気象観測の人たち

背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この山頂から見ると、福岡市の全景が開け、博多湾に浮かぶ玄界島・能古島・志賀島等の島々が霞んで見える。
古い歴史をいうと、背振山麓には霊仙寺があり、「日本茶栽培発祥の地」の石碑が立つ。
日本に禅宗を伝えた栄西は、宋からの帰国時に持ち帰った茶の苗を植え、博多の聖福寺にも茶の苗を移植したのである。
近年この背振山が東北の北上山地とともに、世界の物理学者達が熱い視線を注ぐ国際的な巨大プロジェクトの「候補地」となっだ。
この巨大プロジェクトとは、「国際リニアコライダー」(ILC)計画のことで、ILCは全長31km~50kmの地下トンネル内の「直線加速器」で、電子と陽電子をほぼ「光速度」まで加速して衝突させる巨大な実験研究施設である。
この世界的な実験研究施設の建設「候補地」として、海外では、アメリカのシカゴ、スイスのジュネーヴ、ロシアなどが「国際リニアコライダー」の候補地となったこともある。
だが、結局背振山は東北北上に敗れたかたちとなって、背振が世界に名を知られる機会を失った結果となった。
それでも、背振山は「世界的」といってよい業績を生む実験場であった。
大リーグで、その独特の投球フォームから「トルネード投法」(竜巻投法)と呼ばれた投手・野茂英雄が近鉄バッツファローズに入団した1990年、アメリカ・シカゴ大学では、もう一人の「ミスター・トルネード」が定年の日を迎えていた。
「竜巻研究」の権威として世界にその名を残した藤田哲也である。
藤田は、1920年、福岡県企救郡(現・北九州市小倉南区)生まれた。旧制小倉中学(現小倉高等学校)に学び、旧制明治専門学校(現九州工業大学)機械科に進んだ。卒業後は、明治専門学校で助手を務め、1カ月後には助教授に昇進した。
そして1945年、藤田は広島・長崎の原爆投下による「被害調査」に派遣され、現場の状況を観察し、原爆が爆発した「高度」を特定したこともある。
ところで、藤田哲也の学問の最大の特徴は、世界が認めた「実証主義」にあるが、953年、藤田はアメリカに渡って以来、竜巻の研究に没頭していく。
アメリカでは、なにしろ1年間に数百個のトルネードが発生するという。
藤田は、竜巻が発生したと聞くや、何をおいても「現地」に飛んでいく。
風と気圧の変化を実地調査をし、被害状況を詳細に分析し、その作業を通して、竜巻のメカニズムを次々と明らかにしていった。
そして、親雲から発生した渦が地形と気象との関連により地上に達成した時、トルネードとして発生することを推論し、この「発生メカニズム」を実験室で再現して見せた。
こうした藤田の研究は、「竜巻の現場」に限らず、思わぬところで生かされることになった。
1975年、ニューヨーク・ケネディ空港で、イースタン・エアライン66便が着陸直前に地面に激突するという「大惨事」が起こった。政府関係者が割り出した事故原因は、「パイロットのミス」であったが、これを不服とした航空会社が再調査に白羽の矢をあてたのが、藤田哲也であった。
調査の結果、墜落の原因は上空にあった雷雲から激しい「下降気流」が発生し、それが地面にぶつかって「放射状」に広がったためであるとした。
従来、空気のような粘性のない流体は、流れが弱いため、仮に「下向きの気流」が発生したとしても「地面に到達すること」ナドあり得ないとされてきたのだが、それが間違っていることを徹底した「実証主義」に基づいて明らかにしていった。
この強烈な下向きの風は、藤田によって「ダウンバースト」(下降噴流)と名付けられた。
さらに藤田は、ダウンバーストの動きを探知するために「ドップラー・レーダー」を活用するよう提言した。
ドップラー・レーダーとは、ドップラー効果による「周波数の変移」を観測することで、位置だけではなく観測対象の移動速度を観測する事の出来るレーダーである。
藤田の提言を受けて、世界中の空港に「ドップラーレーダー」が設置され、墜落事故は激減していった。
藤田のこうした功績が讃えられ、藤田には、フランス航空宇宙アカデミー金メダルをはじめとする「世界的な賞」がいくつも与えられた。
そしていつしか、人々は藤田のことを「ミスター・トルネード」と呼ぶようになったのである。
藤田の真骨頂はその徹底した「実証主義」にある。
1947年、脊振山の測候所で気象観測を続けていた藤田は、解析したデータから雷雲の下に「下降気流」が発生していることを発見した。
ところで藤田がアメリカに向かい竜巻の研究にむかう契機となったのが、背振山における研究を「論文」にまとめてアメリカ・シカゴ大学のバイヤース博士に送ったところ、藤田をアメリカに招待したいという返事がきたのである。
1998年11月、藤田は、シカゴでの78歳で亡くなった。それは、ちょうどアメリカ大リーグ界に野茂が「トルネード旋風」を巻き起こした時期だった。
藤田哲也は今、故郷・小倉の曽根の地に眠っている。

福岡市の那珂川沿いの町・春吉は「寺尾四兄弟」の出身地である。
寺尾兄弟といえば、角界に「寺尾三兄弟」というのがいるが、こちらはカナリの「肉体派」である。
角界の「寺尾三兄弟」と対照的な「知性派」といっていい「寺尾四兄弟」は、春吉住民の有志の努力などでソノ歴史の「掘り起こし」がなされてはいるが、今ひとつ知られていないのは残念である。
特に、熊本県荒尾出身で「孫文」を支援し辛亥革命に関わった「宮崎四兄弟」の資料館まで作られているのに比べるとと、かなり見劣りがする。
さて「寺尾四兄弟」の長男である寺尾寿(ひさし)は、初代国立天文台長で日本天文学会をつくった人物である。
東大物理学科出身で、フランスで天文力学を修め、29歳で東大星学科教授となった。
1887年、東大が行った日本初の皆既日食観測隊長となった。
次男・享が法学博士で東大教授、三男・徳は医学博士で、四男・隆太郎は弁護士で裁判官という「スーパー・ブラザーズ」である。
ちなみに次男の寺尾亨は、日本史の教科書にでてくる日露戦争の開戦を提言した「東大七博士」の一人である。(日露開戦については、今の「国際情勢」をモノサシとして批判することは避けなければならない)。
ところで個人的な話だが、高校時代「流れる星は生きている」という本を読んで満州から博多に引き揚げた人々の体験について初めて知った。
この本の著者は「藤原てい」で、藤原ていの夫は、戦争中満州にあった気象台に勤めていた藤原寛人である。
日本の敗戦が決定的になり藤原ていと子供三人は、男は軍の動員命令があり、女ばかりとなった観象台(気象台)の家族と共に日本への決死の「逃避行」を行った。
妻のその時の実体験「流れる星は生きている」が戦後ベストセラーになったことに一番刺激されたのが夫の藤原寛人で、「新田次郎」のペンネームで知られれるようになる。
ちなみに藤原夫妻の次男は「国家の品格」で知られる数学者・藤原正彦である。
ところで、作家「新田次郎」としてではなく、藤原寛人が気象台で行った仕事はNHKの番組「プロジェクトX~富士山測候所レーダー」で初めて知ることができた。
その後、作家・新田次郎は自分の体験を「芙蓉の人」という小説を書き、NHKが昨年夏「芙蓉の人」を放映したことによって、富士山気象観測の足台を築いた野中到(いたる)夫妻について知ることになった。
そして、この野中夫妻をして富士山気象観測へと情熱を向かわした人物こそ、先述の天文台長・寺田寿なのである。
藤原寛人は、1932年から1937まで富士山測候所に勤務し、富士山頂の冬の苛烈さの描写は鬼気せまるものがある。
また、野中夫妻とも面識があり高山病に苦しんだ野中夫妻の惨状をも描いている。
また戦後は、1963年より富士山「気象レーダー建設」責任者となり、また長年気象庁で気象観測の実務に携わってきた。
ところで昨年、富士山が「世界文化遺産」に登録され、あらためて日本人の心の故郷であることを思わせられた。
富士山を神体山として信仰の対象としてきた富士信仰は今も残り、富士山の神霊として考えられている木花咲耶姫を主祭神とするのが浅間神社は全国に存在している。
富士山のの別名を「芙蓉峰」と言うが、「芙蓉」は古くは往々にして蓮の花を意味し、美女の形容としても多用された表現である。
この崇拝の対象である富士山には、その「高さ」ゆえに日本人の生活に欠かすことの出来ないもうひとつの役割を果たしてきたことを忘れてはならない。
人工衛星がない時代には富士山気象レーダーが、太平洋から列島をうか日本に高層観測所がないことを憂い、私費で富士山頂に気象観測所を設置するため1890年、東京大学予備門(後の第一高等学校、東京大学教養学部)を中退して気象学を学んだ。
世界において富士山より高いところにある高層観測所は二山だけしかなく、夏期しか観測していなかった。
つまり、当時3776mという高地で冬季の気象観測をしている国はなかったのである。
父・野中勝良は東京控訴院(現東京高等裁判所)判事であったが、そうした息子のこころざについて理解しなかったが、たまたま東京天文台長の寺田寿らから「もし、富士山で冬期の気象観測に成功したら、それこそ世界記録を作ることであり、国威を発揚することである」と聞いてから俄然息子を応援するようになったという。
資金捻出のため、福岡県の旧宅を売り払った。
1893年に福岡藩喜多流能楽師の娘チヨ結婚した野中と、妻チヨとの間には当時2歳の娘園子がいた。
妻チヨは野中が御殿場に滞在して観測所建設の指揮を執ると姑の反対を押し切って、御殿場に向かい会計を担当した。
というのも、野中の計画は綿密でるがチヨの見るところ食料品や衣料品の準備に甘さがあると感じたからである。
御殿場でそれらの調達を担当しながら、自分も夫と共に富士山頂で越冬観測をしようとひそかに決意した。
しかしこんなことを舅、姑はもちろん、夫も許さないのは自明なのだが、とうとう彼女は婚家と実家の親たちを押し切り、福岡の実家で防寒具を整え、山で足腰を鍛えたのである。
江戸時代に医術の発展のために、自ら実験台になることを申し出た「華岡青洲の妻」を思い起す話である。
しかし野中がいかに気象観測のエキスパートであったとしても、野中夫妻は山に関してはまったくの素人であった。
氷点下20度以下の寒さや強風の中でともに倒れ、心配して登ってきた慰問隊にようやく救出されたりしたこともある。
それでも10月から12月まで82日間もの間観測を続け、後に山頂に国の観測所が造られ、「通年観測」が行われる土台を作ったのである。
野中父子は、或る意味、明治という時代を象徴する人物であったといってよい。
息子は自らの夢のために一筋に進み、父は私財をなげうち、息子の夢を支える。
そして世界最初の高層観測所という名誉のために、御国の為に見返りを求めずに打ち込む姿があった。
新しい国家を自分たちが担おうという気概に満ち、それに従う妻がいる。
新田次郎は、「芙蓉の人」の中で野中チヨについて次のようにう述べている。
「野中千代子は明治の女の代表であった。新しい日本を背負って立つ健気な女性であった。封建社会の殻を破って日本女性此処にありと、その存在を世界に示した最初の女性は、野中千代子ではなかったろうか」と。
後年、野中到は御殿場馬車鉄道をも一時期経営したが、チヨ夫人は1923年に亡くなり、野中到は1955年に亡くなった。

人工衛星が発達した今日においても、夏から秋にかけて列島を次々襲う台風が各地で甚大な被害をもたらしている。
特に1959年に日本を襲った伊勢湾台風は、5000人近くの死者を出している。
当時は台風の位置を瞬時に捉える方法もなく、全国の気象データから位置を割り出すしかなくて、割り出した時には台風はすでに通り過ぎたという有様であった。
そこで、気象観測の精度を高めることが喫緊の課題であったといえる。
藤田寛人は作家活動を続けながらも、同時に気象庁職員として長年勤めて1966年に退職している。
そして、公務員時代の最後の大仕事が、気象庁測器課課長として携わった富士山頂の気象レーダー建設である。
それは明治期の野中夫妻の80日を越える「冬季観測」の成功という先例の上に建つものであり、藤田にとって野中夫妻は、尊敬する先輩という範疇をはるかに超えた存在であったといってよい。
ところが富士山頂での戦いは、自然との闘いだけではなかった。
藤田は、記録文学「富士山頂」の中で、その戦いが大蔵省の予算獲得から業者の選定に到る仁義なき戦いであったことを書いている。
その中で、自身の分身である主人公・葛木は、予算を求める大蔵省の席上で気象レーダーをは「台風の砦」と表現している。
具体的にいうと、台風という敵がこの砦の南方800キロめーターまで近づけば、これを捕捉することができると主張するのである
そしてようやく大蔵省のゴーサインが下りるが、その次には、メーカー同士の「レーダー製造権争奪戦」がはじまるのである。
しかし男達の本当の戦いは、富士山頂という地理的にも理念的にも非常に特殊な現場での、困難を極める過酷な作業であった。
山頂までの資材輸送ひとつとっても、知恵を結集し、技術を結集して実行に移さねばならない。
そして工事の最終段階で、レーダードームを建物にかぶせる段階こそが最大の山場となる。
レーダードームをヘリコプターで吊り下げて運ぶが、その重量は600キロにもおよび、ヘリの「最大積載重量」いっっぱいであった。
その重さゆえに、ホバリングしての位置決定ができない。荷物が重すぎるために「空中停止」ができず、結局は「置き逃げ」のような形でしかレーダードームをかぶせることができないのである。
それは空中の熟練パイロットと富士山頂の建物要員とが心を合わせ、一瞬で位置を決めてやってのけるはかはない難事業であった。
その場面を藤原寛人(新田次郎)は次のように描いている。
「霊峰・富士は、自身の頭頂部にまで侵入しようとする人類に怒りを表現するかのように、これでもかとばかり過酷な試練を与えるが、それに打ち勝ち、知恵と技術の結集が状況を凌駕した時。祭られている女神は初めて彼等に微笑を見せる」。
つまり富士山レーダーは、野中夫妻が最初に気象観測を行った地点への取り付けに成功したのである。
NHK「プロジェクトX」では、富士山頂レーダーが稼働し、最初の映像が関係者にもたらされた時、それが予想をはるかに超えて明晰な、美しいものであったことを伝えた。