知識シェア社会

知的財産権には、特許・意匠・商標・著作権などいろいろなものがあるが、これを惜しげもなく競争相手に分かちあおうなんてケースはざらにはない。
ところが先日、トヨタが世界に先駆けて売り出した「燃料電池車」の特許約5680件を無償で開放するというニュースがあった。
苦心の技術をライバル社に提供するのは、参入を促して市場を広げるためだろうが、ものづくりを競い極める企業としてなかなかできることではない。
トヨタの「特許開放」のニュースを聞いて、わが地元・福岡で生まれたセーラー服や明太子の誕生を思い浮かべた。
両者ともにその創作者は、意匠権も特許も主張せず大ブレイクすることになった。
さて「知的財産権」はそれを生み出した人格と深く結びついたものであるが故、軽々しく取り扱われるべきものではない。
産業革命の立役者が没落したり、創作者が没落して創作不能になったケースなどを思えば、適切な「知的財産権」が保護されるべきことは論をまたない。
スチーブン・フォスターは1826年生まれで、「オー・スーザナ」や「草競馬」など数々の名曲を生んだ作曲家として知られている。
アメリカ南部を舞台とした歌を多く創ったが、実はペンシルバニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィル生まれで、スーザン川を一度も見たことがない。
また、故郷の家族や家を歌った歌が多いが、彼が亡くなる時点では家も家族も失っていた。
フォスターはオハイオ州シンィナティで兄が経営する本屋の手伝いをしながら作曲していた。
そして、自分が書きためた曲の楽譜を直接出版社に持ち込み、その中に最初のヒット曲「オー・スーザナ」があったのである。
彼が作った曲は200にものぼり、「草競馬」「オ-ルド・ブラック・ジョー」「ケンタッキーの家」は彼が旅したケンタッキーを高らかに歌った名曲であるが、、田舎から出てきて右も左もわからぬまま、音楽収益のほとんどは「出版社」に取られてしまった。
一度は結婚し子供も一人いたが、貧しさのために家族と別れ、1861年にニューヨークの病院で35歳の若さで一人静かに亡くなっている。
「著作権」などの権利確立が不十分な時代だったが、「印税収入」などへの意識がもう少し高ければ、フォスターはまだまだ多くの名曲を生み出せただろうし、ミリオネアーとして晩年を過ごせたかもしれない。

世の中には、知的財産権にコダワルことなく、とにかく自分の創作物が広がる(使われる)ことを望む人もいる。
数年前、シンガー・ソング・ライターの岡本真夜さんの曲「素顔のままで」が、勝手に上海万博のオープニング・ソングに使われた出来事があった。
、 中国側も「曲を使った」ことを認めたる一方、岡本さんの方も「使ってもらって光栄です」と応じたため、争いに発展することもなく穏便にこの問題は終結した。
世の中には、自分の作品を勝手に使われることに神経を尖らせる人もいる一方、そんなことを意に介しない鷹揚な人もいるに違いないという自分の予想を裏付ける出来事であった。
しかし後に、岡本さんの「使ってもらって光栄です」という言葉の背後には、我々が知らないもっと奥深い事情があることを知った。
ニュース当時、岡本さんの姿をテレビで見るこはメッキリ少なくなっていたが、実はその1年前に突然の眩暈におそわれ立つことさえ出来なくなり、病院に行くとメニエール病という難病にかかっていると診断されていたのである。
長年のストレスと疲労の累積が原因で、ミュージシャンにとしては致命的と思われる片方の聴力がほぼ失われていた。
そのためほぼ引退を決めていたところであった。
その時に、降って沸いたように起きたのが、上海万博の「素顔のままで」盗用事件であったのだ。
この出来事によって、岡本さんの歌「素顔のままで」に再び世間の注目が集まりネットのダウンロードも急増し、テレビへの出演依頼も来た。
この事件は、岡本さんにとって「盗用被害」どころか、天にいる親友からの「励まし」のメッセージのように感じられたという。
この親友は若くして亡くなったが、岡本さんの大ヒット曲「Tommorow」は、実はこの親友を励ますために書いた曲であったのである。
そういう背景を知ると、創作者は内面に沸き起こったことを創作に結びつけるにせよ、個人の「知的所有物」として垣根で囲むよりも、自由に開放してできるだけ多くの人々と共有したいという思いに駆られる場合もあるのではなかろうか。
実際に、「有楽町で会いましょう」や「異国の丘」などの大ヒットで知られる作曲家・吉田正の場合、自分の作った曲がいつしか「詠み人知らず」となって、誰が作ったのかわからなようになるのが理想なのだと語っている。
その言葉の真意を知るには、吉田正が体験した「シベリア抑留」を抜きにすることはできない。
第二次世界大戦終結後、ソ連は満州に残っていた50万もの日本兵をシベリアにつれて、極寒の地で労働に従事させた。
元シベリア抑留兵が「カタツムリさえも争って食べた」というほどの飢餓生活だったことを証言しているし、多くの元日本兵がこの地で命を落とした。
吉田自身はシベリア体験を語ることはなく、「封印」したかのようであった。
しかしNHKスペシャルという番組の取材で、満州やシベリアでともに暮らした元日本兵の証言から、吉田の当時の姿が少し浮かび上がった。
そして分かったことは、満州時代に歩兵だった吉田は音楽の才能を認められ、軍歌を作っていたといたという。
四三七部隊のために作曲した「四三七部隊歌」という曲は上官が書いた勇壮な歌詞に曲をつけたものである。
その四三七部隊は1934年の秋、南方の激戦地レイテ沖などで戦闘にのぞみ、300人以上の命が失われた。
同じ年、吉田が所属していた歩兵第2連隊は南方ペリリュー島の守備を命じられたが、日本軍1万人のうち最後まで戦って生き残ったのは34人にすぎなかった。
吉田は部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し、満州に留まったために、仲間のほとんどが命を落とす中で生き残ったのである。
吉田は生前、あるTV番組で「突撃するためにはマーチが必要だ。しかし突撃して亡くなった人々の責任を誰がとる」と漏らしている。
しかし吉田は仲間を励ます曲を多くつくり、歌に励まされて生き延びることのできた兵隊も数多くいた。
そして帰還兵の1人が吉田の作った原曲を「詠み人知らず」としてノド自慢大会で歌ったところ評判となり、それが「異国の丘」として大ヒットしたのである。
吉田は、TV番組で次のようなことを語っている。
「私にもやがて五線紙のいらなくなる日が来るでしょう。いつの日か、あの”異国の丘”がそうであったように、私の歌を私の歌と知らないで、みんなが歌っている光景に出会いたいと思っています。
歌はいつからか詠み人知らずになっていきます。そして本当のいい歌は永遠の命をもつのではないでしょうか。
私の作った曲の中から1つでも詠み人知らずになり、その歌を聴く日を楽しみに作曲を続けたいと思っています」と。
吉田が自作の曲が「詠み人知らず」となることを望んだのは、それらの歌を亡くなった者たちへ捧げたいという気持を抱き続けたからではなかろうか。
というわけで、多くの芸術家の作品は個人の才能や努力ばかりではなく、周囲との「絆」や「関係性」の中で触発され創作に結びつけるものであり、いわば与えられるものである。
つまり創作者は「個人の井戸」からではなく、「共有の井戸」や「ネットワークの井戸」から泉を汲みだしつつ創造しているのである。

冒頭で語ったように、自動車メーカーは通常、技術流出などを警戒し、特許は有償かつ提携先に限ることが多いのが一般的である。
ところがトヨタ自動車が単独で保有する燃料電池車(FCV)関連の特許すべての「無償提供」を発表した。
これにつき、日系自動車メーカー各社からは「ものすごい英断」などと驚きの声が多く上がった。
特許の無償開放により量が増えてコストが下がれば燃料電池が普及する。そうなれば、それだけインフラが整備される速度も早まるわけである。
つまりトヨタは、道なきところ道をつくった先駆者としての苦労を脇に置いても、競争相手とともに道を広げるほうが、自分自身も快速で走れると判断したのであろう。
この話に日本における「セブン・イレブンの誕生」にまつわるエピソードを思い浮かべた。
アメリカで、セブンイレブンの前身「サウスランド・アイス社」が生まれたのはテキサス州オーク・クリフである。
電気冷蔵庫が普及する前、どこの町にも氷店はあったが、この会社は1927年に週7日/16時間営業を始め、さらにパンや牛乳なども置くようになり、1960年に名前を「セブン・イレブン」とした。
そして、流通業界の中堅に甘んじていたイトーヨーカ堂の窓際の社員が、アメリカでこのセブンイレブンと出合った。
豊富な日常雑貨を扱う小さな店。営業時間は長く、値引きは一切していないのに店内は繁盛していた。
すぐさまコンビニの日本展開を考え、1973、日本のイトーヨーカ堂がライセンス契約を受けた。
しかし、その内容は屈辱的なもので、期待していたマニュアルには、日本では通用しないノウハウばかりであった。
日本とアメリカは流通の事情がまったく違っていた。大型店ばかりで、小売店が存在しないアメリカでは、コンビニは面白いように全国に広がったが、網の目のように零細な小売店が存在する日本は、最初から競争相手が存在した。
土地の値段が高くてアメリカ並みの広い店舗を構えられない事情もあった。
新事業への賛同者も少なく、プロジェクトは元商社マンや自衛隊員など、ずぶの素人ばかり15人でスタートした。
1974年5月15日に 東京都江東区に第1号店「豊洲店」を出店するが、この初フランチャイズに応募したのが同地で営んでいた酒屋「山本茂商店」の店主山本憲司である。
1号店はアメリカの出店基準の3分1程度の規模しかないものだった。
なんとか1号店をオープンさせたものの利益はあがらず、伝票から売れ筋商品を調べる作業は深夜まで続いた。
小さな店舗で効率よく売れない商品を減らして余剰な在庫をカットしていく伝票チェックこそがポイントとなったのである。
そしてこの努力が、今日セブンイレブンが誇るPOSシステムの原型となった。
さらに一店舗だけの出店では運送コストが高すぎ、それを下げるためにひとつの地域へ対する「集中出店」を行うことが 必要となる。これらはいわば「インフラ整備」というべきプロセスで、「豊洲店」一店舗だけでは不可能なことであった。
特筆すべきことは、セブンイレブンの一号店を手がけた15人のプロジェクトチームのメンバーはほとんどが流通の素人であった。
さらに運営のためにつくられた子会社の待遇は、本社とは比較にならないほど悪かった。
それでも日本流のコンビニをつくり上げようと、チームの面々は必死に頭をひねった。
手探りの状況のなか、メンバーは小分け配送、地域集中出店など、流通の常識を覆す独自の小売戦略を次々とつくり上げていったのでる。
そして、わずか3年で100店舗を達成し日本の流通機構に革命をもたらした。
そして、青息吐息のセブンイレブンの本家・サウスランド社の株を取得、全米に広がるセブンイレブンを「日本流のやり方で立て直す」という逆転劇まで演じたのである。
また本家アメリカセブンイレブンは経営不振に陥り、1991年に経営破綻したことでセブンイレブンの親会社にイトーヨーカ堂に買収されている。

最近、哲学者の内山節氏が新聞に興味深い記事を書いておられた。
江戸時代後半の日本は「先進国」であったという。なぜかといえば、この社会には目指す目標がなかったからであると。
誤解のないようにいえば、人々は仕事や生活のなかで自分の技を深めることを競っていた。
それが優れた工芸品や建築技術、料理や服飾文化などを生んだのである。
明治時代に入ると、日本は一転して「途上国」になる。欧米に追いつこうとして、日本はそこを目指す「途上国」になったというわけである。
そういう100年あまりの歴史を経て、今の日本では依然として、「途上国的な発想」をもつ人々と、「先進国的な精神」をもつ人々の分裂とせめぎあいが起きているのだという。
つまり、政治や経済に関わる多くの人たちは相変わらずに途上国的な考え方を続けており、経済は成長しなければならないし、強い国家を建設して「列強」の一員でなければならないという意識をもっている。
ところがこの考えは、生産と消費を増やし強い国家を作ろうとして、日本は原発をつくり環境破壊をして社会的な連帯を壊してきたといってよい。
ところがバブル崩壊以降の20年くらいの間に「新しい発想」をもつ人々が生まれてきた。
要するに競争しようとか、追いつこうという目標をもたない人々である。
彼らは、会社にはいって高い地位をめざすよりも、仲間をつくって生活の質を高め、できるだけ社会に役立とうとする人々である。
仲間同士でシェアハウスに住んだり、仲間と共同農園をつくる。
旅行の時も仲間とキャンプするので、彼らこそ先進国型のライフスタイルを求める人々といってよい。
実際、彼らの活動の多くが経済統計に計上されないのだが、それでも彼らは豊かな生活を求めているにはかわらない。
ただ「豊かさ」の質が、途上国型と先進国型では異なるのだ。
お金は得られなくても、里山に手をいれ自然からエネルギーや山菜、獣肉の恵みを受ける人もいる。
NHKで「里山資本主義」として紹介された和田芳治さんの生き方である。
その生き方は書籍化され32万部のヒットとなった。
今注目すべきは、全国各地の企業が「手を組み」新たなビジネスにつなげようとする挑戦である。
東京 丸の内の商業ビルに各地の伝統工芸品が集まったセレクトショップがオープンした。
経営するのは奈良の中川政七商店の社長、中川氏で元々は「奈良さらし」という伝統的な織物を扱う商店だった。
中川氏は13年前にUターンし赤字続き商店を立て直すため、自社ブランドを立て全国展開を始めた。
この評判を聞きつけ各地の中小企業から再建を手伝ってほしいと依頼されるようになった。
中川氏が最初に手伝ったのは長崎波佐見町の焼き物を扱う会社であった。
中川氏はまず全ての商品のデーターを分析し、商品の数を絞り新たな「自社ブランド」の開発に乗り出す。
中川氏と会社の会社の息子は共に自分たちの強み弱みは何か徹底的に議論をした。
浮かび上がった「強み」は地元の歴史。そして中川氏は会社の息子に繰り返し何をやりたいのか尋ねた。
そして「売ること」ばかりの発想から「自分の好きなもの」へと変わっっていった。
そして「HASAMI」」というブランドを掲げたアメリカンテイストの日用食器が誕生した。
中川氏の支援を受けてから5年、売上は3倍に増えたという。
他にも、石川金沢にも中川氏の助けを借り「下請け」からの脱却を目指している会社がある。
この会社では薄く軽い生地を作る技術を持っており、中川氏はこの生地を世界的なブランドにできると考え、軽くて丈夫なトラベルグッズが開発された。
以上、中小企業同士がノウハウを共有し、お互いの強みを出しあうことで、世界にうってでるチャンスがあることを教えている。
「アベノミクス」の第三の矢「成長戦略」が不十分という指摘がなされているは、そもそも先進国は隅々まで投資が行き渡り、足りないものがなくなってきているのだから政府主導、言い換えると「途上国型」の成長戦略は基本的には成功しない。
知識をシェアして仲間を強くし合うスタイルこそ「先進国型」なのである。