bookreader.js

存在証明

受験生の頃、数学のテストで、「解なし」というのが正解の問題があったことを覚えている。
この便利な「解答」に味をしめて、解けない問題の解答欄にことごとく「解なし」を乱発した記憶がある。
本当をいえば努力の「甲斐なし」だったのだが、それが自己の「存在証明」であったならば、どうか。
最近、「法的な証明」をえられずに、自分の存在を証明できない人々のことが報道されている。
様々な事情から「無戸籍」や「無国籍」の状態に陥り、自分のことを客観的に証明できない事態に陥った人々のことである。
法律は人間が作ったものなのに、その法律によってアナタは「この世に存在しません」という宣告を受けるのだから、その「不条理」に人はどこまで耐え得ようかという気がする。
それは、銀行口座や携帯電話は持てない、自動車免許がとれないなどの「生活の利便性」の問題の次元ではなく、学校にもいけず失業保険をもらえないなど、根本的にこの世の「生存」を許さないような「宣告」を言い渡されたようなものだ。
だいぶ前に見た「嫌われ松子の一生」(2006年)という映画があった。1948年福岡県生まれの川尻松子の生涯を描いた物語だが、実在のモデルがいた。
それは10年以上も前に東京の井の頭公園の池で変死した女性の路上生活者である。
彼女はかつて、九州で中学か高校の教師をしていたが、何らかの事情で教師を辞め、美容師などの職についた。
その後、東京に出てきて経過は不明だが新宿駅で路上生活者となった。
そして、通りがかりの男に暴行を受け、足に大きなダメージを負い、路上を這う生活を余儀なくされた。
車椅子から落ちた状態で水死していた彼女が発見された。
彼女がテレビのワイドショーで取り上げられたのは、彼女の遺品からは「生まれて、すみません」と走り書きしたメモが出てきたためである。

フジコヘミングはミュンヘンでスウエーデン人画家と音楽家の日本人女性の間に生まれたが、両親は離婚し日本で母親の英才教育をうけた。
フジコは幼いころから母親の強い影響下で才能を発揮し、世界を目指してオーストリアへとわたった。
なんのコネも無い彼女はなかなか認められるチャンスがなかったが、指揮者のバーンスタインと「直談判」して、ようやく独奏会のチャンスをつかんだ。
しかし、その独奏会の直前に高熱のために聴力を失い独奏会は惨憺たる結果となり、生きる気力を失うほどうちのめされる。
そしてリハビリをしながら体力と気力の回復をはかったのがドイツの町々やスウェ-デンのストックホルムの町だった。
そして限られた仕送りの中で、生活は困窮した。
そればかりか、彼女は「無国籍」であることがわかった。本来であればスウェーデン籍を持っているはずだったのに、18歳まで一度も入国した経験がないという理由から国籍を抹消され「無国籍」になってしまっていたのだ。
日本国籍さえ取れなかった理由は、当時の日本が「父系血統」だったことによる。
しかし、どんなに苦しくとも、母との約束で世界で認められない限りは帰国することも許されず、レストランでパンの耳をもらって生活をしなければならなかった。
勘違いされて、スウェーデンの精神病院に送られたこともあったが、自分のピアノ演奏に患者達が集まり表情に生気が戻ったのを見て、自分が何のためにピアノを弾くのかを知った気がした。
そして、そのフジコに転機が訪れる。母が亡くなり日本に帰国して母校で細々と演奏会を開いていたところ、NHK「ある孤高のピアニストの生涯」の番組の中で彼女の演奏が紹介され大反響をよんだ。
フジコヘミングが20年余り「鳴り」をひそめ片隅に生きた体験は、細かい演奏上のテクニックを超えて、「魂」として聞くものに伝わっていった。
フジコヘミングの海外生活でのあまりに不運続きに、世界的なピアニストなろうという思いは消え去り、小さな町にいる人々をタダ幸せにしたいという一心でピアノを弾くというようになっていった。
つまり、フジコ・ヘミングのテーマ曲「ラカンパネラ」は、彼女の人生そのものとよく響きあうようになっていた。
「ラカンパネラ」は「小さな鐘」を意味で、ようやくその音色が人々の心に届くことになった。

永山則夫は、1968年~69年に起きた連続ピストル射殺事件で逮捕され死刑宣告を受けた。
事件当時19歳であったが、獄中でノートに書き連ねたものを出版社が注目し「無知の涙」として出版され時代に受け入れられ6万部のベストセラーとなった。
永山は初期の裁判の冒頭で裁判長に、情状なんかしてほしくない。
法律なんか資本主義のものだ。情状よりも死刑にになった方ががいいんだ、と声を荒げた。
世間は、社会に責任を転嫁していく永山に怒った。
永山は北海道網走に兄弟8人の7番目として生まれた。バクチに明け暮れる父は家によりつかず、母は4人の子をつれて青森の実家にかえった。
北海道で、残された4人の兄弟と港に落ちている小魚を拾って生き、民生委員が「こんな貧乏があるのか」と思うほどの状態で発見された。
この時の状況は、新藤兼人監督の映画「19歳の地図」で忠実に再現されているという。
だが、1980年の第一審死刑判決の翌年、「一通のエア・メール」がネブラスカ州オマハより永山のもとに届いた。
それは「無知の涙」を読んだ一人の女性からのものだった。女性は「無知の涙」に濁っていない純粋無垢な魂を感じ取ったという。
テレビのインタビューでその女性・和美さんは生い立ちを語った。
1955年沖縄生まれ。父はフィリピン人で、母は戸籍にいれす和美さんには戸籍がなかった。そして母は再婚しアメリカに渡った。
和美さんは学校にいけず、結婚できず、免許もとれなかった。「戸籍がない」ということは自分がこの世に存在しない、ということだった。
なんとかしてくれると福祉事務所に期待したが、生活費が白人の子は月10ドル、黒人の子は月5ドル、フィリピンの子は月3ドルと知った時、ショックをうけた。
書店にある「国際法」の本を万引きして公園で読んだ。
そして、母に、福祉に、父に怒りがわき、自分が万引きをしてこうして公園佇んでいることに怒りがわいてきた。
そして、いつしか、憎い人々を「殺す」ことを考えた。
それを思いとどまったのは、祖母のオモカゲだった。
後に、キット永山には、そうした思いとどめるオモカゲがなかったのかもしれないと想像した。
和美さんは手紙のやりとりの中で、永山則夫という人とならば生きていける気がしたという。
そして永山と面会をした時、永山は30歳になっており、4人を殺害した永山の手に触れた。
手紙のやりとりは1900通におよんだ。永山の方にも読んだあとの幸福感があったのか、永山の手紙は次第におだやかになっていったという。
2か月後に2人は、ふたりボッチの結婚だった。
結婚してしたことは、妻として4人の被害者のもとを訪れることだった。4人のうち3人の遺族が焼香を許してくれた。
二人の幼い子をもつ家族は「無知の涙」の印税を受け取ったが、別の家族は印税は息子の供養のためにうけとることはできない、永山と同じ貧しい子供の為に使って欲しいと応じた。
裁判では、和美さんが、夫と一緒に罪を償うと証言した頃から、法廷の雰囲気の空気が変わったという。
時に裁判長は上をむいて、涙をこらえていたように見えた。そして高等裁判所・裁判長は、永山の生い立ちから永山の精神年齢を18歳未満に相当するという見方をして「無期懲役」を言い渡しをした。
永山自身は、思想を殺してまで何をしてでも生きようという思いはなかったが、裁判で釈放されたら何をしたいかという質問をされ、学歴社会にある塾とは違う形の塾をしたいと語り、「生きる意思」も見え始めた。
和美さんは、夫の「無期懲役」は生きて償い続けろといいう判決ととらえ、命を与えてもらった命なのだと思った。
そして分かり安い言葉で永山自身についてまわっている誤解を解いてほしいと願った。
二人で過去をふりかえり始めて、永山は「木橋」という小説で、社会への怒りではなく自分自身をみつめた。
そして 自分を捨てた母親ばかりが悪くはないことも理解し、母親に手紙を書き仕送りを続けた。
しかし永山を「無期懲役」とした二審は世の批判をあび、最高裁は検察の上告を受理し高裁に差し戻した。これは事実上の死刑判決だった。
その後、永山は、将来を語る言葉はなくなり、和美さんとは離婚した。
生きる希望をあたえられた上での再びの死刑判決で、1997年8月1日に死刑が執行された。

報道写真家・瀬戸正夫は、1931年プーケット生まれ。朝日新聞バンコク支局(アジア総局)顧問を40年以上務める。32歳まで無国籍であった。
14歳から、タバコ巻きアルバイト、ボウフラすくい、舞台の裏方、ナイトクラブのボーイ、バーの歌手、夜警、ガイド、運転手、通訳、翻訳、商社マン、貿易および旅行者の経営社長となるが破産。
日本語・タイ語の教師。水泳教師などなど、様々な職歴を経験した。
17歳から写真を撮り始め、80歳を超えた今も毎日愛用の一眼レフを首から提げてタイの町を歩いている。
実母はタイ人だが、日本人医師の父と継母に育てられた。1939年から終戦の45年まではバンコクの日本人学校に通ったため日本人として育った。
父は家族を捨てて日本に帰国し、継母には生活力がなくて14歳の自分に生活がかかってきて、生きていくためには何でもやっていく他はななかった。
サンフランシスコで講和条約が結ばれて、タイにも日本大使館ができ「日本人は書類を持って出頭せよ」という知らせが来た。
キャンプで発行されたタイに居住していもいいという証明書とキャンプでもらった父母の名前が入っている証明書を持っていった。
その次に「戸籍抄本」を取り寄せたところ、瀬戸さんの名前はなく、日本人として認められなかった。
日本人学校から「瀬戸正夫は日本人だから日本人学校へ通わなければならない」という手紙が来ており、当然日本人としてすべて処理されていると思っていただけに、ショックを通り越して怒りが抑えきれなかった。
日本が国籍をもらえなかった時点で、瀬戸氏は当然タイ人でもなく、自分の「帰属」がどこなのかサエわからない状態におかれた。
結局、30歳まではずっと国籍がない「無国籍状態」であった。
そもそも瀬戸氏は実の母親も知らなかった。生みの母親のことをどうしても知りたくなって、新聞広告に出してヤット見つかった。
母親と会うと一目ですべてがわかり、母親もも泣いて、感慨無量であった。
そしてようやく自分のルーツを確認することができた。
しかしなおも「戸籍」の問題は解決せず、実母と地方裁判所へ行ったが、結局どこへ行ってもだめで、「無国籍」のまま一生終わるのかと思うと虚しがこみ上げてきた。
しかしタイの警視庁に「国籍捜査係」というのがあるのを知り、一縷の望みを抱いて自分の調べてほしいと頼んっだところ、ようやく「光明」が見えてきた。
そうして、ようやく局内務省から最終的に「タイ人」として認められた。
日本の役所は、形式主義・ペーパー主義であり,瀬戸氏の「日本国籍取得」に一片の努力もをみせてはくれなかった。
しかし、時間と金もかけたものの、タイ政府はナントカそれをしてくれた。
ただ「タイ人」として認められる代わりに「兵役」に入らなければならなかったが、一定のお金を払うとそれを免れることができたため、金を払うことで済ませた。
究極的に、自分は「日本人」という意識の方が優っていたともいえる。
さて瀬戸氏は現在80歳を超えて、カメラマンや水泳のコーチなどをして生活をしているが、その写真集が多くの人々の心を惹きつけている。
その写真集には、子供たちや、お坊さん、おかま、若者、少数民族など、タイの日常を写し取った写真集である。
瀬戸氏は、小学校時代に軍事教練として実弾射撃や手榴弾の扱い方、突撃などの訓練を受けた。戦後は15才にして自活を強いられ、生活のために様々な職業を転々とする中、17才でカメラと出会った。
そして瀬戸氏は、自然に恵まれたプーケット島で生まれで、孤独だったせいで、自然の美しさに憧れ、綺麗な海や山が好きな子供であった。
充分な教育をうけず、いつも仕事にあぶれていたために、山登りや海岸で時を過ごすことが多かった。
、 そして一定の年頃に達すると、真実を求めたいという信念に突き動かされて、命を危険にさらしながらもタイ国内、時には国境を越えて縦横無尽に取材してきたという。
1955年に運よくSRタピオカ工場で、日本語とタイ語の「通訳」として、新工事現場の建造が終わるまで勤めることになった。
その貯水地の工事現場から離れた遠方に、林に覆われた緑に包まれた小高い山並みが聳えていた。
その青々したした野原や山にの自然に惹かれて、そこがヘロインの麻薬の元となるケシを栽培している「危険地帯」であることスラも全然知らずに、平気でテクテク歩き回っていた。
そしてそこで、近隣国から越境してきた綺麗な民族衣装を身に纏った山岳民族と出会うことにもなった。
その後、親しい秘密警察の友人から「麻薬地帯を一人で歩くのは危険だ、消されてもわからないから護衛をつけて歩くように、仲間を紹介するから」と注意され、タイ語があまりできない山岳民族のガイドと、銃を持った護衛をつけて、数人で山に入るようなった。
山全体に綺麗なケシの花が咲き乱れていたのを見つけ、夢中になってケシの花の写真を撮っていると、気づかぬうちにいつの間にか密林の中で、ビルマ領に迷い込んでしまった。
案内役のガイドが真っ青になって慌てていると、磁石の針を頼りに、ぼうぼうと生い茂っていたヤブを、細長い鉈 で切り開きながら進み、タイの山岳民族の村が見えときは、ホッとしたこともあったという。
実は、軍事政権時代のビルマ(現ミャンマー)では、政権と対立している少数民族がおり、内戦で祖国を追われて避難してくる難民は、安全だとされるタイの戦災キャンプを目指し、生命からがら逃走して来ていた。
鬱蒼とした密林の山岳地帯には、所々に地雷も埋まっており、密林の中には腐敗したビルマ兵士の死体なども転がっているが、死体の下に手榴弾が仕掛けてあったりするので、うかつに死体の処理をすることもできなかった。
瀬戸氏は、朝日新聞「報道カメラマン」顧問としての顔をもつが、70年代の反クーデターを訴えた学生運動時には、目の前の学生が撃ち殺された。危ない、と感じてロイヤルホテルから戦車を撮影していたら、部屋に催涙弾がぶち込まれた。
危険な国境紛争地域の取材も行ったが、「危なければすぐ逃げます。ジャーナリストは真実を世界に伝えるもの。死んで名を残しても意味がない」と語っている。
瀬戸氏は77県あるタイ全土を1人でドライブし、走り回り、様々な風景と人々をカメラに収めてきた。
昔は、道路状況が悪く、橋がかかっていても車輪幅の丸太があるだけという状態。
道なき道を進んだ姿は、瀬戸氏の人生ソノモノだが、その飽くなき追求心は、己の「存在証明」でもあったのかもしれない。