和解とナゾの島

最近、島といえば北方領土から竹島まで、領有権争いによる国際関係の緊張の「火種」となるケースが多い。
しかしたまには、国際関係の融和や和解のために、利用されたりシンボルとなった島もある。
そんなことを思ったのは、福岡県新宮沖7.3キロの位置に浮かぶ相島(あいのしま)を訪れたことによる。
相島は、一見何の変哲もない島だが、江戸時代に「日朝関係」の融和のために、ある一定の「役割」を与えられてきた島なのである。
さて世界を見渡して、国際関係の融和の島として思い浮かぶのが、地中海のほぼ中央に位置するマルタ島で、この島の名は「冷戦終結」のシンボルともなった。
1992年、ゴルバチョフとレ-ガンの会談はマルタ沖の船でなされ、東西冷戦時代の終わりをつげ、以後戦後の「ヤルタ体制」が解かれ「マルタ体制」へと移行した。
この小さな島の名が、世界の時代を画する名が冠されようとは、誰も予想できないことだったが、この島は世界遺産の「青の洞門」さながらに、神秘を湛えているかのようだ。
その神秘のひとつが、聖地奪回を目指す十字軍遠征の騎士団のひつ「マルタ騎士団」が結成され、その「マルタ騎士団」はいまなお活動しているという。
マルタは、バチカンのようにイタリアから独立領土として承認されてはいないものの、今もローマに本部ビルを保有し、建物内は治外法権を認められている。
また政府運営の地としてマルタ宮殿を使用しており、一応そこを首府としている。
国連はマルタ騎士団を「オブザーバー」として参加するために招待を受ける国際組織のひとつとして扱っているが、国としては認めていない。
そういう意味ではPLOと似ている。世界の約94か国と外交関係を持ち、在外公館を保有しているが、日本はマルタ騎士団を国として承認しておらず、外交関係も持っていない。
さて、国家としてのマルタ共和国の首府はヴァレッタ市で、入江に突き出す半島に16世紀、計画的な街が作られ、道路は碁盤の目のように走っている。
ヴァレッタ市街への入り口には深いお堀があり、人の力だけで深さ50mまで掘り下げたという。
お堀は完全に半島を分断し、これで海からも陸からも敵が侵入することができず、敵をいち早く発見するために海に面して「見張台」が建っている。
この街を作ったのがマルタ騎士団で、武装した修道士の集団でヨーロッパ中から集められたという。
16世紀にキリスト教世界のヨーロッパにオスマン帝国が進出しようとしていて、地中海の交通の要所であるマルタ島を奪うために攻めてきたが、1565年にマルタ騎士団がオスマン帝国を撃破した。
マルタ騎士団が、いわばヨーロッパを守る「最前線」として、ヴァレッタに要塞都市を作ったのである。
またマルタ島で栄えた古代巨石文は世界遺産に指定されており、ブルーグロットつまり「青の洞門」は世界的に知られている。
そしてこの島と日本との因縁を物語るのが、この島に立つ「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」である。
日本は、第一次世界大戦の折、地中海に艦船を送ったが、駆逐艦「榊(さかき)」は1917年6月11日にマルタ沖で撃沈され、59人の戦死者の墓がマルタ島にもうけられた。
ちなみに、昭和天皇が1921年皇太子時代に行ったヨ-ロッパ歴訪もこの島にたつ日本人墓地の慰霊から始まったのである。

16Cに博多や肥前名護屋に集められた豊臣秀吉の朝鮮出兵によって著しく傷ついた日朝関係を、徳川将軍家はなんとか回復しようと、朝鮮通信使を江戸に招くことにした。
朝鮮通信使は、徳川の代替わりのたびに、祝賀の目的で李王朝から国書(信書)をもって訪日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者である。
各藩が接待をバトンタッチしながら江戸に向かうのだが、福岡県相島は全国で唯一「朝鮮通信使」を接待した島であり、江戸時代を通じて12回、往復だから24回の朝鮮通信使を受け入れている。
マルタと相島の共通点をアエテ挙げるとすれば、国際関係の融和に関わった点であり、そのためにそれぞれの島の微妙な位置関係が大きくものをいったのではなかろうか。
とはいっても、マルタと相島では「国際関係」で果たした役割が格段に違い、同列に扱うのはいささかバランスを欠くが、相島では世界遺産候補へと名乗りを上げる活動もおきており、両者には案外と共通な点があることを発見した
まずは、十字軍の経路であったマルタ島と朝鮮通信使の経路であった相島は、それぞれ要路に位置していることである。
ところで、戦国武将である福岡の黒田長政、肥後熊本の加藤清正とともに「朝鮮出兵」で先導的な役割を果たした。
したがって、黒田藩が朝鮮通信使を接待する上でのポイントが、「近からず、遠からず」のちょうどいい位置関係にあることで、そのことが相島が選ばれた理由ではないだろうか。
さて、相島には77メートルという一番高いところに「遠見台」がもうけられ、狼煙によって朝鮮通信使の到来を告げた。
文書にこの島の高台に「有待邸」とよばれた施設があるという記録があり、遠見台に近いあたりの大きな井戸や住居あとなどから、ここが「客館」かと推定されてきた。
しかし2006年、山口岩国の客館において、相島の地図が見つかり、船が到着する波止に近いあたりに客館の位置が明確に示されており、また発掘によっても裏づけがとれたことから、ここが「客館」の場所と確定した。
この地図は、第10次の通信使一行が来日の1748年に、通信使の接待の方法を視察に来た岩国藩の藩士が描いたものであった。
黒田家文書によれば、棟数にして40ぐらいで、畳数931畳分を「新調」したという。
客館の敷地は全体で野球のグラウンドの面積にも匹敵するほどの大きさを占めるが「常設」ではない。
それは10~20年に1度の大イベントである朝鮮通信使のための接待所だったから、通信使の帰国後は解体し、西公園に近い伊崎の庫に収められたという。
マルタ島は世界的な巨石文明の地であるが、相島にも石の遺跡がある。
島の東側の海岸に面して、長く続く積石塚群があり、その数254基は日本で二番目の規模だという。
マルタ島には59名の戦死者の慰霊碑であったが、相島の石塚群の近くにも、61名の慰霊碑がある。
この慰霊碑は、第9次通信使が来日の準備の折、1778年(享保4年)7月24日、相島に台風が襲来した。そのため多くの被害を出し迎護船40隻余が破損し藩士12人、浦水夫49人、あわせて61人が亡くなっている。
1995年、相島積石塚群調査の際に、その時の「墓碑」が発見されたのである。
個人的に、この長遠な積石塚群を訪問したとき、大人から幼児までの墓があることを知り、それを確認しながら不自由な足場を歩くうちに、「賽の河原」という言葉が思い浮かんだ。

先日、NHKの番組「ファミリー・ストーリー」で、芸能人の中山エミリさんの御先祖を遡ることが行われた。
曽祖父ロジャー・イングロットさんは、マルタ島を生まれである。当地の教会の記録に、1871年にロジャーさんが洗礼を受け父が医者だったと事が記されていた。
この教会の聖母マリアの絵のモデルがイングロット家の人々がモデルになっているくらいだから、よほど名家にちがいない。
実は、マルタ中央銀行の総裁ヨセフボニーチはロジャーさんの兄のひ孫にあたる人物である。
イングロット家は17世紀までイギリス・ノリッジで暮らしていたが、18世紀初頭にマルタにやってきた。
マルタ国立公文書館で140年前の選挙名簿には、ロジャーの父の名前があった。
ロジャーは、在籍聡明によってマルタ大学に学んだことがわかるが、当時相次いで父と母を亡くしている。
ロジャーはイタリアのポンペイからきた人に、日本に行けば英語教師の仕事があると聞き、1896年にマルタを後に横浜港に向かった。
ロジャーは来日後さっそく日本語教師の仕事を探し、東京のカトリック築地教会を通じて、鹿児島尋常中学校 造士館から英語教師になって欲しいとの申し出があった。
1897年ロジャーは鹿児島に赴任し、ロジャーは勉強熱心な日本が気に入ったようだ。それは鹿児島の図書館にあった郷土につくした人々の言葉でうかがい知ることができる。
その後ロジャーはいったんマルタ島に帰国したが、1902年再び日本にやってきて岡山で英語教師の職につく。
岡山に来て数年が経ったある日教会であったエミリの曾祖母の中山安乃に一目惚れをした。
中山家は島根・松江市にあり、中山家の本家は現在保育園を経営してるという。
江戸時代の初め中山家は武士をやめ塩問屋になっている。その家に生まれた安乃は小学校を卒業すると親元を離れ岡山の女学校に入学する。
そこで英語教師をしているロジャーと出会い親の反対を押し切りロジャーと結婚した。
その後ロジャーは英語教師の実力が認められ各地の学校に招かれた。
1927年には勲章が授与された。1929年ロジャーは京都・舞鶴にやってきて元海軍機関学校の英語講師として招かれ1939年2回目の勲章を貰っている。
しかし、ロジャーは戦争で疎開し移り住んでいた山口で78歳で亡くなった。
1902年の再来日以降40年間、マルタ島に帰ることはなかった。
ロジャーと安乃には4人の子どもが生まれたが、この時は皆イギリス国籍だった。
その中で三男のジョージだけは英語をしゃべろうとしなく日本人になろうと必死だった。
このジョージこそが、中山エミリの祖父にあたるジョージである。
20歳で第一早稲田高等学院に入学し、1937年日中戦争が始まると欧米諸国をとの対立が深まる。
国内で反英運動が起こりジョージは特高に尾行されスパイの容疑をかけられる。
1940年イギリス国籍を捨て日本に帰化することにした。
その後太平洋戦争が始まり、早稲田大学を卒業したジョージは満州電信電話株式会社に入社する。
満州の首都新京にやってきたジョージは満州電信電話株式会社に入った。当時アナウンサーには森繁久彌もいた。
そして、山形から働きに来ていたエミリの祖母・八重子と結婚する。
しかしソ連軍の侵攻により満州は大混乱に陷る中エミリの父・中山重治が生まれた。
1946年親子3人はようやく佐世保に 辿り着き、その後東京で暮らすことになる。
祖父ジョージは電気機器の会社に就職し、1978年にエミリが誕生した。
エミリは16歳で芸能界にデビューするが、その1か月後に79歳の祖父ジョージは、突然自宅で倒れ帰らぬ人となった。

地中海のほぼ中央の小島マルタは、十字軍の昔から東と西とをつなぐ戦略的拠点であった。
マルタ騎士団は第1回十字軍の後、巡礼保護を目的としてエルサレムで設立され、この騎士団は病院をもち、病気になった巡礼者の保護に務めた。
正式名称は「ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」で、十字軍勢力がパレスチナから追われた後はロードス島を根拠とし、聖地巡礼をするキリスト教徒の重要な「経由地の守護者」となった。
しばらくは、ムスリム(イスラム教徒)に対する聖戦の実行者として活躍したが、1522年、オスマン帝国のスレイマン1世によりロードス島は陥落し、本拠をマルタ島に移して、「マルタ騎士団」と呼ばれるようになったのである。
1530年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世からマルタ島に居住する権利を与えられ、その返礼としてに宝石をちりばめた「黄金の鷹」の像をカール5世に贈った。
ハンフリー・ボガ-ドの出世作「マルタの鷹」は、このマルタ騎士団ゆかりの「黄金の鷹」の存在をめぐる現代サスペンス映画である。
1789年にナポレオンがエジプト攻略を企てたときに、マルタ騎士団は自らの安全保障をもともと密かな交流があったロシアのツア-リであるバ-ベル一世に求めた。
その結果、ロシアの「マルタ介入」こそが後にナポレオンがロシア侵攻を企てた原因ともいわれている。
またマルタ騎士団は「独立保持」のために教皇庁とも密接に繋がってきており、その表の国際的人道支援によって国連のオブザ-バ-にもなっている。
その反面、今日ではアメリカCIAともロシア秘密組織とも背後で繋がっているとの噂もある。
というわけでマルタ島は、表ではわかりにくいミステリアスな面をもつ小島である。
というわけで、この島の沖で歴史的な「マルタ会談」が開かれたことには、一般には知られざる意味合いがあったのかもしれない。
さて相島について韓国側の「海游録」という本に朝鮮通信使の記録がある。
「御馳走は、壱岐より倍する。諸物すべて華美で景色のよいこと神仙境である」と。
第9次の朝鮮通信使の記録では、一行と案内役の対馬藩士を合わせれば、1200~1300人の集団となり、通信使一行の接待には、藩の膨大な費用と労力をかけている。
一行に提供する食材は、米・味噌・醤油・酢なお1人1日に渡す量が指示されていた。魚・豚・猪・鶏・キジ・山菜・野菜・果物・菓子など種類も豊富である。
食器や器などは一年前から準備したという。
また、通信使の方でも285日間の長旅で、その労苦も大変なものであったに違いない。
さて、通信使との交渉の窓口は対馬藩の宗家が一手に引き受け、釜山からやってきた李王朝の特使一行を宗家の役人が先導して江戸へのぼった。
通信史が江戸へむかう道中では沿道の大名が、それぞれその費用を負担した。
福岡の黒田藩、山口の毛利藩、広島の浅野藩、岡山の池田藩の順に、諸藩は幕府の手前、また他藩との対抗上、その接待には殊更に力をいれたようである。
またその行程には、通信使と沿道の日本人との「交流」を物語る「アリラン祭り」(下関)などの多くの祭りや痕跡が残っている。
さて、マルタ島と相島は、「和解の島」という共通項があるが、その他にも似たところがある。
マルタ島は、犬の「マルチーズ」の名を生んだ島として知られているが、ハートのカタチをした相島は、近年急速に「猫の島」として全国的にも知られるようになった。
また、マルタ島には日本人の戦没者の慰霊碑があるが、相島にも元寇の役でなくなったモンゴル人の慰霊碑「蒙古塚」がある。
さらにマルタと同様に、相島にはミステリアスな一面がある。
相島の神宮寺の文書に、947年に農民達、渡海してこの島を開拓したという記録があるが、石塚群の存在はそれ以前にこの島に住んでいた人々がいたことを物語っている。
彼らは、どのような人々であったのか。
今のところ、安曇族や宗像族というのが有力説であるが、それにしても日本で二番めの規模をもつほどの積石塚群が、なぜこの小さな島にあるのか。
島の大きさと墓の規模は明らかにバランスを欠いている。
そして相島の最大のミステリーは、毎回500人を超える異装の朝鮮人来島という大イベントにつき、伝承や口承などがほとんど残っていないという事実である。
この島にあった「客館」の地図さえ他藩で見つかるぐらいなのだから。