繁華街のサプライズ

繁華街にある史跡ほど目に付きにくく、繁華街ほどサプライズな史跡が見つかる、というのはあくまで個人的な感慨である。
大都会の中の史跡といえば、よく知られているのが「平将門の首塚」である。
この地は東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけは広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂っている。
「新皇」を自称し関東独立を企てた平将門の首級は平安京まで送られ、東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。
伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。
その中でもよく知られているのが、前述の東京都千代田区大手町1丁目2にある首塚である。
かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。
さて、東京で人々が住みたいと思う街といえば、原宿・広尾・麻布・白金あたりだろうか。
このあたりには、何気なく通りすぎるにはもったいない史跡があるが、そこが我が街・福岡と何かしら関係があるのが、サプライズである。
例えば、原宿の「竹下通り」の名前は、このセオドア・ルーズベルトと親交のあった人物、竹下勇の邸宅があったことからつけられた。
竹下は、日露戦争中は中立国経由で伝わるロシア情報の分析をしたり、潜水艦の購入を画策したりした人物で、日露戦争の前後に「アメリカ大使館付武官」としてアメリカに滞在した。
柔道を通じてセオドア・ルーズベルトと親しくなり、アポなしでホワイトハウスを訪問しても咎められないほど親しい仲になっていた。そしてポーツマス会議では、日本側随員の一人となっている。
また、福岡市鳥飼出身の金子堅太郎は、ルーズベルト大統領とハーバード大学で同級生で、舞台裏からポーツマス条約成立に尽力している。
また、福岡市天神の北で日本銀行があるあたりに、日蓮宗の寺院・勝立寺がある。
勝立寺は1603年京都妙覚寺の僧が、布教のため博多に来てキリスト教神父と宗教問答を行い勝ったので、初代藩主・黒田長政はその僧にキリスト教の土地を与え寺を立てさせて、その勝利にちなんで寺の名がつけられたという。
またこの寺には、「征討総督有栖川宮熾仁仮本営阯」の石碑がたっている。
1877年士族の最後の抵抗となった西郷隆盛率いる西南戦争で、この有栖川宮熾仁親王は征討総督として兵を九州にすすめてきた。
そして熾仁親王は、寺の名前が縁起がよかったからかどかはしらないが、この勝立寺に「仮本営」をおいて滞在したのである。
なお有栖川宮熾仁親王の東京における邸宅は東京・目黒区広尾にあり、その邸宅の跡地は有栖川公園となって人々に親しまれている。
この有栖川公園から少し北東方面に丘をのぼっていくと、元麻布ヒルズという「漏斗(じょうご)」をビーカーの上にさしたような斬新なカタチの高層ビルが目にはいってくる。つまり上部が底辺より大きいのだ。
そのすぐ真向かいの寺が善福寺という浄土真宗本願寺派の寺院。山号は麻布山で、824年に弘法大師・空海によって開山されたと伝え、当初は真言宗の寺院であったが、越後国に配流になっていた親鸞が当寺を訪れ、浄土真宗に改宗したとされる。
1859年には日米修好通商条約に基づき当寺院内に初代「アメリカ合衆国公使館」がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留した。
当寺院にアメリカ公使館が設けられたので、その「記念碑」が掲げられている。
また、芸能関係者らが訪れることもあり、昭和時代の歌手・越路吹雪の歌碑があり、彼女の代表曲「愛の讃歌」の歌詞も刻まれている。
前述の元麻布ヒルズの敷地は元は本寺の所有地であったが1983年に森ビルが本寺より譲り受けて建設されたものである。
山門を見上げたとき違和感がないように仏具の「和蝋燭(わろうそく)状」のシルエットに意匠されている、というから形状の謎が解けた。
さて、元麻布に近い白金の地は「シロガネーゼ」とよばれるセレブが住む閑静な住宅街であり、この白金の地に、福岡の繁華街・警固の「上人橋通り」の名前の由来となった日延上人が開いた覚林寺がある。

福岡市内の繁華街といえば、天神・大名・赤坂あたり、最近では警固今泉あたりにも広がりをみせている。
そうした街中にも、奥深い歴史を秘めた驚きの史跡があり、特にサプライズな史跡を二つあげたい。
天神南の警固、上品な飲食店が立ち並ぶあたりに「上人橋通り」があるが、そこに香正寺(こうしょうじ)という寺がある。
意外やこの寺は、熊本の大名加藤清政と朝鮮王朝との深い因縁を秘めている。
もうひとつは天神から赤坂へ向かうバス通り、日本たばこ産業のはいったビルの前にある「大銀杏」(おおいちょう)である。
その銀杏の木の下に「飯田覚兵衛屋敷跡」とあり、馴染みの薄い名前のためアマリ注目されないが、それが日本国憲法や皇室典範を書いた熊本出身の井上毅の生家である飯田氏のご先祖の家というと、カナリの人が驚くに違いない。
では、熊本に居るはずの飯田覚兵衛の家がなぜココにあるのか。
時代を豊臣秀吉の「朝鮮出兵」時に遡ろう。
朝鮮出兵において、日本軍の先陣は1592年4月12日に名護屋城を出帆した。
日本軍の先陣は、翌朝に壱岐国の風本(長崎県壱岐市)に入ったが、波風が強いため、風本で風が収まるのを待つことにした。
しかし、1番隊・小西行長は功名を独り占めするため、抜け駆けして密かに風本を出帆して朝鮮半島へと渡る。
2番隊の加藤清正と3番隊の黒田長政は、1番隊の小西行長の船が無いことに気づいて後を追ったが、激しい波風に阻まれ、小西行長に遅れること4日、ようやく朝鮮半島に上陸することになる。
2番隊の加藤清正・鍋島直茂も3番隊の黒田長政・大友義統も、先に上陸した1番隊の小西行長の後塵を拝する事を良しとせず、別ルートからの上陸を選んだ。
2番隊の加藤清正・鍋島直茂は、1592年4月17日に熊川に上陸し、1番隊の小西行長とは別ルートで北上し、李氏朝鮮の首都・漢城(ハンソン:現在のソウル)を目指した。
3番隊の黒田長政は、「小西行長の後を進んで、何の働きになるのだ。我らは釜山から上陸せず、西南にある金海より攻め入る」と言い、金海城の近くの港から上陸し、金海城を落とし、別ルートで首都・漢城(ハンソン)を目指した。
以降、日本軍は4番隊から7番隊までが朝鮮半島に上陸することになる。
ところで、加藤清正は熱心な法華経(日蓮宗)の信者であったため、やがて成長した弟は清正の熱心な信仰心を受け継いで「日延」と号した。
加藤清正の母・伊都女は娘時代からの日蓮宗の信者で、清正公は生れる前からの日蓮宗の影響を受けていたといえる。
そして清正は、母は二人だけの貧しい生活の中に、母の信仰する姿を見て、成長と共に信仰を強く持ち始めた。
そして、秀吉に仕え戦場にて生死の間にあるとき、常に頭には「南無妙法蓮華経」の題目を唱えたという。
さらに清正は、25才の時に難波に本妙寺を建立し父の菩提をとむらい、後に肥後の領主となって熊本城下に移している。
文禄の役の際に、破竹の勢いで進撃した加藤清正の軍勢は、なんと国境を越え満州にまで攻め込む。
1592年の7月末から8月にかけてのことで、ここで清正は後に清朝を興す女真族と交戦している。
後世「オランカイ征伐」と呼ばれる一連の戦いだが、加藤清正は、帰朝の折、朝鮮の高麗国の王子の子(姉と弟)を連れ大切に養育した。来日当時、弟は四歳、姉は六歳であった。
厚い信仰心をもつ加藤清正は、朝鮮の王子たる日延が「法華僧」として大成することを願い、物心両面で援護した。
そして日延は清正の願いどうりに成長し30歳の頃、日蓮生誕の地である安房(千葉県)小湊「誕生寺代18代」の住職となり、関東一円に多くの寺を建立する。
日延上人は、花の栽培を好み、晩年、東京・白金村の当地を「お花畑」として幕府より下賜された。
白金の地は、吉良邸討ち入り後に赤穂浪士17人を預かったことで知られる熊本・細川家の下屋敷があったところでもあるが、日延上人は、清正公に育てられた恩義を感じ、清正の遺徳をしのんで、1631年に芝・白金に覚林寺を開いた。
そこには「清正公大尊儀」が祀られたことから、「清正公様」の名で江戸庶民に親しまれてきたのである。
さらに、日延は九州にて福岡藩2代藩主・黒田忠之公と毛利・黒田家の姫の長光院殿の後ろだてを得て、福岡市の警固の地に9000坪の寺地を賜った。
しかし新しく寺を建立することが禁じられていたため、やむなく宗像の禅宗の廃寺「立国山香正寺」の名前を受けて、1632年に、日蓮宗に改め、「長光山香正寺(こうしょうじ)」を開山する。
これが、現在福岡市の繁華街・警固にある香正寺であるが、このあたりにはかつて「上人橋」という橋がかっていた。
日延上人は、福岡藩2代目藩主黒田忠之と大変に、親交が深く、特に囲碁の良き相手として過ごしていた。
ある時、囲碁のために、登城しようとしたところ大雨のために、お寺からお城へ向かう時に渡る小川が増水し渡ることができず、登城できなかったことがあった。
そこで、藩主・忠之は、上人がいつでも川を渡れるように、この小川に、橋をかけて便宜を図ったという。
これから、この橋は「上人橋」と呼ばれた。
この小川は、今の国体道路に沿って流れていたが、国体道路が建設されたときに埋められてしまい、今その川はない。
そして「上人橋」の碑は、もともと橋の下にあったものを、香正寺の境内に移設している。
そして、香正寺前の通りは「上人橋通り」と呼ばれ、人々に親しまれている。

さて、上人通りから歩いて20分ほど博多湾側に歩くと、赤坂のバス通りに面した「飯田覚兵衛宅跡」につく。
ではなぜこの地に「大銀杏」があるのだろうか。
実は飯田覚兵衛の父・飯田直景は、山城国山崎にて生まれた。
若い頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで「加藤家三傑」と呼ばれる重臣となった。
武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。
1583年の賤ヶ岳の戦いにおいても清正の先鋒として活躍した。
朝鮮出兵では、森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。
なお、この功績により豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたとされるが、書状などでは「角」兵衛のままである。
飯田直景は、土木普請も得意とし、清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。
加藤清正の死後、三男・忠広が跡を継ぎ、忠広に仕えたが、その無能を嘆き、また没落を予言して、1632年に肥後熊本藩が改易(つまり熊本の殿様から降ろされた)されると、他家に仕えずに京都にて隠棲し、同じ年に亡くなっている。享年70。
そして直景の子・飯田覚兵衛も、加藤清正の重臣として、一番備えの侍大将として重用されたが、加藤家は「改易」となる。
理由は諸説あるが、主君を失った覚兵衛だが、加藤家と親密な間柄にあった福岡の黒田家に客分として迎えられることになった。
そして、覚兵衛は加藤清正を偲んで、熊本城から一本の銀杏の苗木を持ってきて屋敷の庭に植えたのが、現在でも赤坂行きのバス通りから目立つこの「大銀杏」である。
熊本城から苗木を移植された大銀杏が400年もの年月を経て、この地に立っているのは、繁華街の中のサプライズである。
さて、明治憲法、皇室典範起草者井上毅(いのうえこわし)の生家である飯田家は、覚兵衛直景の長子・覚兵衛直国の直系の子孫である。
井上は、肥後国熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
時習館で学び、江戸や長崎へ遊学し、明治維新後は開成学校で学び明治政府の司法省に仕官する。
その後、1年かけた西欧視察におもむき、帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用された。
明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属し、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
さて、井上毅は起草する憲法の根幹とすべき「精神」を求めて、徹底的な国史古典研究を続けた。
そして「古事記」において、天照大御神が出雲の支配者である大国主神に対して、国譲りの交渉をする部分にある発見をする。
「大国主神が『うしはける』この地」は、「天照大御神の御子が本来ならば『しらす』国であるから、この国を譲るように」とある。 井上はこの「うしはく」と「しらす」がどういう違いを持っているのか、調べてみた。
すると、天照大御神や歴代天皇に関わるところでは、すべて「治める」という意味で「しらす」が使われ、大国主神や一般の豪族たちの場合は、「うしはく」が使われていて、厳密な区別がなされているということである。
井上はここに日本国家の根本原理があると確信した。「しらす」とは「知る」を語源としており、民の心、その喜びや悲しみ、願いを知ることである。そして、それは民の安寧を祈る心につながる。
歴代天皇は、天照大御神から授けられた三種の神器を受け継がれているが、その中で最も大切な鏡は、曇りなき無私の心で民の心を映し出し、知ろしめすという姿勢の象徴である。
これに対し、「うしは(領)く」とは、土地や人民を自分の財産として領有し、権力を振るうことにすぎない。
ヨーロッパでは、暴君から臣民の権利を守るために「君民の約束」として不文憲法が発達したが、これに対して、日本国は民の喜び悲しみを天皇が知り、その安寧を祈る、という「君徳」が、国家の成立原理になっていると、井上は確信したのである。
この発見に基づいて、井上が大日本国憲法草案の第一条として、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇ノ治ラス所ナリ」とした。
しかし、伊藤博文から、「これでは法律用語としていかがなものか。外国からも誤解を招く」との異論が出て、最終的には、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之レヲ統治ス」と改められた。
しかし、井上は伊藤博文の名で自ら執筆した憲法の解説書「憲法義解」の中で、この「統治ス」は「しらす」の意味であるとはっきり書いている。
したがって、第一条から、明治憲法は天皇が国家の主権を握った専制憲法である、というような解釈は誤りであり、逆に天皇が国民の思いを広く知るためには、むしろ専制主義であってはならない、というのが井上の考えでもあった。
この憲法が発表されると、欧米での識者からは高い評価が寄せられた。伊藤博文が師事したウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授は「日本の憲法はヨーロッパの憲法と比べても大変出来がよい」と評価した。
井上は教育勅語煥発のわずか5年後の1895年、文部大臣の任期半ばで亡くなった。
51歳の死は、精魂を込めた仕事で心身を使い果たしたことを物語っているかのようだった。