民族融合チーム

1991年日本という地で、小さな「南北統一」が行われた。
、 千葉幕張での第41回世界卓球選手権・女子団体で、韓国・北朝鮮の「南北統一チーム」が、中国を破り世界チャンピオンになった。
この出来事は「ハナ46日間の奇跡」(2012年:原題「コリア」)というタイトルで映画化され、韓国では記録的な観客動員数を打ち立てている。
この映画は、事実とフィクションがナイマゼになっているとはいいながら、現実に起きたことの感動を充分に伝えていた。というのも、自分もこの実際の現場を千葉の幕張メッセで目撃したからだ。
しかし、この映画が最も伝えたかったことは、統一コリアが卓球王国の中国を打倒した「奇跡」ではなく、むしろ南北朝鮮がヒトツになったということが「奇跡」であったということである。
映画では、体制を超えて選手がヒトツになることは、言葉でいうほどやさしいモノではなかったことを、多少のユーモアと恋愛のエピソードを交えて描いている。
互いのプライド、言葉や態度で見えてしまう相手国への侮辱、特に北朝鮮チームには、選手団に対する監視の目が、絶えず光っていたため、名刺ひとつの交換でも「亡命か」という疑いをもたれた。
実際に、北朝鮮政府より、中途で「帰国命令」がでて、関係者の心胆を寒からしめた場面もあった。
ところで、南北統一「コリア」結成の立役者は日本人。元世界チャンピオンで(ITTF)会長の荻村伊智朗氏である。
日本の卓球界が世界を制覇していた1954年~65年の間、日本の主力選手として、また日本代表チームの監督として活躍した。
1987~94年、国際卓球連盟会長として、1970年の日中間のピンポン外交や1991年に韓国と北朝鮮が南北統一チームの実現に尽力した。
荻村氏は世界的にも稀有な「スポーツ外交官」だった。選手時代から卓抜した眼力と発想力の持ち主だったが、指導的立場になって、国際情勢はもとより各国の歴史、文化、宗教、国民性などあらゆる事情を研究し、「人脈」を築き、解決の糸口をを探った。コリア結成はまさに本領発揮といったところだった。
例えば「コリア」チーム結成においても、双方の面子には気をくばった。団長が北なら総監督は南。監督は男子が北で女子が南といったように。
結団式と合宿も一方の国でするわけにいかないから、荻村氏が「日本で」と提案した。
3月25日、両国選手団は成田空港の特別待合室で合流し一行はその足で、第1次合宿地の長野へ向かった。
勝負がかかるダブルスは玄静和、リ・ブンヒの両エースで組ませた。
そして合宿を始めたコリアは、多くの違いや衝突を乗り越え、一つの戦闘集団になっていった。
そして4月29日、中国との女子団体決勝。コリア2勝の後、中国が巻き返し、決着はラスト5番のシングルスにもつれ込んだ。
不調のリ・ブンヒに代わり、トップとラストのシングルスに抜てきされた20歳ユ・スンボクに全てが託された。
第2ゲーム20‐19。3時間38分の死闘が、中国・高軍の打球がコートを大きく超えた瞬間に終わった。
その時、抱き合う首脳陣、選手たち。そこへなだれ込むカメラマン。
地鳴りのような「マンセー(万歳)」の叫びと泣き声。
表彰式では、白地に青で朝鮮半島を描いた「統一旗」が揚がり、国歌に代わる「アリラン」の大合唱がアリーナに響いた。
大会を終え、帰国前に抱き合って別れを惜しむ玄静和とリ・ブンヒの姿が、また人々の涙を誘った。
さて韓流ドラマでは、しばしば「交通事故」がドラマ展開のポイントとなるが、それでも描けないようなことがコノ二人に起こっている。
2014年韓国国内では障害者のアジアパラ大会に来韓予定だった北朝鮮のリ・ブンヒが9月25日に運転中に交通事故に遭い、クビの骨を骨折する重体で入院していることを韓国・聯合ニュースが伝えた。
リ・ブンヒは御子息が障害者ということもあり、障害者のスポーツに力を入れ、北朝鮮の障害者体育連盟の会長(書記長)を務めていた。
それから1週間後の10月1日には韓国卓球協会専務理事となった玄静和が、飲酒運転で事故を起こしている。
映画「コリア」の主人公二人が、韓国で20年の時を経て再会するのでは注目を浴びていただけに、同じ頃に交通事故に遭うとはあまりにも運命的であり、悲劇的でもあった。

2014年5月にNHKで見た 「オシム73歳の闘い」は戦火とスポーツの関係を描いた出色の番組であった。
イビチャ・オシムは、1941年5月6日に旧ユーゴスラビアのサラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)で生まれた。
彼の父親は鉄道で働く肉体労働者で、ボディビルの選手。しかし、賃金は安く彼にとって子供時代の娯楽と言えば、ボロ布で作ったボールを裸足で蹴る路上サッカーだけであった。
それでも父親譲りのセンスにより、彼のサッカーのテクニックはずば抜けていて、地元サラエボのサッカー・チームの入団試験に合格することができた。
14歳でジュニア・チームに入った彼は勉強とサッカーを両立させながら大学の入試にも合格。特に彼の数学の成績は優秀で、大学教授にでもはなれるといわれていた。
しかし、貧しかった家庭のことを考えた彼はすぐに収入が得られるプロ・サッカー選手の道を選ぶ。
大学も中退して本格的にサッカーに集中、地元のトップ・チームに迎えられると大活躍を始める。
現役時代のオシムは、天才的なドリブラーとして有名でハンカチ一枚分のスペースがあれば、3人に囲まれても自在にキープできたという。その分、ボールをもちすぎると批判されることもあった。
1964年に開催された東京オリンピックに彼はユーゴ代表として出場。
1966年には、ユーゴのフル代表のメンバーとしてヨーロッパ選手権に出場し、準優勝している。
こうして、27歳になると、フランス・リーグのストラスブールに移籍し、その活躍の場を海外へと移していく。
オシムは12年間現役生活を送るが、膝の慢性的な故障もあり、あっさりと引退する。
故郷のサラエボに戻った彼は、すぐに指導者となる道を歩み始め、古巣でもあったサラエボのチームの監督に就任して好成績をあげ、1985年には早くもユーゴ代表チームの監督に就任する。
1990年のイタリア・ワールドカップにおいて、ユーゴ史上最強と言われたチームは、初優勝を目指し、予選を楽々と首位で突破。
ところが、この頃、すでに母国ユーゴスラビアは国家崩壊の危機に追い込まれていた。
1990年5月13日、ザグレブで行われたリーグ優勝を決めていたベオグラード・レッドスターと2位となったディモナ・ザグレブの試合は、消化試合にも関わらず試合前から「異様」な雰囲気に覆われていた。
そして、試合開始直前、クロアチア人サポーター(ザグレブ側)とセルビア人サポーター(レッドスター側)の間で喧嘩が始まり150人に近い怪我人を出す騒動となる。
要するに、この出来事は、チームのサポーター同士の喧嘩ばかりか、民族対立の「代理戦争」だったといえよう。
こうした民族対立の火種を内包したユーゴ代表チームだったが、オシムはマスコミの圧力にもブレルことなく公平な立場に立って、常に自分の使いたい選手を使うと主張し続けてきた。
そして状況がさらに悪化する中、彼は驚くべき行動にでる。
なんと彼はワールドカップ本線における予選リーグの初戦、西ドイツとの一戦で各民族を代表する大物選手3人を先発メンバーとして起用してみせる。
それは各新聞の要求に従った選択で、勝ちを捨てた作戦だった。どんな結果になるかご覧くださいというわけだ。
そしてその試合結果は、1-4の大差でのユーゴの大敗で終わる。
そしてマスコミや口うるさい観客たちを黙らせたうえ、ユーゴ代表はメンバーを入れ替えて試合に挑み、コロンビア、UAEに圧勝。楽々と予選リーグを突破する。
決勝リーグでもスペインに勝利してベスト4に進出し、ここで彼らは前回優勝のマラドーナ擁するアルゼンチンと対戦することになった。
お互いに一歩も引かない闘いは0-0のまま延長に突入し、延長戦でも決着がつかず、PK戦に突入する。
ところが、この時、すでに勝負の決着はついたも同然だった。
PK戦を前にメンバーのうち二人を除いて、PKを蹴りたくないとシューズを脱いだ。
それぞれの民族を代表する立場になってしまった彼らは、自分が蹴ってミスすることを恐れた。
もし自分のせいで試合に負けたら、自分だけでなく家族までもが危険にさらされる、そう考えた。
結局、監督はキッカーを自ら指名するが、結局PK戦が始まると、自らキッカーを志願した二人以外のメンバーが次々とシュートをミス、またはキーパーにセーブされてしまった。
それはサッカー以外の要因により、戦わずしてユーゴ代表チームの敗戦は決まっていたといえる。
1992年、再びユーゴ代表チームを率いた彼は、スウェーデンで開催されるヨーロッパ選手権の予選に参加しした。
しかし、もうこの時、クロアチア、スロベニア、セルビアの民族対立は実質的な「内戦」に発展していた。
こうして、セルビア人が脱出したサラエボの街へのセルビア軍の攻撃が始まり、長い間セルビア人、クロアチア人、ボスニア人など多宗教、他民族の人々が平和に共存していた街は、完全に孤立状態となり、一方的な攻撃を受け続けることになる。
かつて、「民族融合」の象徴でもあったサラエボに生まれ育ったオシム監督にとっても他人事ではなかった。
彼の妻と娘もまた悲劇の街サラエボに取り残されていたからだ。
サラエボは、封鎖によってすべての物資が不足し、人々は恐怖に震えながら生活をし続けていたのだが、とても奇妙なことに、女たちは皆、いつも綺麗な洋服を着て、お化粧をしていた。
家のすぐ隣に爆弾が落ちた時、死ぬ時もせめて美しくありたいという思いからだという。
そして市民の中には、サラエボを出るチャンスはあったのに、しかも常に危険と隣り合わせであっても、サラエボに居座わることこそが、ひとつの抵抗を意味していた。
オシムは新ユーゴスラビアの代表監督としての職務をまっとうしたものの、それぞれの民族を代表する立場になっていた選手たちにとって、新ユーゴ代表チームに参加することは、自分たちの民族を裏切る行為ととられかねなかった。
それは自分だけでなく家族や親戚にとっても危険な行為となることから選手たちは次々にチームへの参加を断ってきた。
そしてオシムは代表監督を辞任し、ギリシャのチームの監督に就任する。
彼の元でチームは1992年・93年に国内リーグ2位となり、カップ戦での優勝も果たした。
しかし、彼の方針を無視して勝手に選手を補強するオーナーと意見が合わずに一年で退団。
そしてオーストリアのチームに就任し、2度のリーグ戦優勝を果たし、欧州クラブ・チャンピオンズ・リーグにも出場。一躍チームの名前を世界に知らしめることになった。
1994年、彼は2年半ぶりに家族と再会を果たすものの、サラエボには未だ平和を訪れてはいなかった。
そんな状況の中、彼は再びチームの移籍を決意する。家族と平和に暮らせる国へ。
それがアジアの果ての日本のプロリーグ、その中のもっとも予算規模の小さなチーム、ジェフユナイテッド市原であった。
彼の元で、ジェフは強豪チームへと生まれ変わり、リーグ戦での優勝こそできなかったものの、天皇杯での優勝という快挙を成し遂げている。
そして、彼はその手腕を高く評価され、2006年ジーコの後を受け、日本代表チームの監督に就任した。

東山彰良氏の作品「流」の直木賞受賞は台湾でも大きく取り上げられていているという。
それは17歳の少年葉秋生の観点から、祖父の葉尊麟と父親の葉明輝について書かれた物語。妻や息子、娘、他人には厳しい祖父だが、孫である主人公、葉秋生には優しかった祖父。
その祖父が、1975年の台湾、国民党の偉大なる総統・蒋介石が死んだ翌月に何者かによって殺された。
祖父は、大陸山東省出身で、匪賊、やくざ者として大戦中、国民党の「遊撃隊」に属し、共産党に属す多くの村人を惨殺した。
日本が敗戦により大陸から撤退すると、「国共内戦」は激しさを増し、徐々に追い詰められていく国民党に属していた、祖父は何度も死線をかいくぐり、最後は命からがら家族と仲間達は「台湾」へ渡る。
さて、東山氏の祖父が殺された蒋介石死去前後の台湾の「世相」はどいうものだったのか、ほとんど知らないが、この小説は、当時の海を隔てた戒厳令状態の緊張感、国威発揚の愛国教育、自由にものをいうこともできなかった統制政治の状態にあったことを明らかにしている。
ところで、日清戦争で1895年に日本が清朝から割譲を受けた台湾は、50年間にわたる日本の統治と、国共内戦で逃れてきた「外省人」による国民党統治の時代である。
そして1987年の「戒厳令」解除以後、「本省人」出身の初の総統として李登輝氏李登輝時代、その後の国民党と民進党との激しい闘いの時期に分けられる。
さて、1930年のおきた霧社事件は、日本統治時代におきた「暗黒史」のひとつである。
山岳地帯にあるこの霧社(セデック族)が、運動会が行われていた当日に日本人を襲撃し、女性や子供を含む約140人の日本人が惨殺された。
その後、日本軍と警察による合同の鎮圧部隊によって800人を超えるセデック族など原住民が討伐された。
この事件は、映画「セデック・バレ」で描かれたが、原住民のセデック族の頭目モーナ・ルダオが日本の支配に反発して蜂起し、激しい戦いの末に敗れ去った。
ところが、日本敗戦後、大陸から逃れてきた国民党によって、事件の首謀者モーナ・ルダオは、一転「抗日英雄」となる。
そして霧社の中心部には、「抗日英雄紀念公園」があり、そこにはモーナ・ルダオを讃える「紀念碑」がある。
1945年、戦争に負けた日本は台湾を去ると、逆に日本人犠牲者の墓は消され、「留日」と呼ばれた日本で学んだ台湾人エリートたちは、徹底した弾圧を受けた。実は台湾人の「外省人」と「本省人」の深い溝はココに起因している。
さて、話を1930年代に戻すと、霧社事件の翌年にあたる1931年、日本と台湾にとって霧を払うような快挙があった。
日本人監督・近藤兵太郎に率いられた「台湾野球チーム」が夏の甲子園大会に出場し決勝にまで進出したのである。
近藤は1888年に愛媛県松山市萱町で生まれで、1903年に松山商業に入学し、創部間もない弱小の野球部に入って内野・外野手として活躍し、主将も務めた。
1918年に母校・松山商の初代・野球部コーチ(現在の監督)となり、翌年にははやくも松山商を初の全国出場(夏ベスト8)へと導いている。
1919年秋、野球部コーチを辞任するや台湾へと赴き、1925年に嘉義商工学校に「簿記教諭」として着任した。
その後 近藤は嘉義農林の野球部が台湾人、日本人、原住民族の「混成チーム」であることに違和感を覚えず、校内で野球に適した生徒を見つけて野球部に入部させた。
そこで台湾最強チームを作るべく、松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え上げ、チームを創部3年めにして、全国準優勝するまでの強豪へと育て上げた。
準優勝したメンバーのうち、レギュラーメンバーは日本人が3人、台湾本島人2人、先住民族(高砂族)4人であった。
近藤兵太郎は、「日本人、台湾人、先住民族(高砂族)が混ざりあっている学校、そしてチーム、これこそが最も良い台湾の姿だ。それが負けるとしたら努力が足りないからだ」とまで言っている。
足の速い台湾の原住民族、打撃が素晴らしい漢民族、そして守備に長けた日本人の3つの民族の混成チームが弱いはずがないというわけだ。
ちなみに、現・北海道日本ハムファイターズの「陽岱鋼」(よう だいかん)は、台湾の台東県台東市出身で、台湾の原住民・アミ族出身である。
台湾人史上最高位の指名(ドラフト1位)を受け、台湾では話題となった。
そして2014年台湾で、近藤が指導した嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)の野球部の活躍を描いた映画がつくられた。
「KANO 1931海の向こうの甲子園」で、翌年日本でも公開され、永瀬正敏が近藤を演じている。
「KANO」は、それまで1勝もしたことがないKANOつまり嘉義農林学校が、日本人監督に率いられ、夢の甲子園で大旋風を巻き起こした実話をもとに制作され、台湾映画史上、空前の大ヒットとなった。