「舞姫」とビール祭り

今年も小倉の街に祗園太鼓が響いて、盛夏の到来を告げた。
小倉の繁華街を歩けば、鍛冶町あたりに林芙美子歌碑や森鴎外旧宅など文学史跡がある。また、東に歩けば小倉城近くに松本清張記念館もある。
森鴎外の紛失した小倉時代の日記を埋めようとその足跡を追った青年がいた。
松本清張は、その不遇の青年の生涯を自分の前半生と重ねるように、「或る小倉日記伝」書いた。
しかし戦後その「小倉日記」が、青年の努力を無為にするかのように出てきた。鴎外の末子の類(るい)さんが、疎開した荷物を整理していて出てきたのである。
そこには、当時の小倉時代の日常が手に取るように記されているという。
鴎外の「舞姫」は最も印象に残った小説だが、「舞姫」で森鴎外がモデルとされる主人公・太田豊太郎は、留学先のドイツで貧しい踊り子エリスに出会い、恋をする。
そのうちエリスは妊娠してしまうが、豊太郎は彼女を捨てる選択をする。彼女は心を病み発狂するが、豊太郎は日本に帰国してしまう。
今から2~3年前、森鴎外の「舞姫」のモデルとなったドイツ人女性の写真が新聞の掲載されたこともあった。
こうして、ひとりの文豪の「空白」は長い時間をかけて埋められているようだが、そもそも森鴎外ほどの知識人ががナゼ小倉に居たのかという疑問が、今更ながら沸き起こった。
加えて、鴎外はなぜドイツに留学したのかという問題まで含めると、近代における日本とドイツの交流史にまで行き着く。
森鴎外は明治日本が生んだ大知識人だが、その鴎外が1899年6月に第12師団の軍医部長として、小倉(現・北九州市)へ着任し、2年9か月間、小倉に滞在している。
鴎外は11歳からドイツ語を勉強し、流暢にしゃべれたため、当時の軍医監に「君の任務はドイツ陸軍の軍陣医学の研究と、陸軍衛生制度の研究だ」と念を押されていた。
そこで、コレラ菌を発見したコッホ博士について学び、医学論文を書くなど成果をあげている。そればかりか、陸軍医学部の先輩の論文を医学雑誌で批判したりする。
また、それでも飽き足らないように、1884年から5年の「ドイツ留学」を下敷きに、ベルリンを舞台にした「舞姫」(1890年)「うたかたの記」「文づかひ」といった「ヨーロッパ三部作」を書き一躍、文壇の寵児となる。
要するに役人の世界で目立ち過ぎる存在だったのだ。
のみならずプライベートでは、帰国後すぐに海軍中将男爵の長女登志子と結婚したが1年8か月で離婚している。
「舞姫」のモデルとも言われるドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが鴎外を追って来日して物議をかもしたりもした。
これでは軍の要職にいる者の行為ではないと顰蹙をか、一等軍医正の鴎外が、少将担当官の軍医監で小倉に着任する。
この時、鴎外37歳。身分的な体面は一応保たれて意れているが、実質は「左遷」であった。
鴎外は、こうした背景もあって、小倉では小説は書かず翻訳や評論を執筆するぐらい。
しかも発表は、地元地方新聞に投稿したりで、目立たない活動をしていた。
したがって鴎外の小倉時代の2年9か月は「沈潜の時代」といってよい。ただし後の飛躍をみれば「雌伏の時代」といった方が適当かもしれない。
当時の兵役は、納税と義務教育とともに国民の三大義務のひとつであり、その新兵の採否を決める徴兵検査の立ち会いは、軍医部長の重要な任務であった。
鴎外は、その立ち会いや軍務で、各地を訪ねるたびに、福岡では貝原益軒や亀井南冥、久留米では高山彦九郎、唐津では近松門左衛門の遺跡などを訪ねることを楽しみにしていたという。
こうした史跡での見聞や集めた史料は、「栗山大膳」(福岡)、や「阿部一族」(熊本)といった歴史小説に結実している。
また鴎外は1890年に前妻と離別して、以後13年間独身生活を送るが、小倉を去る3か月前の1902年1月に、母の勧めで再婚している。
鴎外は美しい妻をもらってトテモ喜んだ。ちなみに、鴎外41歳、夫人23歳であった。
その後鴎外は、軍務に精励し、師団の幹部ともよく同調して、「第一師団軍医部長」の肩書きを得、文学面でも満々の抱負を抱きつつ新夫人を伴って東京に戻ってくる。
それにしてもよく謹慎が解けたものだが、かつて鴎外の進路を妨げたとされている先任者が、ひるがえって鴎外を指名したのだという。

さて、明治期の日本はどうして医学をドイツに学ぼうとしたのか、それはドイツ医学が進んでいたからといえばそれまでだがドイツ医学が進んでいたという認識が、当時の明治政府に、どの程度あったのだろうか。
それは、佐賀藩出身の相良知安(さがらともやす)という存在を抜きに語ることはできない。
つまり、この人がいなければ、森鴎外の「舞姫」は生まれナカッタかもしれないということだ。
明治初期、日本の医学の西洋化にあたり、明治政府では薩摩と関係の深いイギリスの医学を導入することをほぼ決めていた。
これを必死になって覆したのが、佐賀藩出身で医学校取調御用掛という役職にあった相良知安という人物である。
知安は、16歳で佐賀藩藩校弘道館内生寮に入学し、大隈重信や副島種臣や江藤新平らと共に学んだ。
佐賀藩では弘道館生徒の中から優秀な人材を蘭学寮へ入学させていた。知安もその一人として蘭学寮に進み、21歳で創設されたばかりの医学寮へ入学する。
相良は、弘道館の漢学や蘭学寮でオランダ語を学んだことを基礎にして、医学寮で学問的な研究をする。
ところで、佐賀藩主・鍋島直正は、文武奨励と質素倹約を宣言し、藩政改革と石炭や陶磁器などの海外貿易を進めた。
1808のフェートン号事件以来、外国と対抗できる軍事力の増強には教育刷新による人材育成が急務とされていた。
その藩主直正の侍医となった相良は、1861年、26歳で江戸遊学を命じられ、下総佐倉(千葉県佐倉市)の佐倉順天堂塾(順天堂大学の前身)の門下に入り、創始者の養子佐藤尚中に師事した。
当時の佐倉順天堂は、大阪の緒方洪庵が主宰する適々斎塾と並んで、民間蘭学塾の雄として多くの俊才を輩出した。
その後、長崎に学び「精得館」(現在の長崎大学医学部の前身)でオランダの名医ボードインと出会う。
ボードインから蘭医学を学び研鑽を積んだ相良は、その学才を認められ後任の館長に就任する。
相良は蘭方医だが、オランダの医学書がすべてドイツの医学書の翻訳であることに気づいていて、ドイツ医学が進んでいることを知ることになる。
明治維新の前後、コッホが破傷風菌と結核菌を発見、ナイセルが淋菌を、ガフキーがチフス菌を、クレプスがジフテリア菌をと、世界的な発見が相次いでることも相良は知っていた。
ただし、ドイツで「基礎医学」は進んでいたが、臨床医学では英仏のほうが進んでいたともいわれる。
その後、文部省医務局長となった相良の必死の説得で、明治政府はドイツ医学導入を決定する。
、相良は性格が激越で自分の主張を理解せぬイギリス医学派の政府高官を面罵するようなこともあったようで、メンツをつぶされた高官から恨みを買い、不正会計があったとして投獄されてしまう。
同郷の司法卿・江藤新平らの尽力で、これが「冤罪」であるとして復職を果たし、日本の医学教育制度を整備することに尽力した。
左遷から中央復帰した森鴎外と、入獄から中央復帰した相良知安の人生が重なり合う。
しかし相良は、数年後にはまたもや罷免され、晩年はナント易者として細々と生活し、貧困のうちに亡くなっている。
さて、日独の交流で、近代以前の江戸・鎖国時代にも忘れてはならない人物がいる。
1823年にオランダ商館の医師としてやってきたシーボルトで、彼はオランダ人ではなく実はドイツ人であり、その日本における影響力たるや絶大なものがあった。
本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確で、幕府方に怪しまれたらしいが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人である」と偽って、その場を切り抜けたというエピソードがある。
オランダは干拓によってできた国であるため山地は無いハズなだが、そんな事情を知らない日本人にはそれで十分だったのだ。
さてシーボルトは長崎の鳴滝の地に塾を開き、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴ら多くの日本人の学者や医師のタマゴを育てたが、日本の植物などにも興味を示しその採集したものはオランダのライデン大学に収められている。
シーボルトは帰国に際して、幕府天文方の高橋景保により伊能図を渡されたことが発覚した。地図といえば当時は最高の軍事機密であり、1829年にシーボルトは国外追放され、高橋は処分(死罪)された。
世に言う「シーボルト事件」である。
なおシーボルトは日本人女性と結婚しており、その娘・楠本イネは日本で最初の産婦人科医師となり、東京築地に開業し、その病院跡地にはシーボルトの胸像が設置されている。
実はこの娘、1958年父親の追放令解除により、シーボルト再来日の際に再会している。
当然、国法を犯し追放された外国人の娘・イネが歩んだ苦難は、並大抵のものではなかったことが想像できる。
ヨーロッパへ帰国後の1866年、シーボルトはミュンヘンにおいて70歳で亡くなっている。
それにしても、左遷から中央復帰した森鴎外といい、入獄から中央復帰した相良知良といい、追放から再来日したシーボルトといい、人間は「不遇」に悲嘆せず、その時期を充電期間として乗り過ごすことの大切さを思わせられる。

ペリー来航による1958年「日米就航通商条約」以降、幕府は堰をきったようにアメリカ以外の国とも次々に通商条約を結んだ。
プロイセン国の東方アジア遠征団が江戸に到着し、61年には日独修好通商航海条約が結ばれ、ここに日独両国の長年にわたる関係の礎が築かれた。
これにより、近代日本はドイツ(プロシア)とも人事、貿易面において交流を始めたわけである。
なにしろ、日本における最初の近代憲法である大日本帝国憲法は「プロシア憲法」をモデルに作られたので、日独両国の関係が浅かろうハズはない。
時代を一気に下ると、第一次世界大戦では日英同盟の立場から日独は「敵対関係」に立ちながらも、日本各地におかれたドイツ人捕虜収容所において、日本人とドイツ人との間には、そこはかとない友情が芽生えている。
第一次世界大戦で中国青島で日本人の捕虜になったドイツ兵は全国各地の収容所にいれられた。
徳島県坂東のドイツ人捕虜がベートーベンの「第九」を日本で最初に演奏した出来事はあまりにも有名である。
福岡との関連でいうと、久留米の競輪場にあった収容所にいれられたドイツ人捕虜達は、久留米にゴムの製法などの技術の一部を伝え、福岡市内にあった捕虜収容所にれられた捕虜達は、福岡市西区今津の地にある「元寇防塁」の補修にあたった。
これは必ずしも強制的に行われたものではなく、何か野外での活動はないかというドイツ兵からの申し出によってなされたものである。
1915年春、約80名のドイツ兵が「ラインの守り」を歌いながら労働にあたり、防塁の補修と「元寇防塁記念碑」が完成した。
「ラインの守り」を歌いながら「博多湾の守り」を修復したのである。
また、第二次世界大戦においては、日独伊で軍事同盟を結んでいるので、日本とドイツは総じて「友好関係」にあったということができる。
そして大戦の末期といえば、佐賀県の鳥栖で起きた小さな出来事がきっかけで、数年前にドイツのツァイツ市に日本庭園がつくられた。
第二次世界大戦末期、ドイツのフッペル社製のグランドピアノが佐賀県の鳥栖小学校にあった。
10キロほど離れた目達原基地の特攻隊の兵士二人が出撃する直前にこの小学校を訪れた。
二人はもともと音楽大学の学生であったが、出撃の前にぜひビアノが弾きたいと、この小学校をおとずれたのである。
音楽の先生は二人のピアノ演奏によるベートーベンの「月光」をしっかりと心にとどめ、最後に音楽室に生けてあった花束を贈った。
そして、それが最後の別れになるかにも思えた、
1990年代に鳥栖小学校でこの時のフッペル製のピアノを廃棄することになったが、その音楽の先生がピアノにまつわる音楽学校出身の二人の兵士たちの思い出を語ったところ、大反響をよびピアノは市民たちの運動によって保存され、この話は「月光の夏」として映画化されることになった。
このピアノは現在、JR鳥栖駅そばの「サンメッセ鳥栖」に展示されているが、様々な人々の思いが寄せられている。
ところで、鳥栖市はこの出来事を通じてフッペル社の本社があったドイツのツァイツ市と姉妹都市となるが、日本側から何か記念になるものを送ろうといことになった。
そして鳥栖市からそう離れていない太宰府にある紅葉の美しい寺・光明禅寺の庭園をかたどった日本庭園がドイツのツァイツ市に作られたのである。
ちなみにフッペル社は1875年の創業で、ツァイツ市を拠点に1948年までピアノを製造していたが、戦後はフランクフルト市に移り、現在は家具の販売をしているという。

現代において、「日独交流を記念する祭り」が、福岡市の繁華街中洲近くの冷泉公園で行われている。
会場には大テントの下にビアガーデンが開かれ、設置されたステージでは音楽や踊りで盛り上がる。
では、日独交流のビール祭りがなぜ福岡の地で行われているのか。
実は、ドイツ・ミュンヘン市では毎年10月上旬に「オクトーバーフェスト」という名で世界最大のビール祭りが開催されている。
期間中には国内外から約600万人がミュンヘンを訪れ、ドイツビール・ドイツソーセージを楽しみ、ドイツ伝統音楽に乗って歌い踊る。
日独の交流の始まりは1860年に遡るが、冷泉公園で開かれているこのビール祭りは、日独交流150年を記念してミュンヘンのビール祭りにならい始まったものである。
「西日本日独協会」の下、在福岡ドイツ企業・地元企業・自治体が実行委員会を組織し、ドイツと福岡のの交流促進のために開催するハコビなったのもので、正式には「福岡オクトーバーフェスト」よばれるものである。
ちなみの、冷泉公園のすぐ近くには、かつて大博劇場という映画館があった。
偶然だが、この大博劇場こそは、ドイツ生まれのユダヤで天才物理学者・アインシュタインが福岡にて講演をした場所である。
ユダヤ人迫害を逃れアメリカに移住したアシンシュタインは、原爆製造のマンハッタン計画の一翼を担うことになる。
太平洋戦争末期にアメリカは日本の大都市をことごとく空襲によって破壊し、その最後の仕上げが広島・長崎の原子爆弾であった。
原子爆弾投下の約2ヶ月前に福岡も空襲の被害をうけるが、その福岡大空襲において最も甚大な被爆地点(グランウンド・ゼロ)の地点こそが冷泉公園で、公園内にはその大空襲を記憶するための記念碑がたてられている。
第二次世界大戦で同盟を組んだ日本人とドイツ人が、同じテントの下、米軍空爆のグランウンド・ゼロで「ビール祭り」をして友誼を深めているのだから、面白いといえば面白い。
面白くないといえば、あんまり面白くない。