声の贈りもの

由紀さおりの歌声は、2009年オレゴン州ポートランドの中古レコード店で、ポートランドを拠点にジャズの演奏活動をするピンク・マルティニ楽団のメンバーによって「発見」される。
レコードのデザインが気に入って手にとったアルバムに収められた「声質」に驚き、マルティニ楽団と由紀とのコラボレーションが実現する。
そして、る~~るるる~~の「夜明けのスキャット」は世界的なヒットとなるのだが、その裏側には、由紀しか知らない「究極の選択」あった。
37才の時子宮筋腫を患ったが、声を守るために「ホルモン治療」を退け、41才の時全摘出を決意した。
ホルモン治療をすると声が低くなるからで、自分の声を愛してくれる人々のためにも「声が変わる」危険性のある治療はできなかったのだ。
そのことからすれば、その思いには格別なものがあったであろう。
由紀さおりは、海外でその「歌声」が発見されたが、地球の裏側でその存在が劇的に「発見」されたミュージシャンがいる。
1968年、ミシガン州デトロイトの場末のバーで、ロドリゲスという男が歌っていた。
その姿が大物プロデューサーの目にとまり、満を持してデビューアルバムをリリースする。
実力的にもルックスも申し分なかったが、商業的には大失敗に終わり、多くのミュージシャン同様に、レコードもお蔵入り、跡形もなく消え去った。
しかしその「音源」は、本人も知らぬ間に反アパルトヘイトの機運が盛り上がる南アフリカに上陸していた。
そしてロドリゲスのメッセージ性は、アメリカにおけるボブ・ディランをも凌いでいた。
それは、正規のレコードではなく「海賊版」に乗って流布し、彼のはいつしか「シュガーマン」と呼ばれるようになる。
しかし、シュガーマン・ロドリゲスとは一体何者なのか、情報も不確かな中ステージ上で自殺したという「都市伝説」までもが広がった。
そしてファンが、歌詞に登場する地名など数少ない情報を頼りに調査したところ、ようやく本人にたどり着く。
ラジオで流れたその声が父親の声であることを通報したのは、ナントその娘であった。
その時ロドリゲスは肉体労働で3人の娘を養いどうにか生計をたてていた。
、 そして、ロドリゲスは、アメリカで陽の目をみることのなかった自分の「声」が、地球の裏側の南アフリカに飛んで大ブレイクいたことを知らされる。
そしてまもなく、シュガーマン・ロドリゲスは招かれ南アフリカにおける「凱旋ステージ」が実現する。
待ちわびた観衆を前にしての本人の第一声は、「生きてたぞ!」というものだった。
各地での公演は売り切れ続発であったにもかかわらす、ロドリゲスはそのギャランティのほとんどを寄付にあてた。
そして、何事もなかったように、アメリカでの元の生活に戻ったが、3人の娘は若き日の父の「声の贈りもの」を受け取ることができたのである。

テノール歌手の新垣勉は、「声」を発見されて人生を大きく転換した人である。
新垣勉は、米軍兵士と日本人女性の間に生まれたが幼い頃に発した高熱によって視力を失った。
まもなく父は日本を去り、母は別の男性と結婚し、祖母のもとで生活する。
しかしその祖母も他界し「姉の子供」ということにされて育てられることになった。
物事がわかる年頃になって、周りの都合だけで自分の存在が歪められていたことに気がつく。
また、自分が混血であること、視覚障害であることが理由で、両親に捨てられたと思い、両親を殺したいと思うほどに憎しみを抱き続けた。
12歳の時に井戸に飛び込み自殺をはかるがそれにも失敗し、自分ほど惨めな人生はないと思うようになっていった。
そして14歳で祖母を亡くし、天涯孤独の身となる。
転機は、彼を家族のように温かく受け入れてくれるキリスト教会の牧師に出会ったことであった。
信仰に目覚め聖職者への道を歩むか、教会で接した声楽の道に進むか迷ったが、キリスト教系の短期大学から福岡にある西南学院大学神学部へとすすんだ。
ところが大学在学中にイタリア人ボイス・トレーナーの世界的大家A.バランドーニ氏のオーディションを受けたところ、「君の声は日本人にはないラテン系の素晴らしい響きをしている」と激賞された。
その際自分の出生について語ると、「辛い体験だったと思うが、同時にそれはプレゼントであり、感謝すべきものでもあるのだよ」と言われ、その言葉で両親を恨む気持ちが癒えたという。
A.バランドーニ氏は一人でも多くの人を励まし勇気を与えることが出来るように「君の声」を磨きたいと言われ、本格的に「声楽」を学ぶようになる。
そして「父親譲り」の声をウント磨いていくことで、人々をもっっと幸せな思いにさせようと思うようになった時に、顔もしらない父へ感謝の気持ちさえ湧いていった。
聖歌隊での実績を元に本格的に歌手活動をしたいと考えたが、売り込み先から「音大も出ていないのに声楽家を目指すとはおこがましい」と批判され、屈辱を受けたこともあった。
しかしそれをバネに、音楽への思いを貫き34歳で武蔵野音楽大学に入学する。
大学院修士課程を修了し、その後チャリティーコンサートなどで歌を披露するようになった。
そして2001年、寺島尚彦作詞·作曲の「さとうきび畑」で初のCDを発売した。
ところで、新垣氏には「立ち直り」のキザシを見せた頃に心に響いた歌があった。美空ひばりの「愛燦燦」で、小椋桂が書いた歌詞の一節に魂を揺らされたのだという。
その一節とは、「雨 潸々(サンサン)と この身に落ちて わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして 人は哀しい 哀しいものですね」である。
新垣氏は、この歌詞に、すべてがマイナスにしか見えて仕方がなかった頃の自分を重ねたという。
そして新垣氏は、この曲をコンサートではしばしば歌うという。

なかにし礼は作詞家として成功後、全国の民謡を聞き続けるなかで各地に失われつつある歌に興味をもつようになった。そして「長崎ぶらぶら節」に出会う。
そしてこの声の持ち主のことを調べ、長崎・丸山の芸者「愛八」という女性であることを知る。
愛八は本名・松尾サダといい、長崎の寒魚村・網場(あば)の出身で、貧しさゆえ十歳の時に、長崎市内の丸山に芸者となるべく売られていた。
とても器量良しとは言い難い女性だったが、生き残るためにあらゆる芸を磨き「名妓」とよばれるまでになった。
この花月に黒田藩御用達の老舗「万屋」の御曹子で、「長崎学」の大家とも称される古賀十二郎という人物が訪れていた。
古賀は学者なのか遊び人なのかよくわからない人物であったが、なぜか器量よしでもない愛八に目をつけた。
愛八はそんな立派な先生がなぜ自分に白羽の矢をあてたのかと問うた。
すると古賀は、「上手く歌おう、いい人に思われよう、喝采を博そう、そういう邪念が歌から品を奪う。
おうちの歌は位が高かった。欲も得もすぱっと切り捨てたような潔さがあった。
生きながらすでに死んでいるような軽やかさだ。それでいて投げやりででなく、冷たくなく、血の通った温かさと真面目さ、それに洒落っ気があった。品とはそういうもんたい」と語った。
古賀は中央に対抗できる長崎学の確立の為に、長崎に残された古い歌を探すという何の得にもならない仕事のパートナーにこの愛八を選んだのである。
愛八も自分を理解してくれる人にようやくめぐりあえた嬉しさに恋心を抱きつつ、古賀に伴われて3年もの間旅を続けた。
そして古賀は数多くの歌を「愛八の歌い」に助けながら整理記録していったのである。
そして旅の3年目に出会ったのが、「長崎ぶらぶら節」であり、そのなんともいえぬ甘いのびやかな節回しに引き込まれた。
さて、なかにし氏の「長崎ぶらぶら節」の発見には、もう一人、大正を代表する作詞家・西条八十八の存在が介在する。
西条八十八もまた埋もれたままの民謡を聞き直し、新聞に「民謡の旅」という連載をつづけていた。
西条が長崎の花月で食事をした時に、民謡を聞きたいと注文した時に登場したのが愛八だった。
西条は「長崎ぶらぶら節」を聞いた時に、それをレコード化することを勧めたのである。
レコード会社が「長崎ぶらぶら節」を有名歌手でレコード化してはと提案すると、西条は愛八が歌うからこそ価値があると反対したのである。
その結果「長崎ぶらぶら節」は愛八の歌でレコード化され、なかにし礼の耳に届くことになるのである。
なかにし礼の直木賞受賞作の小説「長崎ぶらぶら節」は、古い歌探しの物語であると同時に長崎丸山芸者・愛八という女性の「発見」の物語ともなっている。

2008年2月に テレビのハイビジョン特集「本田美奈子:最期のボイスレター~歌がつないだ“いのち”の対話~」という番組があった。
この番組で、本田美奈子が白血病におかされ「ボイスレター」を通じて、最後の対話を交わしたのが作詞家の岩谷時子であったことを知った。
岩谷時子は、「ミスサイゴン」の日本語版の制作を行った有名作詞家であり、その関係で本田美奈子とも親交があった。
岩谷は「ミスサイゴン」で知り合った本田の才能を高く評価し、数多くの詞を提供した。
そして、岩谷と本田には、何かに導かれるような「奇縁」が生まれた。
本田美奈子は2005年1月13日に、白血病のために都内の大学病院に入院したが、その5ヶ月後の6月20日、道路で転倒し、大腿骨他、複数の骨折をして、同じ病院に入院してきたのが、当時89歳の岩谷時子であった。
岩谷は、ミュージカルを通して出会って以来、本田にとって歌の心と言葉の大切さを教えた恩師であり、「母のような存在」であった。
無菌室から出ることを許されない本田は、岩谷を励ますために「ボイスレコーダー」にメッセージと自らの歌声を吹き込み、送り続けた。
遺された「ボイスレコーダー」には、みずから死と直面しながら、恩師のためにエールを送る本田の肉声と歌、そして生きることの意味を伝え続ける岩谷の「返事」が録音されていた。
本田美奈子は「アメイジンググレイス」のアルバムを出して2005年に急逝ししたが、このアルバムは本田が病魔と闘いながら、岩谷を励まそうとの思いからボイスレコーダーに吹き込みことによって生まれたものである。
その「アメイジング・グレイス」を歌う本田の「声の贈りもの」を、我々はテレビのAC公共広告機構「骨髄バンク」CMの中で聞くことができたのである。
ちなみに「アメイジング・グレイス」は、「驚くばかりの恵み」としてよく知られている賛美歌だが、元・奴隷商人の回心によって生まれた名曲である。

「ナゾー! 黄金バットがマサエさんを助けに来たゾ。いでや、黄金丸の切れ味、とくと見るがよい!」
これが、森下正雄氏の拍子木や太鼓の響きと共に始まる「紙芝居」のスタートの合図であった。
森下氏は1923年、荒川区日暮里で生まれた。父親も紙芝居の名人で、この世界でただ一人叙勲を受け、それを95歳まで続けた人だという。
1939年、江崎グリコ蒲田工場に入社後、1944年より中国の奉天工場に勤務した。
そして現地で兵役に召集されたのち終戦を迎えた。
シベリアでの強制労働も体験し、紙芝居を本格的に始めたのは、終戦の翌年からであった。
荒川区は「紙芝居発祥」の地といわれ、当時二百人以上の業者がいて、子どもたちがいるところでは必ず「紙芝居」が演じられていた。
森下氏は、1952年の第1回紙芝居コンクールで優勝を果たしている。
紙芝居は、簡潔な物語展開、絵師による図柄、軽妙な語り口やゼスチャー、紙芝居の「めくり」の臨場感、ドラや太鼓、拍子木の音といった「総合芸術」である。
子供達は、駄菓子を食べながら、古びた木枠の「舞台」で繰り広げられる「勧善懲悪」の物語にジット見入っていた。
しかし、高度成長とともに街角から空き地や路地が消え、子どもたちが家の中に閉じこもるようになると、紙芝居はしだいに姿を消していった。
テレビを始めラジオや漫画などの娯楽の普及につれて紙芝居は人気を失い、紙芝居師の数は激し、荒川でも次々に紙芝居師が廃業していく中、森下氏は伝統文化を守るため、現役の「紙芝居」師を貫き続けた。
夫人は森下の意志に理解を示し、困窮する家計を内職で支えた。
森下氏の家は駄菓子屋だったので、午前中にお菓子の仕入れや仕込みをする。
森下氏は、子供の夢とロマンを残すため、「紙芝居児童文化保存会」を結成した。
かつてのように街頭で紙芝居を演じるのではなく、公民館、老人ホーム、日本全国の祭りなどのイベントに自ら出向き、一つの「出し物」として紙芝居を披露するスタイルへと移行していった。
悪漢どもに囲まれて絶体絶命の大ピンチ、だがそのとき、高らかな笑い声とともに、必ずやヒーローが駆けつける。
そんなヒーロー「黄金バット」を名口調で子供達に語り続け、50年を経た1990年の春、森下氏は喉に異常を感じた。
声がカスレて出てこない。病院の診断は「喉頭がん」だった。
一時、声が出るまで回復したものの、医師からは「声帯の摘出」を勧められた。
紙芝居は声がイノチなので、「声帯」を取ったら「紙芝居」生活とも別れなければならない。
結局、森下氏は、家族の説得もあって手術を受けることにした。
手術を前にした1990年9月10日の夜の病室で、自分の最後の肉声を残すため、テープレコーダーを前に「黄金バット」を独演した。
語りが終わると、同室の患者たち5人から拍手が巻き起こった。
森下氏と同じように声を失ったこの患者たち五人が、期せずして森下氏の「肉声」での最後の客となった。
それでも森下氏が懸命にリハビリに取り組んでいた時、「送り主不明」のカセットテープが森下氏の元に届けられた。「消印」は四国の丸亀市であった。
森下はかつて巡業で訪れていた丸亀でのことが思い浮かんだ。
そしてテープには、黄金バットなどを含むかつての「名調子」で、六話が録音されていたのである。
また「これを使って子供たちに紙芝居を演じてほしい」との手紙が添えてあった。
森下氏は、この「自分の声の贈りもの」を受けた時、「感激で涙が止まらなかった」と語っている。
テープの声に合わせて口を動かす訓練をすれば、「現役」を続けられる可能性がある。
森下氏は音声に合わせて口を動かし「紙芝居」を行う新しいスタイルを考案した。
そして声を失った森下氏の「紙芝居」は以前より更に朗らかな表情や表現力に磨きがかかり、子ども達はもちろん大人達も引き込んでいったという。
80歳を過ぎてからも月に2度ほど、公演、コンクール、商店街などの各種イベントで紙芝居を演じ、子供たちに夢と思い出を残すため、自分と同じ病気の人々を励ますため、精力的に活動を続けた。
同時に「食道発声法」のリハビリにも励み「第二の声」での実演も目指したが、今度は肺がんを発症した。
そして平成2008年12月、肺がんで亡くなった。享年85。
現在、息子である森下昌毅が父の跡を継ぎ「紙芝居」を演じている。