわからないが、確かなことは日系人以外にもそのスタイルとスピリットが、多くの人々の記憶に残っていたということだ。
また小説「バンクーバー朝日」では、ビーンボールを投げられても怒ることもなく、ホームランを打っても表情をくずさずにグランドをまわるトム的川という選手のフルマイについて新聞記者がたずねると、チームの関係者は「武士道」について語っている。
「武士道とは何か。それはフェアプレーの精神であり、スポーツマンシップであり、ジェントルマンシップのことであり、かつまたそれ以上のものである。フェアプレーの精神は卑怯な振る舞いをしないということだが、武士道は大きな包容力で敵の卑怯な振る舞いをすら許す。スポーツマンシップは運動選手のみ限られたものだが、武士道はあまねく人に共通の理念である。ジェントルマンシップは富める者の寛容な精神を表わしているが、武士道は貧しくとも卑屈にならぬ気高さを教えている。そして、その武士道の精神をもっともよく表わしていたのが、昨日のトム的川選手の打席であた」と。

1997年、リマの朝日とともにペルーの日本人大使館人質救出事件が始まり、日本人24名全員が救出された。
そのこと自体は喜ぶべきことだが、事件当初の印象と事後判明した事実により浮かび上がる「真実」が、これほどかけ離れた事件は少ない。
前年の12月17日夜、ペルーの首都・リマの日本大使公邸では、青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた。
宴たけなわの午後8時過ぎ、当時空き家となっていた大使公邸の隣家の塀が爆破され、覆面をした一団がレセプション会場に乱入して、すぐさまこれを制圧・占拠した。
一団は、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員14人で、その場にいた青木大使をはじめとする大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人を「人質」に取った。
事件の背景には1990年に日系ペルー人のフジモリ大統領が就任し、日本の経済協力もえて経済の立て直しをはかるが、貧富の格差が広がって治安は悪化していた。
社会不安が増す中、フジモリ大統領が「テロ鎮圧政策」をすすめてきた中で、ペルー日本大使館占拠事件が発生したのである。
MRTA構成員達14名のリーダー・セルパ達の要求は、収監されているの仲間の釈放、フジモリ政権の経済政策の変更であった。
フジモリ大統領は即時の武力行使を検討したが、日本政府の「平和的解決」の要望もあり、フジモリ大領は12月21日には「囚人の釈放要求は拒否する。しかし人質全員を解放すれば、武力行使は行わない」との声明を出した。
12月22日セルパは「クリスマスの祝意」として、政府と無関係の人質を女性や老人など人質225名を解放し、残る人質の解放はMRTAメンバーの釈放が条件であるとしたが、最終的には1997年1月下旬までに、ペルー政府関係者と青木盛久大使など駐ペルー日本大使館員、日本企業駐在員ら72名の人質が残った。
この時、日本人人質は24名であった。
ある日、1人の大臣が差し入れのギターに「これが聞こえたら合図の曲をかけてくれ」とささやくように語りかけたところ、その翌日、合図の曲がかかり、この日から大使公邸内とペルー当局の「盗聴器」を通じた連絡が始まった。
また、フジモリ大統領の意を受け、大使公邸と同じ間取りのセットを造り特殊部隊が突入の「シミュレーション訓練」を積み重ねていた。
フジモリ大統領は地下トンネルを掘りそこから突入することを発案し、その作戦名は「チャビン・デ・ワンダル作戦」とよばれた。
ペルーに、世界遺産のチャビン遺跡があり、そこには地下回廊があり、そして神殿があり、その構造にヒントを得た作戦であったためである。
そして、このトンネル掘削作業の音をセルパ達に気づかれないようにするため大音量の音楽を流し続けた。
大使公邸内は、人質の72名とMRTAの14名、96名が過ごし続けているのだが、長時間同じ場所で、時間と空間を共有すると自然に人と人との交流が深まってくる。
そんな中、リーダーのセルパはペルーが抱えている社会問題を切々と語り、その中には人質の心に訴えかける内容もあった。
そのうち、国籍の異なる人質達の間で、日本語、スペイン語、フランス語の語学教室が行われ、そこにMRTAの若いメンバーが参加するようになった。
実はMRTA14名のうちほとんどが12歳から18歳までの少年達で、うち2人は15歳の女の子だった。6名はアマゾンの奥地から500ドルでアルバイト感覚で参加していた。
少年らは文字も書けず、世界地図は見たことがなく、日本がどこにあるかも知らなかった。
そのような少年少女達は、人質達が持つ知性や文化に惹かれていく。
日本から差し入れられたカップラーメンに感動して「家族の土産にする」と言うMRTAの少女がいた。
そして、MRTAのある少年は日本語教室の勉強会に熱心に参加し、ひらがな、かたかな全部と、漢字も少し書けるようになり、日本の写真集を拾い読みできるまでになり、「おはようございます」と挨拶するようになっていた。
そしてMRTAの少年・少女達は 「もらったお金で小型バスを買い、ミニバスの運転手になりたい」 「土地を買ってコーヒー園をしたい」 「事件が終わったら軍に入りたい」 「キューバでコンピュータを勉強したい」「日本の警察官になりたい」と、将来の夢を語るようになっていた。
一方、リマ市内の日本料理レストランからは毎日、日本料理やインスタントラーメンなどが届けられ、ペルー人の人質やMRTA構成員にもふるまわれた。
また、多数の日本の報道陣がリマに詰めかけ、リマ市内のあらゆる日本料理レストランから膨大な量の日本料理の出前を取ったため、日本料理レストランの多くは「特需」とも言われるような盛況を享受したといわれている。
テロリストの少年達は実はジャングルで親に売られた少年に過ぎなくて、その少年、彼のおよそ15年と見られる人生の中で「人間として」扱われたことがなかったのに、ペルーの大使館の中で、被害者の日本人から初めて人間として扱われたといってよい。
テロリストになった少年や少女達は、次第に日本人のことが大好きになっていく。
だからこそ、鎮圧部隊突入の際にも少年や少女達は日本人に対して引き金をひかなかった。
事件が長期化してくると、セルパをはじめとするMRTAのメンバー達は、気分転換に体を動かしたくなる。
ペルー政府はそのようなMRTAメンバーたちの心理を分析、ある意図を持ってスポーツウエアやボールを差し入れた。
そして見張り役の一部のメンバー以外は、その差し入れのスポーツグッズを使い、1階の大広間で、 ミニサッカーを日課のようにおこなうようになった。
そして、4月22日の午後人質のペルーの軍人は、2階廊下を聖書を読みながら歩いていた。ただ、読むだけでなく、ボソボソとつぶやきながら聖書に語りかけていた。
聖書には盗聴器が仕掛けられいて、大使館内の様子を克明に伝えていたのだ。
そしてこの日も、2階にいる見張り以外のMRTAメンバー達は、1階の大広間でサッカーを始めた。
そしてフジモリ大統領は「今だ!」と突入にゴーサインを出し、1997年4月22日15時23分(日本時間4月23日5時23分)1階の床の数箇所が爆発!!チャビン・デ・ワンダル作戦が開始された。
爆発とともに、ペルー海軍特殊作戦部隊が正面玄関、地下トンネルから一斉に突入した。
1階の大広間でサッカーに興じていたMRTAのメンバーは爆風で吹き飛ばされた。
セルパは、吹き飛ばされされながらもかろうじて、銃を手に取り立ち上がろうとしたが、特殊部隊からの一斉射撃を受け、亡くなった。
そして、2階に残っていた他のMRTAのメンバーは政府が強行突入したら、人質を殺害するという方針のもと人質のいる部屋に向かい、伏せていた人質達に銃口を向ける。
発砲すれば全員を射殺できたのだが、テロリストである少年達は銃口を下ろし何もせずにその場を離れた。
それでは、なぜ助かったのか。
この4ケ月間一緒に過ごした少年と日本人の人質は多少面識ができていて意思疎通があった。軍が突入してきた時に少年は人質を殺すことを躊躇したのである。
ちなみに、このように「犯人の方が人質に感化され、人質に対する態度が和らぐ現象」をこの事件を契機に、この事件が発生したペルーの首都「リマ」にちなみ「リマ症候群」と呼ばれるようになった。
そしてこの突入の結果、人質72名のうち71名が無事解放されたが、人質1人、特殊部隊2名が死亡し、セルパらMRTAメンバー14名全員が射殺された。
ただ真実をえいば、人は全員2階に集められていたので、日本人に軽機関銃をつきつけて見張っていたのは少年で、1階に武力突入した時点で2階にいる人質は皆殺しにされる可能性は極めて高かった。
つまりこの事件の直後に「英雄視された」フジモリ大統領であったが、実は大統領は日本人を助けるつもりはなく、もし助けられるとしても、それは「運任せ」といってよかった。
しかし日本人のある人質は語っている。テロリストの少年や少女達は、人質達との生活で将来の夢を抱き熱心に学ぼうとしていた。
少年・少女達が射殺されることなく生きて、刑期を終え、社会復帰するチャンスが与えられなかったことは悲しいことであった、と。
そして事後明らかになったのは、むしろペルー海軍特殊作戦部隊の「非道さ」であった。
主犯格はすべてその場で銃殺。そしてのどを切りさき見せしめにテレビで公開。女性の副隊長は生きたまま逮捕。見せしめに公開して、その後四肢を切り落として乱暴して銃殺した。
日本はペルーを援助してきたが、日本からの援助が貧しい人たちに配分されていない事実に、麻薬組織とのつながりまでもが指摘されている。
フジモリ大統領がこの事件の解決時に果たした決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賞賛を贈った。しかし、フジモリ大統領は後にペルー国内での政争に敗北し、外遊からの帰国途中にそのまま日本へ亡命している。