何が「イスラム国」を

アメリカのサイコ・サスペンス・スリラー映画の傑作「何がジェ-ンに起こったのか」は、今でも脳裏に残る恐ろしい映画であった。
訪ねる人もなくひっそりと古い屋敷にこもる二人の姉妹。妹はその昔、名子役として舞台で名を馳せたが、今は孤独な隠居生活。他方、事故のために不具となったベットに寝たきりの姉がいる。
妹はただ1人姉の面倒を見ながら、次第に精神に異常をきたす、飲酒、姉への虐待、そして暴力。
観客は、一方的に姉へのシンパシシックな感情移入に陥る。
しかし最後に、意外な真実が明らかになる。
妹を「狂気に至らしめた」本当の理由。それは大人になって女優として成功した姉の側にあったのだった。
ラストは、狂った妹が稚児のように浜辺で戯れるシーンだった。
誤解をおそれずにいえば、今日世界中でテロや誘拐を行って世界を震撼させている「イスラム国」とアメリカは「姉妹」のようなものだ。
しばしば「アメリカ対イスラム原理主義」といわれてきた。この言い方にアメリカがすべてのイスラム教徒を「敵」 とするわけではないということを明らかにしている。
要するにアメリカの敵はあくまでイスラムの一部であ って、それが「原理主義」といわれるものだ。
しかし、そもそもの「原理主義」の本家はイスラム教徒ではなく、アメリカの方なのだ。
アメリカはイギリスにおける宗教改革が「不徹底」であるために、ヨーロッパからアメリカへと移民してき たピュ-リタンよって建国された。
彼らが改革を「不徹底」と感じたことに「原理主義」の根本がある。そして、ピューリタン達は旧きを捨て さって、「新世界」に生きるビジョンを描きうるだけの信仰者であったことを忘れてはならない。
そのビジョンとは回帰すべき「根本の宗教原理」を指しており、これこそが「原理主義」(=「ファンダメンタリズム」)の先駆けである。
ただし、アメリカに移民した人々にとって、先住民の存在はその新世界ビジョンの中から欠落していたし、その延長で世界をアメリカナイズしようとしたところに、強硬に立ちはだかったのが「イスラム国」なのだ。
ただし、イラク戦後に生まれた「イスラム国」は原理主義の範疇を超えて「過激化」もしくは「狂って」いるように思える。
それもアメリカによるイラク戦後のフセイン大統領の公開処刑や、電光石火のオサマディン・ラディン襲撃と殺害もその一因であろう。
何しろ「イスラム国」の源流はアルカイダ・イラク支部といわれているからだ。
さて、「イスラム国」の大きな特徴は、インターネットを使って世界中からその「戦闘員」を集めているということである。
先日「イスラム国」に拘束された二人の日本人拘束の後ろに立つ人物は、イギリスのラッパーで「ジハーディー・ジョン」と名乗る男の可能性が高いという。
結局グローバル化とそれに伴う不平等、それ傷つき夢や行き場を失った若者のの不断の供給なくして「イスラム国」は拡大しえないものである。
反対にそれがある限り、いくらつぶしてもつぶしてもカタチを変えて出現してきそうな存在である。
殺された湯川さんとて、日本に生きることに限界を感じてシリアに渡ったひとりである。
つまり、世界は新たな「脅威」と団結して戦わなければならない事態に直面している。
さて「イスラム国」は国といってもごく最近まで過激な組織ぐらいにとらえてきたが、国家的な「装い」をとっているし、最近では占領地域に「国家樹立宣言」まで行っている。
イスラム国の集約的理念は、かつてヨーロッパ人が勝手に引いた国境を破壊し、イスラム教のひとつの国を作り上げ、そして領土を拡大して世界を「イスラム国」にするというものである。
「イスラム国」は公開処刑をネットで流すなど、一般のイスラム教徒はその「手段」は受け入れないとしても、「アラブをひとつ」にという理想自体には共鳴するにちがいない。
世界史の中で「傭兵」が主体となった戦争は30年戦争など珍しくないが、彼ら傭兵は金目当てで戦ったので略奪・暴行の泥沼に陥った。
しかし「イスラム国」の場合一応その理念に共鳴した人々なので、単なる傭兵とは性格が異なるものである。
さて、「近代国家の三要素」として、「領土・国民・主権(統治機構)」だが、その占領域には、戦闘員の他に一般の人もいて、こうした人たちがイスラム国の国民であると言っている。
また、統治機構についても、最高主導者のもとに評議会があり、戦争省などの省庁があり、地域には知事もおかれていて、裁判所、学校、銀行も運営をしているのだとう。
そして各地で、アフリカで女学生を集団で誘拐したボコ・ハラムなど、各地の過激派が「イスラム国」との同調を表明し「国家樹立」宣言をしている。
もともと、イスラム教は、砂漠の遊牧民の間に広がった。
ムハンマド以来「ジハード」(聖戦)により、イスラムの領土を広げてきたのも歴史として事実である。
そのアッラーの前での平等をとく世界観は、多くの人々の心を捉えてきた。
また、遊牧民はいまだ部族社会であり、「ウンマ」という共同体が信仰の基盤になってきた。西欧の価値観には「自由」や「個人」を特別に重んじるが、ここに西欧的な価値観が入り込んでは、まとまな信仰を保つことができないという危機意識をもつ人々も少なくない。
「信仰=戒律を守ること」であるため、穏健派・過激派を問わず、戒律でムハンマドの顔を描くこと自体も許されない以上、それをさらに風刺的に描くことに対する「不快さ」の度合いは、キリスト教徒や仏教徒以上であるにちがいない。
つまり、今日のアメリカを中心とするグローバル化(アメリカナイゼーション)を拒否する世界であるが、イラク戦争後にアメリカ的価値観を力ずくでこの地域に拡げようとしてきたことこに、過激さを増幅ささせた一因があるのではなかろうか。

ところで、世界史の中でイスラム教国の中で、強力にキリスト教世界に挑戦した国を見出すことができる。
最初イスラム教が広がったのは、遊牧民の社会である。遊牧民はラクダや羊とともに砂漠地帯を移動する民である。
また、中近東から中央アジアの草原地帯には「騎馬民族」が出現し大帝国を滅ぼしてきたが、この騎馬民族の中にも、オスマン・トルコをはじめとするイスラム国家が出現するようになった。
遊牧民も騎馬民族も「移動」の生活を基本としており、比較的に平等な世界である。少なくとも自ら大帝国として「定住」するまではかなり平等な社会であったといえる。
世界史をおおまかにみると、騎馬民族は「不平等」の極みによって分裂の兆しを見せた大帝国に襲いかかって滅ぼしてきたのである。
つまり大帝国は「不平等」によって滅び、その滅ぼす側には騎馬民族がいたということだ。
社会の中に格差が広がれば、富が行き渡らない貧困者や不平分子を易に抱きこむことも可能だし、何しろ富が「一箇所」に集まっていることによって、攻撃の対象が絞りやすいということもある。
実際に5世紀前後に、古代の大帝国がほとんど騎馬民族(騎馬戦術)に撃滅されてしまうのである。
それはテロとは比べものにならない大規模な破壊であった。
今日のヨーロッパ人の祖先であるゲルマン(アーリア人の一種)は長年牧畜を営んでいたが、アジア系騎馬民族(フン族)から騎馬戦術をならい、この戦法で衰退していくローマ帝国をさかんに攻撃し、476年についにローマ市を占領して、西ローマ帝国を滅ぼしている。
次に、ユーラシア中央ではかつて今日のアフガニスタンを中心に、長年栄えていたクシャーナ王国が、5世紀松に北方の騎馬民族エフタル(モンゴル族とみられている)に攻撃されて滅んでいる。
エフタルは余勢をかって6世紀初にインド平原へなだれこみ、4世紀から5世紀にかけて強大であったグプタ帝国も、ついに520年エフタルの攻撃を受けて崩壊している。
また中国でも4世紀の初期に、北方の騎馬民族が揚子江以北の中国本土を占領している。
そのため、漢民族の政権は南方へ遷移しなければならなかった。
さて、ヨーロッパを最も震撼させた騎馬民族といえばオスマン・トルコではなかろうか。
もともとは小アジア北西部で力を養い強大化した騎馬民族であるが、このオスマン帝国のユニークなところは、ヨーロッパに向かって領土を拡大した点ではなかろうか。
その足がかりが、1453年のコンスタンティノープルの崩落である。
コンスタンティノープルは東ローマ帝国を継承したビザンツ帝国の首都である。
西ローマ帝国は5世紀にゲルマン人によってすでに滅ぼされていたため、ローマ皇帝コンスタンティヌスの名にちなんだ都の陥落こそはローマ帝国の完全崩壊といえる。
さて、ヨーロッパとアジアを隔てるのがマルマラ海で、その一番狭くなっている部分が、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡である。
オスマントルコはダーダネルス海峡を渡って、イスラム国家としてははじめてバルカン半島に領土を獲得した。
そしてムラト1世の時に、バルカン半島のアドリアノープルに首都を移す。
そして、ムラト1世の時に、「イエニチェリ」という軍隊がつくられる。
これは、新領土となったバルカン半島で、白人キリスト教徒の少年を奴隷として集めてつくった軍隊。
身体強健、眉目秀麗な少年を差し出させる。
これが、首都に集められ、イスラムに改宗させられ、共同生活をしながら軍事訓練を受ける。
「イエニチェリ」はオスマントルコを支える軍事力として、他の国からおそれられるようになり、「イエニチェリ」の部隊が移動するときは、軍楽隊つきで演奏に合わせながら行進する。
先頭には、軍旗として大きな鍋がかかげられていた。
これは、部隊の兵士は同じ釜の飯を食う仲間という、団結のしるしである。
のちに、ヨーロッパ各国も、「イエニチェリ」を真似て、軍楽隊をつくるようになる。
実にこの「イエニチェリ」こそは、今日の「イスラム国」に集まる若者との「類似」を感じさせるものがある。
ただ「イスラム国」の場合にはネットで戦闘員を集めているが、もともとキリスト教徒だったものも多いに違いない。
ちなみに「イエニチェリ」とは「新しい兵隊」という意味である。
そして、1453年メフメト2世は、コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼしたのだが、「コンスタンティノープルを陥落」こそは、世界史の中のハイライトというべき出来事である。
日本には、「船頭多くして船山に上る」ということわざがあるが、この時文字通り「船が山を上った」のである。
アット驚きの戦法としては、源義経の「坂落とし」とか、アレクサンドロスの象を従えてのアルプス越えなどが思い浮かぶが、山から船が下りてくるなんで奇想天外なことが本当におきたのである。
コンスタンティノープルの守りを強固で三重の城壁に囲まれていた。
メフメト2世は10万の大軍でこの都を攻撃するが、城壁を破ることができず2カ月が過ぎる。
ビザンツ帝国側では、多くの市民はすでに逃げてしまっていて、皇帝が戦える者を集めたときには、5千人にも満たなかったという。
しかし、たった5千人で10万の軍勢を凌いでいたのだから、「鉄壁の守り」だったといえる。
コンスタンティノープルの海に面している部分は「守り」が弱いので、オスマン海軍は海から攻めたいところだったが、ボスポラス海峡は潮流が速くてこれは無理であった。
金角湾という入り江があって、ここに入り込めば海上からの攻撃もできる。
しかし、ビザンツ側は金角湾の入り口に太い鎖を張り巡らして、オスマン海軍が湾に入れないようにしていた。
そこでまだ23歳という若さのメフメト2世がとった作戦が「船の山越え」というもの。
海から金角湾に入れないのなら、船に山を越えさせろと命令した。湾を一山こえた向こうの海岸から艦隊を陸揚げして、70隻の戦艦を山を越えて金角湾に入れたのである。
ビザンツ側としては、金角湾の向こうの山からどんどん船が降りてくるものだから、唖然・呆然というほかはない。
陸と海からの総攻撃で1453年5月29日、ついにコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅びた、最後の皇帝コンスタンティヌス11世も死んだ。
この後に、オスマントルコは、コンスタンティノープルに首都を移し、コンスタンティノープルはやがて、イスタンブールとよばれるようになるのである。
そして、さらに領土を拡大して、オスマントルコが最盛期となったのが、スレイマン1世の時である。
ハンガリーを破って属国とし、さらにドイツ、神聖ローマ帝国に侵入する。
神聖ローマ皇帝カール5世の領地であるオーストリアの都ウィーンを包囲した。
この第一次ウィーン包囲とよばれる出来事が1529年で、イエニチェリ1万5千、騎士4万で、ウィーンを攻めた。
「神聖ローマ帝国」といえば、ローマ教皇から教権を保護する世俗権力であり、キリスト教ヨーロッパ世界の中心的な国である。
その国の首都ウイーンがイスラム教国に包囲されたとなれば、キリスト教世界全体に危機が差し迫ったということである。
ただし、トルコ側は数の上では優勢であったが、長旅と連戦、長雨による悪路で攻略は成功せずに撤退する。
このころドイツではマルチン・ルターが、カトリック教会の「免罪符販売」を攻撃して宗教改革の発端を啓いていた。しかし「免罪符の販売」自体はそれはキリスト教会の腐敗の一端でしかない。
そもそも免罪符を販売するなどという発想、つまり魂をカネでかうというような商人的な発想がどこから生まれたのかというと、当時のローマ法王レオ10世の出自に関わっていたといってよい。
法王はもともと、イタリアのフィレンツェで金融業で財をなしたメディチ家出身、その資金をもって教会の絵画をかく芸術家を保護し、人気を得てローマ法王の座を射止めた人物なのだ。
サンピエトロ大聖堂修復のための資金不足を理由に「免罪符販売」を思いついたが、さすがにお膝元のイタリアではやりにくかったのか、遠くてまとまりに欠けたドイツあたりに販売部隊を派遣して「免罪符」を売っていたのである。
ルターの宗教改革が広がると、ルター派諸侯とカール5世の対立が激しくなり、カール5世は、オスマン・トルコの攻撃をしのぐために、このときにルター派の信仰をいったん認める。
とすると宗教改革の広がりには、オスマン・トルコの攻撃が一枚かんだことになるが、ルターは「トルコ人の包囲はヨーロッパの腐敗に対する神の罰だ」と言っている。

さて今日の世界情勢を見ると、原油安でロシア経済が打撃をうけて、それがヨーロッパ経済に影響を与えさらには経済危機に陥っている。
こうなるとヨーロッパ連合解体の動きが再燃しそうであるが、かつてオスマントルコによって都を襲撃されたオーストリア・ハプスブルク家に注目したい。
ハプスブルク家は、特に戦いに優れた王家というわけではなく、婚姻と子沢山と幸運な相続によって領土を広げた王家なのである。
そしてこのハプスブルク家をいただく神聖ローマ帝国の記憶こそが、ヨーロッパ連合(EU)を現代に復活させた背景といってよい。
ハプスブルク家は長く神聖ローマ帝国の王を兼任し、第一次世界大戦の頃まで存続した。
啓蒙専制君主のマリア・テレジアとその末っ子でフランスに嫁いだマリ・アントワネットは、ハプスブルク家の中でも有名である。
第一次世界大戦終結後に650年の歴史を刻んだハプスブルク王朝が崩壊し、ハンガリーや旧チェコスロバキア、ポーランド、ユーゴスラビアなどが次々に独立していった。
しかしいざ独立してみると、ハプスブルク帝国内にとどまっていた頃と比較して、小国家としての存在がいかに危険であるかを身にしみて感じたのである。
ハプスブルク帝国内であっておれば、共産主義やナチス・ヒットラーによっていとも簡単に併合されることはなかったでろう。
実際にハプスブルク家の理念は「共存」ということだった。
マリア・テレジアは国民の教育度を高めるために、全国にわたって小学校を創設したが、そこではドイツ語を強調することはなく、それぞれの地域で用いられている言語で教えさせた。
こうした諸民族が、ウイーンの皇帝を中心として共存しあうということがハプスブルク王朝の基本理念だったのである。
近年、ハプスブルク家が脚光を浴びたのは、東西冷戦が終結し、そこに第一次世界大戦以前のヨーロッパ像がくっきりと浮かび上がってきたからだ。
そして、それらの融和と共存を可能にしたのがハプスブルク王朝だった。
世界史から今日の「イスラム国」を見たとき、キリスト教世界を異教徒から守る神聖ローマ帝国の記憶を背景とするヨーロッパ連合がいまや解体の危機にあり、その脇腹をおそうようにヨーロッパの一部を戦闘員に取り入れつつ「イスラム国」が勢力を拡大しつつあるということである。