福岡県「東北人脈」

古代、東北人が北九州の沿岸警備のために「防人」(さきもり)として派遣されたが、それは場所が離れすぎて「未知」の場所だったことが、派遣された理由である。
、 つまりわが福岡と東北は遠れすぎて、自然的には人的交流は起きにくいのだが、歴史上意外なカタチで関わっている。
さて、東野圭吾の推理小説「麒麟の翼」の舞台のヒトツが東京都中央区日本橋の水天宮である。
大都会にあって安産や子授かりの神社・水天宮は、サラリーマンの一時の憩いの場ともなっている。
このあたりは、お餅屋や煎餅屋が多く、映画では黒木メイサさんが店の娘を演じていた。
水天宮といえば、わが地元福岡県久留米市にも水天宮があり、両者はどういう関係があるのだろか。
実は、久留米の方が「本社」で東京の方が「分社」で、祭神は同じ天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)である。
日本橋の水天宮は、安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集め、現在も妊婦や子供を授かりたい夫婦や無事出産できた夫婦などで、人並みが途絶えることがない。
ではどうしてこの江戸に水天宮が祭られることになったのだろうか。
久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、1818年9月、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に「分霊」を勧請した。
これが江戸の水天宮の始まりであるが、その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口(駄洒落)も生まれたほどで、「財政難」であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入となっている。
その後1872年に、有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。
そして有馬家との縁は現在も続いており、2013年現在の宮司有馬頼央(よりなか)氏は、有馬家の当主である。
さて、有馬家は距離が近い肥前のキリシタン大名の有馬家と誤解されやすいが、実際は播磨(兵庫県)の赤松家の分流であり、キリシタン大名と何の関係もなく、有馬温泉の地名が残る関西の有馬家と繋がっている。
ハデな反幕行動も御家騒動もない地味な久留米藩であるが、外様大名としては21万石という大藩であった。
そして近代になって、その嫡流に「巨魁」ともよばれる「有馬頼寧」(よりやす)なる人物がうまれた。
有馬頼寧の母は岩倉具視の娘(五女)であったから、巨魁となる「素質」があったのかもしれない。
有馬頼寧は、東大農学部卒業後に農商務省に入り農政に関わるが、河上肇や賀川豊彦の影響を受け、夜間学校の開放、水平社運動、震災義捐などの社会運動に広く関わった。
「赤化思想」の持ち主と問題視されたこともあったが、1927年衆議院選挙に当選し、その後伯爵位を嗣ぎ、改めて貴族院議員となった。
第一次近衛内閣で農林大臣、近衛の側近として大日本翼賛会の初代事務局長に就任し、戦後A級戦犯の容疑者とされたが、無罪となった。
1955年に日本中央競馬会の第二代理事長に就任し、野球のオールスターゲームにヒントを得て、人気投票で馬を選んでのレースを開催した。
ただ、第一回レース開催後に急死し、有馬頼寧の名にちなんで「有馬記念」と名づけられた。
実は、旧久留米藩の有馬頼寧の弟の信明が、旧磐城平藩の安藤家に養子として入っている。
安藤家といえば、幕末に老中安藤信正を幕閣に送り出している家だが、「磐城平」といえば福島第一原発があるあたりである。
また、現在の福島県いわき市は放牧が盛んな土地で、有馬家はその名前も含めて、よくよく馬と縁がある家とみえる。

ケネディ大統領が就任演説後、日本人記者団に尊敬する日本人は?と聞かれて上杉鷹山と答えたら、日本人の記者がその名を知らなかったというエピソ-ドがある。
上杉家は戦国期は米どころ越後の大名であるが、関ケ原の戦いで西軍に加わり敗れ、東北の米沢という小藩へと転封となった。
ところが第九代藩主・上杉鷹山はソノ経営才覚をもって、寒さと痩せ地の貧藩を富ませ、外国人から見て「桃源郷」のように映ったという記録が残っている。
名君・上杉鷹山の藩経営は、ケネディの就任演説「国があなた方に何をしてくれるかよりも、あなた方が国の為に何ができるかを尋ねよ」という内容と重なり合うようにも思う。
しかしそれにしてもケネディは上杉鷹山の名前をどうして知ったのだろう。
新渡戸稲造による英文の「Bushido」(1900年)には上杉鷹山はない。
しかしその少し前1894年に英訳された内村鑑三の「代表的日本人」の中で上杉鷹山がとりあげられている。そういう事情から上杉鷹山の存在は海外で武士道と結びつけられて受け止められた可能性もある。
ただ、この上杉鷹山が、日向(宮崎県)高鍋藩秋月家からの「養子」で、鷹山の母が筑前(福岡県)秋月藩第4代藩主の娘であることはほとんど知られていない。
ちなみに高鍋藩秋月家は、秀吉の九州征伐でもともと筑前に勢力のあった秋月種実(たねみつ)が島津に反攻し、その功績で日向国串間3万石に移封されことに始まる。
さて、福岡藩を興した黒田長政はその死に際して、三男の長興に5万石を分知するよう遺言した。
この遺言に基づき1623年8月、福岡藩を継いだ兄・忠之から長興に、秋月で5万石の分知目録および2人の付家老と47人の付属する家臣(御付衆)の名簿が渡され、ここに長興を藩主とする「秋月藩」設立へと動き出した。
長興が大名として認められ秋月藩が「公認」されるためには、江戸に出て将軍に拝謁し、所領安堵の「御朱印」を拝領することが必要である。
そのため秋月では長興の江戸参府を計画したが、福岡本藩から長興の江戸参府を「禁止」する命令が届く。
これは兄・忠之が弟・長興を家来として処遇し、秋月の5万石は福岡藩領内の「一部」であると解釈するもので、これは秋月側としては承服できない。
そこで長興は、福岡藩の監視の目をかすめて、僅か十数人の供回りで密かに秋月を出立し、夜陰に小さな漁師船で関門海峡を渡るなどの苦労を重ねて江戸に到着する。
そして将軍・秀忠への拝謁が許され、江戸城警備や幕府普請の手伝いなどをして将軍家への忠勤に励み、ようやく1634年に秋月領5万石の「朱印状」を賜ることができたのである。
1637年島原の乱の鎮圧に幕府は、九州の諸大名に号令して12万人もの大軍を動員するが、長興は約2000人の兵を率いて島原に出陣した。
秋月勢は戦死者35人と負傷者345人を出す奮戦を行い、秋月に帰陣後、戦死者の葬儀を盛大に執り行い、遺族や負傷者への見舞いを篤くした。
また、各人の働きに応じた褒賞が適切公平であったため藩主・長興に対する家臣たちの信頼は絶対的なものとなった。
長興の日々の暮らしは、質素倹約を率先すると共に武芸や学問に励んだと伝えられ、秋月藩の質実剛健で尚武の気風は、初代藩主・長興のときから始まったと言える。
さて、上杉鷹山は高鍋藩主・秋月種美の次男として江戸屋敷で生まれた。幼名は松三郎、または直松で、16歳に元服して治憲(はるのり)と改名した。
そして、1769年に19歳の時に米沢へ入部している。
上杉鷹山は米沢藩で反対勢力に押されながらも「大倹約令」を実行し、華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を藩の手本として生涯続けた。
そして、米沢の財政を立て直し発展の基礎を築いて、その生き方は内村鑑三の「代表的日本人」に紹介され、世界的に知られる日本人の1人となる。
その生き方には、黒田長政の三男・秋月長興の生き方と通じるものと思われる。

岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)には、「三偉人」とよばれる人物がいる。江戸蘭学者・高野長英、満鉄総裁・後藤新平、海軍大将・斎藤実の三人である。
そして、少年時代の後藤新平と斉藤実の才覚を出したのが、肥後細川藩出身の安場保吉という人物で福岡県令(県知事)を歴任し、福岡と東北人脈をつないだ人物ともいえる。
後藤は、1857年仙台藩支藩の水沢藩の藩医の子として生まれ、新平の家は蘭学者・高野長英の「分家筋」にあたる。
質素ながらも学識高い武家に生まれた後藤新平は、遠縁の高野長英の存在を心に抱きながら、幼少時から漢学を学んでいる。
後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務したのち、15歳で上京し東京太政官少史のもとで門番兼雑用役になる。ここで安場保和に見出されている。
安場は、岩倉使節団に参加して帰国後、胆沢県大参事となったため、後藤は安場の紹介で17歳で須賀川医学校にはいっている。
後藤にとって、親族の高野長英への弾圧もあり気の進まないままの医学校入学であったたが、同校での成績は優秀であった。
1876年安場が愛知県令をつとめることになり、後藤それに従い愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となっている。
ここで後藤はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務も担当している。
1882年、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助の治療のため県境を越えて急行した後藤に対して、板垣は「医者にしておくには惜しい」と呟かせるほどだったという。
以後、後藤は板垣の予言に沿うように、その活躍は続き、内務省衛生局に入り、ここで恩人・安場保和の娘を妻としている。
1890年、ドイツに留学し帰国後に医学博士号を与えられた後、後藤は個人を対象とした医療を超えて、社会全体の「衛生」に向けられていった。
1898年3月、児玉源太郎中将が台湾総督となると、後藤を自らの補佐役である民政局長(後に民政長官)に抜擢した。
そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めていった。
そして、後藤新平の幅広い人物交流のなかで異能の福岡出身の人物がいる。
明治・大正・昭和を通じて「政界の黒幕」と呼ばれた杉山茂丸(しげまる)で、歴史の教科書や参考書には、まず名前が出てこない人物である。
生涯官職につくこともなかった「壮士」は、後藤より7歳年下になる。
1864年福岡藩の武士の家に生まれた杉山茂丸は、若きころから政治に目覚め、国内を巡遊している。伊藤博文暗殺を企てるも、本人に説得されて断念したという経験もある。
杉山茂丸は山県有朋、井上馨らの参謀役を務め、とりわけ、台湾統治、満鉄経営などの施策は、杉山が立案、後藤が実行者だとする見方さえある。
台湾総督府民政長官になったのは後藤は42歳で、杉山は35歳の若さであった。
この杉山が、朋友・後藤新平の義父にあたる安場保和を福岡県令に迎えるために「直談判」をしたといわれている。
安場は東北における「鉄道敷設計画」の実績があり、郷里・福岡の発展のために鉄道が必要だと杉山は訴え、安場は福岡県令(知事)となり、鉄道をはじめとする北九州開発が推し進められていった。

日本における「原子力発電初代委員長」は九州人・安川第五郎氏である。
安川氏は安川電機社長、九州電力会長を歴任したが、何といっても1964年「東京オリンピック組織委員会会長」の大役をつとめた。
第五郎氏は、安川財閥の創始者である安川敬一郎の五男として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれた。
1906年福岡県立中学修猷館を卒業するが、同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がいる。
修猷館在学中は、緒方とともに福岡市渡辺通りのホテル・ニューオータニ近くにあった玄洋社の「明道館」において柔道を学んでいる。
東京帝国大学を卒業し、日立製作所に勤務した後、1915年兄・清三郎とともに、株式会社安川電機の前身である「安川電機製作所」を創設した。
戦後は、1946年2月に「石炭庁長官」に就任するが、同年GHQにより「公職追放」を受けている。
さて、安川第五郎氏の父・安川敬一郎は明治専門学校(九州工業大学)を設立している。
そしてこの明治専門学校の「初代学長」となるのが、会津藩士の山川健次郎である。
ところで山川健次郎といえばNHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場する。
会津・山川家は代々300石の中級藩士の家柄であったが、祖父の代には「家老職」の家格となった。
兄・大蔵は新政府軍が城を包囲する中、籠城戦では「家老」として総指揮をとった。
会津藩は、年齢別に部隊を編成し直していた。
15歳から18歳までの「白虎隊」、18歳から35歳の精鋭の「朱雀隊」、36歳から49歳の「青龍隊」、50歳以上の「玄武隊」の4部隊に編成した。
山川健次郎は白虎隊であったが、「年少」であったために戦陣では「待機」となり飯盛山には向かわず自害することはなかったが、山川は城に戻り「籠城戦」に加わっているため、弾丸降り注ぐ中で、この世の「地獄」を見ていたことになる。
そして9月22日朝、ツイニ城に「白旗」が上がった。
その後、猪苗代に謹慎していた山川だが、長州藩士と会津藩士との「密約」により、会津の「将来を託する人材」として脱出を許された。
1869年5月に東京の「長州藩」の屋敷に書生になり、 「北海道開拓使」で技術者養成のため、何人かの書生をアメリカに留学させることになり、山川はその一員に選ばれた。
1871年、旧幕府側に理解を示す開拓使の黒田清隆(薩摩藩)に引率されて山川はアメリカに向った。
そして難関のエール大学に合格し、外国との国力の差は日本人の「理学の軽視」であると感じ、自らの専攻を物理としたという。
滞米4年エール大学で物理学の学位を取得し帰国の途についた。
ちなみに山川健次郎の妹にあたる捨松も政府派遣留学生として渡米し、帰国後は薩摩の大山巌と結婚し、その洗練された身のこなしと教養から「鹿鳴館の華」と称された。
帰国した山川は1879年には、日本人として最初の物理学教授となり、1901年、山川48歳で東京帝国大学総長に選ばれた。
「朝敵」の汚名を着せられた会津藩からの就任だけに感無量であったであろう。
そして山川は52歳の時に、安川敬一郎が創設した明治明治専門学校(現・九州工業大学)初代学長に就任している。
因縁といえば、この山川健次郎の三女が、東京オリンピック招致時の東京都知事・東龍太郎(あずま りょうたろう)の妻である。
東氏は、大学在学中はボート競技の選手として活躍し、その後も日本における「スポーツ医学」の草分けとなったことから「スポーツ振興」に造詣が深く、都知事就任前にも日本体育協会会長・「日本オリンピック委員会委員長」を勤めた。
そして1950年から68年までIOC委員を務めるなど国際スポーツ界に通じ「東京オリンピック誘致」に深く関わった。
また、東京オリンピックにおいて国立競技場に翻っていた「五輪旗」は、その見事な大会運営に感動したアベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川氏に寄贈され、その後安川氏から母校である福岡県立修猷館高校に寄贈されている。