オイコノミア風人生論

芥川賞受賞の又吉さんの出演するNHKの番組「オイコノミア」で、「サンクコスト」という考え方を教えてもらった。
実は、最近話題となった新国立競技場の「白紙化問題」こそ、この考え方が適用できる事例である。
ちなみに「オイコノミア」は2つのギリシャ語から成る言葉で、家を意味する「オイコス」と、律法を意味する「ノモス」で、「オイコノミア」は家の行政を意味する。
また、この言葉こそ、「経済学/ECONOMICS」の語源となっている。
さて、「サンク・コスト (sunk cost)」は、「埋没費用」と訳されるが、事業に投下した資金のうち、事業の撤退・縮小を行ったとしても回収できない費用をさす。
新国立競技場の初期デザインに基づく59億円は、白紙化のために戻らないが、これがサンクコストである。
一般に初期投資が大きく、他に転用ができない事業ほど「埋没費用」が大きくなるため、投資も新規企業の参入も慎重になる。
よって、「埋没費用」の多寡が産業の「参入障壁」を決める要因のひとつといえる。
もっと卑近な例をあげると、カネを払った映画は、途中から面白くなくても見てしまう。
初期投資の大きかった恋人とはキライになってもなかなか別れられない。
サザエさんの漫画で、自宅前でタクシーのメーターが上がったので先まで行って重い荷物をかかえて戻ってくるというのがあった。
つまり「サンク・コストの呪縛」にかかると、精神的コストまで払って投資を回収しようという態度を生み、腐れ縁的な時間をズルズルすごすことにもなる。
このたびひとりの女性アスリートが「新国立競技場」が「負の遺産」となってはならないと涙ながらに訴えた。
新国立競技場に「白紙化」の決断が遅れたのも、サンクコストが大きかったからだといってよい。
将来の惨苦のコストを考えれば、この決断は正しいといえそうだ。
さて自分が大学で学んだ経済学は、「サンクコスト」以外にも、コストについて様々なモノの考え方を提供してくれた。
そのひとつが「機会費用」で、パソコンを買うには金がいる。通常費用とはこの代金のことをさすが、もう一つ違う見方でコストを捉えることができる。
それは、パソコンの代金によって買えたかもしれないモノの価値、たとえば二泊三日の家族旅行の価値を失ったとして、これを「コスト」と考えるのである。
つまり機会費用というのは、或る選択をした結果、次に望んでいたチャンスが失われた価値とみることができる。
我々は日常生活の中で、自然に「機会費用」について考えているのである。
例えば、試験直前の最後の1時間を数学の勉強にあてるのがいいか、国語の勉強にあてるのがいいかなどである。
数学を勉強してえられる得点と、それによって失われる国語の得点を比較しているのである。
機会費用を「人生の選択」にあてはめると、さらに面白い。
まれに、大谷昇平のように「二刀流」で成功するケースもあるにはあるが、アインシュタインは優れた物理学者であるが、物理学をえらんだがゆえにに音楽家として成功する機会(収入)を失ったという見方もできる。
今、サラリーマンをして相当の収入を得ている人間は、才能があったとしても生活の安定に固執している限り、大きな機会を失っているのかもしれない。
そう考えると、世界は膨大な機会費用を支払っているのだ。
とはいえ、そういう心配から縁遠い人生もある。
行く先々で「この男不適応につきクビ」と烙印押され続けた彼らは、ただひとつの才能を発露する機会に恵まれたという、社会的に見て効率の高い人々なのである。
要するに彼らは、ひとつのことしかできないが、そのひとつが飛びぬけているので、ほとんど機会費用を払わずに済んでいる。
例えば「ターザン物語」の創作者は、1875年シカゴで生まれのバロウズという男である。
バロウズは、学校の試験はことごとく失敗、軍隊、牧場、鉄道、セールスマンと次々に職につくものの首になった。
社会的適応性にかけ、体も丈夫ではなかったからだ。
仕方なく、鉛筆削りを売る会社の代行業をしながら文章を書き始めた。
アフリカに投げ出された白人の赤ん坊ターザンががどのような人生を送るのかという空想物語であった。
1912年ある雑誌で発表されると大変な人気を集め映画作品ともなりバロウズは富を築いた。
まちがいなくアメリカン・ドリームの実現者ではあったバロウズは世界各地を豪華船で巡り歩いたものの、ついに彼の小説の舞台アフリカには足を踏み入れることはなかったという。
空を飛ぶことに見せられた男、サンテグジュペリの場合も良く似たケースである。
サンテグジュペリはエリート階層の出だが、学校の成績はさっぱりだった。
机に向っているのが嫌で、特に算数が苦手だった。
海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたのに、結果は不合格だった。
モロッコでの兵役に入隊し、民間航空機の操縦免許を取得したが、フランスに帰国後は地上での仕事についた。
婚約者の家族が飛行士という仕事を評価していなかったため、無理して地上の仕事を探したのである。
とりあえず瓦製造会社に入社し1年を過ごすが、死ぬほど退屈で、次にトラック製造販売会社のセールスマンとなった。
3ヶ月の研修期間に、機械工場でエンジンの分解の仕方をおぼえた。
以後トラックを売り込むために、中部フランスを走り回ったが、あまりの単調さにうんざりして、夜は街にくりだし金を使い果たし、すぐに貧乏暮らしに戻るという生活だった。
結局トラックは1台しか売れず、自ら会社をやめ、婚約も破棄され、職もなくなった。
それでも、考えることといえば、やはり空のことばかりだった。
そこで意を決して、郵便航空会社の面接をうけ、まずは整備士の仕事をした。
それから輸送パイロットの資格をとり、ついに自分の理想の居場所を見いだした。
彼が従事した航空郵便事業は、ヨーロッパと南米との間で一刻も早く通信を送り届けるのを使命としていた。
それには、飛行士の能力がものをいい、サンテグジュペリは危険をおかしたとしても、この仕事に身を捧げることにした。
飛行に没頭する中、虚飾にみちた地上での生活にますます嫌気がさしてきた。
「私は石のように不幸だ」「論争や除名や狂言に、酷く疲れてしまっている」この頃の彼の言葉である。
サンテグジュペリは1927年モロッコにある飛行場の主任に任命されるが、中継点でム-ア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったり、アラビア語を学んだりした。
そして、星の降る村、熱砂、スナギツネ、そして砂漠の民。壮大な自然が、サンテグジュペリの心を成長させ、のちの文学的な想像力の源泉にもなった。
第二次世界大戦中に「星の王子さま」が、亡命先の米国ニューヨークで書かれた。
帰国後、「夜間飛行」などで名声を博し、経済的にも豊かになるが、ダンスホ-ルやナイトクラブに出入りし伴侶とも出会うものの、彼の心を慰めたものは、結局「空への思い」しかなかったようだ。
1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため単機で出撃したが、消息を絶っている。
バロウズやサンテグジュベリは、機会費用の少ない作家だった。つまり彼らが作家以外の「機会」を与えられたとしても、何一つものにできそうもないからだ。

経済学で、「需要」という時、貨幣の裏づけのない「夢のような」需要については想定していない。
例えば、自分の家の前に高速道路が欲しいといっても、高速道路を建設するお金が個人で出せるわけではないので、こうした需要は市場には表われない。
JMケインズは、そういう「夢・需要」と区別して貨幣の裏ヅケのある需要をわざわざ「有効需要」という言葉で表した。
また、タトエ金の裏づけがあっても、正しく表明されない、アヤフヤナ「需要」もある。
例えば、クラスで行く遠足で使うシートを買いたいが、誰かが買ってくれるであろうと皆が思うため、結局誰も購入しないことになる。
つまりひとつのものを共同で使う場合、需要が表にでないのである。
経済学では「フリーライダー/ただ乗り」問題というが、この場合、「真の需要」よりも過少になる傾向がある。
そして「夢・需要」やフリーライダー現象を生み易い性格の財が「公共財」なのである。
新国立競技場もマサにそういう性格をもっている。
公共財の需要は、市場で正確に反映される事はないために、適切な供給規模が定まらない。
これを「市場の失敗」というのだが、少し専門的にいうと、「外部経済」や「外部不経済」が生じる場合に市場は失敗する。
例えば、自宅に植えた桜の木が隣家の主人の目を楽しませたとしても、弾いたピアノの音色が隣家の奥様を楽しませたとしても、隣家に金を要求する人はいないだろう。
逆のケースでは、工場の煙突の煙が自分の家の洗濯物を汚したところで、洗濯代を工場に要求するほどの猛者(もさ)もいないだろう。
前者のように「代価もとらず」外部に利益を与えるのが「外部経済」、後者のように代価を支払うことなく外部に「不利益」を与えるのが「外部不経済」である。
「外部」という言葉は、利益や不利益が「市場を経由」することなく生じているということを意味している。
以上のような経済学的な話からは、様々な「寓話」を引き出すことができそうだ。
人の運なり、知識なり、威光、なども一見、個人に付随したもののように見えながら、実は相当な「外部性」があり、他者の人生をも大きく左右するものなのである。
また、そういうものは目に見えず「数値化」もできず、その対価や「見返り」を相手に要求できそうにもないという点でも、公共財や公害に非常によく似ているのである。
実際、人々の生活は、知らぬうちに他人に利益を与えたり被害を与えながら、何らの対価を支払うことなく、見返りを要求されることもなく、何ごともなかったかのように営まれているのだ。
他者に関わるなかで、外部経済や外部不経済に当てはまるような「悲喜劇」がまだまだたくさん起きていそうな気がする。
例えば、能力があるのに遠慮がちなものは「過少」にしか評価されず、力がなくともパフォーマンスに優れた人は「過大」に評価されるとか。
また、善人は早死にし、憎まれっ子世にハバカルなどもある。
純経済学的な話に戻ると、外部経済のカタマリが「公共財」で、図書館や道路など一度作られたら誰ももその利益から排除できないし、反対に外部不経済のカタマリが「公害」で、一度発生しはじめると誰もその被害から免れることができないのである。
そこで、「負の公共財」が「公害」という関係になる。
公害は汚染発生者がその費用(洗濯代など)を外部に転嫁して負担を「減らす」ため、企業は内部費用(私的費用)を負うことなく「過大」に供給される傾向がある。
この場合、企業は私的費用を皆に負担させよう、つまり「社会的費用」に転じさせることによって利益を出し続けることができる。
こんな企業はPPP(汚染者自己負担の原則)に元づくようにしっかり規制する必要がある。
つまり、政治的プロセスによる「公共選択」によって、その供給量(または規制)を決定する他はないのである。
しかし、こういう「政治プロセス」も「官製談合」などの様な悪習ゆえにユガミを生じ、正しい「公共選択」は行われにくいのが現実である。つまり政治も失敗する。
さて「核の抑止力」または「核の傘」という言葉がしばしば使われる。
自由主義に属する日本は、当然にアメリカの「核の傘」に入るわけであり、アメリカの経済力の衰退原因の一つが日本の「対米貿易黒字」であるという認識から、日本の「安保ただ乗り論」という議論が澎湃と湧き起こった時のことを思い出す。
折りしも、JMブキャナン教授(1986年ノ-ベル賞受賞)らによって創始され世間で注目されはじめた「公共経済学」のテーマのひとつが「フリーライダー」(ただ乗り)問題であり、それはまさにアメリカの「核の抑止力」がスケールの大きな「公共財」として認識されるようになったということかもしれない。

ここで「外部経済」的思考を無理やり恋愛の世界に適用すると、男女の恋愛のやりとりは排他的な私的財(サ-ビス)である一方、少々不謹慎な言い方をすればマザーテレサの愛は多くの人に感動を与え人を救うために、公共財(サ-ビス)に近く、やたら街で博愛主義に徹する「遊び人」は公害的にエロースを振り撒いている負の公共財という見立てもできる。
最近「恋愛工学」なるものが登場し、この恋愛工学を小説風に紹介した本が出て話題を呼んでいる。
、著者は物理学に通じた投資家でもある。
特許事務所に勤める26歳の弁護士わたなべは、彼女にこっぴどくフラレる。
落ち込む彼の前に、女性達を手玉にとる水沢が現われ、恋愛は「運とスキルとゲーム」といいきる。
永沢の理論を実行したわたなべは、モテの階段を一団ずつ上がっていく。
主人公によれば、金融市場に金融工学があるように、恋愛市場にも恋愛工学があるとおっしゃる。
利益は、おとした女性達の市場価値からコストをひいたものらしい。
問題は、女性達もまた投資家であって、男性側の値動きをよりシビアに見定めていること。
投資してもらうために、男は女達が競って買いたくなる優良物件になる必要がある。
ただ株価同様に、この優良さは実体を前提とせず、優良物件と市場がみなすかどうかがポイントである。
そもそも男と女は景色が違う。
見ている自分と見られている自分は別物で「粉飾上等」の世界なのだ。スレッカラシの投資家どもを出し抜かないと勝てない。株よりもっとあからさまな欲望資本主義の戦場を描いている。
とはいえ、おそらく実際の恋愛では市場価値よりも「実質価値」がモノいうことを余韻として残している。
というのも、ナンパンマン(個人的造語です)となったわたなべは、素朴な直子に会い「何か」を感じとる。
この本が残した問題は、恋愛における「市場価値」と「実質価値」の乖離ということかもしれない。
さて、個人の才能の問題を国際貿易の理論に「比較優位論」から考えてみよう。
二国間で貿易をするときには、両国が有利な分野の生産物に「特化」して生産を行い、それぞれの国の「需要」に応じて「消費」した方が、全体としての「取り分」が大きくなるという理論である。
この理論、当事国が得意分野に専念してモノを作るわけだから全体としての「パイ」が大きくなるのは当たり前で、とりたてていうほどの理論ではない。
この理論のミソは、「絶対優位」ではなく「比較優位」なのだ。
結論をいうと、貿易にとって重要なことは、相手国と比べた生産性の「絶対水準」ではなく、それぞれ「国内」でどの分野が「比較的」に得意か、つまり「生産性」が高いかだけが、問われる。
具体例をあげると、政治家としても秘書としても有能な人物Aがいるとする。分業(つまり貿易)がないかぎり、その人は両方の仕事を「一人二役」的に行う。
さてモウひとりの人物Bは、政治家としても秘書としてもAに劣る。
Aさん個人の資質とBさん個人の資質をテストすると、両者とも政治家の方が秘書よりも適性があった。
ただ、Aさんは秘書に比べ、圧倒的に政治家に適性があるのに、Bさんはやや政治家に適性があった。
こういう二人ダケの場合には、Aさんは政治家に比較優位があり、Bさんは秘書に比較優位があると結論づけられる。
比較優位の理論では、Aさんは政治家に、Bさんは秘書に専念した方が全体の所得が大きくなるということである。
高い収入を得た政治家から「秘書」に多くの給与に支払うようにすれば、確実に二人トモ「より高い」給与にあずかることができる。
この理論の結論は、人と比べて何一つ優れたものをもたないように思える人にも、「自分の中」で様々な能力を比較してみると、楽にできること、飽きないこと、面白いことというのは必ずあるハズ。
その比較的に優位な分野を引き伸ばしことこそ、社会全体に寄与することになる。
ただ大事なことは、周囲にまどわされず、振り回されずに、冷静に自分の中の「比較優位分野」を見定めることだ。