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木組み人組み

世の中には、様々な事情で限定された道を歩まざるをえない人がいる。例えば、人生のほとんどを病室の窓の景色を見て過ごす人とか。
筋力を失う病にかかった或る1人の少女は、空の絵を描き続けたが、その空にはイツモまん丸い「縁取り」がしてあった。
彼女はいつも「水溜り」に映った空を描いていたのだ。しかし、そんな小さな空の中に、人々の笑い顔や犬猫の顔が映って、余人が及ぶことのできない境地に辿りついているかのようだった。
職人の世界には、自ら選んで限定された世界を生きる人々がいる。
ひとつの技量を自ら高めるために、あえて余計なものを取り除こうとしているかのようだ。
ちなみに、染み抜き職人は、自分の仕事の痕跡さえ残してはいけない。
ある映画監督は、妻である大女優に絶対に家事をさせなかったが、職人の中には、腕がケガレルという理由でタトエ仕事がなくても、他の仕事に携わることをヨシとしない人もいる。
また多くの職人は、全身で自然を読むあるいは自然に聞くことを要(かなめ)とするため、「身体」という自然の変調には気をつかわなければならない。
実際、自然は霊妙なものである。木の葉が天にむかう角度は、根元に雨が集まるように茂っている。まるで涙を内に溜めこむように。
日本の自然の多様さと四季の変化がもたらす多彩さは、日本人に独自の感性を付与したにちがいない。
匠の技は、そんな自然を相手に、長い修練を経て磨かれていった。
職人は、視覚・聴覚・味覚などを使いその日の温度や湿気の違いによって、微妙に技能の「匙加減」を変える。
それは、現代の製造の現場においても生きている。
溶接工の中には、金属を味見してその性質を識別する人もいるし、旋盤工の中には微細な音の違いで加減を調整する人がいる。
また塗装工の中には100分の1ミリの厚さ違いをヨリわけられる人もいる。
要するに「ミリ単位以下」の極微の仕事は、機械にたよるのではなく、人間の「五感」全体を頼ってなされているのである。
それは現代のコンピュータや工作機械でさえなしえない極限のワザであり、身体全体に備わった感性こそが寸分違わぬ「究極の精度」を生んでいるのだ。
そういえば、日本の製品の品質の高さを物語るジョークがあったのを思い出す。
IBMが日本の会社に部品の製造を依頼して、「100個の内ひとつ程度の不良品は許容できる」という文書を渡した。
すると日本の会社は、101個の部品を作り、一応不良品も一つ作りましたといって品物を渡したという。

日本人のそうした資質の淵源を、はるか「いにしへの時」に求めてみた。
日本人は縄文の森で「もののけ」を全身で感じ取りながら生きていた。自然な微妙な変化に様々なキザシを見逃すまいと生きてきたに違いない。
それは、自然の中に潜む精霊の「揺らめき」さえ感じとろうしたのではなかろうか。
こういう「交信力」に優れた人物として、木版画家の棟方志功を思い浮かべる。
棟方志功氏が木を彫っている時の姿をみると、目も悪いせいか板に向かって全身で格闘するようにノミを動かしている。
青森の貧しい鍛冶屋に生まれたが、ゴッホに魅かれ絵を志した。
画家仲間や故郷の家族は、しきりに有名画家に弟子入りすることを勧めたが、本来的にまつろわぬ人なのだろう。
「師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない」と抵抗した。
そして39歳の時には、「版画」という文字を使わず「板画」とすることを宣言した。
その理由は、版を重ねて作品とするのではなく、「板の命」を彫り出すことを目的とした芸術だからなのだそうだ。
さらに棟方は「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだ」ともいっている。
36歳の時下絵なしで仕上げた大作「釈迦十大弟子」で1956年に出展し、53歳にしてベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のMUNAKATAとなった。
そして、棟方の語る言葉に人々は驚いた。
「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」と。

木に関わる仕事をしつつ、木のサマに人生のすべてを映し学んだ人がいる。狭い世界にあっても、「先生」はどこにでもいるといわんばかりに。
いったい樹木に人世(ひとよ)の何を映せるのかと思う人は、法隆寺や薬師寺再建に取り組んだ宮大工・西岡常一の言葉に耳を傾けるべしである。
西岡はまず、宮大工の「仕事」の意味を掘り下げる。
仏にとって社寺はこの世の「借り住まい」ゆえに、社寺建築は地上で最高の建物を求められる。
飛鳥の彫人達は、単に仏さま、観音さまを彫ったのでなく、呼び出したのだ。
その仕事は実際に山深くに入り、木を選ぶことから始まるが、どの木に仏や観音様がいらっしゃるかを見定める。
そしてそこから出ていただくために神事を行い、木を伐採して、木を彫るのである。
宮大工の仕事もそれに等しく、数千、数万の名工たちが古来の木造建築技術を継承し、精魂を傾けて築きあげた「芸術世界」であると語る。
さて、神社の建設に限らず日本の木造建築は、日本人にとって当たり前でも、海外の目から見て驚くような工夫や仕掛けがしてある。
例えば、日本のふすまはローラーやベアリングは使わずに、どうしてスムーズに開け閉めが出来るのか。
ふすまの両端を2ミリ高くして摩擦面を減らすという実にシンプルなものだが、日本独自のものである。
大工はカンナをかけて紙のように薄い木片として削り取る基本のワザが必要だが、それをするためには、刃先の微妙な「角度調整」ができなければならない。
それでは何のために木にカンナをかけるのか。見かけを良くするのが第一の目的ではない。
自然な木目を生かすと水をハジキ、ニスやペンキで塗装せずとも長持ちするからである。
日本は湿気が多く金属では腐敗がすすむため、釘を使わない「木組み」や「軸組み」という仕掛けがある。
例えば、2つの木材をL字型につなぐとすると、スチール製の金属を補強するのが一般的である。
ところが「木組み」においては、木に別の木を嵌めこむ方式で、あらかじめつくっておいた隙間にシャチという木の楔を打ち込むことによって頑強に固定することができる。
驚くべきことに、人間がぶら下がってもビクともしない。
金具を使うと腐食するばかりか、一度曲がったら元へは戻らない。結局「木のみ木のまま」方式が一番長持ちするのである。
ところで木を別の木に入れ込み固定するには、互いに掛け止めるような溝をつくらねばならないが、隙間を作らずに無理に嵌め込むと木は割れてしまう。
日本の伝統技術では、墨で線をひいて微妙な隙間をつくるが、その際に木目にそってハマル面は墨線の内側0,15ミリ、木目と垂直にハマル面では2ミリ線の外側を切るとウマク嵌まるという。
ところで地震多い日本でどうして木造建築が多いのか。そこには驚くような耐震の工夫がなされている。
昨年テレビで、スペインの建築家を招いての日本の宮大工の仕事を検証する番組を見た。
自然、スペインのサクラダ・ファミリアとの比較に話がおよんだ。
スペインでは、暴風雨などに負けないように、塔の先端ほど石が多く使われ、「石の重み」で押さえつけ安定させている。
日本では建材のたわみを考慮して設計の段階から緻密な計算をしている。
日本に招かれたフェノロサは、薬師寺を「凍れる音楽」と表現したが、屋根を反りあがるように描く曲線の美しさをそのように表現したのであろう。
美観もあるが、長い年月で重みで四辺が下がるのを計算の上のことである。
さて、日本伝統の「木のみ木のまま」技術を代表する建造物といえば、伊勢神宮ということになろうか。
内宮入り口の鳥居は直径70センチのヒノキが使われており、その高さと大きさに圧倒される。
内宮の正宮では、御稲御倉という建物があり「板倉つくり」という特殊なつくりでできている。
単純に板壁の倉ではなく、四辺の柱に溝を彫りそこに下から何枚もの板をはめ込んでいる。
これにより「横揺れ」のエネルギーを縦に分散する仕掛けになっている。
また「板倉つくり」では、柱の上に奇妙な空間がある。
ちょっと見では設計ミスかと思われがちだが、ある計算の上でその空間を設けているのである。
木は長い時間がたてば水分がぬけ縮んでしまうため、その分屋根が下がってくることを計算しているのだ。
長く時間を経ると、屋根全体が下がってこの空間が少しづつ狭くなっているのに気がつく。
また、たくさんの宝物を収める伊勢神宮では、木の特性を生かし室内を最適な状態にするような工夫がなされている。
分厚い木が水分をすいとって急激な温度変化に影響されない。また、土台が直接土の中に埋め込まれているが、木を地面にさしてどうして腐らないか。
スペインは土台は石が使われているが、実は伊勢神宮では「直す」ことをはじめから考えている。
「式年遷宮」のような時以外にも、腐った柱の木の根元を切り取り、木組みの技術でそこに新たな木を嵌めこんで、再利用しているのである。
ところで「木組み」の仕掛けには、様々な「耐震効果」が秘められていることがわかっている。
それを見事に実現しているのが、世界遺産・白川郷の古民家である。
白川郷は豪雪地帯なので、雪の重さがかからないように急角度にした屋根の斜面が独特の景観を生み出している。
見事な外観のかやぶき屋根は、隙間で空気がうまれ保温性があり、同時に寒さや雨を防ぐことができる。
その材料は周辺にたくさん茂るありふれたススキだが、油分が多く水をはじきやすい性質がある。
またかやぶき屋根は、カヤの隙間によって雨が浸透することなく流れ落ちるため早く乾燥するため、30年という長い時間保つことができる。
白川郷は地理的に家が崩れても修理のために大工をよぶことができないため、人々は自分たちで家を建てた上に、修理までできるように様々な工夫を施した。
骨組みの木材は縄で結んでいるので「柔軟性」があり、地面が揺れても建物がシナルため、揺れのエネルギーを逃がすことができる。
さらに「駒尻」とい仕掛けがあって、屋根の木材の先端部分で柱の先端が動くことにより、地面の揺れを逃がす工夫がなされており、この考え方は近代建築にも使われいるものである。

1970年、宮大工・西岡常一に託されたのは、名刹・薬師寺金堂の復元であった。
傷みが激しく、薬師寺金堂の再建は歴代住職(管長) の悲願で、それを実行に移したのが、1967年に管長になった高田好胤である。
ところで西岡常一は1908年生まれで、西岡家は代々、法隆寺の寺付きの大工であった。
祖父・常吉の教えの基本は、「よく見ろ」と「身体で覚えろ」の二つに尽きた。
そして子供ながらに腕の良し悪しが判別できるようになった。一言でいえば、「身のこなし」。熟練の人には動きに無駄がないということだった。
西岡は高校も、祖父・常吉の意向で農学校(生駒農学校)への進学が決まった。
この進路決定にも、祖父の土を忘れたら人も木も塔もない。土のありがたさを知らないでは、ほんとの人間にも、立派な大工にもなれないという思いがあった。
この祖父が永眠した翌年1934年から、法隆寺の「昭和の大修理」 が始まり、西岡は26歳で東院礼堂解体工事の棟梁となった。
この法隆寺の大修理の際に、高名な大学教授と激しい論争をして「法隆寺に西岡あり」とその名を轟かせた。
法輪寺再建の時に補強のため鉄骨を使おうというこの建築学者に、「飛鳥建築でも、白鳳建築でも、天平の建築でも学者がしたのと違う。みんな大工が、達人がした。我々は達人ではないけれども、達人の伝統をふまえてやっているのだから間違いない。 いらん知恵出して、ヘンなことをしたら、かえって ヒノキの命を弱めるのだけである」と語った。
法隆寺の五重塔の心柱は594年に伐採された直径2.5mの吉野檜が使われているが、現在でも鉋をかけると、新しい木の匂いがする。
西岡常一棟梁は、この吉野檜の心柱が生きていることを肌で感じ取っていたのだ。
さて薬師寺金堂再建の仕事を引き受けた時、西岡はすでに62歳となっていたが、実はこの時半失業状態だった。
「腕がけがれるから宮大工は町家の仕事をしてはならない」という宮大工の伝統を守って普通の大工仕事はせず、わずかな畑を耕したり、法隆寺の厨房で使う鍋の蓋を作ったりするだけで、生活は妻が長靴を売り歩いて支えていたのである。
しかし、その復元作業が困難なことは容易に推測できた。
その再建にあたっては、古代の工人たちの技術に通暁し、それを実現できる腕を持った宮大工がどうしても必要だったのだが、そのような宮大工は西岡常一だけだった。
図面などはなく、史料は平安時代に書かれた「薬師寺縁起」など三冊しかなかった。
西岡にとって、素人同然の若者を率い、古(いにしえ)の名工と競い合うという挑戦となったのである。
そして、西岡常一が木に学んだことは、未熟な宮大工をまとめるリーダーシップの中に生かされることになる。
その名言の一つが、「木の癖組は人組みなり。人組は人の癖組みなり」である。
プロジェクトが機能するためのチーム編成の本質、リーダーとしてその個性を見極める視点、この短い言葉にそのすべてが凝縮されていた。
木の癖を読み取とって「木組み」をするように、人の癖をよみとって人組みをせよという意味である。
社寺建築では、数十万個の部材を仕上げていくため、まずは「木づくり」の腕が問われる。
そのため、通常の大工の道具は70種類にすぎないのに、宮大工の道具は270種類にもおよぶ。
若い大工達は、何も教えようとしない西岡に「教えてください」というと、「人に聞いとるとじきに忘れるで。木と対話して仕事しなはれ」とハネツケた。
若い大工達は、木と対話する余裕なんてあるかと内心思ったが、「木と対話する」ことの意味を次第に悟っていった。
それは、1人の職人が木槌で叩いて木組みを無理にはめ込もうとした時、「その木槌の音がおかしい」と、西岡が駆けつけた時だった。
「建物は良い木ばかりでは建たない。北側で育ったアテという、どうしようもない木がある。しかし、日当たりの悪い場所に使うと、何百年も我慢するよい木になる」。
木の性質を語ったこの言葉は、若者達の心をしっかりととらえた。
「私たちのようなアテの人間でも、西岡の親父はつかってくれる。自分みたいないいかげんなものでも生かせる場所があるのか」と。
次第に若者達は、西岡のその「一挙手一投足」を見逃すまいとするようになっていった。