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沙漠の誘惑

あえて砂漠に生きることを選んだ人々がいる。
「夜間飛行」の作者・サンテグジュベリは、「空の人」というイメージがあるが、もうひとつの側面は「砂漠の人」といえまいか。
その物語は、リビア砂漠の郵便輸送の経由地で聞いた人々の話から空想を広げて書いたものだった。
満点の星空の下、砂漠の上空を1人機上にあって詩情が生まれぬ方が不思議ともいえる。
「アラビアのロレンス」は、オスマントルコの弱体化に、「アラブの独立」を支援したイギリス人将校T・E・ロレンスの実話だが、砂漠やそこに住む民に惹きつけられる「何か」がなくして、あのような非公式の任務に勢力を注ぎ込むことができようか。
最近では、その「ロレンスの陰の頭脳」とも呼ばれた女性ガートルード・ベルの伝記「砂漠の女王」(2006年)が書かれ、ニコール・キッドマン主演で映画化もされた。
彼女は、鋼王の裕福な家庭に生まれ、オックスフォードを優等で卒業した才女である。
考古学を研究していた彼女は、やがて東方に深く傾倒し、ついに現地へ向かう。そこで、ロレンスと出会い、砂漠の民の流儀を知り尽くしたうえで諜報活動に従事、現地の人々と共に生きる道を選ぶ。
さて、何もない砂漠に、どうして人々は魅惑されるのだろか。砂漠は単調と退屈なようでいて、実は変化と驚きに満ちている。
砂漠は、砂嵐によって時に姿をかえ、目印の遺跡があっても、あたかも「幻」であったかのごとく砂に埋もれて消えてしまう。
それは、湖でさえも位置を変えてしまう「変幻自在さ」の魅力ともいえる。
或る旅人が書いた本に、砂漠で横たわって空を見ると、まさに「星が降ってくる」ような体験したというのがあった。
つまり、周りに何もないだけに宇宙と直結するような体験できる。人の心は自然と天(神)に向かう。
美しい山や海の景観に恵まれた日本人とはまったく違う感性を生むに違いない。
砂漠の中のオアシス都市サマルカンド(現在はウズベキスタンの古都)は、「サマンルカンド・ブルー」といわれる青いタイルがほどこされ、その建造物の天蓋にまで施されたデザインは、あくまでも「宇宙的」。
そして、世界初の天文台がもうけられている。
さて、このサマルカンドに生まれたのが11Cオマル・ハイヤームという数学者にして天文学者。
オマル・ハイヤームは中世西アジアで屈指の数学者で、三次方程式の解法を最初に発見し、インド数学の紹介をしたといわれる人物である。
しかし、この人は世界史の教科書には、数学者ではなく「ルバイヤート」という4行詩を書いた詩人として登場する。
英国の詩人フィッツジェラルドの超訳によって英語圏に紹介され、一躍全世界にその名を轟かせた。
その詩は「宇宙的」という形容がもっともふさわしい。
さてシリアには、世界で最も美しい廃墟の一つといわれる「パルミラ遺跡」がある。ローマ帝国支配時の都市遺跡であり世界遺産に登録されている。
パルミラはナツメヤシの緑に包まれ、その名前もギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」からとられ、神殿、列柱道路、大浴場、劇場などの遺跡はかつての繁栄ぶりを物語っている。
実はパルミラ遺跡は、平山郁夫画伯の作品「パルミラ遺跡を行く」で、日本人にとっても、馴染みの風景である。
遺跡を背景に数頭のらくだに乗った人々が、おぼろげな風景の中を行く、アノ絵画である。
この広大なシリア砂漠を通過するには、ラクダの足で40日かかったが、隊商たちは、この砂漠の中央にオアシスがあるのを知っていた。
ラクダが1日に歩ける距離は30キロ。砂漠の道には30キロごとに、道標ともなる井戸が掘られ、その井戸のある街がオアシス都市となった。
パルミラはキャラバン隊から通行税を徴収し富を得て、紀元前1世紀から400年間、砂漠の交易拠点として栄えた。
パルミラではたくさんのバザールが開かれ、東西から金、銀、宝石、絹、塩などの商品や装飾美術品、様々な珍しい品々が取り引きされ、各国の商人で賑わう毎日であった。
それゆえに、東のササン朝ペルシアや西のローマ帝国が、コノ国を虎視眈々と狙っていたのである。
そしてローマ帝国はその軍隊を送り込み、パルミラを自らの支配下におき、思惑通り重税を課すことに成功したのである。
しかしパルミラの人々は、いつの日か反乱を起こし、ローマの「束縛」から逃れるべく機会をウカガッテいた。
それはちょうど、女王・卑弥呼が倭国連合国を統べていた頃、パルミラにセプティミア・バトザッバイ・ゼノビアという女性が現れた。
彼女はシリア東部のある砂漠に誕生した。ジプシーの首領だったアラブ人を父とし、母は美しいギリシア人女性だった。そしてクレオパトラの血を引き継ぐと自称していた。
ゼノビアは子供の頃から、才色ともにすぐれ、12才になる頃には頭角を表わし、ラクダに乗れば大人顔負けの技量を発揮し、父に代わってジプシー全体を指導できるほどになっていた。
その頃、ローマ帝国支配の元でパルミラを統治していた若い貴族オーデナサスが、当時18歳のゼノビアを見初め、二人は結婚し、ゼノビアはパルミラの王妃として宮殿に移り住んだ。
オーデナサスもゼノビアもローマの支配から逃れるべく、密かに砂漠に野営しては「兵の訓練」に大半の時間を費やすようになっていった。
ゼノビアの誇り高く類マレナ美貌とで、部下の兵士たちを魅了し、士官たちの心を完全に掌握するようになっていた。
そして今や、ローマ帝国からの解放の時が到来したとばかり、満を持してパルミラの北に駐屯しているローマ軍に襲いかかったのである。
不意を突かれたローマ軍は、たちまち大混乱を起こし、算を乱して敗走した。ゼノビアの軍は、敗走するローマ軍を徹底的に打ち破り、ここにパルミラ市民の「悲願の独立」は達成されたのである。
この勝利に喜び、驚嘆した周辺の国々は、次々にゼノビアの軍団に寝返って、たちまちのうちに強大な力に膨れ上がった。
しかし、夫であるオーデナサスが行軍中に暗殺されるという突然の悲劇に見舞われた。
ゼノビアはオーデナサスの意志を受け継ぐことに全力を傾けて、自ら「絶対専制君主」となり、一息つく間もなくローマの属州の一つであるエジプトに7万の大軍を進めた。
彼女の軍団は一度の戦いで勝利をおさめ、エジプト全土を制覇してしまったのである。
ゼノビアは、すべての民から慕われ、快く最高君主として受け入れられた。また人々はゼノビアの軍をローマからの「解放者」として歓迎したのである。
しかしやがて、ローマ帝国は、パルミラを一気にタタキ潰さんと「最精鋭」とうたわれた最強の軍団を多数くり出してきた。
戦いは地中海沿岸の都市で幾度となく繰り返され、ゼノビアの軍は後退を余儀なくされていった。
そして、272年ローマ軍の追手は、たちまち従者数人を殺して、ゼノビアを捕らえてしまった。
女王を捕らえたローマ軍は、パルミラにわずかの守備兵を残して、ゼノビアを連れてローマに凱旋すべく帰途についたが、まもなくパルミラの住民が守備兵を皆殺しにして反乱を起こしてしまった。
この知らせを聞いたローマ軍は、ただちに引き返すやいなや、パルミラの住民に情け容赦なく襲いかかり一人残らず虐殺してしまった。
一方、ローマに連れていかれたゼノビアは、その後の記録は途絶えたままである。
歴史家ギボンは、「褐色の肌、異常な輝きを持つ大きな黒い目、力強く響きのある声、男勝りの理解力と学識をもち、女性の中ではもっとも愛らしく、もっとも英傑的である彼女は、オリエントで最も気高く最も美しい女王であった」 と書いている。

砂漠地帯で、地下水が地表に湧き出る場所がオアシスである。オアシスは砂漠を旅する人々にとって命をつなぐ場所であり、人々は砂漠の島のようなオアシスをたどりながら移動した。
そして砂漠を旅する者を襲うのが「砂嵐」で、ひとたび「砂嵐」にみまわれたら、ひとたまりもない。目の前にかろうじて有った道が、消えてしまう。
その風の「うなり」は、あるときには泣き声に、そしてある時は歌声に。そしてその足をまるで「悪魔」のように違う道へと誘う。結果その先には間違いなく「死」が待っている。
さてシルクロードには、オアシス都市がいくつか点在し、敦煌のように当時の雰囲気を今に残している都市もあるが、すでに消滅したといわれる「幻のオアシス都市」もある。
そのひとつが、現在の中国領新疆ウイグル自治区に存在した都市、「楼蘭(ろうらん)」である。
シルクロード交易で栄えた楼蘭は、1900年イギリスのへディンの探検隊によって遺跡が発見された。
19世紀後半、東トルキスタン(タリム盆地)東部のロプ砂漠は、地球上に残された数少ない地理学的空白地帯として探検家の関心を集めていた。
特に、中国の文献には、タリム盆地の東側に大きな湖があることが記録されていたため、そこにあるはずの湖「ロプ・ノール」は注目の的だった。
大きな湖であるにもかかわらず、それがどこにあるのか、当時は誰も知らなかったのである。
このことが各国の探検家をロプ・ノールの探求に駆り立てたのである。
1876年~77年ロシアの探検家プルジェワルスキーの発見した湖がロプ・ノールという主張に対して、ドイツの地理学者リヒトホーフェンは、ただちに反論し、その論争は、プルジェワルスキーの弟子・コズロフやリヒトホーフェンの弟子ヘディンを巻き込んだ地理学上の「一大論争」に発展していった。
この論争を考える際に外せないのが、「楼蘭姑師、邑有城郭、臨塩沢」(「史記」大宛列伝)という記述である。
ここにある「塩沢」、そして中国の史書に「泑沢」「蒲昌海」「輔日海」「牢蘭海」などと記されるものは、いずれもロプ・ノールを指すと考えられる。
そしてもう一つ、この記述に登場しているのが「楼蘭」である。
シルクロードの古代都市「楼蘭」とは、中国の史書に西域諸国の一つとして記されている都市で、敦煌から西へのびる古代シルクロードが天山南路(西域北道)と西域南道に「分岐」する場所に位置したために、貿易上の重要な中継地点となっていた。
ところが、6世紀以降に楼蘭一帯は広範囲にわたって「無人化」したため、当時はもう楼蘭がどこにあったのかさえわからなくなっており、その実態は全く不明のままだった。
そこでもしも、ロプ・ノールを発見できれば、幻のオアシス都市「楼蘭」の位置も同時に判明する。
そしてロプ・ノールを目指したヘディンは、1900年の探検で、まず「古代の湖の痕跡」を発見したあとに、砂漠の中から古代都市の遺跡を発見した。
ヘディンは翌年、そうした遺跡で発見した木簡や紙文書を多数持ち帰り、専門家によって漢文やカロシュティー文字で書かれていた文書は解読されていった。
その結果、この遺跡は、まぎれもなく古代都市「楼蘭」だった。となると、ヘディンがみつけたた古代の湖床は、楼蘭に臨む湖、すなわちロプ・ノールということになる。
ロプ・ノールと、楼蘭はどこにあるのかという「二つの謎」は、こうして全面的な解決をみたのだった。
しかしここで新たな謎も浮かんできた。
確かに古代にそこに湖があったことはわかったが、なぜ湖に一滴も水が残っていないのだろうか。
この謎を説明するために、ヘディンは大胆な仮説を提唱した。
ロプ砂漠を測量したヘディンは、北部の楼蘭遺跡と南部のカラ・コシュンとの間の高低差が、わずか2メートルしかないことに注目し、このような平坦な砂漠を流れる河川は、砂の「堆積」などのわずかな地表の変化で「流路を変える」のではないかと推測した。
そしてこのメカニズムによって、楼蘭が滅びた理由も説明できる。
川の流れの変化により楼蘭は都市機能を失い、放棄されたと考えた。さらに、ヘディンの推測はこれにとどまらなかった。
川の流れが長年の堆積で変わるとすれば、近い将来に以前とは反対のことが起こり、タリム河下流はかつての流れに再び戻り、湖もかつてのロプ・ノールの位置に出現するだろうというのだ。
ロプ・ノールとは川の流れの変動に伴って移動する湖であるという、大胆な仮説を提唱し、ロプ・ノールのことを「さまよえる湖」とよんだ。
そして彼のスケールの大きな予測は見事に的中した。
1921年頃からタリム河下流は流れを変え始め、それまで南東方向に曲流していたタリム河の下流が、東方向にのびる旧い河床に流れを戻し始めたのである。
この噂を耳にしたヘディンは、それを自らの目で確かめるため、再びロプ・ノールの地に向かった。
「さまよえる湖」説を提唱してから30年以上経った1934年4月、自ら考え出した仮説が見事に実証された喜びをかみしめながら、ヘディンは新しくできた河を下っていった。
そしてその先には、旧位置へ戻ってきたロプ・ノールが、満々と水を湛えて広がっていたのである。それはロプ・ノールが「さまよえる湖」であることを証明した瞬間でもあった。
さて、もうひとつヘディンの楼蘭での発見の中に、「楼蘭の王女」「砂漠の貴婦人」などと名づけた若い女性のミイラがある。
彼の著書の中に「王女は瞼を閉じて身を横たえていたが、瞼の下の眼球はほんの心持ちくぼんでいた。口もとには今なお笑みをたたえていた。その笑みは何千年の歳月にも消えることなく、その笑みによって謎の王女はますます魅力を増し、人の胸に訴えかけてくる」と書いている。
ヘディンの探検隊はこのミイラを「埋め戻し」、それから60年あまり、楼蘭をめぐる発掘は途絶え、ヘディンらが見つけた墓の正確な位置すら定かではなくなっていた。
ところが1980年代、新聞のトップに「楼蘭の美少女発見」というニュースが伝えられた。
それがヘディンらが「埋め戻した」ミイラかどうかは不明だが、アーリア系の金髪と白い肌をした美少女だという。
随分前に、NHKの番組でシルクロードシリーズの一つに「楼蘭の美女」という番組があった。
色白で端正で美しい高い鼻に黒く長いまつげがそのままというほど、保存状態が良かったようだ。
年は16~18歳くらい麦の種籾を入れたポシェットを持ち、麦で編んだ帽子を被った美しい少女のミイラ一体が楼蘭の地で盗掘も損傷もされずそのままの姿で見つかった。
何と紀元前19世紀に作られたもので小舟のような木の棺に入れられたミイラの姿であった。
誰もこの地を訪れることもなく、灼熱の太陽と満天の星の下でこの美少女は4000年もの間、その近くにごく少数葬られていた人々と一緒にこの地中で眠り続けていた。
ポシェットに入れられた麦の種籾は、彼女が麦で編んだ帽子を被ってこの穀倉地帯を愛らしく歩いていた姿そのままを思い浮かばせる。
それとも彼女の死後、「この籾さえ持っていればどこに行っても豊かな天の恵みを得て、飢えるこのなくいつまでも幸せに生きて行ける!」との両親の願いが込められたものなのだろうか。

さて、人類最初の殺人事件はいつどこで起きたのか。正解は人類創生すぐに、シリアのカシオン山においてである。
旧約聖書は、この山でカインがアベルを殺したことを伝えているが、アダムとエバの子供がカインとアベルである。
エデンの園から追放されるや、人類は二代目にして、早々と「殺人を犯した」ということだ。
この事実が、人類の「不吉さ」を予告しているかどうかは定かではないが、今日シリア一帯が20万人もの屍を重ねる戦火にあることを思いみる時、そんな思いが脳裏をよぎる。
そして、今も残る人類最古の都市といえば、シリアの首都ダマスカスである。
日本の福岡とホボ同緯度にあるダマスカスは、シリアの砂漠地帯の交通の要衝であり、ダマスカスは「地上の楽園」とよばれた時代もあった。
今、シリア内戦によって、この都市が破壊の限りを尽くされようとしている。
そして幻のオアシス都市「楼蘭一帯」は中国の核実験場となり、イマヤ立ち入り不可能となっている。
また最近のニュースは、ゼノビアがいた魅惑のオアシス都市パルミアの廃墟は、今年5月にイスラム国に占拠されて、破壊されその痕跡さえも消え去ろうとしてることを伝えている。