教会建築とくまモン

2015年6月末、「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産へ登録されることになった。
九州・山口地方には、日本の近代化の大きな原動力になった幕末の薩摩、長州、佐賀藩などの反射炉や造船所跡、また明治時代後期の官営八幡製鉄所や三池炭鉱、三菱長崎造船所などの近代化産業遺産が点在している。
九州人としては、こうした23の遺産がまとめて登録されることは喜ばしいことである。
日本の産業遺産としては「石見銀山遺跡とその文化的景観」、「富岡製糸場と絹遺産群」につづく3番目となる。
ちなみに世界遺産に登録されている近代化産業遺産は、ブレナヴォン産業用地(イギリス)、コーンウォールとウェストンデヴォンの鉱山景観(イギリス)、エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群(ドイツ)などで、いずれもヨーロッパにおける近代化産業遺産である。
したがって明治日本の産業革命遺産は、「西洋以外」では最も早く重化学分野での産業化を達成したことを証明する遺産として価値あるものであるにちがない。
ただ注目したいことは、長崎の三菱長崎造船所  高島炭鉱 端島炭鉱 旧グラバー住宅 などの「産業遺産群」と重なるように存在しているのが明治以降に設立された「キリスト教教会群」である。
長崎には130余りもの教会があり、それらは270年にも及ぶ禁教と迫害の時代を乗り越え、明治から昭和にかけて建造された教会群である。
なかでも「キリシタンの里」と呼ばれる五島列島には、約50の教会が点在しており、ひっそりと隠れるかのように在る佇まいは、今でも受難の歴史を静かに物語っているようだ。
そして今、「長崎の教会群を世界遺産にする会」がそれらを世界記憶遺産に登録申請中で、もしもそれが実現すれば「西洋以外」のキリスト教建造物としては稀少であるばかりでなく、日本人「隠れキリシタン」の苦難と堅信を世界に訴えることにもなろう。
さて「長崎の教会群を世界遺産にする会」の発起人にあたるのが鉄川一級建築士事務所の鉄川進代表である。
鉄川氏は、1979年長崎大学工学部構造工学科卒業後、錢高組、鉄川工務店を経て、2004年より現職である。
実はこの鉄川進氏こそは、日本におけるキリスト教会堂建築のパイオニア鉄川与助の孫にあたる人物である。
さて我が地元・福岡県筑後平野の大刀洗町あたりに、場違いなホド巨大な建造物が立っている。
この建造物こそ今村カトリック教会で、この教会をつくった人物が鉄川与助である。
鉄川が手がけた教会堂は長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など数しれない。
鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。五島は隠れキリシタンが非常に多い島であった。
鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは刀剣をつくった家であった。鉄川家がいつ頃から建設業に関わったか正確にはわからないが、鉄川元吉なる人物が「青方得雄寺」を建立した史実が同寺の棟札に記録されている。
明治になると「キリスト教解禁」となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に「装飾」としてキリスト教的要素を加えるものにすぎなかった。
鉄川与助は、幼くして父のもとで大工修業を積み、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
その鉄川与助の一つの転機となったのは、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加したことにあった。
この教会建設の手伝いをきっかけに、鉄川与助は教会建築の虜になる。
1906年に鉄川与助は、建設請負業「鉄川組」を創業し、神父から西洋建築の手ほどきを受けて、28歳で初めて木造教会を設計・施工し、その後も煉瓦造、石造、鉄筋コンクリート造に挑戦する。
内部空間においてもより高い天井をめざしてリブ・ヴォールト天井や折上天井などの工法を極めるなど、一歩一歩技術を高めながら次々と教会建築を完成させた。
原爆によって破壊された浦上天主堂も「鉄川組」によって最終的に完成されたが、その旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助にさらに大きな技術的な「飛躍」を与えた。
鉄川与助は浦上天主堂の完成後、福岡県大刀洗町の今村教会の設計と建設にあたり、日本では数少ない「双頭」の教会を完成させた。
鉄川与助が棟梁として設計・施工した教会は戦前のものだけでもおよそ30棟に及び、その半数が現存し、4棟が国指定の重要文化財となっている。
鉄川与助はその人生の大半を教会堂建築にささげ1976年97歳で亡くなった。

鉄川与助が浦上天主堂なら、もうひとつ大浦天主堂の設計・建築にあたったのが、熊本天草出身の小山秀之進である。
さて、江戸時代にキリスト教は禁制になり、キリシタン弾圧の嵐がふき荒れたが、幕末、日本が開国すると鎖国の間弾圧されたキリシタンが今なお日本に存在するか否かはローマカトリック教会の関心事であった。
幕末の長崎開港以後の依然「禁教」の中、一人の外国人神父に「あなたと同じこころです」と囁いた大浦のキリシタンの一言があった。
この「奇跡の信徒発見」が神父を勇気づけ、その言葉は早速ローマにも伝えられた。
その後キリスト教は解禁となり、長崎は「異国情緒」の街として海外との交流を重ね、今や世界的観光都市としての地位を確立している。
そしてこの「異国情緒」の街・長崎を形づくった最大の功労者が熊本天草にあった「小山商会」の二人の兄弟といって過言ではない。
そして「小山商会」は、このたび産業遺産として登録される端島(軍艦島)の建築にも関わっている。
幕末、開国に伴って長崎に多くの外国船が入港するようになるという噂が各地へと届くと、多くの天草人出稼者が長崎へと出向いた。
そして、200年以上前から代々天草の御領町大島に住む銀主(ぎんし)と呼ばれる実力者である小山家は、当時、長崎に進出し「国民社(くにたみしゃ)小山商会」を創設している。
小山家の3男として誕生した織部は、幼くして北野家へと養子に出され、長崎開港時は、天草郡赤崎村の庄屋職を務めていた。
一方、秀之進は、小山家11人兄弟の末っ子でありながら、勤勉さと才能を認められた秀之進は、晩年、この歴史ある家を継ぐこととなる。
1858年、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と修好通商条約が結ばれ、翌年、長崎港も自由貿易港として新たに開港された。
開港にあたって各国より外国人の居留場が要望されていた。
そこで長崎奉行によって外国人の活動や居住の場所を提供するために大浦海岸一帯を埋め立てて平地部分を増やし、そこを外国人居留地にあてる方針がとられた。
しかも、イギリスやアメリカの領事からは、日本人で居留地の建設が不可能なら上海に待機中の英米人を呼び寄せ、労働者を連れてきて施工するなどと責め立てられた。
なんとか日本人の手で成し遂げなければと、請負人を募集するがなかなか希望する者がでない。
そこで名乗りを上げたのが、天草郡赤崎村の庄屋、当時50歳の北野織部だった。
そして1859年9月、正式に「大浦御築方御用」を仰せつかっている。
織部の総請負金額の3分の1が長崎会所から前金として手渡され、その金を人夫小屋建設、埋め立て工事専用の沼船建造、人夫賃支払いなど、さしあたっての運用資金にあてた。
織部がはじめに雇い入れたのは、船頭300人、石工、石持、石割、石積み船頭とも30人、陸上土取り場の岡夫70人、つごう400人だった。
また織部は、専用船の建造は小山家のある天草御領村大島が誇る船大工達に発注し、「沼船」300隻を動員させ、はるばる天草から長崎港に「天草石」を積んだ「石船」が入港した。
織部は、沖や波がかりの場所や、カーブなどの主要部分は、天草から運んだ良質の石材を選択し、頑丈に築き上げる。
その結果、この石材を運ぶのに、終的には天草人夫約1000人を要したという。
工事は当初予定よりも伸び、織部は長崎奉行所に再三に渡って完成期日の延期願書を提出した末、1860年10月についに完成した。
織部は、埋め立て工事完成に引き続き、大浦南手、常盤崎の二ヶ所の波止場工事を行ったが、その工法はまさしく「天草石」を用いた天草方式による埋め立てで、人夫はもちろん天草人だった。
北野織部は「長崎開港の父」ともいえ、熊本天草の人と資材を使って「異国情緒」長崎の土台を築き上げた功労者といってよい。

大浦天主堂 は、日仏修好通商条約に基づき、横浜天主堂(1862年完成)に次いで建てられた外国人居留区にたつカトリック教会である。
開港後まもない長崎にフランス人宣教師フューレが派遣されたのは、西坂の丘で殉教した26聖人へ捧げる教会堂を建立するという断固とした目的があった。
1864年、当時この町の土木業界きっての実力者・「小山商会」小山秀之進当時数え年36歳に、その教会堂建設の依頼が舞い込んでくる。
小山秀之進は前述の北部織部の弟で、すでに外国人住宅の施工をいくつも手がけていた。
神父の指導の下、それまでの洋風建築の建設の経験と従来の伝統技術とを結びつけての教会堂建設がはじまった。
この時、小山は兄の織部同様に郷里天草の資材を取り寄せている。
また小山秀之進の心中は、織部と同様に天草人としての恥じない「最高傑作を築き上げてみせる!」という情熱が満ちあふれていたことだろう。
外国人から「コーヤマ」あるいは、「ヒーデノシーン」と呼ばれていた小山秀之進だが、彼が請負った仕事は、長崎会所や外国人居留地関連など公的なものばかりではなく、居留する外国人達の私的な建物にまで及んだ。
長崎随一の観光名所として知られるグラバー園内に現存する洋風住宅で、今は国指定重要文化財となっている旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅といった幕末洋風建築の建設も小山秀之進が携わっている。
さて小山が施行した大浦天主堂は聖堂はゴチック建築様式で1945年8月9日の原爆で中央大祭壇やステンドグラスが大破したが、5年間に及ぶ修理を経て、53年3月、国宝に再指定された。
設計はフューレ神父らプチジャン神父(のち司教)の指揮で1863年着工し、翌年12月29日に完成した。
「信徒発見のサンタマリア像」のほかにも、信徒発見を記念して1866年にフランスから贈られたブロンズの「日本之聖母像」が聖堂入り口にある。
聖堂内にはプチジャン司教の墓碑もある。
小山は、大浦天主堂建設につき、プチジャン神父と行き違う面も多々あり、工事も遅々として進まない期間もあったが、なんとか完成した。
小山は、神父の設計図を元にしながらも壁の下地や小屋組みなど随所に日本的手法を用いた。
大浦天主堂は、純粋な西洋建築ではなく、天草の資本と技術が築き上げた洋風建築といえるだろう。
また、小山が手掛けた木造洋風建築に住む若き貿易商グラバーは、明治に入る頃には、すでに押しも押されもせぬ大貿易商人となっていた。1876年、小山は48歳にして小山家の8代当主の座にすわる。
しかし高島炭鉱開発への関与を境に、小山の輝かしい人生に暗雲が立ち込める。
「グラバー商会」の倒産、高島炭鉱の引退、また端島(軍艦島/当時は「初島」)の石炭発掘に関する日本坑法の制約など。
そしていつしか天草郡御領村大島の小高い丘に建つ小山邸は、借金のカタとなっていた。
その後、天草へと帰った小山は、三角港築港や、熊本三角間鉄道敷設などを手掛け、71歳で他界している。

九州新幹線全線開通に向けた熊本県の事業で、「くまモン」が誕生した。
「くまモンの生みの親」は、放送作家・脚本家 小山薫堂(こやまくんどう)で、この人ひと言でいえば「偶然力」がある人といってよい。
小山によると、もともとキャラクターを作る予定はなく、ロゴ作りをお願いした(デザイン会社の)グッドデザインカンパニーが、おまけで「くまモン」を作ってくれた。
それを熊本県庁の職員に見せたら、とても可愛いと評判になり、県庁内で大好評になった。
それでは、PRキャラクターにしようということで「くまモン」が生まれた。
そして小山のアイデアをベースとして、くまモン自ら名刺を配ったり、関西でいろいろなイベントに出たりして知名度をあげていった。
しかし小山自身もこれほど人気が出るとは思わなかったという。
誕生から3年半、ゆるキャラグランプリでは日本一を獲得し、海外進出までもも果たしている。
その人気について小山は、昔は計算されて、すきのないものがヒットしていたけれど、今は欠点があって人々がそこを「埋めたく」なるようなキャラに人気が集まるのではないかと語っている。
小山薫堂は1964年、熊本県天草市生まれ。日本大在学中にテレビ番組「11PM(イレブンピーエム)」の放送作家としてデビューした。
「料理の鉄人」「カノッサの屈辱」などを手がけ、脚本を担当した映画「おくりびと」は米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。
小山の「偶然力」を物語るのが、大学1年生の時に大学の先輩に誘われてラジオ局でアルバイトをすることになり、放送作家の長谷川勝士に出会って人生が動き始めた。
長谷川のニューヨーク取材に誘われ、その旅行で三宅祐司と仲良くなった。
帰国後に三宅さんの番組の打ち上げにもぐりこんだところ、プロデューサーの方から「君は誰?」と聞かれてしどろもどろになっていた。
すると、長谷川が「放送作家なんです。今度、三宅さんの番組を書かせようと思っています」と言ってくれた。
その時、台本の書き方もよくわからなかったのに自分は放送作家になるのかと思ったという。
チャンスを引き寄せる要素のひとつが、先輩がつい教えたくなるような「スキがある」ということだという。
さて、くまモンの風貌を思わせる小山だが、その人生哲学の基本は、いかに楽しく日々を過ごすか、幸せを感じながら生きるかで、周りの人にもそれを感じてもらえたらということだという。
そうした生き方の実践として、小山は友だちや父さん、母さん、先生など、近くにいる人に手作りのプレゼントをあげることを推奨している。
また小山によれば、日本人の最も大きな才能は、こうすればこの人は喜ぶとか、不快に思うとか知ることで、そこから「おもてなし」精神が生まれた。
小山薫堂は、テレビ番組「11PM」を手がけ、ゆるキャラ「くまモン」の生みの親、映画「おくりびと」の脚本家で、「嵐」曲の作詞までして、確かに人を楽しませることを実践してきた人である。
実は小山薫堂、大浦天主堂をはじめとする長崎の「異国情緒」の生みの親・小山秀之進の子孫である。
仮に、長崎を中心とする「キリスト教教会群」が世界記憶遺産に登録されるならば、教会建築に関わった五島出身の鉄川与助、天草出身の小山秀之進の功績が堀り起こされるのは確実である。
加えて、小山秀之進のDNAが生みの親である「くまモン」の世界進出に弾みをつけることになろう。