迂闊に過ぎた場所

ひとつの場所の真実を知った驚きと、それまで何も知らなかった迂闊さへの少々の悔い。
そんな感情が入り混じって、ある場所の風景が、違って見えるようなことがある。
1960年代後半、ひとりの作曲家が沖縄を初めて訪れた。抜けるような青い空の下、背丈より高くうねるように続くサトウキビが風に揺れていた。
畑の間を歩いていた時、地元案内者がいきなり、さとうきび畑の下に多くの戦死者が埋まっていると語った。
その時、作曲家は立ちすくみ、周囲の風景が一瞬モノクロームと化した。
そして、吹き抜ける風の中に、戦没者たちの怒号と嗚咽を確かに聴いたという。
これが、「ざわわ ざわわ」と繰り返される「さとうきび畑の唄」誕生への一瞬である。
個人的にも、見慣れた風景が一瞬で色を変える、そんな体験はいくらかある。
我が自宅に近い長住中央公園には、ブランコがあり、野球ができるグラウンドがある。つまり、なんの変哲もない公園である。
しかし、樹木のまわりに、まるで竹の子が顔をだすように頭部だけを出している石柱がある。
その石柱頭部に「陸軍」という文字が見えるから、なんとなく気持ちが落ち着かなくなる。
さらに近づくと「三ニ八」「ニ〇ニ」「ニ三一」なんていう数字がみえるから、だんだん不気味になってくる。
また 公園中央にまるいコンクリートの跡であって、何かの建物があったような痕跡さえある。
これは何かの秘密基地のようだと思っていたところ、先日あるテレビの番組でこの場所の秘密が語られていた。
この公園がある長住は、戦時中は「陸軍の練兵場」で、終戦後、復員軍人のために農地として払い下げられたのだという。
その名残りが、この長住中央公園に残っていた石柱や建物跡だったに違いない。
この「陸軍の練兵場」で、自分は小学生だった息子とキャッチボールをしていたのだ。時を隔てて、戦争へ向かう若き兵隊とコノ空間を共有していたとも知らず。
迂闊にも見過ごしてきた「戦争遺跡」といえば、湘南の海に浮かぶ「エボシ岩」である。
数年前、この場所の秘密を知って、実際に茅ヶ崎まで行ってソノ「姿」をカメラにおさめ、「チャコの海岸物語」や「ホテルパシフィック」の歌詞を思い浮かべた。
それは、茅ヶ崎の砂浜から2キロmほど先に唐突に突き出た5~6mの高さの烏帽子の形状の岩である。 昔、公家や武士などが用いた帽子である「烏帽子(えぼし)」に似ていることからこの名が付けられた。
1923年9月1日の関東大震災で、マグニチュード7・9の大地震は、茅ヶ崎と大島との中間点の海底を震源地として起こった。
これにより茅ヶ崎には烏帽子状の岩が隆起し、コノ岩がいつしか「エボシ岩」として茅ヶ崎名物となる。
ただ、誕生時のエボシ岩と今日ののエボシ岩とでは随分と形状が異なる。
実は1951年、アメリカ進駐軍による「砲撃の的」とされカタチが変わったのである。
浜にはずらりと米軍機関砲搭載機甲車が並び「エボシ岩」を砲撃練習の標的として実弾訓練をし、この演習は1年間続けられた。
当時、岩の中腹にあった八大竜王の社は無くなり、左に傾いていた烏帽子は、現在の右斜へと姿を変えたという。
サザン・オールスターズの曲の中に数多く登場する「エボシ岩」は、自分の中ですっかり馴染みの言葉となっていた。
しかし、この岩の秘密を知って以来、この「エボシ岩」という言葉が違って響く。エボシ岩は「過去の海岸物語」の雄弁な証言者なのだ。

学生時代は、何度も杉並区の荻窪の図書館に通っていたのに、その傍らにある「オーロラ像」の存在を見過ごしてきたとは、かえすがえすも残念である。
さて、市民の問題意識の中で自然に生まれた「学習会」というものもある。
日本の原水爆禁止運動の「起点」となったのは「杉の子会」という小さな学習会であった。
杉の子会は、当時、杉並区の公民館館長であった安井郁(元・東大教授)をリーダーに、社会科学書をテキストとした、地域の主婦中心の「読書会」としてスタートした。
ところが1954年に「運命的」なことがおきた。アメリカのビキニ水爆実験により被爆した「第五福竜丸」のマグロが築地市場にあがった。
「マグロの放射能汚染」という出来事は、主婦達にとって政治や外交や思想の問題ではなく、生活に直結した問題であった。
毎日の買い物通いの中で、主婦達は何となくウスヨゴレたものを感じるようになったのである。
この出来事に対する「杉の子会」の反応のスバヤサは、読書会で社会科学書を読み進めていたことも一因であったであろう。
そして、わずか1年間の間に国内3000万人、全世界で7億の原水禁の署名を集めるのである。
日本の市民による最初の公害反対運動であったとみることもできるが、同時にこうした運動を革新政党が目をつけ、運動の「主導権」を握ろうとしたことが、この会を「分裂」に追い込んでいく。
やがて「原水協」理事長として原水禁運動の「顔」となった安井氏は、1963年の第9回原水禁大会で、「いかなる国のいかなる核実験にも反対」という表現をめぐってアラワになった安保議論や、運動の「党派的対立」のなかに巻き込まれていく。
何しろ、米ソ冷戦の只中で、「社会主義圏」の核実験はヨシという意見まで出ていたのである。そして「杉の子会」メンバ-にも動揺と混乱おこり、ついに1964年4月の機関誌の発行をもって事実上終止符が打たれた。
ともあれ「原水爆禁止運動」の発祥は、東京の杉並区の「主婦達」であったということは、「世界の記憶」に値する。
原水禁運動の発祥の地である「荻窪公民館」は現在は存在せず、同じ場所に荻窪体育館が建っている。
そして体育館の傍らに、原水禁運動の記念碑「オーロラ」が立っている。
他にも、学生時代に何度も通った場所で、後からソコがある人物のゆかりの場所であったことを知ったのが、東京・神楽坂に近い赤城神社である。
以前、早川雪洲の成功の陰に、夫を「静かな港のように待ち受けた妻」青木鶴子の存在があったに違いないと書いたことがある。
そして最近、青木鶴子を助けた人物「ハリー牛山」の存在を知った。
青木鶴子は、博多の川上音二郎の姪にあたる人で、一座とともにアメリカに渡り、日本人画家の養女となり、早川雪洲と知り合い結婚した。
大正時代に、早川はチャップリンと並び称されるほどのハリウッドスターとなり、その自宅は「宮殿」とよばれ、アメリカ西海岸の名物となっていた。
そして世界中から「弟子入り」志願者は数知れず、早川はそれら一切断ったが、一人だけ「弟子入り」を許された日系人がいる。
それがハリー牛山という青年で、門前に座り込み、願いがカナワないなら切腹すると、本当に刀を出したものだから、雪洲も鶴子も驚いた。
そして、弟子入りがカナイ「第二の雪洲」ともちあげ、ロサンゼルスの新聞は彼を応援した。
ところが雪洲夫妻は突然牛山に、俳優を諦めて日本にパーマネントを広め、アメリカの女優のように美しくせよと命ずる。
降って湧いたような話だったが、牛山の脳裏に、髪を短くしてパーマをかけて軽やかに闊歩する女性の姿が浮かんだ。
その頃、日本の髪型といえば長い髪を引っ張り挙げて結う日本髪で、大変手間がかかるうえ、頭皮の健康にとっても不健康なものだった。
あっさりと進路を変更したハリー牛山は、牛山春子という女性とアメリカで結婚し、1924年に使命感に燃えて帰国するが、そのタイミングも絶妙であった。
折りしも日本は、アメリカ映画を手本にしたモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)の時代であった。牛山は1925年に 神田三崎町に美容室を開店し、美容師養成・化粧品の製造開始し、 日本に初めてパーマネント技術と機械を導入する。
1927年に 銀座7丁目に「ハリウッド美容室」を開店する。
アメリカでパーマ技術を学んだ牛山春子(初代メイ牛山)のヘアメイクは、パーマネントが日本全体に普及していく時期とも重なり、牛山の店は大当たりして女優や上流階級の婦人や令嬢「御用達」のサロンと化していく。
すっかり著名な美容家となったメイ牛山だが、なんらかの事情でハリー牛山と離婚して店をやめ、ロサンゼルスに行ってしまう。
ところで早川雪洲・青木鶴子夫妻は、東京神楽坂に居をかまえていたが・早川雪洲の方は国際派俳優としてフランスへ行ったきり戻ってこない。
しかも鶴子は、早川が二人の愛人に生ませた一男二女を引き取る羽目になり、そんな青木鶴子を支えたのが、美容家として知られたハリー牛山であった。
何しろ、アメリカ育ちの鶴子に働き口はなく、恩返しにと「顧問料」という名目で生活費を渡したのがハリー牛山であった。
そして青木鶴子は、神頼みや願いごとをする時には、この赤城神社で御参りしたという。
実は、この赤城神社こそ、学生時代に何度も佇んだ場所である。
とはいってもナニカの「神頼み」をしたわけではない。
この神社から歩いて数分のところにある小さな塾で中学生に教えていたため、空いた時間を過ごした場所だった。
当時は、早川雪洲の名も青木鶴子の存在も知らなかったが、近年赤城神社を訪れて青木鶴子の存在を置いてみると、赤城神社の風景が、幾分色づくのをおぼえた。

通勤の通り道の公園で、時に昼休みを過ごすほど(元)職場に近接した場所が、JR博多駅とJR吉塚駅の間にある「吉野公園」である。
近年、この公園が今村昌平監督の映画「復讐は我にあり」(1979年)で描かれた「実際の事件」と少々関わりがあることを知った。
、 1964年寺の住職で教誨師であった古川泰龍氏宅に弁護士を名乗る男が突然やってきた。
男は、当時古川氏が行っていた「死刑囚助命運動」への協力を申し出た。
その男はそのまま古川宅に居候することになるが、古川氏の三女(当時11歳)は、この男が逃亡中の連続殺人犯・西口彰であることを見破り、家族が警察に通報し西口彰はついに逮捕された。
西口彰の犯罪については、映画「復讐するは我にあり」に詳細に描かれている。
実はこの時古川氏が関わり、「死刑囚助命運動」を行っていた事件が、1947年戦後の混乱期におきた福岡事件(福岡ヤミ商人殺人事件)であった。
1947年5月20日、博多駅近く鹿児島本線沿いにあった工場試験場で二つの死体が発見された。
死体には銃で撃たれ日本刀や匕首で刺されるなど乱闘を思わせる傷があった。
捜査当局が調べたところ軍服の闇取引を行っていた中国人衣類商と日本人ブローカーの死体であることがわかった。
この事件の犯人とされたのは、この闇取引に関わったとされた芸能社社長の西武雄と、この取引に立ち会った石井建治郎であった。
当時は旧軍関連の物資の「闇取引」が盛んで、そのために暴力団の抗争などもおきていた。石井は護身用に旧日本軍の拳銃を持参したが、取引の最中に、数人いた中国人との間で争いがおこり、誤認により二人を射殺したという。
警察は「架空の軍服取引を持ちかけ、被害者2人をおびき寄せた強盗目的の計画的犯行」と断定し、いずれも元軍人だった西武雄を「首謀者」、石井健治を実行犯として、強盗殺人容疑で計7人を逮捕した。
しかし西も石井も「強盗殺人計画」は事実無根、事件はあくまで偶発的なものであって、共謀したものではないと主張し、強盗殺人を完全に否定した。
しかし1948年西と石井の両名は、福岡地裁で死刑判決を受け、1956年に最高裁で死刑が確定した。
この西および石井と福岡刑務所で会い、「冤罪」を確信したのが前述の古川泰龍氏であった。
そして他の受刑者の証言などから、逮捕後の西が逆さずり水攻めの拷問を受け自白を強要されていた事実が判明した。
さらに、この事件の時代背景として、終戦直後の混乱期で敗戦国日本は戦勝国「中国」に負い目をいだいており、中国に対しては腫れものにさわるような雰囲気さえあったことがあげられる。
そこで傍証席から中国人達が容疑者を死刑にしろといった声もかかり、裁判官が被害者側の心情にかなり傾いた判決となった可能性もあるという。
古川氏は原稿用紙2000枚にもおよぶ「真相究明書」とまとめ法務大臣に提出し、その印刷代を捻出するために実家である温泉旅館は廃業して、家族ともに全国を托鉢してまわった。
実はこの福岡事件で1948年2月に死刑判決がでたが、戦後初の死刑判決というばかりではない。日本裁判史上初めての「死刑執行後の再審請求」となった。
さて、「弁護士」を名乗った連続殺人犯の西口は、刑務所を訪れる人々や弁護士の話などから古川氏の名前を知り、氏の人柄と善良さにツケこんだのかもしれない。
そして、古川氏が、突然訪問して居座った「弁護士」に疑いをもち始めたのは、この福岡事件の裁判の再審に協力をしたいといってきたにも関わらず、福岡事件についての基礎事実をほとんど知らないことだった。
ある日、テレビで福岡事件の現場だった場所に立つ古川氏が事件について語っていた。
そしてその画面をみているうち、愕然とした。その場所こそ自分の昼休みの憩いの場所、「吉野公園」だったからだ。

世の中には、魅惑的な地名があるものだ。
日韓共同開催のワールド・サッカーにおけるカメルーンの寄宿地である中津江村は、福岡県と大分県の県境にある村だが、その近くに「鯛生金山」(たいおきんざん)というものがあった。
1972年閉山の「東洋一の金山」であった「鯛生金山」は、1983年「地底博物館鯛生金山」として蘇った。
「鯛生」は、「中西村に鯛生(鯛植)という所あり、田島舎人という武士昔此所に住居せり、肥後の国菊池と内縁あり、或時菊池より大鯛2尾送り来る。舎人家人に申しつけ右の鯛を地に植えたりと云ひ伝う。今に女鯛男鯛石となりて不浄を嫌う。よりて其所を鯛植と号す」とある。
また、箱根・小田原近くを流れる「酒匂川」(さかわがわ)なんていう名前にも、蠱惑的(こわく)的な響きがある。実はこの川、黒澤明監督の「天国と地獄」(1963年)の一場面の舞台なのだ。
誘拐犯人は身代金の受け渡しに、東海道線の特急の窓から現金の入った鞄を投げろと指示してきた。
酒匂川の鉄橋の手前で誘拐した子供を見せるから、川を渡りきったところで鞄を投げろと言う。
酒匂川とカーブする川沿いの道に挟まれた狭い三角地帯。作品ではこの部分に砂利を盛って高くし、その上に子供と共犯者を立たせ、目立つようにしている。
現在でも三角地帯は残っていて、砂利道だった道路は綺麗な歩道付きの舗装路になっている。
完全主義者の黒澤明は、「あの建物が邪魔だ」と酒匂川沿いにある二階建て民家の二階部分を壊させ、撮影後には元通りに作り直したという話は伝説になっている。
しかし、酒匂川の話を語るには黒澤明よりも、二宮金次郎を語るのが先かもしれない。
二宮金次郎は、この酒匂川の氾濫を契機として一家離散の状態に陥り、その苦難から立ち直る経験を生かして、その後の数多くの「農村復興」をもたらすことになる。
個人的には酒匂川に、忘れがたき思い出がある。
この川近くの小田原アリーナにバトミントンの全国大会に生徒とともに参加した。
引率したチームが全国大会上位にまで進出し、あまりに応援に夢中でアリーナの外で何が起こっていたかにつき、全く知らなかった。
翌朝の朝刊一面トップの写真には驚いた。小田原アリーナ裏手の酒匂川があふれ死人さえでて、釣り人がヘリコプターで救出されている写真であったからだ。
大雨が降っていることには気がついていたが、自分がいた会場の上では救援ヘリコプターが舞っていて、会場の隣では生死の戦いをしていたとは!
ただし、こんなことでもなければ、新幹線で酒匂川を渡る時には迂闊に通り過ぎただけだったであろう。
そして、この「酒匂川」の名前を久しぶりに目にしたのは、先日焼身自殺で緊急停止した新幹線の場所を示す地図の中であった。