リバーシブル

2015年9月5日から、中国北京で軍事パレードがあった。
従来、中国の軍事パレードといえば「外向け」、つまり外国に対する「力の誇示」とみられている。
しかし、今年の軍事パレードは様子が違っていた。
中国の軍事パレードは、建国から10年ごとの節目節目に実施されてきたので、その間隔でいえば2019年に行うべきところだ。
それを、わざわざ「抗日勝利70周年記念」と銘うって行ったパレードだった。
ただ、中国が今更「抗日勝利70周年」を世界にアピールすることにドンナ意味があるのかと思うと、むしろ「国内向け」の軍事パレードではなかったかと思える。
なぜなら「抗日勝利」は中国国内ではヨク通る言葉かもしれないが、これを「外国向け」にアピールしているとは、考えにくい。
今年の中国の軍事パレードが「国内向け」ならば、それは徳川家の「日光社参」に似ているかもしれない。
これは家康をまつる日光東照宮を、後の将軍が参拝する「日光社参」のことが思い浮かぶ。
各大名の各大名の兵馬を動員して長蛇の列を動かすもので、いわば「大規模軍事演習」であった。
それは、将軍の指揮権を確認する目的があったばかりか、街道周辺の住民は荷物運びを手伝い、宿舎用に自宅を空けた。
中国の軍事パレードで行進したのは約1万2千人だが、準備にはさらに多くの将兵が関わっている。
武装警察は街中で治安管理を行い、パレードに使う道路沿いのビルはフェンスで封鎖された。
中国の軍事パレードが行われている際、中国の新聞には「閲兵で検閲するのは、共産党中央と習近平主席に対する無比の忠誠である」と書かれた。
中国共産党は、軍事力で政権を獲得した「履歴」をもつために、威信を示す行為が軍事的になり、軍を動員する際に住民をもまきこむところに大きな意義がある。
習近平体制は政権トップについて3年弱だが、ここのところ「腐敗」にまみれた軍に大ナタをふるっている。
ここで軍をアラタメテ動員し、最高指導者の地位を示す必要があったとみられる。
しかし、わざわざ国内向けに「威信」を示す行為には、それだけ「脆さ」を抱え込んでいるともいえる。
このように同じ見カケでも「表(外国)向け/裏(国内)向け」の使い分けがなされ、それはメッセージの出し方の「違い」に表れている。

英語の「リバーシブル」は、裏と表がひっくり返るのが可能なもの。一番分かり易い例が服の裏表だが、その考えを拡張するとアメリカの「デイベート」もそれにあたる。
互いが主張の立場を「入れ替え」て相手を打ち負かす「討論術」を競う。
こういう「討論術」の発祥は、ギリシアのソクラテスか。若者に様々な問いかけを投げかけ、相手を矛盾に陥らせ、相手を降参させた。
ソクラテスは、その「弁証法」をもって人間が真理について「無知」であることを知らしめる方法とした。
しかし誰もが、ソクラテスのようにはなれない。
まずは、相手が想定している世界観や人間観から掘り崩して同じ土俵におかないと、議論はカミ合わないことが多い。
人間観(性善説/性悪説)や世界観(進歩主義的/終末論的)の違いが、意見が食い違いとして表れるからだ。
ところでこの世はデイベートに似て、内外の使い分け、攻守の入れ替わり 立場の逆転から禍福の転回まで、案外とリバーシブルにできている。
ひとつは、リバーシブルであった方が、相手の立場をよく理解できて、モノゴトが効率よくはこぶことが多いからでもある。
例えば、コンピューターのデータを盗む天才ハッカーが服役後、今度は警察サイドに雇われてハッカ-防止に生きるという「裏返し」もよくある。
それは、警察内で「ハッカー防止係」を育てるより、よほど効率的だからである。
そもそもハッカーにはそれほど罪の意識がなく、ゲーム感覚でハッキングをやっているケ-スが多いので、「正義のハッカー」になれば、まったくのゲーム感覚で「ハッカー防止」をやってくれるにちがいない。
さて、先日亡くなった作家の赤瀬川原平は多彩な才能のある人で、「宇宙の缶詰め」という創作がある。
ただ単に、蟹缶のラベルを剥がして缶の内側につけて、「表/裏」の逆転を演出をした。
ただそれだけのことだが、缶詰内に人がいて「密封」されたのなら、人間はいつしか食べられるのをジット待つ存在にほかならない。
宮沢賢治の物語に「注文の多い料理店」というのがある。
山猫の狩にきた二人の男が腹が減って料理店に入ると、扉を通るたびに様々な注意書き(注文)が書いてある。
髪をきちんとして靴のの泥を落して下さいから始まり、鉄砲と弾丸をここへ置いて、帽子と外套と靴をおとり下さい、ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、ことに尖ったものは、みんなここに置いてください、と続く。
さらに、壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください、早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてという注文になり、最後には壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください、という奇妙な注文になっていく。
そしてようやく二人は気がつく。通常、お客はレストランに入れば、食べたい料理を注文するが、この料理店の「注文」というのは、向う側がこちら「注文」を出しているということなのだ。
つまり、山猫を食べに来たお客が、山猫に食べられそうになるという「さかさま」の世界なのだ。
「注文の多い料理店」が刊行されたのは1924年だが、この5年後に世界恐慌がおこり、日本もいわゆる「軍国主義」の時代に突入していく。
「さかさま」の世界といえば、鉄格子を挟んだ看守と囚人との関係が逆転する辻仁成の芥川賞作「海峡の光」がある。
この小説の舞台は、閉じ込められたような「砂州の街」函館の海を背景に、函館青年刑務所である。
物語は刑務官である主人公の前に、かつて自分を残酷なイジメで苦しめた優等生・花井が囚人として入ってくることに始まる。
監視されるはずの刑務官たる主人公が、いつか自分の過去がバレルのではないかと、花井という囚人に監視されているような思いにかられる。
しかもその花井というのは、人の気持ちを弄ぶことができる天才的なイジメッコだった。
そして刑務官は、何も言わない花井に自分のすべてを読まれているような気がしてくるのである。
さらに主人公は刑務所の規律の中に自分を浸して生きるのに、花井はむしろ世の中の外側にいられることの自由を満喫しているように見える。
つまり主人公の目には、花井が刑務所の「内側」に居場所を見つけたようにも見えてくる。
そして刑務官は、この囚人と共生していく他はないという、「囚人」のような気持ちにさせられていく。
現実の世界でも、囚人の方が看守を「感化」するといったドラマがあるようだ。
1909年、安重根は日本による植民地統治下、伊藤博文を暗殺して、朝鮮では豊臣秀吉の朝鮮出兵を打ち破った李舜臣将軍と並ぶ「二大英傑」とされている。
個人的には、日本の植民地支配があったとはいえ、テロリストを国家的な英雄とすることには少々抵抗を感じる。
とはいえ安重根は事件後逮捕されて「旅順監獄」に収監されたが、その姿は日本人の検察官や判事、看守にまで深い感銘を与えたという。
安重根が正義感に富んだ高潔な人物であることを知り、日本人が獄中の安重根に「揮毫」を依頼し、その数は約200点に及んだという事実がある。
看守の一人であった千葉十七は安重根の真摯な姿と祖国愛に感動し精一杯の便宜を図った。そして、死刑の判決を受けた安重根は処刑の直前、「為國獻身軍人本分」と揮毫し、千葉に与えた。
韓国総督府での勤務を終え故郷の宮城県に帰った千葉十七は、仏壇に安重根の遺影と遺墨を供えて密かに供養し、アジアの平和の実現を祈り続けた。
1979年安重根生誕100年に際し、密かに守られてきた「遺墨」が韓国に返還された。
宮城県の若柳町大琳寺には千葉十七夫妻の墓があり、1981年、遺墨の返還を記念して、安重根と千葉十七の友情を称える顕彰碑が建立さた。
また安重根に感銘を受けた日本人として、当時、旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉がいる。
栗原は安重根の国を思う純真さに魅せられ、煙草などの差し入れをしたり高等法院長や裁判長に会って助命嘆願をするなどしていた。
処刑の前日に栗原が何かできることはないかと尋ねると、安は「国の礼服である白絹を死装束としたい」と言った。そこで栗原の祖母や姉達が夜通しで編み上げた白絹の礼服が安に差し出された。
そして安は1910年3月26日にその礼服を身につけて処刑となった。
栗原は安を救えなかった慙愧の思いからか職を辞して故郷の広島に帰った。
広島では医学関係の仕事につき、役人の世界に戻ることなく1941年に亡くなっている。
ソウルには安重根の偉業を伝える「安重根記念館」があるが、説明書によれば、安が処刑の時に身につけた白装束は、栗原の家族ではなく安の母親が編んだと説明されている。

ひとつの立場で生きた人生が、ある時点で全く反対の立場で生きることがある。
法曹界で、検事として長年生きた人が弁護士として生きるというケ-スなどが一番分かり易い例である。
その他にも、労働組合の幹部だった人が、今度は管理職として労働組合と向かいあうケースなどである。
さて、「日本型経営」は、その本質たる終身雇用や年功序列などがクズレつつある今日、その特性を失いつつあるが、それでも今なお「特殊」であるということに変わりはない。
その最大の「特殊性」は「取締役」の位置づけで、取締役の「内外の逆転」現象といえる。
日本では会社の優秀な人材は取締役に昇進し、そのなかでも専務取締役・常務取締役と昇進して、最後に社長や会長もその中から選ばれるのが「常識」である。
しかしこれは極めて特殊な「日本的常識」である。
「取締り」の本来の意味は、株主の代表として、会社を「外から」監視するというものである。
そういう役目だから、名前が「取締役」なのだ。
だから本来「取締役」というのは原則として、資本を出した「社外」の株主が派遣してくるものなのだ。
そこで欧米では、「代表取締役」も経営能力の優れた人材を連れてくるのが普通であり、「社内」から昇進させる社長ということは滅多にない。
だが日本では、取締役も監査役も実質「社長の部下」なら、「ガバナンス」が正常に機能せず、最近日本の一流企業の「不祥事」が続発している。
ところが意外なことに、戦前の日本は「経営モデル」としては今よりはるかに欧米に近似した「階級社会」であった。
今日いうところの「一般株主」はおらず、株主はごく少数の大金持ちに限られていた。
その典型は「財閥」で、非公開の優良株を独占していて、配当をタップリもらい、それだけで一族が悠々と暮らせたのである。
同時に広大な農地も宅地も持っていたので、その小作料や地代、家賃も入ったのである。つまり財閥は地主も兼任していたのである。
そういう財閥を形成する資本家は経営は「番頭」まかせで、資本と経営は明瞭に「分離」していた。
欧米の企業は早くから「資本と経営は分離」しているので、資本家は「資本」を出し、その専門家に「経営」をまかせる。
そこで、経営者の成功とは、経営を委託してくれた資本家に期待以上の「配当」を支払うことでしかない。
これはマサニ戦前の日本の経営スタイルと似ている。ただ日本の場合、ヘッドハンティングはそれほど頻繁ではなかったので、莫大な報酬を約束されたほどではなかったが、それでも一般庶民とは比べ物にはならない生活が約束されていたのである。
「企業統治」上の問題とは、経営者が株主の利益に忠実な行動をとらずに、自己の利益にハシルことが最大の問題とされる。
この際、前述の社外取締役が配置された取締役会が「ガバナンス」(統治)の主体となるのである。
そして日本では、社外取締役が例外的ばかりであるばかりか、社外取締役でも、お互いにに役職を兼任しあい、企業社会の支配層によるいわゆる「インナーサークル」が形成されるのである。
一方、日本では労働者が「経営参加」することはないが、労働組合の幹部から「転じて」会社の経営陣に入ることケースが一般的に見られ、それは欧米ではマズあり得ないことである。
日本の会社はある種の「共同体」(ゲマイシャフト)であり、とうてい「株主」にだけ顔をむけて経営するわけには行かず、むしろ「従業員」の利益を第一にしてその「福利厚生」にも重視しなければならない。
そして「株主総会」は形だけで済ます傾向がある。
日本では戦後、「労使一体」で戦後復興を果たしてきた労働組合が「人事管理」に大きな力をもっている。
だから、社長といえども組合の力を借りないと、「人事管理」ができないという面がある。
会社の「人事部」に組合役員がかなりいたりして、早くから管理職になって「人事部長」の地位についたりしている。
そこで日本は、労働組合の役員のポストが「出世コース」といわれるほど「リバーシブル」な社会なのだ。
さらに、単なる消費者クレーマーから大企業の社長に転じた「リバーシブル」な人もいる。元ソニ-の社長の大賀典夫である。
1950年 ソニー((当時、東京通信工業)が最初のオーディオ・テープレコーダーを出した時、大賀典夫は東京芸術大学の声学科の学生だった。
大賀はこのテ-プレコーダーの愛好者であったが故に、いち消費者として新製品に対する辛辣きわまりない批判をソニーに提出した。
その内容はソニーの側からして、納得できるものが多かったため、このひとりの音楽大学の学生の意見に注目するようになった。
そして大賀がイマダ学生時代であった1953年、嘱託としてソニ-と契約し、ソニー専属の有給の批評家になった。
そし大賀の思いつきは、常に斬新で魅力に富んでいた。
1959年に大賀はソニーに入社し、昼はソニーの社員として働き、夜はバリトン歌手として音楽活動をするつもりであった。
しかし過労からオペラ公演で失敗し、やがてソニーに専従することになる。
井深大、盛田昭夫両氏のもと第二製造部長、広告部長などを経て1964年に取締役に、1982年には52歳の若さでソニー代表取締役社長に就任している。
大賀が社長になった時期は、ちょうどCD(コンパクトディスク)発表の時期であった。
大賀の一番の逸話は、オランダのフィリップスの提案したCDの重要性にいち早く気づき、CDの開発を1978年にオランダのフィリップス本社を訪ねることから始めたことだ。
両者の規格の調整には多大の労力を要し、フィリップスは記録時間の長さで60分を主張し、ソニーは「記録時間の長さは音楽の楽曲の時間から逆算して決めるべきだ」と主張した。
当時、LPレコードではベートーベンの交響曲「第九」の収録に困っていた。
大賀は音楽家としての視点から、主要な楽曲をコンパクトディスク1枚に収めるには直径12センチで75分間の容量が必要だと強く訴え、結局この意見がとり入れられた。
また、大賀が社長在任中に、「ウォークマン」開発に関与し、現在のソニーブランドにつながる功績を残し、大賀は「ソニ-の旋律」を生んだといわれる。
CDやウォークマンの開発には、大賀典夫のクレイマ-からソニー社長への「裏がえった人生」があった。