同伴者の物語

昨年、NHKドキュメンタリーで「甲斐性なしと静かなる女優」という番組があった。女優とは、クールで静かな美人の役が多かった女優「佳那晃子」 さんのこと。
26年前に結婚した放送作家・源高志さんと、女優・佳那晃子さん夫婦は、夫が抱えたばく大な借金をきっかけに、壮絶な試練と向き合うことになった。
借金の返済のために、ハードスケジュールをおして数多くのサスペンスドラマに出演し、やがて病に倒れた妻。
夫は今、病床にいる妻の医療費に、収入の全てをつぎ込み、明日をも知れぬ暮らしを続けている。
佳那さんは、くも膜下出血で倒れてすぐ、自宅近くの熱海市内の病院に緊急搬送され、約10時間に及ぶ大手術を受ける。
医師から、最も重い重度5のくも膜下出血と診断されて「脳死」の宣告を受けたが、その後懸命な加療が続けられ、6月には同県内のリハビリ病院に転院した。
現在は問いかけに対して、手足の動きや瞬きなどで反応できるまでになった。
倒れる前、夫は、借金返済に奔走する妻に「別れる」ことをきりだした。しかし妻の言葉がつき刺さった。「いい時だけ一緒にいて、悪くなったら離れるんですか。 いい時も悪い時もあって、それが夫婦ですから」と。
しかしどの夫婦にも起きうること。血のつながりがあるわけではない赤の他人、利害関係だけならば分かれたほうが得、それでも離れずにいる人を「同伴者」とよぼう。
作家・遠藤周作は、「同伴者」を主題にした物語を書いたが、そこに「永遠の」という言葉を加えた方がよいかもしれない。
その遠藤氏の推奨の映画がフェデリコ・フェリーニ監督の「道」である。
この映画は遠藤氏の宗教観の原点「永遠の同伴者」と根底でかなり通じるものがあると思う。
ある粗野な大道芸人が無垢で従順な女をひきつれて大道芸を披露しながら旅していく話である。
男は胸を押し広げて鎖を切るぐらいの芸しかないし、それを見て喜んでいるのは子供ぐらいなものである。
しかも男は酒好き、女をいいようにこき使っているのだが、女は少々頭が弱く、他にいくアテもなく男にくっついていく。
ある時女が病死し、男はその女がどんなに大切な存在であったかをはじめて思い知り、オイオイと子供のように泣き崩れるラストシーンがいつまでも余韻を残す映画であった。
その男は女を失ってそれまでの自分を改めるとは思えないのだが、だからこそマスマス女の存在が男の中で大きくなっていったのではなかろうか。
「道」という映画のタイトルはとてもシンボリックで、二人が「荷車」をひいていくシーンがとても印象的であった。
そういえば、さだまさしの「奇跡」という曲に次のような歌詞があった。
♪♪どんなにせつなくとも、必ず明日は来る。ながいながい坂道のぼるのは あなた独りじゃない。 僕は神様ではないから、本当の愛は多分分からない。
けれどあなたを想う心なら 神様にまけない。
たった一度の人生に あなたとめぐりあえたこと 偶然を装いながら奇跡は いつも近くに居る。
ああ大きな愛になりたい あなたを守ってあげたい あなたは気付かなくとも いつでも隣を歩いていたい。 ♪♪
個人的には、「同伴者の物語」として、アメリカ映画の「手錠のままの脱獄」(1958)を思い起こす。
列車が脱線して、白人と黒人がひとつの手錠に結ばれたまま脱走する話である。
憎悪しかない二人の関係は、やがて固いキズナで結ばれていく。
手錠ははずれたものの、二人の手は依然結ばれたままのようで、それが故に白人はひとりだけで脱走するチャンスを失うことになる。
追ってきた警察官は、林の中で白人が黒人を抱きかかえ、黒人が故郷の歌を歌っている姿で発見する。
その時、警察官の表情に「一緒にいたのか」という笑みが閃いたのがいまだに記憶に残っている。
トニーカーチスとシドニー・ポワチエの演技が光る映画だった。

さて、人間は一生のうちどれだけ多くの人間と深く係わり合えるものか。
誰かと深く関わることは相手の人生の一部をも引き受けることでもあり、利害感情だけではなかなか突き進めないことが多い。
大手出版社における地位に安住しマンネリを感じ始めた一人の男が、それまでの自分と決別するかのように飛び込んだ尾崎豊というミュ-ジシャンとの関わりは、ビジネスの関係を通り越し、人間として抜き差しならぬものになっていった。
出版社「幻冬舎」の創業者の見城徹は、数々のベストセラーを手がけた名編集者として知られる。
1975年に角川書店に入社し「月刊カドカワ」の編集長時代には部数を30倍に伸ばした他、担当した作品が直木賞を受賞(計5作品)、ベストセラーを量産するなど、名編集者として業界で広く知られるようになる。
斬新なアイデアの作品を数多く出版し、「弟」(石原慎太郎)、「ふたり」(唐沢寿明)、「ダディ」(郷ひろみ)、「永遠の仔」(天童荒太)、「血と骨」(梁石日)、「13歳のハローワーク」(村上龍)、「陰日向に咲く」(劇団ひとり)など、大ベストセラー作品を数多く生み出している。
見城はある対談のなかで、自分は何かを生み出すことのできるホンモノにはなれないが、一流のニセモノをめざすといっている。
そして、作家が生み出すものが素晴らしいものならば、その作者がどんなイヤナ奴であってもトコトン付き合うといった趣旨のことを言っている。
そして、編集者がここまで身もだえて作家(ミュージシャン)と「同伴するのか」と教えてくれたのが、見城徹と尾崎豊との関係であった。
見城が角川の雑誌「野生時代」の編集者であった昭和60年頃、新宿を歩いた時、たまたま流れていた曲に心が震えた。
それは歌い手の「悲しみの溜め方」がは尋常ではないと感じたからだという。
レコードの店員に今かかっていた曲は何かと聞くと、「シェリー」と「スクランブルロックンロール」。そして尾崎豊の名前を初めて聞いた。
この若さでどんな人生を歩んだのだろうと、編集者としての嗅覚を強く刺激したのだ。
というより、見城自身、学生時代にはいわばイジメにあい「道化」できりぬけた体験をもっていた。その見城の心にが尾崎の曲の底知れない孤独さや切なさ響いてきたのである。
尾崎豊は、東京練馬区の都営住宅で10歳まで過ごした。父親は防衛庁職員、空手・尺八などと多趣味な人だった。
念願のナイホームをえて埼玉県・朝霞市の学校にいくが、男子の反感を買い登校拒否に陥った。兄が使わなくなったギターを手に取った。
父は本格的に基礎から勉強したらといったが、尾崎はいちいち基礎から学ぶよりも、まず音楽の本質を掴もうとした。
練馬東中学校に越境入学する。ギター熱はもりあがり、フォークソング部で全校生徒の前で歌うと大うけした。
友人達は、歌のうまさよりも、声が美しさにうたれ、尾崎に歌手になったらどうかとすすめた。
そして校内暴力が増加した時代にあって、鬱屈した少年の心情を歌った「15の夜」が生まれた。
尾崎は、青山学院高等部にすすむが、その頃相手の言葉、友人の言葉が心に刺さると、その場で詩を書き始めた。
級友によれば、騒いでる中で「書く」集中力はすごかったという。
そして母は、レコード会社にデモ・テープを送り、それを聴いた人が吉田拓郎の再来かと感動したという。
そしてCBSソニーのオーデションに合格。58年12月アルバム「17歳の地図」でデビューする。
ところで見城は、そんな尾崎と仕事をしたい。つまり尾崎の本を作りたいと思い連絡をとったところ、すでに6社のオファーが入っていた。
以後、事務所に連絡をとるが何度も断られつつも、通勤時でも職場でも家でも人目もかえりみずに、尾崎の曲を聴き続けた。
イワオも貫く意思で数度にわたるアプロ-チの末、ようやく尾崎と会うアポイントをとることができた。
見城は、尾崎は若いのでうまい肉が食べたかろうと自腹で六本木の高級な焼肉屋で出会うことにした。
尾崎との初対面の印象は透き通りるような「白さ」だった。尾崎は無口で、見城の側がコンサートを見た感想を一方的に述べたのみ。
交渉は失敗したかと思ったが、別れ際に雨が降っていたため、尾崎がパット出ていって車を止めたのが印象に残った。
その後、交渉を重ね、尾崎の事務所から見城と仕事したいというオファーがあった。
そして20歳になる前の心情をエッセイにいた本を出そうと思ったが、なかなか原稿が来ない。ホテルにカンズメにしても無駄だった。
そこで事務所かからラジオのスクリプトをまとめて出したらどうかという提案があった。台本は尾崎が自ら書いていたからだ。
見城は、尾崎のイラストも使い、その体温、足音、肌ざわりをそのまま伝えることによって本という概念をぶっ壊しにかかった。
尾崎20歳の誕生日に出した本「誰かのクラクション」は、尾崎の感性にあふれた本となり、30万部の大ヒット作となった。
見城にとっても「読む本」から「感じる本」へ従来の本のイメ-ジをこわす記念碑的出版となった。
しかし尾崎はその絶頂に上ろうとした矢先、突然に演奏活動の中止宣言する。尾崎は、客が虚像を作りすぎ、客の目力がコワイと思うようになっていた。
友人によれば、尾崎は本質的に「俺が俺が」とイキガる男ではないという。しかしファンは尾崎をカリスマにしようとして、彼自身無理をしていたところがある。
そして尾崎は、1人ニューヨークに向かった。
音楽に関しては前向きであったものの、尾崎が半年後に帰国すると事務所の雰囲気がすっかり変わってしまっていた。
自分の良さを引きだしてもらえず、体調を崩しコンサートを中止する。
そして新曲を発表できないまま、22歳で覚せい剤で逮捕される。
見城は尾崎のその後を気にはしていたがコンタクトをとることもなく音信不通の状態が続いていた。
或る時、見城がスポーツクラブに行くと太った男が「見城さん」と呼びかけてきた。
それは見城と尾崎との運命的な再会でもあったのだが、尾崎は荒れ果て白髪もめだちかつての面影をすっかり失って、はじめは尾崎であることさえ分からないほどだった。
そして尾崎は見城に、自分はすべてを失ったが、どうしても復活したい、またステ-ジに立ちアルバムも出したいと言った。
実は見城はその時、編集長として地位も上がり、難しい作家と関わることもなくなった安穏とした自分に嫌気がさしていた。
尾崎と話すうちに見城は「尾崎復活」に編集者としての自分の復活をも賭けてみようと考えた。
そしてスポ-ツ選手の専属トレーナーのよろしく尾崎をサポートしていった。
また、不動産屋をまわり、金を集め、人を集め、尾崎を社長にした個人事務所まで設立した。
これらの行為は、雑誌の編集長の範疇を越えおり、もし会社にバレたらクビになるようなキワドイものだった。
また、カスミつつあった尾崎の総力特集を「月刊カドカワ」のなかでやった。尾崎が常宿にしていたヒルトンホテルで毎日のように尾崎と会いインタビュ-を行い詩作などをさせた。この頃の見城と尾崎はほとんど共同生活みたいな日々であったという。
それでも、再起のアルバムがオリコン1位と判ったときに尾崎と見城は二人で抱き合って泣いた。見城もこの時飲んだビールガ生涯で一番うまいビールだったと語っている。
しかし、尾崎再起の成功には、早くも大きな影が差し込むようになっていた。
尾崎の詞や曲に救いがあるわけではない。10代の不安を「卒業」という曲をつくるが、では卒業後どうなるかが彼自身不安だった。
「出口のなさ」こそ尾崎の歌であり、尾崎の生であった。
そうした音楽を作りだすという復活のプロセスが尾崎に不安定な精神状態を強いることにもなった。
実際、尾崎はあまりにも音楽業界の渦に巻き込まれていき、気が休まる日がなくなっていった。
ちょっとした動作で相手が信じられなくなったり、ささいなセリフで相手につかみかかろうとしたりした。
尾崎は金の成る木であった。
それがため、麻薬を渡すことによって彼をコントロールしようしたり、ステージに立たせるために嘘をついたり、いろんな策を労してレコード会社を移籍させようとするものが現われた。
尾崎は、次第に音楽業界は自分を利用し搾取すると思いはじめ極度な疑心暗鬼の状態に陥ったのである。
毎日、スタジオの中で暴れたり、バックミュージシャンと大喧嘩を自動販売機に殴りかかって拳を血だらけにした。
郵便を出すアルバイトをさえ切手代を誤魔化していると疑うようになっていった。
そして尾崎は見城に対して、ますます身勝手でわがままな要求を連発するようになった。
自分だけを愛してくれという重いが野放図に膨らんでいったかのようだった。
見城がコンサ-トを見てはやく帰ろうものならば、もう君とは仕事ができないと言い、見城の愛情が自分一人に向かない限りは、次の連載は書かないとも言い出した。
見城にしてみても尾崎との繋がりをそうやすやすと切るわけにもいかず、仕方なくつきあってしまう。ところがコンサート後の打ち上げで、店にあったギターを叩き割ったり、イスを投げたり、尾崎が破滅に向かって走っているように見えた。
見城は、「地獄への道連れ」もこれまでと尾崎との「決別」の道を選んだ。
「尾崎死亡」のニュ-スを聞いて、見城自身ほっとした思ったという。尾崎の死後、見城もそれまでの自分と決別するかのように幻冬社を設立した。

遠藤氏がイエスを「同伴者」として位置づけた聖書的由来は新約聖書ルカ24章にある。
イエスが十字架の死後、弟子達は失望してエマオという村に向かう途中、復活したイエスが弟子達が気づかぬまま、共に歩いていたという場面である。
ちなみに、エマオとは最も古い市場である。イエスを失った弟子達は、イエスの「復活」の約束を信じられないまま、再び「この世・専念」に向かい始めたのである。
ところで、遠藤氏の「イエスの生涯」では、ちょうど映画「道」で、女の存在が男の中で大きくなったように、自分たちが裏ぎったイエスの存在が十字架の死後、ますます大きく膨らんでいき、それが臆病な弟子達を変えたという小説家としての解釈をほどこしている。
しかし聖書に即していえば次のとうりである。
イエスの死後50日目つまりペンテコステの日にエルサレムで人々が集まっている時に聖霊降臨があり、最初のキリスト教会が誕生した。
その時、ペテロが立ち上がり人々を前に説教を行い3千人の人々が洗礼を受けたというから、一体ドンナ説教かと驚くばかりである。
何しろ1か月と半月ばかり前には、イエスの十字架の直前に師を裏切って逃げ出した人物である。
しかも、「あなたは鶏がなく前に三度私を知らないであろう」と預言され、その通りにイエスを否定をしたわけであるから、すっかり師からその心を見透かされていたわけだ。その悔悟たるや想像に難くない。
しかし「悔悟する」ことと自分を改めることとはまた別の問題である。人間はそうやすやすと自らの力で自分を改められるものではない。
遠藤氏自身、何者にもなりきれない人の弱さを描いているのだから、「弟子達の変貌」についてまったく描ききれていない。
ちなみに、ペテロはローマに伝道旅行をし、その地バチカンの丘で磔刑となり殉教している。
さて、旧約聖書のには神を「同伴者」とした多くの人々が登場する。そのひとりが「ノアの洪水」のノアである。
ノアは、酒を飲んで裸のまま地面に倒れ寝込んでしまい、息子達から布をかぶせられた失態を犯したこともある。
そのノアについて、聖書は次のように語っている。
「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」。