車輪の下に

昔オードリーヘップバーン主演の「マイフェアレディ」という映画があっった。
ロンドンの下町で、花を売り歩いていた女性イライザは、通りすがりの言語学教授ヒギンズに言葉のナマリを指摘され、彼の提案で訛りの矯正と淑女になるための礼儀作法を教わることになる。
そして、ヒギンズの家に住み込みながら厳しい指導を受ける。彼女はやがて、上流階級の貴婦人として競馬場へ赴き、社交界に華々しくデビューする。
ところが、ある日イライザはヒギンズの「研究対象」にされていたことを知り、ショックを受け、彼のもとを去っていく。
さて、「マイフェア」の「フェア」という言葉はどういう意味かと気になって調べてみると、意外な事実を知った。
実は、「Mayfer」という高級住宅街があって、それがナマって「My Fair」になったのだという。
とするならば、このタイトルは「我が麗わしの夫人」と読ませながら、その裏に「なまりのある夫人」を含ませたところが、心ニクイばかりである。
個人的には、「言葉のなまり」を矯正しようというあたりは、映画「英国王のスピーチ」を思い起こさせる。
この映画は、「吃音」に悩まされる英国王・イギリス王ジョージ6世を描いたものである。
ヒットラーに対決を迫られる英国王は、イギリス国民に「一致団結」を呼びかける局面に立たされ、吃音のママででは国民を「奮い立たせる」ことはできないと苦しむ。
そうして治療者でもあり、心を許せる友となった男と共に、哀しくも可笑しな治療に専念する。
途中、国王とあろうものがコンナ恥ずかしいことがやれるかと、何度か治療を拒否したくなることもあった。
しかし治療の成果が少しづつ表れ、ついに「吃音」を克服し、見事に演説をやってのける。
「英国王のスピーチ」は、政治情勢の逼迫という中での国王の葛藤を描いたが、小島信夫の「吃音学院」(1953年)も吃音に悩む男を描いたものである。
そしてで吃音で悩む人々の、実際の体験者でなければわからないような内面までリアルに描写している。
そして、そんな弱者をさえ自分達に都合よく操ろうという人々の「悪意」をも描きだした。
調べてみると、作者の小島信夫自身が中学校の卒業式(1932年)に出席せず、大阪の吃音矯正学校の門をくぐった経験があり、その時の「実体験」がモトになっているようだ。
さて、主人公である18歳の少年「衣川一雄」は、東京の「K吃音矯正学院」に入学する。
彼が入学した吃音矯正学院には、元吃音症者である学院長松波良十郎はじめ、個性あふれる人々が登場する。
学院生に詐欺をはたらき途中で出奔する悪徳商法の外交員。学院の用務員でありながら、学院生たちを政治運動に利用しようと企む怪しい左翼運動家。
頑なまでに一言もしゃべらないミステリアスな「紅一点」の女性などなど。
とにかく主要な登場人物たちはすべて吃音症者であり、この学院の「治療法」は、会話の相手を「石ころ」だと思うことや、「お経」のような発声法を用いて、聞き取れないほどユックリしゃべることなどである。
そして「矯正訓練」のクライマックスは街頭での実地演習である。
学院生たちは「おれたちは吃りだ」と連呼しながら街中を歩き回り、院長に指示された通り公衆電話から相手かまわず無賃電話をかけ、勝手なことを言いまくる。
当然これは違法な行為であるが、これくらいの「度胸」がなければ吃音は矯正されないというのだ。
そんな怪しい矯正訓練であっても、「紅一点」への思いを断ち切られた衣川は、自暴自棄的にノメリこむ。
そして、次第に学院は「本性」を現し始める。
電話をかける相手は会社や役所の重役級に限定され、会話内容も「待遇改善!」など政治色の濃いものに限定されてくる。
街頭演説では、「恥をかき懺悔を行うことによって解脱する」という訓練主旨の下、公衆の面前で吃音を発症した経緯と克服した次第を述べることを強いられる。
その際に、学院生たちは演説原稿に「松波院長のおかげで」という文句を書き加えさせられる。
実は、松波院長先生は次期の「参議院選」を狙っているのだ。
松波院長は学院生たちを「参院選」のための宣伝隊にしようとし、左翼運動家は街頭訓練を「デモ活動」の隠れ蓑にする。
吃音を治すために「おれたちは吃りだ」と連呼し、他者へ意思や想いが伝わりそうもないような「発声訓練」を繰り返す。
吃音者たちの頑張りが、実は「政治的」に利用されて誰かの利益になっているとは、露知らずにである。
この小説の恐ろしいほどの先見性を感じるのは、最近の「シリア難民仲介業者」や国内の「ブラック介護施設」や「ブラック保育所」などの事件にさえ通じるものがあるからかもしれない。

山川健次郎は、NHK「八重の桜」に登場した会津藩士・山川大蔵の弟である。
白虎隊に属し賊軍となった。 そこで官の世界で頭角をあらわすのは無理で、学問(物理)の世界で身を立てようと努力し、最終的には東京帝国大学総長になった人物である。
山川は、東京帝大総長を三度、京都帝大学長、九州帝大学長と三つの帝国大学の総長と空前絶後の経歴を誇っている。
その間に、私立専門学校である明治専門学校(現・九州工業大学)校長の経験もある。
明治専門学校は、北九州の炭鉱王・安川敬一郎が建てた学校だが、そこに「三顧の礼」で迎えたのである。
というわけで山川は会津生まれでありながら、九州とも縁のある人物だった。
そして山川が九州と関わりをもったもうひとつの出来事が、熊本の「千里眼」をもつといわれた女性・御船千鶴子との関わりであった。
ちなみにこの女性は、鈴木光司原作の「リング」の山村貞子の母親のモデルとなった女性である。
御船千鶴子は、日露戦争時に第六師団が、撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかった事を透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどして、確かな「実績」をもっていた。
現代では、「超能力」は軍事目的や犯罪捜査にも研究され実際に使われてもいるのだが、当時の日本ではまともな科学の対象とはみなされていなかった。
ところが、明治期には、意外にも「超能力」を科学の俎上に乗せようという動きがあったのである。
最近の「STAP細胞問題」との近似性を感じるのは、ソレが存在するのかしないのかという問題につき、日本のハイレベルの学者を巻き込んだ論争となった点である。
さらには、マスコミによる持ち上げとブーム、それから一転してのバッシングへと転ずる経過や、そして真偽について第三者の立会いのもとで「公開実験」が求められていることなどである。
熊本に住む御船千鶴子(24歳)は、密封した封筒に名詞を入れて渡すと、それらを上から手でさすったり、封筒を額にあててしばらく思念をこらしたりするうちに、その内容をあてるといわれた。
そのうちに病気の診断や治療までするようになり、地元ではかなり評判になっていた。
22歳のとき、陸軍中佐の男性と結婚する。ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こしてしまう。
このことが原因で、結婚からほどなく離婚することになり、実家に戻っている。
さて、彼女の能力に強い関心を寄せたのが、京都帝国大学の今村新吉博士と東京帝国大学の福来友吉博士であった。
というのも、福来の教え子であった熊本工業学校の男性教師が、御船千鶴子が「千里眼」と言われているという話を聞いて簡単な実験を行ない、その結果を福来に報告していたのである。
当初、福来は教え子の研究成果を気にも留めなかったが、旧制熊本県立中学済々黌校長がレベルの高い実験を勧めたた、自らも実験してみようということになった。
今村博士と福来博士はそえぞれ何度か熊本を訪れ、何度も彼女の能力を試した結果、「透視能力」は疑い得ないという判断をして、彼女を東京によび、「公開実験」を行うことになった。
多くの学者が立会い、その中には東大を退任してまもない山川健次郎もいたのである。
実は山川は、エール大学留学中に、学生の中にひとりの透視能力者が現われ、学生仲間で実験したところ、疑いもなく「透視能力」があることが確かめられた出来事にであっていた。
したがって山川は、この「公開実験」をけしてウサンくさいものとみてはおらず、真摯にその「実験方法」につき設計を行ったのである。
山川は提案した実験方法は次のようなものであった。
名刺一枚に法律書からランダムに抜いた「三文字」を記したものを20枚を作る。これをそれぞれ鉛管にいれ、それをハンマーで平たく打ちつぶした上、両端をハンダで密封する。
この中からどれでも一つ選んで透視してみよというわけだ。これだけ手が込んだことをしたのは、X線や放射線による透視ができないようにしたのである。もちろん盗み見は不可能である。
御船はこれをもって一室に屏風をたてまわしてその中に正座した。しばらくすると屏風の中から「判りました」という。そして一同が御船が透視した文字を見ると、「盗丸射」と書いてある。直ちに透覚物を取ってその端をノコギリで切り開き、中を開けると確かに「盗丸射」と書いてある。
みなが驚きの声を上げると、しばらくして山川が不思議だと言いはじめた。
自分が書いて透覚物にいれた文字の中には、「盗射丸」という文字はなかったハズだという。 覚えのためにメモしていた紙片を取り出してみると、「盗射丸」はおろかそれに似た文字さえない。
これは福来助教授があらかじめ山川から実験方法を聞き、練習のために同形のものを渡したものが、ナゼカ「混入」していたのだという。
つまり「盗射丸」は福来が書いたものであったのだ。
これではダメだと山川が書いたものでアラタメテ実験したが、これでは一枚も成功できなかったのである。
さらに日をあらためて「西洋封筒」に任意のも文字を書いたものをいれたものを渡すと、御船は精神集中のために別室にこもり、今度は別の博士が書いた文字「道徳天」を当てることができた。
それでも山川は、以上の経緯から御船に「透視能力」がアリナシを断定することはできないとの判断をだした。
この経過は、「STAP細胞」事件で、何者かが「万能細胞」を混入させたことや、小保方さんが公開実験で一度もSTAP細胞を作ることができずに、その存在が否定された経過と「瓜二つ」である。
さて、そんな中、御船はもうひとりの超能力者といわれた香川の長尾郁子の「念写」を非難する新聞記事を見て、失望と怒りを感じたのか、「どこまで研究しても駄目です」と吐き捨てるようにいった。
山川健次郎はあらためて熊本で実験しようと準備していたが、御船千鶴子は、1911年重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳の若さで死亡した。
また東大の福来博士は、御船千鶴子・長尾郁子をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職した。
この「千里眼事件」がきっかけで、日本では「超能力」が科学の対象から遠ざけられるようになった。

日本語学者・金田一京助と15歳の少女・知里幸恵(ちりゆきえ)との出会いは、日本人にとっての真の意味での「アイヌ発見」であり、「邂逅」とよぶべき出会いであった。
知里はアイヌ酋長の家柄で、1903年登別市で生まれ母の姉である金成マツの養女となって旭川に移った。
1918年のある日、アイヌ語研究をしていた金田一京助が旭川の幸恵の家を訪れ、幸恵の言語能力の素晴らしさに驚く。
幸恵はアイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、十代の少女であるのにもかかわらず多くのユーカラを諳んじていた。
幸恵はアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業しており、当時においてもほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。
金田一は幸恵を「語学の天才」と評した。そればかりではなく、「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」と言わしめる存在だった。
金田一と出会う以前の幸恵は、明治期の政策で、アイヌの人々は文化を否定され民族の誇りを失いかけていた。
学校では日本人教師たちから「アイヌは劣った民族である、賎しい民族である」と繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのまま信じ込み、幸恵も「立派な日本人」になろうと、自らがアイヌであることを否定しようとしていた。
しかし金田一から直接「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されたことで、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌとしての自信と誇りに目覚めたのである。
知里幸恵は「アイヌ神謡集」の「序」に次のようなことを書いている。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」。
アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、幸恵は願ってもない存在であり、幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。
金田一京助のアイヌ語研究が、やがてアイヌ学の代名詞にまでなるのに、幸恵の存在ヌキに考えることはできない。
その後、幸恵はアイヌの文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からユーカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。
やがて、ユーカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて心臓病を患い絶対安静を告げられていたにもかかわらず、病気をおして翻訳・編集・推敲作業を続けた。
「アイヌ神謡集」は1922年9月18日に完成したが、幸恵は同日夜、心臓発作のため19歳の短い生涯を終えた。
金田一にとって知里幸恵との出会いはアイヌ学者としての将来を約束したかに思えたが、突然訪れたその死は深い罪責の念を与え、金田一は19歳の墓石にすがって泣いたという。
それからの金田一京助は、まるで「償い」をするかのように幸恵の弟の知里真志保に大学教育の機会を与え愛弟子として育てた。
知里真志保は東大に進み、アイヌ初の北海道大学教授となったものの、結局、金田一とは決別している。
さて、民俗学者・宮本常一は、全国をくまなく歩いて日本の伝承文化を集めた。
宮本に資金を提供したのは財界人・渋沢敬三で、渋沢はその意味で、「日本民族学」の功労者といってよいだろう。
しかし宮本は、通常ならばハヤクから大学の研究機関に身を置いて、弟子達を使って研究してもおかしくない人物なのだが、ほとんど一生を旅に明け暮れている。
そこで気になるのは、宮本常一の家族達の思いである。
渋沢と宮本との関係を描いたのが、佐野眞一のノンフィクション「旅する巨人」である。
悪意はなくとも、誰か(何か)が誰か(何か)を「車輪の下に」巻き込んでしまうことはありそうなことで、「STAP細胞事件」も、組織のリケン拡大のために、功名心をツツかれて車輪の下に巻き込まれた人々が起こした事件といえる。