ローリング・ストーン

「転がる石には、苔(こけ)が生えぬ」という言葉があるが、コレっていい意味なのか、悪い意味なのか。
原典はイギリスのことわざ「A rolling stone gathers no moss」で、職業や住まいを転々とする人は成功できないというマイナスの意味なのだそうだ。
しかも、転がる石は苔も生えないばかりか、どこへ転がるやらわからない。
そんな「転がる石」のように生きている人は、結構多いが、元西武ライオンズの「GG佐藤」の場合も、そんなケースなのかと思う。
実力があるのかないのか、運がいいのか悪いのか、小心なのか大胆なのか、とらえどころがない。
GG佐藤の本名・佐藤隆彦は、名門進学校の桐蔭学園から法政大学にはいったが、「GG佐藤」を登録名にしたのは、見た目がジジくさかったからだという。
名前のユーモアまではイイけれど、なにしろ北京オリンピックという大舞台で、ヤッテしまった。
勝敗に関わる試合で、信じがたいエラーを連発。必死過ぎたのか、陽のあたる舞台が眩しすぎたのか。
ナニシロ甲子園への出場体験はなく、大学時代も控えだったのでドラフトで指名されることもなく、とにかく野球を続けるためアメリカ・チームの入団テストを受けた。
すると「肩がいいから、キャッチャーなら」といわれ、「イエス」というほか前に進めず、契約した。
そしてこの決断は大正解で、たとえフィリーズの1Aつまり3軍ではあったものの、試合の出場機会に恵まれ、結構成長していることを実感できた。
ただ、英語が話せないから、話し相手はおらず、いつも一人ぼっち。タメ息をついて下ばかり見ていたら、地面を走り回っているトカゲに親近感をおぼえたりもした。
ところがある日、上を見ればきれいな星が空いっぱいに輝いていて、自分はアメリカで野球をやっているんだという充実感が湧きあがってきて、つらい時こそ、うつむかないようにしようと心がけたという。
しかし、アメリカでの生活は3年で終わりを告げた。慣れないキャッチャーで肩を痛め、チームから放り出されたのである。
帰国後、ジャニーズ事務所の警備係などのアルバイトをしながら、腕試しまたは運試しに西武ライオンズの入団テストを受けた。
当時の西武は、不動のレギュラーだった伊東勤が監督に就任し、キャッチャーに「空き」があったことが幸いして合格できた。
アメリカでプレイするために無理してキャッチャーになったことが、日本のプロ野球への門を開いてくれたわけだ。
念願のプロ野球選手になり、「キャッチャー」登録ながら外野手としてプレイした。
するとバッティング力が開花し、オールスターにも出場し、北京オリンピックの日本代表にも選ばれた。
その野球人生の絶頂であったオリンピックという大舞台で、2試合つづけて、敗戦につながるエラーをしてしまう。
ドン底まで落ちこんで、大失敗を挽回しようと張りつめた思いで臨んだ次のシーズンでは首位打者を争うほどの活躍をみせた。
ところが、あのエラーから3年、しかもケガから復活しようと、必死に練習したオーバーワークがたたった。
深夜まで筋肉トレーニングをして、そのあとは明け方まで素振りという生活を続け、ついに限界がきてしまった。
朝、起きると、胸の動悸がおさまらず、救急車で病院へ担ぎこまれた。それから体を動かすのが怖くなり、完全に気力を失ってしまった。
そして36年の人生で4度目のリストラをうけ、西武を離れ新天地イタリアへ向かった。
陽気なラテンの国で野球をやれば、また野球が好きになれるかもしれない。野球よ、ありがとう、最高だったという思いで引退したかったのだという。
ところがサッカーが中心のイタリアで、野球がすべてではないと、人間として多くを学び、世界観が広がった。
イタリアから帰国して、千葉ロッテの入団テストを受けてみると、肩の力が抜けていたのが幸いしたのか合格することができた。そして野球人生最後の1年間を日本のプロ球団で締めくくることができた。
今、佐藤は、スーツを着てネクタイをしめ、新たな取引先を求めて歩き回る毎日を送っている。
人生を野球の試合にたとえると、まだ中盤にも達していない。
プロ野球選手だったことは、回り道だったかもしれないけれど、成功するためには必要な経験だったねといわれる日が来るように頑張っているという。
GG佐藤の生き方で一貫しているのは、最後はいいかたちで終わりたいという思いのようだ。

中江兆民といえば、明治時代に自由民権運動を推進した人物で、「東洋のルソー」といいわれる。
中江は、土佐郡北街山田町に生まれ、1861年父が死去し家督を相続して足軽身分となった。
1862年には藩校の文武館開校と同時に入門し、外国語なども学び、1865年には、藩が派遣する留学生として長崎へ赴いた。
中江は坂本龍馬に出会い、自分も倒幕に参加したいとのぞむと、坂本は「革命家は、世の中から、およびがかかって革命家になる。それまで、勉強していなさい」といわれ、その言葉通り江戸に出て勉強した。
明治になると、福地源一郎(桜痴)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたが、1871年中江は大久保利通に採用を「直訴」し、岩倉使節団には司法省出仕として採用された。
そして横浜から出発し、アメリカからフランスへ渡る。フランスではパリ、リヨンに滞在し、五摂家筆頭の西園寺公望と出会い交流を温めている。
二人は意気投合しモンマルトルの居酒屋で飲みかし、西園寺は民衆のために戦ったフランスの自由主義貴族ミラボーのようになると意気込んでいた。
中江はパリ・コミューンを実際に体験したほか、ルソーの著書にも出会い、後に「人権」を主張する思想の基礎を培うこになる。
一方、西園寺は日本に帰国後「東洋自由新聞」を発行し中江兆民を主筆に迎えている。
西園寺と中江の異色コンビの新聞はよく売れたのだが、天皇の側近であるべき公卿の有力者が天皇の批判をするとは何事かという意見が強くなり、政府もついに新聞の廃刊を勧告するに至った。
西南戦争後、暗殺された大久保利通を継いで内務卿の権力を握ったのは、伊藤博文だった。自由民権運動の高まりのなか、伊藤は「強権」によって政治の混乱を乗り切ろうとする。
批判的新聞の発行停止、天皇親政を進言した侍補の解任、政治集会の制限と監視などなど。
在野の中江らは、自由民権運動を起こし壮士芝居にまで出演して政府の専制にブレーキをかけようとしたが、憲法発布前にスデニ体制の骨格、つまり日本の運命が決められてしまったのである。
中江は、外相・井上馨の条約改正交渉を巡る「大同団結運動」に参加し、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなどして運動に関わったため、同年公布の「保安条例」で東京を追われた。
1889年、大日本帝国憲法発布の恩赦を得て「追放処分」が解除されたものの、政府からの不当な圧力を実感させられた中江は、自ら第一回衆議院議員総選挙に出馬し、見事一位で当選を果たし、国会議員となっている。
しかし同じ思想を抱いていたはずの自由党土佐派が政府と妥協し「政府予算案」が成立すると、中江は憤りと失望を感じて辞職し、政治の世界から、わずか1年余りで身を引くことになった。
そして1891年には北海道の小樽へ移り、「北門新」を創刊して主筆を務め、世の中を変えるためには資金が必要かと1893年には山林組を起業して札幌で材木業を始めた。
また、鉄道事業にも熱心で、1894年常野鉄道をはじめ、毛武鉄道など数多くの発起人となっている。
1897年には中野清潔会社を起こし、1898年には群馬の遊郭再設置運動など、かなり「虚業的」とも評される数々の事業や政治的活動を手がけようとするが、いずれも失敗している。
そして国民党を結成して政界復帰を望んだが、大阪で病床に臥せ、54歳にして死去した。
中江兆民という人は、ルソーと同じく一言では括りがたい人だが、その人生は理想を求めて「転がりまわった」という印象が強い。

アメリカでは「A rolling stone gathers no moss」の意味は、原典のイギリスとは違う。活動的にいつも動き回っている人は、能力がさび付かないというプラスの意味なのだそうだ。
先日NHK「ETV特集」の「孔子がくれた夢~中国・格差に挑む山里の記録~」に登場した人は、孔子が最も大切と説いた「仁」の人であった。
だが数々の壁にぶつかり「転がる石」のように方向を変えざるをえなくなった。
石卿傑(せききょうけつ)さんは中国・貴州省で山村の小学生に儒教を教えて、生徒達からは「石ころ先生」とよばれ親しまれている。
中国ではこの100年間、儒教は打ち捨てられてきたが、今や中国政府は国をあげて儒教を復活させると宣言し、空前の「儒教ブーム」が起こっている。
2014年9月24日、習近平国家主席が儒教の価値を再評価すると世界に向けて宣言。これを機に儒教ブームには一層拍車がかかった。
都市部には儒教の塾が1万ヶ所も開講したと言われている。
一人っ子政策でわがままに育った子供「小皇帝」の教育にもってこいだと人気を集めているのだが、石さんが儒教を教えたのは、都会の子供たちではなく山奥の子供たちだ。
貴州省納雍県は中国の中でも特に険しい山間地で、標高1500mの山肌にしがみつくように点在する集落。住民の8割以上が少数民族の苗族(ミャオ族)だという。
石灰岩が多い痩せた高地でじゃがいもやとうもろこしを育てて暮らしているが、住民の平均年収は都市住民の5分の1以下。
ガスや水道は通っておらず生活用水も畑の水も麓から1時間近くかけて運び上げている。
つまり石さんは、経済発展から完全に取り残された村で儒教を教えているのが、そのことにどんな意味があるのか。
石さんがNGOの職員として村の小学校にやってきたのは2011年。
NGO「貴州民間助学促進会」は文房具の提供や授業料の援助などを行い、儒教の経典「論語」を子供向けにした本を配った。
石さん自身は貴州省の長征村出身で、村から大学に進んだが学費を工面するため両親は苦労を重ねた。
自分と同じ境遇の子供たちの力になりたいと、弁護士資格まで取得していたが、月給3万円のNGOにはいった。
石さんは事務局長としてボランティアをまとめているが、こうした活動に必要な資金は年間600万円かかるため、資金を集めるのが大きな仕事である。
さて儒教は、約2500年前の古代中国で孔子によって生まれた思想で、孔子が大事にしたのは「仁・義・礼・智・信」の5つである。
「欲にとらわれず正しいことを成せ」という義、「上下関係を重んじよ」という礼。
「学問に励め」という智、「約束を守り誠実であれ」という信。中でも孔子が最高の徳目としたのが「人を思いやる心」の仁である。
授業はいたって単純で、皆で声をあげて儒教の経典を暗記する。先生の間では論語の学習に対して賛否が分かれていたが、石さんには子供たちが論語で身を立てる具体的なアイディアがあった。
北京では儒教が人々の新たな心の拠り所になろうとしている。目覚しい経済発展により豊かさを手に入れる一方で新たに生まれたストレスや不安、都市の富裕層はお金では買えない救いを儒教に求めた。
そして、北京市内には儒教を教える塾が100ヶ所以上もできていた。
儒教は1世紀頃、漢王朝で国の教え国教とされ、以来2000年、歴代王朝のもとで国を治める要の思想として強い影響力を維持してきた。
しかし20世紀初頭、清王朝が倒れ中華民国が誕生すると儒教は専制政治を支えた思想だと批判され、続いて建国された中華人民共和国でも儒教は弾圧を受けた。
毛沢東が始動した文化大革命で孔子像は破壊され多くの経典が燃やされ、以後100年間、儒教は忘れ去られてきた。
転機が訪れたのは2011年1月で、歴史から抹殺されたはずの孔子像が中国国家博物館に建てられたのがきっかけである。
石さんと子供たちは夏休みに北京で開かれる儒教朗読の合宿に招待された。
子供たちにとって貴州省の外に出るのは初めての体験であった。合宿が終わった日、子供たちは孔子像を見に行った。
その後、子供たちは孔子の生誕地である山東省曲阜市へむかった。ここの曲阜国学院では22歳までの若者が3年間の課程で儒教を学んでいる。
生徒たちは失われた中国の伝統文化を身につけ儒教学校の先生になることを目指している。
ところがソコデ石さんは、急速な儒教ブームの高まりによって論語の教師になるのにも長い修練とお金がかかる現実を知ることになる。
石さんは、世界トップが集まる儒教学者たちの研究会に出席し、儒教は格差を救えるかと質問をするが、貧困の問題に答えをだせるものはひとりもいなかった。
儒教は「拝金主義」への戒めとはなっても、貧しい山の子供の問題とは無縁の問題である。
心に生じた論語教育への「疑念」を拭いきれないものの、石さんは活動を続けソノ活動が貴州省政府から認められ表彰され、NGOの活動資金も4年間で6倍に増えた。
2015年2月、久しぶりに村に行った石さんは子供たちの家を訪ねた。村から中学に進学した子供のうち半数が退学していた。
「論語の女王」とまでよばれた女生徒は、弟を学校に通わせるために、自らは学校をやめていた。
そして石さんは、自分が儒教で子供達に夢を持たせたことが、かえってつらい思いをさせているという現実を目の当たりにする。
失意の石さんは久しぶりに実家に帰るが、両親は息子にそろそろ結婚して身を固めて欲しいと願っていた。
そして何一つ親孝行できていない自らの身を省みて涙する。中国では自宅を持つことが結婚の条件とされることが多くなっているのに、石さんには貯金さえもなかった。
またNGOの職員ではローンを組むことができないため、結局、石さんはNGOを退職する。
その2ヶ月後、石さんは、北京で商売を始めようとしていた。儒教の塾ではユニフォームとして漢民族の伝統衣装を着るのが流行っているため、漢服の注文販売ができないかと考えたのである。
その後、石さんは貴州でも指折りの名門中学校清鎮市養正学校を訪問した。ここに村の子供5人が特待生として寮費や食費を免除されて通っていることを知ったからだ。
そして石さんは、その学校の成績掲示板を見て驚く。学年10番以内に村の子が4人も入っていたのだ。
校長も彼らは中国のトップ・クラスの大学に入るだけの実力と集中力をもっていると絶賛した。
当時小学校4年の出会い以来、中学生に成長した子供たちに別れをつげた。
石さんは、かつて子供達に知識ばかりではなく、儒教で培った「品格」をもって世に出て欲しいと願ってきた。
子供達は石さんがかつて教えた「天道酬勤」(天は努力するものに報いる)の書を送った。
石卿傑さんは、今のビジネスが軌道にのったら山村の子供を支える活動を再開したいと考えている。
子供達に「石ころ先生」と呼ばれた石卿傑さんは、錆びることのないローリング・ストーンというべきか。