ナポレオンからピケティ

ヨーロッパで発達した修道院は、厳格な規律で知られる。厳密な時間管理の下、共同の労働に勤しむ姿は、意外にも産業化された我々の社会に近似したものを感じる。
また、罰則をもつ「修道院規則」は法に類似しているし、共同体を新たに創設するという意味では、政治社会を形成する憲法のような役割をもったともいえる。
しかし、法が人の個々の「行為」を問題にするものであるのに対し、修道院規則は、「人の生き方」全体に関わるという点で、両者は根本的に異なる。
それは、例えばフランシスコ修道会の主意書に典型的に表れている。
「修道士は個別の行為に対して義務を負うのではなく、むしろ神の意思を自らのうちで生きる義務を負う」とある。
フランシスコ修道会は、主イエス・キリストにならって「清貧」を旨とし、「所有権」を否定しつつも、互いに必要な物資の「使用」は妨げられないとした。
つまり、わざわざ「所有権」など確立されなくても、必要なものを必要な分だけを確保してよいという暗黙の了解(使用権)の下で、この「共同体」は何の問題もなく成り立っているのである。
このことに、新約聖書の「使徒行伝」に描かれた初代教会の様子が思い浮かぶ。
「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心をひとつにして、絶えず宮もうでなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた」(使徒2章)。
歴史の彼方のキリスト教共同体の姿は、「所有権の暴走」が人びとの生存権を蹂躙する今日の格差社会のアンチ・テーゼである。
また、人間が食べたいものを必要なものだけとって食べた「エデンの園」を思い浮かべる。
エデンの園からの追放、すなわち「失楽園」とは何か。人間己のが必要を超えて「過剰」に、欲望に従って生き始めたということである。
だからこそ市民社会の経世→資本主義の発達→人口増の過程で、本来値段がつかなかった労働や土地が「売買の対象」になったのだ。
さて、資本主義の格差拡大傾向を鋭く分析した世界的ベストセラー「21世紀の資本論」(ピケティ著)は、効率性を中心にすえた現代経済学に対して、あらためて「分配問題」を経済分析の核心に据えたという意味で新しい。
否、リカードやマルクスらの古典派経済学は「分配論」にかなりの関心を寄せていて、旧い問題意識の「復活」というのが正しい。
経済学において「分配の問題」が中心から外れたのは、経済の発展にともない「格差は縮小される」と楽観視されていたからかもしれない。
しかしピケティは、18世紀から21世紀初頭の膨大な各国データで歴史的実証分析を行い、その「楽観論」を打ち砕いた点に意義があった。
ピケティは、まず「資本蓄積」について各国の租税データなどからの実証分析に基づいて展開している。
彼はまず、20世紀に二つの世界大戦による破壊と、平等化を目指す公共政策の導入で打撃を受けた民間資本の蓄積が1970年以降、本格的に復調してきたことを確かめる。
そしてピケティは、歴史上ほぼすべての時期で「r>g)」という単純な式があてはまることを実証した点で話題を集めた。
民主化と平等化が相伴って進展した20世紀は、例外的な時期だった。
つまり、株や不動産などの投資からの年間の収益率(r)が、過去300年で4~5パーセントなのに対して、賃金の伸び率(g)は1~2パーセントにとどまっている。
投資の元手がある人は、普通に働く人より所得を増やしやすく、格差は自然に広がり、それは「世襲」によってさらに強化される。
1980年以降は、国民所得に占める「相続と贈与の価値比率が増加に転じた」ことを確認し、相続による「社会階層の固定化」に警告を発する。
だが、「r>g」は、資本主義に不可避的な経済法則ではない。
特に国家による資本(または所得)課税のあり方は、資本収益率に決定的な影響を及ぼす。
1980年以降、グローバル化で各国間の租税(引き下げ)競争が強まり、資本課税は弱体化してしまった。
、 したがって、今日の「格差拡大是正」の処方箋として、国際協調に基づく「グローバル資本税(富裕税)」の導入が不可欠だと強調する。

さて先日、日本の120年ぶりの「民法改正」のため法制審議会の法案がまとまったというニュースを聞いて、個人的に歴史の奥のひとつの流れが浮かび上がった。
それは、「ナポレオン→ボアソナード→ピケティ」という流れだが、この3人の奇抜な組み合わせの連関は、まずフランス人であるということ、もうひとつは「所有権/家族観」に対する問題意識を日本人に喚起した点である。
ところで、フランス革命の理念は、自由・平等・私的財産の保障であり、そのフランス革命の成果を諸国に広めた「ナポレオン法典」の世界史的意義は、とてつもなく大きい。
「契約の自由」と並んで「所有権」の絶対性が具体的に定められ、諸国の「民法」に多大の影響を与えたからだ。
そして明治政府の招きで日本にフランス流の民法を定着させようと日本にやってきたのがボアソナードだった。
ボアソナードは、明治時代にナポレオンが確定した「私的所有権」およびその家族観を日本に伝播しようとした人である。
フランスの「身分制社会」では、国民の内98%は第三身分(平民または農民)であるために、革命の身分制社会からの自由や平等を勝ち取るために戦った。
しかし諸外国からの包囲網と繰り返される政変のために、せっかく手に入れた土地でさえも、またしても自分達の物でなくなるのではないかという不安がつきまとっていた。
ところが、ナポレオンは「ナポレオン法典」によって「所有権の絶対」(私有財産の不可侵)を入れ、農民の土地も保証したため、「ある時期まで」人々がナポレオンを我らが英雄だと受け取ったとしても不思議ではない。
実際にナポレオンは、軍事の天才であるだけでなく、政治・経済等多くの分野で非凡な才能を示している。
経済面では、フランスの国立銀行にあたるフランス銀行を設立したし、法律においても古代の東ローマ皇帝ユスティニアヌスの「ローマ法大全」を貧乏小尉のころ読破し、その章句を引用して人々を驚かしたりもした。
ナポレオンが統領政府の時代に制作した「ナポレオン法典」はナポレオンの法政における偉大な成果で、彼の残した法典は現在でも生き続けている。
つまり、ナポレオンは失墜ししんだとしても「ナポレオン法典は永遠に不滅」といってよい。
フランスでは、絶対主義が成立したころから,全国統一的な法の施行がのぞまれ、統一法典を編纂する企画がもたれた。
フランス革命時代にこの作業は具体化して、草案が何度か議会に提出された。(1791年憲法・1793年憲法・1795年憲法)
しかし身分、階級、職業の相違に加えて、地域的な利害が絡んでなかなか「決定版」とはならなかった。
しかし1799年、ブリュメールのクーデタによって、ナポレオンを第一統領とする「統領政府」が樹立され、社会が安定し始めると、新たな社会秩序に対応した統一的な法制が要求されるようになる。
ナポレオンは、四名の起草委員会を設け、ナポレオン自身も参加して審議された。
1800年8月から審議が始まり、1803年から1章ずづ議決し、1804年3月に36章の公布を終了した。
しかし、そのすべてが革命の成果というわけではなく旧体制(アンシャン・レジーム)との「妥協」の産物であったといってよい。
そこには、フランスの慣習法や旧体制の王令(特に物件法や家族法の分野)の中世的諸要素の影響も認められるからだ。
、 一方で、ナポレオン法典は、債権法ではローマ法的思考の影響があり、基本権の保証では自然法の影響が見られるため、「ローマ法の精神」を近代に甦らせたものであるといわれる。
自然法思想にもとづく「ロ-マ法」は、中世においては神の摂理としての「教会法体系」にとって代わられ,絶対主義時代にあっては「王権神授説」に基づく法体系が支配していた。
ナポレオン法典はこれを克服して,人間社会のなかにおける人間の自由な活動を助長するために、「契約自由の原則」など人間が規制する法を実現したといえる。
これが「ナポレオン法典」をして、市民社会のための近代法たらしめる理由である。
その内容は第1編では、家族法・婚姻法・後見法が置かれ、第2編では、物権法で「所有権」の原則が貫かれ、第3編では、相続法、債権法、担保物権(抵当権等)などにつき「契約自由の原則」が現れている。
なお、「ナポレオン法典」とは、ナポレオンが制定したフランスの「民法典」の別名だが、民法典に限らずナポレオンによって制定された商法・刑法・民事および刑事訴訟法の総称として、「ナポレオン諸法典」ということもある。

ナポレオンはヨーロッパに支配領域を広げていく過程で、その革命の理念を植えつけていった。
そこで、この法典の精神は全ヨーロッパにひろがり、ヨーロッパの法を導入したラテン=アメリカ諸国、またアメリカや日本の法も同一原理のものとなって、近代国家の法にそれぞれ共通することになった。
とすると日本国憲法も、「マッカーサー草案」経由でナポレオン法典の影響を受けたといえなくもない。
1870年(明治3年)、日本は江藤新平をして民法典を翻訳し、制定しようとした。
その後ボアソナードを招いてフランス民法典に習って民放草案を起草し、1890年に公布する。
これは「旧民法」と呼ばれ、1896年1月1日より施行の予定であったが、日本の家族制度と合わないと言ういわゆる「民法典論争」が勃発し、結局施行されなかった。
さて、日本に招かれたさて、ボアソナード(1825~1910)は、バンセンヌで生まれました。パリ大学で法学博士号取得しグルノーブル及びパリの両大学の助教授となり、パリ大学教授となっている。
1873に、日本政府に招聘されて来日して以1895年まで20年余り、日本の立法事業と法学教育に尽くした。
司法省顧問として1881年の旧刑法や、1891年の旧民法は彼が起草によるものである。
しかし、旧民法の施行をめぐって、日本の学者の間で、特に相続などの条文が日本の民族習慣に合わないと反対意見が出て論争を巻き起こし、施行断行を主張する断行派(梅謙次郎)との間に激しい論争が繰広げられた。
延期派の穂積八束は「民法出デテ忠孝亡ブ」と論じ、結局彼の起草した民法は、帝国議会で施行延期となってしまいました。
ボアソナードが日本の民法を考えた時、フランス系民法を手本に、個人主義を採用した。
これはそのまま条文に生かされ1890年に「公布」され、これを旧民法(ボアソナード民法)という。
ところが「公布」から「試行」の段階にいたる過程で「待った」がかかった。それは主として所有権の問題ではなく、家族観にかかわる部分であった。
それは、「個人主義」と「家制度(戸主制)」に対する考え方の違いであった。
1891年、旧民法公布の次の年に東大教授の穂積八束が、「民法出デテ忠孝亡ブ」という言葉で反対を表明した。
つまり旧民法みたいな考えだと日本の美風とされていた親や天皇、立場が上の者にたいする尊敬の気持ちが失われてしまうというものであった。
一方、梅謙次郎ら断行派は「家長権は封建の遺物である」と反論し、フランス民法の導入を主張し、多くの学者が二つに分かれていわゆる「民法典論争」となっていった。
ボアソナードの草案が批判された理由として、「妻や未成年の子供に完全な権利能力を認めていた」「賃借権も所有権と同様、物件として扱って地主の権利を脅かすおそれがある」ということであった。
そして政府は日本の現状にふさわしくないとして公布した旧民法の施行を1892年に無期延期した。
その結果、民法についてはボアソナードの帰国後、1898年にドイツ民法にならった修正が加えられて「明治民法」が施行されている。
この新しい民法では、戸主権を絶対化し、父権や親権が強く、家父長的な家族制度を維持する役割を果たし、家族の居所指定権、結婚同意権、未成年者の親権を持つなど「戸主権」が強化された。
逆に妻は法律上の権利能力を欠く存在とされ、単独で法律行為が行えない等と、ボアソナードの草案とは全く異なったものになっている。
ちなみに、「民法典論争」は大学をも巻き込み、今日の首都圏における大学野球の編成にも影響を与えた
旧民法賛成派が、法政大学・明治大学で旧民法反対派が中央大学・早稲田大学・東京大学である。
結果、反対派が勝利したのだが、勝った反対派は現代において、なんとなく司法試験合格者の多い感じがある。
法政大学にはボアソナード・タワーという研究施設もあるが、中央大学は、現在の野球部に繋がる学生組織が成立する以前、東京五大学野球連盟(1921年~25年、現東京六大学野球連盟)から東京帝国大学などとともに新規加盟を打診された経緯を持つが、当時東京帝国大学との「民法典論争」の渦中にあり、これを理由に固辞している。
一方で中央大学が主体となって、日本大学、専修大学、國學院大學、東京農業大学とともに新しい五大学野球連盟(現東都大学野球連盟)を結成し、創生期には専修大学、日本大学と常に優勝争い、東都リーグ発展に大きく貢献している。

家族観と格差問題を考える時、ピケティの「世襲社会に戻りつつある」という指摘にやっぱりそうかと思う。
つまり、相続財産に依存する社会が戻ってきていることだが、欧州や日本では経済成長率が低いため、過去に蓄積された資産が重要になる。
しかも小子化となると、その傾向が助長されるといってよく、長い目で見て重要な不平等対策は、人口を増やすことである。
ピケティの功績のひとつは、社会の不平等が縮小するは、かろうじて戦争の後の時期だということ実証した点である。
この分析に、サンフランシスコで社会民主党を結成した幸徳秋水の「平等社会」体験が思い浮かんだ。
幸徳秋水は、1904年、堺利明とマルクスの「共産党宣言」を翻訳発表し即日発禁されるが、翌年「新聞紙条例」で入獄し7ヵ月後に出獄して、サンフランシスコに渡っている。
出獄後の健康回復のためとの理由だが、実は同じ高知出身で印刷所を経営する岡繁樹らが設立した平民社のサンフランシスコ支部を日本の革命運動の「震源地」とするためだった。
しかし、幸徳は、本当に1906年サンフランシスコ地震に遭遇し、一時的に私有財産や貨幣価値が無効となった事態に接し、自分達が理想とする「平等な配給社会」を垣間見た感じがしたという。
とはいえ、平等になるために戦争や災害が起きることを誰も望むまい。
また平時だとしても、皆が平等に「貧しくなる」というような政策は本当に受け入れられるだろうか。
それよりも、進駐軍として広島で原爆の惨状を見た経験をもつ政治哲学者のジョン・ロールズの「ミニ・マックス」原理は政策基準としてなかなかのものである。
すなわちある政策(例えば累進課税)によって最低の生活水準が「最大限に」アガル限りにおいて、その格差は是認されるというものである。