敵陣に仲間あり

戦争に勝つためには戦場にいる兵士の士気を高めて、全力で戦えるようにしなければならない。
特に、最前線で戦っている兵士は、いつも不安な状態にあるので、些細なことで気持ちが萎縮させてはならない。
太平洋戦争中、日本発のラジオ放送で「東京ローズ」と呼ばれた女性から、アメリカ兵に向けて甘い声が流れてきた。
あんたの奥さん他の男と仲良くなってんのじゃないの、はやく故郷に帰らなくていいの、などと甘ったるい英語でササヤいた。
戦争なんかバカらしくやってられないと敵方を思わせられたら大成功。
戦場からは逃げ出すことは出来ずとも、少なくとも全力で戦う気は失せるかもしれない。
ラジオ電波に乗った「東京ローズ」の甘いササヤキは、太平洋の島々で日本軍と戦うアメリカ兵に大人気だったそうだから、実際の効果もあったのだろう。
見方を変えれば、極限状態にいる兵士は冷静にモノゴトを考えることができなくなっており、人間を「正気」にもどす効果があったともいえる。
そこにはアメリカ兵のナントモ複雑な感情が入り乱れていたことは想像に難くない。
実際、GHQが日本に上陸して真っ先にしたことといえば、「東京ローズ探し」だったらしい。
それは、あまりにも素敵な敵探しだった。
先日、太平洋戦争をめぐる3つの新聞記事に目がとまったが、一番目立ったのは、天皇陛下のパラオへ向かうという記事だったが、残りは新聞の片隅に並んででていた二つの死亡記事。
板津忠正氏の90歳、そして東江康治(あがりえやすはる)氏の86歳の死であった。
板津氏は1945年5月、特攻隊員として沖縄戦に出撃したが、エンジントラブルで鹿児島県・徳之島に不時着し生き残った。
戦後、特攻隊員の遺族を訪ね歩き、遺影や遺書を収集。86年から88年まで、特攻隊員の遺品や関係資料を展示する知覧特攻平和会館の初代館長を務めた。
東江康治氏は、沖縄名護市東江出身で、名桜大学の設立に尽力し、初代学長を務めた後、琉球大学の学長ともなっている。
東江氏は、太平洋戦争末期の沖縄戦で鉄血勤皇隊として動員され、米軍の攻撃で右胸を撃ち抜かれたが、一命を取り留める。当時、米国生まれの兄が米兵として沖縄に入り、「敵味方」に分かれた兄弟としても知られた。
兄弟が日米に分かれて戦う話といえば山崎豊子の小説「二つの祖国」がある。
この小説にはモデルとなった人達がいたが、東江康治氏の場合も、同じような体験の持ち合わせた人であったことを知った。

この4月に天皇ご夫妻が慰霊のために訪問したパラオ(ペリリュー島)は、第一次世界大戦後に国際連盟による日本の「委任統治領」となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋(うちなんよう)の行政の中心となっていた。
日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、ナスやキュウリなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。
道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。
1943年にはパラオ在住者は33000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。
パラオ本島(バベルダオブ島)には、民生用として小規模な飛行場が作られたが、1933年の国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。
1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には、上空から見ると「4」の字に見える飛行場が完成していた。
こうした日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラック島を、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させた。
そしてペリリュー島は1944年9月から11月にかけ、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘戦の舞台となった。
圧倒的な米軍に対して日本軍は、要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いた。
そして日本軍がこの時見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていく。
1945年2月~3月の硫黄島の戦いには、ひとりの日本人のオリンピック金メダリストが参加している。
1932年ロサンゼルスオリンピックで馬術競技史上、日本人が獲得した唯一のメダリスト西竹一である。
西竹一は、西徳二郎男爵の三男として華族の生まれ、映画「硫黄島からの手紙」(2006年)で初めてこの人を知った人も多い。
西は、陸軍士官学校本科卒業後、陸軍騎兵学校で学び、1930年にイタリアで愛馬ウラヌス号に出会う。
しかし「誰にも乗りこなせない悍馬」ウラヌス号に対して陸軍から予算が下りず、かなりの高額ながら自費での購入した。
1932年8月のロサンゼルスリンピック。大会の閉会式の直前に行われる馬術大障害飛越競技は、当時のオリンピックにおける最大の「華」だった。
しかし西には逆風が浮いていた。満州事変を受け、日米関係は一層悪化し、「反日感情」が高まる中でのオリンピック参加だったからだ。
それでも西は、愛馬ウラヌス号を駆って障害を見事にクリア。減点数8で、優勝候補だった米国のチェンバレン少佐に4点の差をつけて優勝した。
10万人の観衆で埋め尽くされたコロシアムの記者会見で、最後の障害でウラヌス号自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won」(自分と馬が勝った)と応じ、当時の日本人への敵愾心を越えて世界の人々を感動させたという。
そして、西の名は世界中に知れ渡ることになり、欧米で「バロン西(西男爵)」として親しまれ、社交界でも人気者だった。
また当時排斥されていた日系人のに対する見方をも変えたという。そして西は後にロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。
金メダルの栄光から13年、西は馬を降り、戦車連隊長として最前線に赴くことになる。着任先は本土防衛の最前線、硫黄島であった。
1945年、硫黄島の戦いにて、小笠原兵団(第109師団)直轄部隊として戦車第26連隊の指揮をとることとなる。
硫黄島においても愛用の鞭を手にエルメスの乗馬長靴で歩き回っていたという。
1945年2月19日、硫黄島に米軍が上陸を開始すると、日本軍は栗林中将の指揮の下、見事な持久戦を展開し、上陸軍に多大な損害を与えていく。
しかし、敵の圧倒的な兵力を前に次第に苦戦を強いられるようになり、西の連隊も全ての戦車を失い、硫黄島東部に孤立してしまう。
西はこの戦闘で米軍の火炎放射器によって負傷し片目の視力を失う。
また800名は居た西の連隊は、この頃既に60名を数えるばかりだった。
結局、硫黄島の戦いで西の率いた戦車第26連隊は玉砕することとなったが、攻撃したアメリカ軍は「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけた。
しかし、西大佐はこれに応じず、3月17日、父島に向けて「西部隊玉砕」を打電数名の残兵を率いて進撃中、硫黄島東海岸付近で戦死した。
西の遺骸は敵の手に渡らぬよう部下の手によって砂浜に葬られた。
西はこの時、乗馬靴に鞭、そしてウラヌスのたてがみを身に着けていたという。
西の戦死から1週間後、年老いた愛馬ウラヌスも東京世田谷の馬事公苑の厩舎で死んでいるのが発見された。

山崎豊子の「二つの祖国」にのモデルとなったのは、ハリー・K・フクハラである。
フクハラは、ワシントン州シアトルで、広島県出身の父・克二と母・きぬの間に4男1女の次男として生まれた。
父は職業紹介所を経営していたが、1933年に急逝したことからしばらく両親の故郷である広島に戻ることとなったが、日本社会に馴染めず1938年中学校卒業と同時に「単身」帰米した。
ロサンゼルスの居候先の白人夫婦からは、我が子同然に可愛がられ、レストランの皿洗いや白人家庭のハウスボーイをしながら、大学へ通った。
しかし1941年の太平洋戦争勃発に伴い、アリゾナ州のヒラ・リバー強制収容所に収監された。
その3ヶ月後の1942年夏に、陸軍の語学兵募集に応募し合格する。
ミネソタ州サベージにある陸軍情報部日本語学校に入学し、基礎訓練修了後の1943年夏には、第33歩兵師団附の「語学兵」として、ニューギニア戦線やフィリピン戦線に赴いた。
赴任当初は、同僚の白人兵士達からは「なぜジャップが我々の部隊にいるんだ」「どうせ捕虜なんだから、どう扱って良い」と差別的な扱いを受けていた。
しかし戦況が進むにつれ、日本軍から奪取した「機密書類」の翻訳や日本人捕虜の尋問の成功により、アメリカ軍の勝利が導かれた実績により、次第に同僚達からも受け入れられるようになった。
ニューギニア滞在中の1944年5月には、アイタップの日本軍捕虜収容所において、偶然にも広島時代の友人と再会し「戦陣訓」(「生きて虜囚の辱めをうけず」)の影響から、陸軍曹長の身で捕虜となったことを恥じ、自殺しようとしていた友人を必死になって思い止まらせたエピソードがある。
フクハラは、フィリピンの捕虜収容所で、自身が中学時代を過ごした広島市への原子爆弾投下と日本の降伏を知ることとなった。
前述のとおりフクハラの家族は広島に一時戻ったことがあったが、広島にそのまま留まっていた末弟のフランク・克利も、同じ九州の小倉の部隊に所属していた。
実はフクハラは、九州上陸作戦に従軍するよう命じられていたので、戦争が長引けば兄弟が「敵同士」として戦うことも考えられた。
しかも、弟がいた軍港の小倉といえば原爆の当初の投下目標とされていて、天候悪化のために急遽長崎に変更されたという経緯があり、人間の運命は、どう転がるかわからないものである。
さてフクハラは終戦後、駐留軍として日本に上陸し、神戸で師団長の通訳を務めていたが、その間に家族の安否を確認するべく、10月初旬に広島を訪ねた。
家族が住んでいた家は、爆心地から4km程離れていたため、奇跡的に倒壊を免れたものの母と長兄は被爆し寝たきりの状態だった。
フクハラは兄を神戸の病院で治療を受けさせたが、治療の甲斐も無く、半年後に亡くなっている。
フクハラは母達を養うべく、アメリカ軍に留まり続け、1971年に八重山諸島軍政長官を最後に軍を除隊し、カリフォルニア州サンノゼに住み、日米両国における各界の著名人との親交を重ねた。

フクハラの家族のように、兄弟でありながら敵と味方に分かれるばかりではなく、尋問者と捕虜というカタチで「再会する」という数奇な運命を辿ることもあった。
さて、米国陸軍にはMIS(ミリタリーインテリジェンスサービス)という秘密情報機関があった。
秘密情報部員という性格上MISの存在自体が国家の最高機密として「極秘扱い」とされてきたため、その中身はなかなか知られることはなかった。
しかし最近、軍人のみならず多くの民間人の犠牲を生んだ「沖縄戦」でMISが果たした「ある役割」が明らかになった。
7人兄弟のうち5人がアメリカに渡り、2人が沖縄に残ったという比嘉盛保、比嘉正光兄弟がいるが、彼らは沖縄戦で同胞たちの命を救うため献身的努力をした。
壕の中に隠れたまま自決しようとする民間人たちに対して、外は安全だから壕から出てくるように説得するのが、比嘉さんたちの一つの重大な役目だったという。
その成否によって何十人、何百人の民間人の命が助かったのだから、その役割は大きかったはずだ。
そしてアメリカ軍MISの比嘉が、日本人の捕虜となった兄弟もしくは同郷の友人と尋問室で「再会」すれば、自分も驚いただろうが、相手はもっと驚いたはずである。
さて、日本文学の研究者として知られるドナルド・キーン氏もまた太平洋戦争に深く関わった人である。
キーン氏はヨーロッパの古典文学を研究していたが、ニューヨークのタイムズ・スクウェアの古本屋の山積みされたジャンク本の中からたまたま見出したのが、「Tale Of Genji」であった。
キーン氏は、ナチスや日本のファシズムの興隆という世界の「暗雲」と比べて、「源氏物語」の世界には戦争がなく戦士もいなかった、ということにひきこまれた。
そしてキーン氏によれば、なによりも「光源氏」の人物像にひかれたという。
光源氏は多くの情事を重ねるが、光源氏は、深い哀しみを知った人間であったということだ。
それは彼がこの世の権勢を握ることに失敗したからではなく、この世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだと言っている。
「源氏物語」で開眼した日本文化への関心を深め、コロンビア大学で角田柳作教授の「日本思想史」を受講した。
角田教授は、日本学の受講者がキーン氏1人であったにもかかわらず、たくさんの書物を抱え込んで授業に臨んだという。
そしてキーン氏は、日本文学という「辺境の学問」の中に、きわめて普遍的なものを感じとることができた。
ただ日本文学を学んだことがどう将来に役立つかは不明だったが、1941年キーン氏はハイキング先で真珠湾攻撃のニュースを知った。
アメリカ海軍に「日本語学校」が設置され、そこで翻訳と通訳の候補生を養成している事を知り、そこへの入学を決意した。
海軍の日本語学校はカリフォルニアのバークレーにあり、そこで11カ月ほど戦時に役立つ日本語を実践的に学んだ。
そしてハワイの真珠湾に派遣され、ガダルカナル島で収集された日本語による報告書や明細書を翻訳することになった。
集めた文書多くは極めて単調で退屈なものであったが、中には家族にあてた兵士の「堪えられないほど」感動的な手紙も混じっていた。
海軍語学将校ドナルド・キーン氏が乗る船は太平洋戦争アッツ島付近で「神風特攻隊」の攻撃をうけた。
九死に一生を得るがキーン氏にとって、底知れない恐ろしさで迫ってくる狂信的な日本兵と、「源氏物語」の世界とはナカナカ結びつきにくいものがあった。
ただ少なくとも、キーン氏のみが「日記」によって日本人の心情を知ることにより、他の米兵とは全く違う思いで「日本」を見つめていたことは確かである。
キーン氏はグアム島での任務の時に、原爆投下と日本の敗戦を知った。
キーン氏は中国の青島からハワイへの帰還の途中、上官に頼みこんで神奈川県の厚木に降りたった。
そして1週間ほど東京をジープで回るうちに、壊滅状態となった「憧れの日本」に、失望を禁じ得なかっものの、船から見た「富士山」の美しさに涙が出そうになり、「再来日」を心に誓った。
そして、1953年、研究奨学金を得て、ついに日本に留学生として再来日した。
その初日、朝の目覚めて列車が「関ヶ原」を通過した時に、日本史で学んだその地名に感激したという。
キーン氏は1962年より10年間、作家・司場遼太郎や友人の永井道雄の推薦で、朝日新聞に「客員編集委員」というポストに迎えられた。
そして初めて新聞に連載したのが「百代の過客」で、それは9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた「日記」の研究だった。