政治原理は悪政より

江戸時代の八大将軍吉宗の時代、女性ばかりの大奥は、年間経費が20万両(約16億円)もかかっていた。
将軍につく者は200人余り、更に別に正室に200人、加えて身分の高い女性にはその世話係がつき、多いときには450~500人の女性が終身で雇用されていた。
吉宗はこの女性達の「人員削減」を試みたのだ。
しかし、「享保の改革」を断行した名君・将軍徳川吉宗が、「経費節減」のために行ったリストラは、現代のリストラとは一味違っていた。
何せ、大勢の女性の中から誰を選ぶか、吉宗は苦慮の末、部下に大奥の中でも「美女」といわれる50人の名前を書いて届けるように命じた。
命じられた部下は、吉宗が紀州時代に正室を亡くしていたから、「側室」選びであろうと思い、容姿端麗のトビキリの美人を書き届けた。
そして吉宗は、その50人の美女を前に次のような宣言をした、カモ。
「そちらならば、嫁の貰い手には困ることはないであろう。ヨもそちらとわかれるのは心苦しゅうござるが、この財政難のおり、苦渋の決断をいたす。 色々と世話になったのう。この恩は生涯忘れぬぞ」。
こんなにストレートにはいかないとは思うが、将軍からここまでいわれれば、幾分は気も晴れて退所できるに違いない。
以上は、徳川吉宗が己の智恵によって「定数削減問題」を解決した事例である。
ところが今日の日本で、司法が「憲法違反」をつきつけても、国会は「選挙区定数是正問題」を解決できないでいる。
一度当選した政治家が当選しやすいように「不公平」はわかっていても「現状維持」をハカルということはいかにもありそうだ。
今は、コンピューターを駆使して現職が「当選しやすいよう」に選挙区を作りかえるところまで進展している。
どこか近年の金融工学を思わせ、「選挙工学」とでも呼びたくなる。
この問題を遡ると、マサチューセッツ選出の議員ゲーリーが自分の有利なように自分の選挙区の区割りをきめ、その形が「さんしょううお」(サリマンダー)に似ていたために、自分に有利な選挙区を定めることを「ゲリマンンダー」とよぶことになった。
昨今では、ほとんど下院選挙区が与党のコンピュータを駆使して正確に区割りされ、その境界内に民主党なり共和党なり支持者がはっきり過半数住むように操縦されるのだという。
つまり、実際の有権者はモハヤ自分の代表を選んでいるのではなく、逆に代表者が自分の投票者を選んでいるということなのだ。
そしてアメリカでは、下院議員の再選率は96パーセントにのぼるという、驚くべき現職有利の結果がでている。
さて「議員定数の是正」についてはイギリスの選挙区定員是正が参考になる。
なぜならイギリスはこの問題と長く戦ってきた歴史があるからだ。
イギリスは議会政治の先進国であったが、18世紀の議会政治にはさまざまな問題があった。
参政権は相当の土地を所有する地主に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買も行われていた。
また産業革命の結果、人口の都市集中がおこり、激しい人口の移動がおこっていた。
しかし選挙区は昔のままで、人口が激減したにもかかわらず従来通りの議員選出の特権を持ち、有力地主・貴族の意のままになった選挙区、すなわち「腐敗選挙区」が多くある一方で、新興の大工業都市にはほとんど議員定数の割り当てがなかった。
例えば、人口200人以下の選挙区が111あり、人口ゼロの選挙区も34あった。
こうした不合理な選挙制度の改1830年12月の選挙ではホイッグ党が進出し、再任されたグレー内閣のもとで、何度もトーリー党に阻まれてきた選挙法改正法案がようやく成立した。
これによって56の「腐敗選挙区」が廃止され、143議席が再配分され、新興都市にも議席が与えられ、有権者数は50万人から81万人に増加した。
ただし、この時点で、労働者には選挙権が与えられず、それは1867年「第二回選挙法改正」まで待たねばならなかった。
ところで、イギリスの「腐敗選挙区」の例でみるごとく、選挙区の極度な人口減少は、選挙区が「統合」され選挙区がなくなってしまうことを意味する。これは「地方消滅」などといわれる日本の今日的問題でもある。
イギリスでは、誰か引退したりして議席の「空く」選挙区を捜し歩いて、そこから立候補することになる。
それは、たとえ閣僚クラスでも同じで、夫人同伴で地元の「候補者選考委員会」の面接試験を受けて、それに合格してはじめて自分の「選挙区」が取得できるというシステムになっている。
したがって、スキャンダルや変な噂が立ったりしたら、この「候補者選考委員会」のもとで切り捨てられる。
英国ではそういうことが非常にドライに行われている。
重要なことは、英国の選挙区は、誰の干渉も受けることがない独立した「区画確定委員会」の下で、人口移動によって非常に自動的に、選挙区が統廃合されていく。
従ってある日突然、自分の選挙区がなくなるということもありうる。
今、日本社会の人口の動態を見ると、集中と過疎がおき、人々は移動することに抵抗は少なくなって、自分で住む場所を選択できる条件が大きくなりつつある。
それだけに、選挙の不公平をスムーズに排除する仕組みを作る必要があるのだが。

イギリスの「選挙区改正問題」を長く議論した二大政党・トーリー党とホイッグ党の「発祥」も面白い。
ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子で、クロムウエルの共和政の時代各地を転々としていた人物が、1660年チャールズ2世としてイギリス国王に招かれた。
ピューリタンの信仰も認める約束をしたチャールズ2世は、議会に逆らって、父親のように処刑されてはたまらんと考え、最初はおとなしくしている。
ところが同時代にフランスではルイ14世が絶対権力を振るっていて、チャールズ2世もカトリックの信者を官僚に任命して自分の手足として、専制政治をおこなおうとした。
これに対して、議会は1673年に「審査法」という法律を作り、イギリス国教会信者以外は官職につけない、つまりカトリック信者を官僚にしないようにして対抗した。
さらに議会は1679年「人身保護法」を制定して、王による不当逮捕と投獄を禁じた。
議会と国王の対立が高まるなか、チャールズ2世が死去すると、チャールズ2世には子供がいなかったので、弟のヨーク公ジェームズが、次の王位継承者と見られていたが、ジェームズはカトリックだった。
そのため、1678年~81年、議会でジェームズ2世として迎えるか、賛成派と反対派の間で激しい論戦を繰り広げた。
このときの賛成派が「トーリー」、反対派が「ウィッグ」である。
「トーリー」とはアイルランド語で「ならず者」という意味、「ウィッグ」とはスコットランド語で「謀反人」という意味。
どちらも相手方からの悪口だが、逆に言われた側が自ら「トーリー」、「ウィッグ」と名乗るようになるのが実に素晴らしい。
いかにもイギリス流ユーモアだが、この「二大政党制」の原点となった話は、内容はどうあれ、相手の悪口を自分の政党の名前にするなど、どこか相手をエールを送っている感じサエする。
国会中心主義のイギリスの議会は、実際、与党と野党がスタンドに向かい合うカタチで対決し、相手から自党に対する批判や反論がないとブーイングが起こるくらいなのだから。
公開の場で政策論議をしあう、そんな二大政党の姿があってこそ二大政党の存在意義があるのだ。
つまり、ソクラテス以来の「正・反」の対立が「合」を生み出す「弁証法的」世界観が生きていて、水面下の取引や談合・根回しが常態化している日本的土壌では、二大政党制は健全に育つことは出来ないのかもしれない。
日本は多くの「政治的原理」を西欧から取り入れた。しかしそのプロセスを経ずして「果実」のみが持ち込んでも、その果実を実らせるに必要な土壌や養分が伴わないことが多い。
だからこそ、その政治原理の原点に戻ってその趣旨を問うことは、その政治原理が日本で機能するのかを考える一助となるのではなかろうか。
まず憲法の原点になったものといえば、1215年イギリスのマグナ・カルタである。
当時のプランタジネット朝のジョン王が、フランス王のフィリップ2世との闘争に負けて領土を喪失した。
カンタベリ大司教の叙任権をめぐって、ローマ教皇インノケンティウス3世と対決し、破門されたというような、イギリス国王のメンツ丸つぶれな失敗を重ね、これによって失った領土などを取り戻すために諸侯や都市に莫大な軍役を賦課していた。
諸侯と都市の上層市民は出費を拒否、戦いを強行したジョンが敗北してイギリスに戻ると諸侯はジョン王への忠誠破棄を宣言し、挙兵した。
ロンドン市民もそれに呼応し、首都は反乱軍が制圧することとなった。
ジョン王は妥協をはかり、1215年6月15日、テームズ河畔のラニミードで彼等の要求に従い、大憲章(マグナ=カルタ)に署名した。
全文63ヶ条からなる大憲章の主な内容は、国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由、不当な逮捕の禁止などである。
憲法とは、国家の基本法を指すが、近代的立憲主義における憲法の役割は国家権力を制限し、国民の福祉を保障することにある。
マグナ・カルタが憲法たるゆえんは、国王の権力を制限して、不当な課税や恣意的な政策から国民を守ろうとした点にある。
しかしこの文書はラテン語で書かれており、一般庶民に読ませる物ではなく、次の王が課税しようとしたために貴族が反乱を起こしたりもしたが、そのの存在は、バラ戦争後のチューダー朝で王権が強大になった時代にはほとんど忘れされてしまう。
マグナ=カルタが英訳されるのはようやく16世紀のことであり、17世紀のピューリタン革命の時にその存在が蘇ったのである。

議院内閣制へと進展する「責任内閣制」の誕生とて、政治放棄という意味で、「悪政由来」といってよい。
ピューリタン革命、名誉革命という二つの市民革命を経てイギリスの政治体制は大きく変わった。
市民革命後、ウィリアム3世とメアリ2世の「共同統治」はうまくいった。
二度の革命を経て、議会が大きな権限を持つようになり、それに加えて、もともとオランダ総督だったウィリアム3世はイギリスの内情をあまり知らなかったので、自分から積極的に政治に関与しようとしなかった。
この国王と議会の関係により、憲法など、法律に基づいて行われる「立憲政治」の基盤が出来上がる。
そしてウィリアム3とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかったため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位する。
アン女王の時代、1707年にはイングランドがスコットランドを併合する。
また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが戦った戦争を「アン女王戦争」という。
アン女王にも最終的に跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、ステュアート朝が断絶する。
アン女王の死後、ドイツのハノーヴァー選帝侯だったジョージ1世を王として迎え、新たにハノーヴァー朝がはじまる。
「選帝侯」というのはドイツ皇帝の選出権をもつ有力な諸侯のことである。
ジョージ1世はドイツ語ではゲオルグ1世。ちなみにハノーヴァー朝はその後第一次世界大戦でドイツが敵国となった関係でドイツ系の名称を嫌い、1917年以降、宮殿の地名に由来する「ウィンザー朝」という王朝名になっている。
ジョージ1世は、ヨーク公だったジェームズ1世の曾孫だが、40歳を過ぎイギリス国王に即位し、英語が苦手で、ドイツ滞在が多かったため、国王に替わって首相と内閣がイギリスの政治を行うという制度が発展する。
この人は生まれも育ちもドイツ。要するにイギリス王位が転がり込んできたけれど、根っからのドイツ人である。
イギリスに来ては見たものの、英語はほとんど分からないし、ふるさとのドイツが恋しくて仕方がない。
政治向きのことは大臣に任せて、自分はドイツに帰って、ほとんどイギリスでは暮らさない。
大臣は王様に任された責任があるので一所懸命政治にはげまざるを得ない。
こうして、イギリスでは「責任内閣制」というのが発展しはじめた。
ただし、その責任は国王に対してではなく、議会に対して信任されるかにシフトする。
そして、議会での多数党が内閣を組織して、議会に対して責任を負う制度に転じ、国王ジョージ2世がウオールポールに内閣を維持し続けることを望んだににもかかわらず、議会内での支持者が「少数」になったことで、ウオールポールが「辞任」したことから始まったといえる。
ジョージ1世以降、「王は君臨すれども統治せず」というイギリス王の地位と「責任内閣制」を象徴する言葉が生まれた。

フランス革命の歴史を見えると、人民の権利にせよ、何度もゆり戻し(反動)の動きを繰り返すうち、「人権宣言」の精神が少しずつ根付いていくプロセスは、我々日本人とは明らかに異なる精神的土壌を形成している。
最近、フランスにおける出版社を狙ったテロは、「シャリー・エブド」が預言者ムハンマドの風刺画を載せたことがテロの原因だった。
日本人の感覚では、そんなにムスリム(イスラム)嫌がられることなら、挑発的なことはやらなければいいのにと思うのだが、テロ後もあえて風刺画を載せている。
フランスでは市民が、1572年のバーソロミューの大虐殺(一夜でユグノーが4000人以上殺される)などの弾圧を受けた体験をもつ。
フランス共和国の「共和国」とは、身分や人種や宗教などの社会的などの社会的属性を捨象した「個人」が、市民として政治家として政治参加することによって開かれる討議空間のことである。
フランスでは、宗教に抗して考え、人間の自律と尊厳を勝ち取ってきたといえる。
この空間が、特定の「宗教権力」に支配されることのないよう、国家と教会とを分離するのが「ライシテ」(政教分離)の原則が確立したのである。
一方、対するイスラムには、「聖俗分離」の概念は薄い。
遡ること、第二次世界大戦後、旧植民地から大量の移民を受け入れ、移民1世は生活に必死で信仰実践に熱意はなかった。
しかしフランス国籍をもつ2世、3世のイスラムへの回帰が目立つようになると、フランス社会はひどくイラだった。
フランス的な自由から逃避して、わざわざ信仰に邁進する人が理解できないからである。
そして、若者にしてみれば、多くの者が社会的・経済的底辺に滞留し「自由・平等・博愛」など実感できないでいる。
彼ら移民は、イスラム共同体で初めて自由や平等を知り、愛されていると実感できたのである。
ムスリムにとってムハンマドは自分の心身と一体化している存在で、預言者を嘲笑されることは、自分を否定されるように感じるのである。
一方フランス的伝統では、厳格な世俗主義を国是として、公共や言論の場は「非宗教的」なのだから、神や預言者を風刺するのは権利だと考える。
あえていうと人種や民族への侮辱は表現として認められナイとしても、宗教への冒涜は許されるのだ。
なぜなら、それこそがフランス市民が最も恐れる特定の宗教(宗派)の支配を免れうる手段だからだ。
これも悪政由来の「人権感覚」なのだろう。