飢餓が生んだ名作

炎のように燃える、紅蓮の空。うねるように伸びる、紺碧のフィヨルド。空と大地は溶けあい、不気味に揺らめいている。
真っ直ぐ伸びる道に、白い顔の人。顔は縦に伸び、耳に手をあて口を大きく開けて、何かを叫んでいる。
ノルウェーの画家ムンクの有名な「叫び」である。
この絵につき、ムンクは次のように語っている。
「私は友人二人と道を歩いていた。陽が沈んだ。空が突然血のように赤くなった。そして私は、自然を貫く大きな永遠の叫びを感じた」。
エドヴァルド・ムンクは1863年、5人兄弟の長男として生まれた。
幼くして、結核で最愛の母親を失い、医者だった父は妻を救えなかった自分を責め、ひどく神経症を患った。
その9年後、姉も母と同じく結核で亡くなり、妹も神経症となってしまう。
不安を払うように絵を描くうちに頭角を表わし、1889年26歳になったムンクはパリに留学する。
しかし、まもなく父親が他界し、ムンクの絵はこの頃から、劇的に変化する。人間の内面を描きだし、己の逃れえない運命の不安を描いたのが、前述の「叫び」である。
しかし、この絵の誕生をムンクの病気がちな「家族史」ノミに求めるのは違うように思う。
ちょうどこの時期、ノルウェーという国じたいは歴史的苦難の中にあった。
時代を大きく遡ると、8世紀の終わりごろスカンジナビア半島に住む北ゲルマン民族(スウェーデン・デンマーク・ノルウェー人)が、卓越した航海技術で西ヨーロッパ沿岸を我が物顔で走行し、侵略を繰り返した。
彼ら海賊は「バイキング」と呼ばれ、海の上では対抗できるものはなかったといわれている。
現在の北欧の国々が持つおだやかなイメージと、そうしたバイキングの活動はあまり結びつかない。
ちなみに、各自が大皿から取り分けて自由に食べる「バイキング料理」は日本の造語である。
北欧諸国は高度な社会福祉を制度化したことで有名で、自動車メーカー、携帯電話、アパレルブランド、家具などの分野で世界的企業を生み出している。
その一方で、北欧諸国は、その森や湖に囲まれた豊な自然を守るために、国を挙げて取り組んでいる。
さて、そんな北欧の国々が共有する「歴史的な苦難」がある。
19世紀の後半、アメリカやロシアからの安価な穀物輸入などで、次々に経済危機、・食糧危機に見舞われた。
そうした反面、こうした「危機」を通して、働く女性の権利や貧困者の生活改善やが広がった。
実はムンクが生きたのは、食糧危機の時代で、特にノルウエーでは19世末から20世紀にかけて60万もの人々が職と農地を求めてアメリカに移住している。
19世紀の後半に、グリム兄弟が集めた民話集を元に作られた「グリム童話集」を読むと、中世から近代にかけてのドイツの飢餓、飢饉の厳しさ、食料を失うことへの恐れに溢れているといって過言ではない。
さまざまな場面で「食べる」ことが物語の中心にあって、食へのコダワリをしめしている。
もっとも有名な「赤ずきん物語」は、赤頭巾ちゃんが「狼に食われる」話で、その後狩人が狼の腹を裂いて赤ずきんとおばあさんを助け出す。
「ヘンデルとグレーテル」の物語で、「お菓子の館」が出てくるのも、食べることへの執着が見られる。
ちなみに、インターネットの世界で「パンくずリスト」というものがある。
あるWEBページのサイト全体の中での位置を、階層構造の上位ページへのリンクを順に並べて簡潔に記したもので、トップページからそのページまでの経路を示すことにより、訪問者がサイト内での現在位置を直感的に把握するのに役立つ。
名称の由来は童話「ヘンゼルとグレーテル」で、森の中で帰り道が分かるように「パンくず」を少しずつ落としながら歩いたというエピソードである。
一方、北欧デンマーク出身のアンデルセンの童話作品はグリム兄弟の様な民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。
若き日のアンデルセンの作品には、死ぬ以外に幸せになるスベを持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを童話を通して訴え続けているといってよい。
ヨハン・アンデルセンは、1805年デンマーク、フュン島の都市オーデンセで生まれた。
靴職人の父親が亡くなると自分の進路を決めなければならなくなり、15歳の時、彼はオペラ歌手になろうとし、コペンハーゲンに行った。その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していたこともある。
その後コペンハーゲン王立劇場の支配人の助力で教育を受けさせてもらえる事になり、大学に入学することとが出来たものの、在学中の5年間も文学的才能について学長から嘲笑れたりして悲惨なものだった。
大学を卒業しなかったアンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。
ぞの間、グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴーなど旅先で多くの作家や学者と交友を深めた。
それらを滋養にして、1835年にデンマークに戻ってきたアンデルセンは、最初の小説「即興詩人」を出版した。
この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版されてアンデルセンの「出世作」となったが、「童話集」の方はむしろ不評であったという。
アンデルセンが70歳で亡くなった時、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになった。
彼は、世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続で生涯独身だった。
1956年には彼の功績を記念して国際児童図書評議会 によって「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として国際アンデルセン賞が創設され、隔年に授与が行われている。
この賞は「児童文学のノーベル賞」とも呼ばれ、高い評価を得ている。
ところで日本では、戦争や飢餓という厳しい現実を背景に、愛すべきキャラクター「アンパンマン」が生まれている。
作者のやなせたかしは1941年に野戦重砲兵として徴兵され、日中戦争に出征した。
やなせは陸軍軍曹として主に暗号の解読や宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたりもした。
幸いにも 従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。
ただ、その間に弟が戦死している。
終戦後、絵への興味が再発してやなせは漫画家を志すようになる。
そして貧乏だけは嫌いで、三越に入社して宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める。
そのうち漫画の仕事が増え、1953年3月に三越を退職し、専業漫画家となった。
1969年には「アンパンマン」が初登場。
ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの作品であったが、1969年に子供向けに改作した。
ただし、空腹の人たちの元へパン粉を届けるという点では共通している。
やなせ自身も戦中・戦後の食糧危機に直面し非常に辛い思いをした実体験が、パンを材にしたキャラクターを生み出すことになる。

2006年、フィンランドを舞台にした日本映画「かもめ食堂」が静かなるブームをよんだ。
フィンランドの首都ヘルシンキは青い空にのんびりとかもめが空を飛び交う。
また、ヘルシンキ郊外の公園では「桜まつり」が行われていて、桜を愛でながら和太鼓に剣術、また東京発の「パラパラ・ダンス」までが演じられていたのである。
それにしても、このフィンランド人の「親日ぶり」の背景には一体何があるのだろうか。
まず、フィンランドの先住民はアジア系(フィン人)で、その位置はヨーロッパで日本に「一番近い国」なのだ。
意外なことだが、飛行機でヨ-ロッパに行くときは北極圏を通過するので、そのことを実感をもって体験できる。
そして日本人とフィンランドの共通点をさがせば「風呂好き」ということである。
ただフィンランドで風呂といっても日本のようにザンブとはいる風呂桶などはなくシャワーとサウナである。
そして、目の前の湖が風呂桶がわりになったりする。
そして、フィンランドを「親日国」にした一人の日本人の存在がある。
「BUSHIDO」で有名な新渡戸稲造は第一次世界大戦後に、日本を代表する世界のリーダーの一人として国際的な役割を果たした。
国連事務次長であった新渡戸稲造は、1921年フィンランドとスウェーデンとの間に起きたオーランド諸島の帰属問題を託され、それを見事に解決した。
この「新渡戸裁定」は斬新で「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、言葉や文化風習はスウェーデン式」というものだった。
この裁定でオーランド諸島は今や「平和モデルの島」となり、「領有権」争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになる。
オーランドの住民達は、「新渡戸裁定」が平和にしてくれたことに感謝し、新渡戸をとても尊敬していると語った。
フィンランドは森と湖の国であり、国土の4分の1が北極圏で幻想的な白夜やオーロラをみることもできる。
フィンランドは寒く夜が長い。
小さな頃から寝る前に親が色々な話を読み聞かせるという習慣がある。
国際的な学力テストの世界1位の背景には、図書館利用率が世界1位という子供のころから本を読む習慣が大きいのではなかろうか。
その反面、この国の人々は、現実世界の「過酷さ」を早くから教えられる点で、どこの国にも負けない。
その証拠に「徴兵制」があり、フィンランド人の男子は基本的に短くて6ヶ月は義務で軍で訓練に就き女子の場合は志願制となっていて、希望すれば男の子と同じように軍で過ごす。
ファンタジーと国際関係の過酷さのギャップの大きさこそが、この国の人々の特徴ともいえる。
1939年ソ連のスターリンはフィンランドへ侵攻で敗戦国の立場に立たされる一方で地理的にも西側の支援は期待できず、ソ連と「友好協力相互援助条約」を締結し、独立および議会民主制と資本主義の維持と引き換えに、事実上は東側の一員として行動することとなった。
そして、マスコミにおいて「自主規制」が行われ、ソ連の侵略などに対する言及はタブーとなった。
こうした現象を「フィンランドックス」といい、西側諸国においては否定的な意味合いで語られる。
フィンランドでは、1980年ころまでは実際にソ連に批判的な言論はできない雰囲気があり、フィンランドが「親日的」なのは、かつて日露戦争で日本が長年の脅威であったロシアを打ち負かしたことにも関係しているに違いない。

サンタクロースを生んだフィンランド人は、ファンタジーやそれに基ずくキャラクターが大好きな国民であることに間違いない。
先日、民放の「美の巨人」を見て驚いたのは、ムーミンはもともと「醜く小さな生き物」であったこと、もともとは海辺の住人であったこと、そして作者が日本画の影響を受けていることである。
昨年2014年は、「ムーミン」シリーズを生んだトーベ・ヤンソン(1914~2001)の生誕100周年を記念した展覧会が日本各地で開かれた。
トーベ・ヤンソンは、第一次世界大戦が始まった1914年フィンランドの首都ヘルシンキで、彫刻家の父とグラフィックアーティストの母の長女として生まれた。
芸術家の家に生まれたトーベは、まるで呼吸するかのように」芸術とともに育ったといわれている。
思う存分芸術を追求することができた父としっかりもので家庭を支えた母は、そのままムーミンパパとムーミンママに重なってもみえる。
また、ヤンソン一家は毎年夏になると、自然豊かな郊外のサマーハウスで過ごすのが習慣だった。
ストックホルム近郊の島やペッリンゲ群島地域などで過ごした幸せな夏休みの記憶は、ムーミンの物語に色濃く反映されている。
トーベは早熟なアーティストだった。わずか15歳で雑誌やポストカードのイラストレーターとしてそのキャリアをスタートさせた。
10代後半で商業デザインや美術を学び、20代になると奨学金を得てフランスやイタリアに留学した。
帰国後は、油彩画の個展を開く一方、イタリアで学んだフラスコ画の技法でヘルシンキ市庁舎の壁画などのパブリックアートを手がける。
15歳で挿絵画家として働きはじめる 目指していたのは油絵画で、パリやイタリアにも留学した。
第二次世界大戦がはじまると、戦争は、美しいものを踏みにじり、怒りや悲しみに染めていく。そして美しく絵を描く気力を失っていった。
やむなくトーベは「食べていくための仕事」として、商業美術の世界でも活躍の場を広げる。
1933年以降は風刺雑誌「ガルム」でメインのイラストレーターとして活躍。
第二次大戦中は、ヒットラーなど独裁者たちを揶揄した風刺画を多く描いた。
その片隅には、署名とともに、小さく添えられていた「いつも怒っている醜い小さな生き物」があった。
それらの絵の中には、すべてを奪いつくす強欲なヒットラーが辛辣に描かれている。
トーベは両親から悪いことをすると悪魔が来ると聞かされていたが、戦争はもっとも悪いことで、醜い生き物は醜い戦争のの象徴である。
さて、戦争が終わった1945年にトーベは「小さなトロールと大きな洪水」という物語が発表される。ムーミンたちの家が洪水で流され、美しい谷に流される。つまり「ムーミン谷」の始まりである。
戦争が終わり幸せの時代がやってくる。それに呼応するかのように、ムーミンの姿も愛らしい姿となった。
1950年に第三作「たのしいムーミン一家」が英訳され、イギリスで好評を得る。
それをきっかけに1954年には、当時世界最大の発行部数を誇ったロンドンの夕刊紙「イブニングニュース」で週6日の連載漫画がスタートし、たちまち人気となり、スウェーデン、デンマーク、母国フィンランドを始め、最盛期には40カ国120紙に転載されたという。
そして1964年にはパートナーともに、ペッケリンゲ群島沖にある小さな島に小屋を建て、毎年夏に訪れては創作活動に取り組んだ。
充実した日々は、ムーミン作品にも変化をもたらした。
1957年に発表した児童文学6作目の「ムーミン谷の冬」をターニングポイントに、作風はより内省的になり、子供だけでなく多くの大人の読者も惹きつけるものになっていったという。
1966年には児童文学の最高の栄誉とされる「アンデルセン賞」の栄冠に輝いているが、1954年イギリスで連載することになった時点で、平和になるにつれムーミンが「ふっくら」していった40か国で翻訳されるほど大人気になる。
さてムーミンは、意外にも日本の浮世絵の影響を受けている。
「ムーミンパパの思いで」に描かれた波の画フィンランドらしい荒々しい波 。実はこれが葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」から影響受けている。
特に、線だけで迫力ある波を表現する北斎の画はヒントになっている。
トーベは、広重の「おおはしあたけの夕立」の影響うけて、雨中でのピクニックの画を描いている。
画家としての人生は険しい、しかしその困難を超えれば幸せがやってくるという思いをこめたようだ。