道徳としての「武士道」

最近、道徳教育を小・中学校で必修化(または「特別教科」への格上げ)することにつき、人の行動の拠り所をどこにおくかが一番の問題である。
外国には、ある程度普遍的な宗教という基盤があるが、日本の場合何にもとめたら良いのか。
、 このことは、第一次世界大戦後に作られた国際連盟の事務次長であった新渡戸稲造に突きつけられた問題でもあった。
1889年頃、新渡戸がベルギーの法学者・ラヴレー氏の家で歓待を受けている時に宗教の話題になった。
ラヴレー氏に「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか」と尋ねられ、ないと答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返し聞かれた。
新渡戸はその質問に愕然とし、即答できなかったという。
その後、新渡戸は、日本人の精神が封建制と武士道が根幹を成していることに気付き、整理したものを「Busido」として世に出すことになった。
新渡戸は「武士道」について次のように語っている。
「武士道」を一言で表現するならば、「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」(ノーブリス・オブリージェ)と言える。
それは、武士が守るべきものであり、道徳の作法であるが、成文化された規範ではない。
その多くは、有名な武士の手による格言で示されていたり、長い歴史を経て口伝で伝えられてきた。
それだけに、「武士道」は実際の武士の行動に大きな拘束力を持ち、人々の心に深く大きく刻まれ、やがて一つの「道徳」を作り出していった。
そして、ある有能な武士が一人で考え出したものではなく、ある卓抜した武士の生涯を投影したものでもない。長い時を経て、武士達が作り出してきた産物である、と。
また、武士道では、知性とは道徳的感情に従うものであると考えられていた。
つまり知識とは、人生における知識適用行為と同一のもので、本来は知恵を得るための手段であること。
したがって、どんなに豊富な知識を持っていようとも、それが彼の行動に結びつかなければ、何の意味もないと書いている。
ただ「Busido」は諸外国に日本独自の道徳概念を紹介するために英語で書いたものであり、外国の歴史上の人物・故事など馴染みにくい箇所もあるが、キリスト教と比較するなど文化論としても面白い。
この本を読むと、新渡戸の先輩の内村鑑三が「キリスト教と武士道を接木(つぎき)する」と言ったことも、それほど奇抜な考えではないことがわかる。
ちなみに内村は札幌農学校第一回卒業生で、ウイリアム・クラーク博士の直接の薫陶をうけたが、新渡戸は第二回卒業生で直接には学んでいない。
新渡戸は「Busido」で、「義」「勇」「仁」「礼」「真」「名誉」「忠義」などの内容について吟味しその重要度を比較しつつ、例えば「義」について次のように書いている。
「義」とは、サムライの中でも最も厳しい規律である。
裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌うものである。武士の先祖達は、健全ではあっても洗練されているとは言いがたい気質の持ち主であったが、彼らは上記の思想や断片的な教訓を糧として彼らの精神に取り込み、それぞれの時代に要請された刺激に応じて、独得の「男らしさ」の型を作りあげていったのである、と。

個人的には、新渡戸稲造という人物につき、第一次世界大戦後に国際連盟の事務次長をつとめた国際人であり、5000円札の人物だった人ぐらいにしか知らなかった。
ただ少しばかり身近に感じたのは、新渡戸稲造が住んでいたの旧邸(通称・ニトベハウス)を、たまたま見つけたことによる。
文京区関口に住んでいて水道端から遠藤周作の「沈黙」で描かれた江戸キリシタン屋敷があった茗荷谷に向かう小日向の丘の途中にあった。
茗荷谷ののキリシタン屋敷とは、小説の中で悪魔の化身のごときイノウエ(井上筑前守)が、ロドリゴやフェレイラを精神的・肉体的苦しめた場所である。
ニトベハウスを反対に下って江戸川橋方面に行くと福岡藩の寄付で作られた「黒田小学校」(現在の音羽小学校に移転)がある。
黒田小学校は、黒澤明が出た小学校なので、「七人の侍」で日本の武士の行き方を世界に発信した黒澤明と、時代を遡って「Busido」で武士の精神を伝えた新渡戸稲造はすぐ近くに住んでいたことになる。
さて、ニトベハウスについていうと、新渡戸は東京小日向の、「郷土会」という例会をもっていた。
国際連盟事務次長を務めるなど国際派のイメ-ジが強い新渡戸だが、その経歴は札幌農学校卒業後、農商務省に勤務しており各地の地誌や習俗などに大きな関心をもっていた。
そこで通称ニトベハウスといわれるほど多くの外国人要人が訪問する自宅で、郷土研究に関する談話会を開いていたのだ。
新渡戸のこうした強い郷土への関心の背景には、新渡戸が戊辰戦争で賊軍であった南部盛岡藩出身であったことが大きい。
新渡戸の祖父にあたる新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった灌漑事業と森林伐採事業を成功させ盛岡藩の財政を立ち直らせた人物でもあった。
そしてこの例会には後に地理学の大家となる牧口常三郎などもこの会に出席しており、いわば幹事的役割を果たしていたのが柳田国男であった。
実は柳田国男が「遠野物語」を書いた時、その副題として「外国人に捧ぐ」と書いている。おそらく日本の辺鄙な農村の有り様が何らかの国際的な普遍性を持ちうるという認識があったにちがいない。
柳田のこうした視点は、柳田にとって農商務省の先輩・新渡戸稲造との交流があったのことが大きいのではないかと思う。
また、今日でも日本人が外国人と接点を結ぶ要因に「武道」または「武士道」がある。
かつての米大統領ローズベルトやロシア大統領のプーチンは、柔道を通じて日本文化と接点を持っている。
ケネディ大統領が就任演説後、日本人記者団に尊敬する日本人は?と聞かれて上杉鷹山と答えたら、日本人の記者がその名を知らなかったというエピソ-ドがある。
上杉家は戦国期は米どころ越後の大名であるが、関ケ原の戦いで西軍に加わり敗れ米沢という小藩へと転封となった。
米沢を寒さと痩せ地で貧藩にすぎないと思いこんでいたら、この第九代藩主・上杉鷹山の経営才覚で外国人から見て「桃源郷」のように映ったという記録が残っている。
名君・上杉鷹山の藩経営は、ケネディの就任演説の「国があなた方に何をしてくれるかよりも、あなた方が国の為に何ができるかを尋ねよ」という内容と重なり合う面がある。
しかしそれにしてもケネディは上杉鷹山の名前をどうして知ったのだろう。
思いつくのは日本の武士道が新渡戸稲造によって1900年に英文で「Bushido」として出版され世界に紹介されていたが、「Bushido」に上杉鷹山の名前は登場しない。
実は「Bushido」出版より少し前1894年に英訳された内村鑑三の「代表的日本人」の中で上杉鷹山がとりあげられている。
そういう事情から上杉鷹山の存在は海外で武士道とは直接的関係はないにせよ、結びつけられて受け止められたと推測できる。
さて新渡戸稲造は、1862年岩手県盛岡で生まれ、1933年カナダのビクトリア市で亡くなっている。
日本の文化を西洋へという、新渡戸の思いを表した「われ太平洋橋の橋とならん」の言葉は有名である。
また、フィンランドは新渡戸稲造を通じて親日国となっている。
それは第一次世界対戦中にスウエーデン、ロシアとの領土争い「オーランド諸島問題」を当時の国連事務次長であった新渡戸がいわゆる「新渡戸裁定」によって、平和裏に解決したからである。
またトルコと同じく、敵対国・ロシアを打ち負かしたことが大きい。

李登輝は第三代の台湾総統であり、若き日に京都大学に留学して多くの日本の思想にふれている。
中でも「Busido」に感銘してそれを自分の道徳基準としていることを公言してはばからない。
同時に著書「武士道解題」(小学館)の中で、今の日本人の中で「公義」を失った人が多いことを指摘し、あんなにも素晴らしい「武士道」を喪失したことが返す返すも残念であることを自国の国民のことのように嘆いている。
個人的に「武士道解題」を読んで一番の発見は、新渡戸が「Busido」を書いた経過につき、はじめて知ることができたことである。
それは夫人となる女性との出会いであり、また「武士道」が新渡戸の人生における最大の試練の時期に書かれたものであること、そして一番意外だったのは、この本が書かれた場所が、サンフランシスコとロスアンゼルスの間にある景勝地モントレーであったことである。
新渡戸は、第一回日米交換教授として渡米、国際連盟事務次長、太平洋問題調査会日本側理事長など国際的に活躍した、日本でも第一級の知識人だが、アメリカ留学中には、アメリカ人のメリ-・エルキンソンという女性と出会い、結婚している。
実は、この外国人女性との結婚が「Busido」を書かせた直接的な理由であり、しかもこの書物は新渡戸の人生における最悪の時期で、英気回復のために訪れたカリフォルニアの観光地・モントレーで書かれたのである。
1884年、東京大学を退学した新渡戸は、23才にして横浜を出航した。
同じ札幌農学校で学んだ内村鑑三はこの二ヶ月後にアメリカに渡っている。
新渡戸は、サンフランシスコに1週滞在した後、大陸横断鉄道で東部へ向かった。札幌で洗礼を受けた外国人牧師の勧めでペンシルバニア州ミードビルのアレニゲー大学に学ぶ。
しかし1年前から留学していた兄と慕う人物から、どうせ学ぶなら一流の大学の方がよいと自分がいたジョンズ・ホプキンス大学にすすんだ。
この大学は、メリーゴーランド州」のクエーカー教徒によって設立された大学で、アメリカ全土から秀才が集まってきた。
新渡戸はアメリカのキリスト教会に行くが、そこが華美なだめの皮相な教会であることに失望する。
ところがある日、クエーカー教徒(プロテスタント・フレンド派)の集会に呼ばれ、文字どおり体が震えるような、それでいて敬虔な体験をする。
その日以来、新渡戸はクエーカーの教会にしか行かないようになった。
ちなみに、日本の近現代史において、日本人指導者層とクエーカー教徒との「接点」が目に付く。
戦後皇室教育にはキリスト教が積極的に導入され、皇太子の家庭教師に二代続けて敬虔なクリスチャン(クエーカー教徒)が指名されている。
また新渡戸の畏友・内村鑑三もコネチカット州のハートフォード神学校に通って神学の勉強を始めるが、形骸化した神学校そのものに失望し、わずか4ヶ月で退学してしまう。
後に帰国してから、戦闘的な「無教会主義」の先導者になったのも、このようなアメリカでの実体験があるのではなかろうか。
さて新渡戸がクエーカー教徒の集会で出会ったのが、夫人となるメリー・パターソン・エルキントンであった。
新渡戸が、知人宅で女子教育の必要性を説いたところ、その話に感動したのがメリーで運命的なものを感じたという。
折りしも、新渡戸は3年間のヨーロッパ留学に出るが、二人の間に文通を通じた交際が始まる。
1890年6月、アメリカに戻った新渡戸は、メリーとの結婚を願い出て周囲の猛反対に会う。
しかし、それでも二人は清らかな愛を貫き通し、1891年3月に結婚し、札幌の地に戻ってくる。
実は、新渡戸が「Busido」を書こうと決意した最大のきっかけの一つは、この妻の日本理解を少しでも助けてあげたいと思ったからであり、「Busido」の中に「夫人の教育および地位」という一章を書き加えたのも、夫人を通じて女性が秘めている能力や才気を感じたからに違いない。
1891年、新渡戸は札幌農学校教授に任命される。そして翌年、待望の赤ちゃんが授かる。
新渡戸は赤ちゃんにトーマスと名づけるが、その喜びもつかの間のものとなってしまう。
わずか2週間もたたぬうちに最愛の子は天に召される。
当時の最果ての地・札幌の医療不備と酷寒が原因であった。
新渡戸夫妻の悲しみは筆舌に尽くせるものではなく、何をする元気もなくなってしまった。
特にメリー夫人は、産後の肥立ちも思わしくなく、メリー夫人の落胆ぶりは病の床から立ち上がることさえもできない状態だったという。
新渡戸は必死に看病に明け暮れたが、一向に好転する気配をみせず、意を決して妻をアメリカに連れ帰ることにした。
しかし新渡戸には、公務である札幌農学校での仕事が山積していたため、妻をアメリカに残ししたまま後ろ髪をひかれる思い出、再び波濤を越えて日本に帰国する。
ところが、こうした生活もやがて限界がきて、今度は病魔が30才になったばかりの新渡戸を襲う。
それは原因不明の「右腕の痛み」で、教壇に立ってもチョークを持つ手が震えるほどの激痛が襲った。
同僚達のアドバイスで病気の治療に専念するために休職届けを出して、1897年にメリー夫人とともに、神奈川の湘南海岸に居を移した。
東大のベルツ教授の診断をうけたところ、重度の神経衰弱だから、全快するためには少なくとも3年、悪くすると7年はかかるといわれる。
こうして、まず群馬県の伊香保温泉で療養生活を送り、その間に大著「農業本論」を書き公刊する。
そして1989年、メリー夫人の強い勧めで、アメリカで転地療養をすることになる。
サンフランシスコから海沿いに200キロばかり下った保養地・モントレーのデルモンテ・ホテルが新しい療養地となる。
ここで念願の太平洋を眺めながら一気に書き上げたのが、"The Soul of Japan"を外国人に理解してもらうために書いた本が「Busido」だったのである。
新渡戸が「Busido」で何よりも明らかにしたことは、日本人がいかに高い精神世界に到達していたかということである。
新渡戸稲造と内村鑑三は、ウイリアム・クラークの設立した札幌農学校でキリスト教というものに触れているが、面白いのは二人ともアメリカの上面だけのキリスト教会や形骸化した神学校の実態にいたく失望している点である。
さて「武士道」は、第二次世界大戦後、「軍国主義」と単純に結びつけれられて切り捨てられたが、この新渡戸が書いた「Busido」を実際に読んでみた人ならば、それがあまりにも皮相な解釈であったことがわかる。
また、哲学や倫理が専門でもない新渡戸が38歳にしてこれだけの教養に達していたというのも驚きである。
また、今日の有識者が道徳復活の基盤として「武士道」という言葉さえも表立って口に出せないということも不幸なことである。
なぜなら、日本人が尊敬すべき「代表的日本人」あるいは、日本人を感動させる「その行為」というものは、多かれ少なかれ「正しく」武士道精神を体現した人によるものだということを認識させられるからだ。
新渡戸は、第一章で「武士道は今なお、私たちの心の中にあって力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手に触れる姿や形はもたないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちをひきつけてやまない存在であることを十分に気づかせてくれる」 と、武士道を道徳体系として位置づけている。
また「封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている」と書いている。