消えない記憶

最近、ラジオから懐かしい曲が流れていた。曲名は「マンチェスターとリバプール」で、女性ボーカルの声がどこか哀愁を帯びている。
海外でこの曲はヒットしていないそうだが、日本人の感性にはピッタリで、実際に日本で5週連続チャート1位(1968年)を記録している。
歌ったのは、「ピンキーとフェラス」という女性ボーカル中心のグループで、その影響を「ピンキーとキラーズ」という類似名称の日本のグループに与えている。
それにしても、この大英帝国誕生に深く関わった二つの都市について、どんな歌詞が歌われているのだろうか。
気になってネットで調べると、その歌詞は次のようなものだった。
♪♪軽い感じの夢見る人には 何か人が騒がしく歩いて埃っぽい街並に見えるかもしれない。
そこの人たちはその日その日を生きるだけみたいでも 工場からの煤煙や退屈な仕事の裏で この大きな街の活気ある鼓動に、すぐに気付くでしょう。
だから、その街並みを好きに歩いていいし、ずっと懐かしむ故郷みたい。
もし、遠くに旅しても確かに小奇麗で瀟洒な街には見えなくても 帰るべき街なんだ。
工場の煙突さえ、何か懐かしく見えるはず。♪♪
この歌詞の中の「帰るべき街」という言葉に、かつての大英帝国への「郷愁」が感じとられるものの、人々の「軽い夢」の中には、この街が果たした本当の役割について写し込んででいないように思える。
19世紀、マンチェスターは産業革命の発祥の地で、リバプールはその外港として発展した。
というとマンチェスターの発展がリバプールの発展を促したようだが、真実は逆である。
リバプールに落とされた資本が、マンチェスターに「綿工業」を呼び込んだといってよい。
リバプールは、もともと小さな漁村にすぎなかったが、17世紀末から「奴隷貿易」によって突如として活気を帯び始める。
アフリカの奴隷を買い付け、新大陸に売り飛ばすビジネスのうまみを知ったリバプール村の人々は、争うかのように「奴隷商」の看板を掲げた。
アフリカや西インドでは毛織物よりも綿布の需要が多く、従来インドから綿布が輸出されていたが、このアフリカの綿布市場に着目したイギリスの資本家が、リバプールの後背地にあるマンチェスターで綿工業を興したのである。
そしてリバプールはまたたくまにフランスのマルセイユやナントと並ぶ、世界屈指の奴隷貿易港に発展したのである。
そして、インド、新大陸産の綿花がリバプール経由でマンチェスターに運ばれ、綿織物に加工されて、再びリバプールから世界中へ輸出された。
また1830年には両都市を結ぶ「世界初」の営業鉄道路線が開通している。
ちなみに、世界一のサッカー・クラブ「マンチェスター・ユナイテッド」は、ここの鉄道員を中心に結成したチームから始まっている。
つまり、イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたのである。
実際にマンチェスターで工場を経営しながらリバプール奴隷貿易に従事した者もいるし、バークレー銀行の設立資金にも奴隷貿易からの利益があてられている。
また、奴隷貿易が産業革命に果たした役割を象徴して余りあるのは、ジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金のことごとくが、奴隷貿易によって蓄積された資金であったという真実である。
結局、イギリスを「世界の工場」に押し上げたのはリバプールの奴隷商人たちであったといっても過言ではない。
19世紀に入り、産業革命が本格化すると、奴隷制度への非難が一気に高まった。
こうして、奴隷貿易はイギリスは1807年、フランスは1817年、スペインは1820年に廃止された。
しかし、奴隷貿易で資本を蓄積した資本家達は、人間性まで変わることはなかった。今度は労働者を「奴隷的」に酷使したのである。
とはいえ、イギリス産業の斜陽化とともにマンチェスターとリバプールは衰退した感もあったが、リバプールが再び脚光を浴びたのは、1960年代のビートルズの活躍である。
またリバプールは、ビートルズの4人が生まれた街として、世界中から観光客が訪れる。
なかでも「ペニーレイン」「ストロベリ-・フィールズ・フォーエバー」「エリナー・リグビー」などの曲に登場する地は、ファンにとっていわば「聖地」となっている。

近年、日本で小林多喜二の「蟹工船」が再び脚光を浴びた。
確かに、海洋上の閉鎖的な空間での人間性を無視したような「奴隷的苦役」を強いられていた貧しい人々がいたのだが、人間そのもに「値札」がつけられ、待ち受ける先の港の市場で「売買」される境遇とは一線を画しなければならない。
それでは当時の「奴隷貿易」の実態はどのようなものであったであろうか。
そもそもこの時代、大西洋を横断すること自体、命がけでコストも高くついた。
そこで儲けを増やすには、1回の航海で、できるだけ多くの奴隷を運ぶしかない。
そのため1人分のスペースが、80センチ×18センチの棺桶みたいな空間に閉じこめられ、3ヶ月から9ヶ月も航海して、生き残るのは3人に1程度だったちう。
もっとも、たくさん詰め込んだ分、数の上では奴隷が優り、たびたび奴隷の反乱が起こった。
航海中の奴隷貿易船は孤立無援ため、監視役の船員も命がけだったことも確かである。
また奴隷商人は、奴隷をどれだけ詰め込んでみても、奴隷市場に到着しない限り、儲けにはならないことに気がつく。
そこで考えたのが、奴隷貿易船の環境を改善することではなく、積み荷の黒人奴隷に「保険」をかけることであった。
ロンドンに拠点を置き、コーヒーショップから世界一の保険会社となるロイズは、「奴隷貿易」をきっかけに発展したのである。
そして、このような奴隷貿易は、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結んだ「トライアングル」の中で行われた。
①ヨーロッパの奴隷商人たちは、ヨーロッパの港で、鉄砲、ガラス製品、鉄の塊、綿織物、ジン(強い酒)を船に積み込み、このヨーロッパ品を西アフリカまで運ぶ。
②そして先のヨーロッパ品を奴隷と交換し、その奴隷を南北アメリカまで運ぶ。
③奴隷をアメリカの砂糖、コーヒー、綿花と交換し、このアメリカ品をヨーロッパまで運ぶ。
以上まとめると、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカとの間に出来た壮大な「三角貿易」だったのである。
さてこうした「三角貿易」で資本を蓄積したのは、イギリスの資本家だけではなかった。彼らよりもやや遅れて登場したフランスのナント、ボルドーなどの大西洋沿岸の商人達も、奴隷貿易を介して富を蓄積した。
また西アフリカは、ギニア湾北部からアンゴラにいたる海岸で「奴隷海岸」とよばれた。
実は、産業革命以前から、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスはアフリカの奴隷海岸に次々と要塞を築いたのである。
アフリカの黒人奴隷を買い取り、保管し積み出すための城砦であった。
どうして「要塞」なのかといえば、奴隷の数が限られるので、奴隷の取り合いとなるため、ヨーロッパの奴隷要塞はお互いに鋭く対立していたのである。
実際、奴隷要塞間で、襲撃や奴隷の強奪が横行し、戦場さながらであった。
またヨーロッパの奴隷要塞では、係員が奴隷を検査し、腕や胸に会社の商標を焼印し、倉庫に閉じこめた。
さらに、倉庫の天井にのぞき穴をあけ、奴隷が反乱を起こしたり、自殺したりしないように監視した。
またヨーロッパが行った、黒人奴隷を調達する方法こそは、奴隷貿易における一番の「暗部」といていいかもしれない。
まずアフリカの有力部族が、近隣の「弱小部族」を襲い、住民を生け捕りにして、奴隷としてアフリカ商人に売り飛ばす。
次に、アフリカ商人は、奴隷が高値で売れるよう、身体を念入りに油で塗った後、キャラバン隊を編成し、奴隷海岸にあるヨーロッパの要塞まで運ぶ。
そして、できるだけ高値で奴隷を売りつけたのである。
また奴隷商人たちは「奴隷狩り」の効率を上げるため、狩る側のアフリカ人部族に「鉄砲」を売りつけたのである。
弱小部族にしてみれば、鉄砲は「魔術」のような武器で、手も足も出なかったといってよい。
この時代の「奴隷貿易」や「奴隷市場」の形成が、それはアフリカ内陸へと浸透し「部族間対立」まで引き起こしていったのである。
この奴隷制度で、1000万人以上の黒人奴隷が西アフリカからアメリカに送り込まれたが、そのほとんどを、アメリカ南部の奴隷制プランテーションがのみこんだ。
奴隷制プランテーションとは、奴隷を使って単一作物を栽培する大規模農園のことである。
16世紀、アメリカ南部の奴隷制プランテーションは、タバコ栽培から始まった。ところが、タバコは価格が不安定で、投機性が高かった。
タバコ栽培に嫌気がさしたプランター(プランテーションのオーナー)は、作物をタバコから綿花に切り替えた。
イギリスの綿花需要に目をつけたのである。
産業革命が起こったイギリスでは、工場の生産性が劇的に向上し、綿布と綿織物で世界最大の生産量を誇った。ところが、その分、原料の綿花が不足した。
そこに目を付けたのが、アメリカ南部のプランターだった。
その結果、1800年初頭には、イギリスで消費される綿花の80%を、アメリカ南部のプランテーションが供給したのである。
その労働力をささえたのが、黒人奴隷という構図である。
こうして、アメリカ南部の大プランターは、綿花栽培で巨万の富を築いた。その優雅な暮らしぶりは、映画「風と共に去りぬ」でもうかがえる。
この映画では、プランターの南北戦争以前の栄華と、その後の没落を描いた。
また、奴隷制度は、19世紀にアメリカ南部の産業をささえたが、それがもとで南部と北部は対立し、南北戦争にまで発展した。
1862年9月、アメリカ合衆国大統領リンカーンは「奴隷解放宣言」を行い、その後のアメリカ合衆国憲法の修正で、法的に奴隷制度は廃止され、黒人は白人と対等になった。
しかし憲法とは別に、州法などで黒人への市民権(公民権)付与に厳しい制限が設けられた。
多くの黒人が市民権を獲得できたのは、1960年代以降に展開されたマルチン・ルーサー・キングを中心とした「公民権運動」によってであった。
また、アメリカ南部の奴隷制度における注目すべき点は、プランターが奴隷を家族丸ごと囲ったという他にない特徴があった。
奴隷を家族で所有すれば、奴隷が老いてもその子が新たな奴隷となる。つまり奴隷が死ぬたびに、奴隷市場で奴隷を買う必要がなくなるわけだ。
そして、この奴隷の家族が集い、大きなコミュニティが形成され、やがて独自の文化も生れた。黒人の嘆きの音楽「ブルース」もその一つである。

世界史の中のおぼろげな印象として、イスラムの世界における奴隷は、ヨーロッパやアメリカほど酷い扱いを受けてはいない。
そう思う一例が、13世紀ににエジプトに建てた奴隷政権「マムルーク王朝」である。
もちろんイスラム世界とても奴隷は、売買、相続、贈与の対象となった。
つまり奴隷はモノ扱いだったのだが、さまざまな「制限」があった。
ここでの生まれつきの奴隷とは、母親が奴隷身分の子をさす。ただし、もし父親が自由人で、その子を認知すれば、その子は奴隷身分から解放される。
イスラム世界ではヨーロッパ世界のように、だれかれ捕まえて、勝手に奴隷にすることはできなかった。
イスラム法によれば、奴隷にできるのは、生まれつきの奴隷か、異教徒の戦争捕虜のみであった。
奴隷の刑罰は自由人の半分ですんだし、7歳未満の奴隷は母親から離して売ることは禁止された。
奴隷制度を認めた上で、奴隷の苦しみやハンディをできるだけ軽減しようとする意図が感じられる。
それは、イスラム教の経典コーランには、「奴隷を親切に扱うべきである」と説かれており、奴隷に対する偏見や差別感は欧米に比べかなり希薄だったといってよい。
イスラムの教えでは、 奴隷に教育をほどこし、奴隷身分から解放することは、天国への近道とされた。
奴隷を「人間扱い」したのは、はるかにイスラム教徒であったのかもしれない。
ちなみに、アイユーブ朝のサラディンは、十字軍と戦ったイスラムの指導者で、戦いに勝利した後も、キリスト教徒にも慈悲を示し、ヨーロッパ世界からも尊敬された。
サラディンは軍事と政治に長けたばかりではなく、高い知性と教養を備えた指導者であり、イスラム教徒でありながらヨーロッパの騎士道の「鏡」とされるくらいの人気を誇った。
イスラム世界で特筆すべきことは、たとえ奴隷でも、高い知性と高潔な人格の持ち主なら、子供の教育を任せる。
また、奴隷に政治や軍事を任せる制度もあった。
マムルーク朝は、13世紀から16世紀に栄えたイスラム王朝で、カイロに都をおき、エジプトからシリアまで支配した。
マムルークとは「アラブの白人奴隷兵」をさし、奴隷兵とはいえ、イスラムの最高指導者スルタンの親衛隊で、エリート戦士だった。
1453年、ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国の奴隷兵「イェニチェリ」と同じような位置づけである。
一方、マムルークはスルタンの私兵だったので、宮廷内で勢力を伸ばし、やがて政治にも口出しするようになり、権力を握りマムルーク王朝を作った。
フラグ率いるモンゴル軍の快進撃に勝利して防いだのがこのマムルーク朝で、これによって、イスラム世界は歓喜に包まれたのである。

今日、アフリカのナイジェリアにおいて「ボコ・ハラム」と呼ばれるイスラム過激派が勢力を増しているが、その拠点はかつて「奴隷海岸」と呼ばれた地域のすぐ北側である。
ナイジェリアは今や世界有数の石油産油国なのだが、かつての奴隷海岸は輸出積み出し地と様変わりした。
そのおかげでナイジェリア南部の富は膨大に膨らんだものの、石油収入のほとんどは腐敗政治家とソレに近い富裕層に流れており、富の果実のほとんどは北部地域には流れてこなかった。
かつてヨーロッパの国々が「奴隷海岸」を作りだし、奴隷調達に際して「部族間対立」を生み出したが、その構図は今もカタチを変えて生きている。
西洋教育を受けた高学歴の南部ナイジェリア人に対して、抑圧と貧困の中にあえぐ北部の人々が「ボコ・ハラム」を生み、イスラム国と同調する動きさえ見せている。
女子生徒の集団誘拐で悪名を轟かせているが「ボコ・ハラム」だが、その名前の意味するところは「西洋教育は罪」という意味である。
2004年3月、「奴隷貿易」に関与していた英国ロイズ保険組合、米国たばこメーカー大手R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーなどに対して奴隷の子孫のアメリカ人が訴訟を起こしている。
「記憶」というものは、なかなか消えないものだ。