銅鏡と真珠の勾玉

日本最大の銅鏡は、福岡県糸島市の平原遺跡で見つかっている。ただしその銅鏡は、「意図的」に破壊された姿でみつかった。
その銅鏡は、皇室の神器「八咫鏡(やたのかがみ)」と同型の銅鏡なのだが、なぜこんな無残な姿で見つかったのか。
このことが、20年以上も前に伊都歴史博物館で修復・接合されたこの銅鏡の姿を見て以来ひっかかっている。
なにしろコノ銅鏡の破壊には「憎しみ」さえ感じられる。ひょっとしたライバルによって破壊されたのではないか。
そんな個人的推測が、17世紀のはじめイギリスの二人の女王にまつわるエピソードから浮かんだ。
日本では3世紀頃から「銅鏡」なるものが製作されたが、その銅鏡がなぜ宝物となり、権威や権力の象徴のようになったのか。
モノが「映る」「透ける」「反射する」という日常的な現象は、よく考えると不思議に思えてくる。
あいだにモノが存在するのになぜ向こうがみえるのか、モノにモノがそっくり写るとはどういうことか。
光が反射するとは、どういうことなのか。
個人的には、疑問はおきても科学したいとまでは思わないが、科学を知らない古代人はこういう現象を目のあたりにして、不思議一杯だったに違いない。
しかし素朴な疑問は、こうした銅鏡は本当に何かを映すことができるのか。そもそも銅鏡は「映す」目的で使われたのだろうか。
何しろ歴史博物館に行っても、銅鏡が展示してあっても、模様やツマミがついた「裏面」バカリが見せてあるからだ。
実は、国産の銅鏡だと今の鏡と大きく違わない程度に映るのだそうだが、それがあまり話題にならないのは、銅鏡が「映す」実用品というよりも、王や豪族の権威や権力のシンボルになったからなのだろう。
それではどうして銅鏡が王権の権威のシンボルとなったか。
銅鏡は野外で光を反射させるとキラキラと輝くモノであり、「太陽崇拝」にとって欠かさざるものではなかったかと思う。
つまり、鏡を太陽に反射させるだけで、そこに小さな太陽を実現できるということだ。
例えば「太陽の化身」ともいうべき女王が即位するに際して、複数の鏡をたくみに組み合すと非常に神秘的な場面を演出できそうだ。
光は透明なものかと思っていたら、内側が黒く塗った紙箱に小さな穴をあけて光を屈折させる簡単な仕掛けをつくると、光が七色に分かれる美しい像があらわれる。
それが実際に行われたかどうかは知らないが、少なくとも「銅鏡」を使って光を反射させて様々な演出をすることは可能だ。
ところで日本の天皇はその祖神が「天照大神」と言うくらいだから、太陽の光を帯びた存在であったことは間違いない。
そして天皇の宮中で今もなお行われている神事は、農耕儀礼と密接に関わっている。
天皇が大嘗祭や新嘗祭でコメを神と食すと、新しい霊がみずからの中に入りこみ、新たな時代・新たな年を迎える、ということになる。
さて、太陽光が天皇の「神格化」のために欠かさざるものならば、「銅鏡」を駆使した物理的な演出によってそれが可能になり、銅鏡自体が権威のシンボルと化したに違いない。
つまり、銅鏡は「何か」を映すためではなく、光を「反射」させるために利用されたのではなかろうか。
昔ブルース・リーの「燃えよドラゴン」のラストシーンでの鏡の部屋で、凶器の義手をもつ悪者との戦いが行われ印象的な格闘シーンがあった。
あの場面で、一人の人物が複数に分裂して見せていて、荘厳で不可思議な「迷宮」をつくりあげていた。
また中国の「三国志」の赤壁の戦いを題材にした映画「レッド・クリフ」では、兵士がもつ盾をいっせいに太陽にむけて強力な光の反射を作り出し、相手を撹乱させるというシーンもあった。
この墓に眠る主はどうやら女王のようであるが、日本最大の銅鏡は墓の四隅に徹底的に割られた形で発見されているのである。
銅鏡がすべて人為的に割られて発見されるというのは、タダゴトではない。
このシャ-マン的な役割を果たした女王が何らかの意味での権威を失墜をしたものか。
あるいは、「死後の女王」の働きを恐れたため、その力を封じ込める必要でもあったのか。
この割られた銅鏡を接合した原田大六氏は、遺体を安置するモガリノミヤに掛けられた鏡が突風にあおられて落ち、砕け散ったものだという説を提示した。
ところがその後の有力者の墓地の発掘でも、「内行花文鏡」などが、やはり割られて出土した。つまり、弥生時代後期の伊都国一帯では、鏡の破粉行為が日常化していたようだ。
そこで、鏡を割る行為は亡くなった人の呪力を、新たに継ぐものが「遮断」するためではないか。前代を否定し押さえ込むことが、これから自分の呪力が認められる条件ではなかったのかなどという説が唱えられている。
墓に一緒に収められている銅鏡が破壊される行為は、弥生後期の佐賀平野から北九州に見られ、「鈕(ちゅう)」というツマミの部分だけが欠けているものがある。
そのことから一部の鏡片が抜き取られる行為が組み込まれていたという説がある。
しかし、個人的に伊都国歴史博物館で、この破壊された4枚の銅鏡を見て感じたことは、壊され方が半端ではなく、厚くて硬い「鈕」まで執拗に割ろうとするなど「憎しみ」さえ感じられるのだ。

世界史の図表で、エリザベス1世の写真を見ると、ある一箇所に自然に目が行く。それは、滝のように首から流れている「真珠の首飾り」なのだ。
エリザベスは一体何ゆえにこのような派手な「首飾り」を見につける必要があったのだろう。
1558年に即位したエリザベス女王は、二人の「メアリー」とよばれる女王との凄まじい権力闘争の末に即位し、絶対主義王権を確立した。
さて、イギリスは現在、「スコットランド独立」が大きな議題となっているが、もともとイングランドは、現在の大ブリテン島の南半分しかなく、北はスコットランドという別の国であった。
そして今日のスコットランド「分離独立」の動きは、エリザベス1世とスコットランド女王メアリ・スチュアートとの歴史上の確執の延長上にあるといってよいかもしれない。
さて、イギリス国王ヘンリ8世(位1509~47)にはカザリンという奥さんがいた。
ヘンリー8世とカザリンの間にメアリという娘が生まれたのだが、政略結婚ということもあってカザリンに愛情を抱けなかったのか、ヘンリ8世はカザリンの侍女のアン=ブーリンの方を好きになった。
ヘンリ8世はアン=ブーリンと正式に結婚したいと思ったが、アン=ブーリンと結婚するにはカザリンと離婚しなければならない。
しかしカトリックの教えでは、離婚するということは神への誓いを破ることになるのでローマ教会はそれを認めず、それならばローマ教会なんか抜けてやると、イギリス国民全体を信者にして新しい教会組織を作ってしまった。
それが1534年に設立されたイギリス国教会である。イギリス国王は国教会の最高指導者でもあり、ローマ教皇にあたる存在となる。
ヘンリ8世はめでたくアン=ブーリンと結婚し、二人の間には女の子しか産まれず、王子が欲しかったヘンリ8世は別の女性に目移りして、邪魔になったアン=ブーリンをロンドン塔に幽閉したうえ処刑してしまう。
それどころか、ヘンリー8世は、死ぬまでに6回結婚して、そのうち二人を殺すというとんでもない国王であった。
ヘンリー8世の死後、ただ一人の王子エドワード6世が即位するが短命に終わる。
そこで王位を継いだのがヘンリ8世の最初の妻カザリンとの間に出来た娘・娘メアリ1世(位1553~58)である。
以上の経緯からわかるとうり、メアリ1世は自分の母を粗末にした父親ヘンリ8世を好きになれないし、父親が設立したイギリス国教会も大嫌いで、即位するとまもなくローマ教会に復帰した。
だがイギリス国教会より土地を与えらた貴族や騎士は土地を元のように「没収」されるハメになりメアリ1世に猛反発する。
ところがメアリ1世は自分の宗教政策に反対する臣下をどんどん処刑していく。
そして彼女についたあだ名が「ブラッド・メアリ」(血染めのメアリ)で、今ではカクテルの名前にソノ名を留めている。
そのメアリ1世は即位5年で死んでしまい、次に王位についたのが、ヘンリ8世とカザリンの侍女アンブーリンとの間にできた娘エリザベス1世である。
エリザベス1世は、メアリ1世の腹違いの妹にあたるが、正妻の子メアリと妾腹の子エリザベスとの折り合いが悪く、メアリは自分が王位にある間、妹のエリザベスをロンドン塔に幽閉する。
エリザベスはいつでも処刑される立場にあったが、メアリの突然の死で王位が転がりこんできた。
そしてエリザベスはイギリス国教会を復活させ、1559年「信仰統一法」でイギリス国教会を確立した。
ところでエリザベスには、もうひとりの「メアリ」女王との戦いが待ち受けていた。
イギリスは16世紀、新教を信仰するイングランドと、旧教(カトリック)を信仰するスコットランドという二つの王国が、宗教や領土をめぐって対立していた。
スコットランドのジェームス5世とフランスから迎えられた王妃マリー・ド・ギースの間に生まれたのがメアリ・スチュアートで、ジェームズ五世は、ヘンリー8世の姉の子供つまり甥にあたる。
メアリーは、父親が逝去してスコットランド王となるが、未来のフランス王妃となるために、フランスに渡り何不自由ない幸せな青春時代を過ごしていた。
そしてメアリーはめでたくもフランス王妃となるが、王がすぐに死去したため19歳で祖国・スコットランドに帰国することになる。
一方、イングランドでは、エリザベス1世が王位継承者として即位していた。
そしてイングランド国内では、エリザベスがヘンリー8世の「庶子」であったことを問題にし、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリー・スチュアートこそが「正統な王位継承者」という意見がくすぶっていた。
メアリー・スチュアートは、美貌と多才であるばかりか、フランス王・アンリ2世の息子と結婚して舅からも溺愛されていたのである。
こうした強力なライバルの存在は、絶対王権をめざすエリザベスにとって大きな脅威であったのだが、皮肉にも、そのライバルのメアリ・スチュアートがエリザベスの下にころがりこんでくる。
実はメアリはスコットランドに帰国後に再婚するも不幸せな結婚となり、夫の殺害疑惑や別の男性との不倫疑惑・再婚など様々なスキャンダルにまみれた末、スコットランド王を廃位となり、祖国を追われる身となっていたのだ。
エリザベスとメアリーとの間には、エリザベスは国教会でメアリーがカトリック側という「宗教的バックの違い」があり、エリザベス1世は議会で「嫡子」と認めらたにもかかわらず、それでもなお王位継承を主張するメアリに対し、エリザベスは大きな「敵対心」を抱くようになる。
そしてメアリを軟禁状態においたうえ、謀反の罪で死刑にしてしまう。
さて、フランス育ちのメアリ・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、たくさんのジュエリーを持ち込んで来た。「ローマ教皇の真珠のネックレス」「7つの真珠のネックレス」、当時は非常に珍しかった「黒蝶真珠のネックレス」などであった。
エリザベス女王が、滝のように真珠を身に着けるようになったのは、メアリ・スチュアートに対する「対抗心」があったと推測できる。
しかし個人的には、エリザベスの真珠をまとう姿から、「真珠の首飾り」は単なるファッションではない、王権をさえ表象するものではなかったかと推測する。

真珠は本来、貝に入り込んだ砂粒などの異物を貝自身が分泌液で幾重にも包み込み真珠層を重ねていく、つまり貝自身が時間をかけてゆっくりと作り出す神秘的な宝石である。
母貝の色によって白・黒・ピンク・ブルーなどの様々な色の真珠を生み出す。
では真珠の価値は何で決まるかというと、単純にサイズは大粒であればあるほどそれだけ年月がかかっているから価値は高くなる。また、真珠の価値基準の一番の要素は「テリ」つまり光沢がある。
また、真珠は形状において一般的に「真円」に近いほど価格が高くなるが、生き物が生み出した石だから多少のクボミがあって当然で、「真珠のエクボ」などとよばれている。
ちなみにヨーロッパで17世紀頃より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」のことをさしている。
バロックよよばれる真珠の形はまさしく「ペイズリー」の形、卑弥呼も身につけていた「勾玉 (まがたま)」状にゆがんだ真珠が 「バロック」 なのである。
実は意外なことに「バロック」は西洋の固有文化ではなく、実はオリエンタルの影響なしには出現し得なかったということを知った。
ヨーロッパでバロック様式が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社が設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期でもあり、実はオリエンタルの影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎出島の東インド会社支店を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きている。
また「ペイズリー」とは、インド北西部のカシミール地方で織られたカシミア・ショールに付けられたパターンが起源だが、19世紀にヨーロッパでカシミア・ショールのコピー製品が作られるようになり、その「代表的生産地」がなんとメアリ・スチュアートの国スコットランドの町ペイズリーなのである。
さて、メアリやエリザベスが、大きな真珠を身に着けることは、卑弥呼が「勾玉」を身に着けることと、意識の上で似通ったところがあったのかもしれない。
つまり、あの真珠の首飾りは、「真珠の勾玉」といってよいくらい何かの権威を象徴しているのではないか。
さて、在野の考古学者・原田大六は、天皇家の「八咫鏡」と平原遺跡出土の「内行花文鏡」(46cm)との近似性を推測したが、割られた銅鏡は、あるいは「中心勢力」と平原との女王一族との関係に何らかのヒビがはいったことを示すものではないか。
もしそうならば、平原遺跡の銅鏡は、「日本最大」の鏡であったが故に砕かれなければならなかったのかもしれない。
また、元國學院大學教授の柳田康雄は、平原遺跡を「巫女王墓」として、その被葬者を「卑弥呼の近親者」と推測した。
となると「魏志倭人伝」に、「卑弥呼は鬼道をよくした」と書いてあるから、この被葬者も「鬼道」に通じていた可能性がある。 そして銅鏡は、鬼道をよくするための優れた道具だったのかもしれないし、巫女のシンボルが勾玉だったかもしれない。
つまり銅鏡も勾玉も、太陽光によって妖しく光ったのである。
そこで、伊都国の女王の銅鏡が破壊されて見つかったのは、近親者である「卑弥呼」との関係にヒビがはいったからではないのか。
それはちょうど、イギリスの「二人の女王の争い」を思い浮かべる。そこで新たな疑問が起こった。
メアリ・スチュアートが、大切に身に着けていた「首飾り」は、彼女の処刑後どういう運命をたどったのであろうか。
「真珠の勾玉」は粉々にして打ち砕かれたのだろうか。ちょうど平原遺跡の銅鏡と同じように。
今のところそんな話は残っていないようだ。