ハナミズキ

台湾五大財閥に金鉱で財をなした顔一族がある。顔恵民は1929年、この一族の長男として生まれた。
日本統治下の当時、多くの台湾上流がそうであったように、10歳の時に母親とともに日本に渡り、小学校から大学(早稲田大学)まで、日本で教育を受けた。
そして、石川県出身の日本人女性と出会い結婚し、二人の間に姉妹が生まれた。
舞台女優の一青妙(ひととたえ)と歌手の一青窈(ひととよう)である。
顔恵民は、一青妙・窈の父・姉妹が小学生の頃肺癌で56歳でなくなり、母も姉妹が高校の頃に亡くなっている。
その喪失感こそが一青窈が紡ぎだす詩の世界を形成したことは想像に難くない。
そして最近、この顔一族の運命に、日本郵船所有「阿波丸」の出来事が微妙に絡んでいることを見出した。
日本郵船は、1885年に創立された海外航路を国内で最初に開いた会社で、 日本郵船所有「阿波丸」といえば、アノ謎に満ちた世界最悪の沈没事件を思い浮かべる人が多いであろう。
しかし、これは1943年に完成した新生「阿波丸」に起きた出来事で、それ以前にも太平洋定期航路を横浜・シアトル間で結んで就航した「阿波丸」というものが存在した。これを便宜上、「旧阿波丸」とよぼう。
さて、顔一族に生まれた一青窈は「ハナミズキ」の大ヒットで一躍有名となった。
この歌は、恋愛の歌のようであり祈りの歌のようにも聞こえるが、この曲の誕生は、2001年にアメリカで起きた9・11テロと関係している。
一青窈の友人がテロに巻き込まれ、その友人の命は助かったものの、多くの人々の突然の死を思うと時、「好きな人の好きな人」、つまり皆の幸せがいつまでも続くことを願わざるをえなかった。
それで「君と君の好きな人が百年続きますように」という歌詞を書いたという。
この歌には、全部の思いを伝えたくても伝えきれないようなもどかしさがあって、それが何かを失った人の哀しみをひきたたせているようにも思う。
それではなぜ一青窈は「ハナミズキ」という花に自らの思いを託そうとしたのか。
ハナミズキは、サクラに続いて5月~6月にピンクと白の十字の花を咲かせるが、一青窈の「ハナミズキ」は日本とアメリカとの間で生まれたサクラについての或るエピソードから生まれたものである。
そして、そこに介在する船が「阿波丸」(旧阿波丸)という名の船であった。
さて現在、ワシントンのポトマック河畔には日本から送られたサクラが市民の心をなごませている。毎年春になると、河畔は満開の桜で覆われ、水面に映る美しい景観を楽しむ人々は60万人にのぼる。
日露戦争の際、アメリカのセオドア・ル-ズベルト大統領が日本とロシアとの戦争を仲介し日本が勝利を得ることになり、日米友好の機運が高まっていた。
そして日本からアメリカにサクラが送られるのだが、直接のきっかけは、次期大統領になるウイリアム・タフトが陸軍長官であった頃、その夫人とともに上野公園を訪れた時のことであった。
その時夫人は、上野公園でソメイヨシノの美しさに心を奪われた。そして、ポトマック河畔を埋め立てできた新しい公園に何を植えるか考えた時に、上野でみたソメイヨシノを思い出したのである。
そして夫人の友人に「日本での人力車旅行」などを書いたエリザ・シドモアという大の日本びいきのジャーナリストがおり、彼女が夫人の思いに賛同しその実現を促すことになった。
たまたまニューヨークに住んでいた科学者で「タカジャスターゼ」でしられる高峯譲吉などを通じてタフト大統領夫人の思いが外務省や東京市長だった尾崎行雄に伝わった。
尾崎は「憲政の神様」と呼ばれた人物で、太平洋戦争では日独よりも日米関係を重んじた「親米的」な人物であったことが幸いした。
そしてサクラがいよいよ日本より、万全の体制で育てられた苗木11品種6040本がアメリカに送られ、1912年3月シアトル経由ワシントンに無事到着したのである。
そしてこのサクラを運んだ船が、日本郵船所有の「旧阿波丸」であった。
というわけで、ポトマック河畔のサクラは日米友好のシンボルとなったのだが、タフト大統領夫人からサクラのお返しに送られたのが「ハナミズキ」であった。
ハナミズキは、「返礼」「私の思いをうけとってください」を花言葉とするため、まさに「お返し」にうってつけの花であるが、一青窈はこの「日米友好」の歴史的事実にちなんで、9・11テロ後に「ハナミズキ」と題する歌をつくったのである。

顔一族は、日本郵船所有で名前も同じの、もうひとつの「阿波丸」とも接点があるのではないかと思い至った。
そして、この新生・阿波丸コソ、日米関係に大きなシコリを生む「悲劇の阿波丸」となった。
この新生「阿波丸」は、1943年3月5日に三菱重工長崎造船所で完成した貨客船(11249トン)で、太平洋戦争中の統制で船舶運営会の使用船となっていた。
1941年12月に勃発した第二次世界大戦のさ中、米国民政府は日本軍が占領していた南方諸地域に抑留されている連合軍将兵と民間人に対し「慰問袋」を配布して欲しいとの申し入れをしてきた。
日本政府は人道上の見地よりこの申し入れを受け、大東亜省事務次官を団長とする使節団を派遣する事を決定し、阿波丸をこの目的に利用することとした。
、 そして、南方各地に収容されている米英蘭の捕虜に「救恤品輸送」の特命を帯びて南方各地に巡航し、捕虜に救恤品を渡し、最後に昭南島(シンガポール)に寄航後、内地に向け帰航することになっていた。
その航海の安全を米海軍から保障されるという密約の基に、灰白色の船体の前後に緑地に白十字の「緑十字」を描いた特別な船であった。
ところが1945年3月、フィリピン諸島も米軍に制圧され、日本海軍は制海権もすでに失っていて日本の輸送船舶は殆ど壊滅状態であった。
救恤品以外の物は搭載しないという「密約」があったにもかかわらず、日本陸軍は窮余の策としてやむなく阿波丸を利用したのである。
この船は緑十字船だから絶対安全ということで、商社の幹部や高級軍人、婦女子も217名を含む2000人を越える人々が乗船した。
阿波丸に乗船した人々の多くはシンガポールから内地への引き上げ者だったのだが、「緑十字船」なので絶対安全という宣伝が、人々の運命を大きく変えることになる。
阿波丸は、沢山の軍需物資を乗せて敦賀港を目指すべく、台湾海峡にさしかかっていた。
そして1945年4月1日夜半、突如米国の潜水艦クイン・フイッシュ号より魚雷4発が発射され、船体のほぼ中央に命中、2070名の人命が積荷や船体もろとも一瞬にして海底のもくずと消え去ったのである。
ただ1人、コック男性が救助され、唯一の生存者となったが、すでに故人となられている。
日本政府は米国に対し、その「不法」を抗議すると共に謝罪と賠償を請求すべく中立国のスイスを通じて交渉を開始したが、ソノわずか4ヶ月後の8月15日、日本は敗戦による無条件降伏するに立ち至り、賠償請求どころではなくなった。
しかし月日もたち次第に復興の兆しも見え始めて来た1949年の国会(吉田内閣)に於いて、日本の戦後復興に多大の協力を惜しまなかった米国に対し感謝の念を表す手段として、「阿波丸事件賠償請求権」を放棄する案が与党より上程され、絶対多数で決議されたのである。
遺族に対しては人命1人につき僅か7万円の見舞金を一方的に支給するのみで、一応この問題は終結したかに思えた。
しかし遺族にしてみれば、米国の故意かそれとも過失なのか真相さえ解明されぬままでの「幕引き」は到底納得しきれるものではなかった。
遺族らは時を経て遺族会を結成し「賠償請求権に伴う国の善処方」を時の総理大臣に請願した。
そして遺族らの熱意と犠牲者が所属した団体や一般の訴えによって、1977年10月東京芝の増上寺に「阿波丸殉難者合同慰霊碑」が建設された。
その慰霊碑の後方両側面には、2070名の犠牲者の名が刻まれている。
そしてこの年、中国政府は阿波丸の引揚げに同意し中国史上最大規模の沈没船引揚げプロジェクトが開始された。
サルベージ船団が牛山島海域に入り、阿波丸の探索を始めた。そしてその2年後の1979年、中国が水深60メートルと比較的浅い処に沈んでいる阿波丸を発見したというニュースが飛び込んできた。
潜水大隊の隊長により、最初に巨大なマストを発見し、沈没船は1万トン級の船舶と判断され、この海域で沈没したい1万トン級の船舶といえば、阿波丸しかない。
その後、第二陣の潜水隊員により犠牲者の遺体が発見され、続いて積荷と見られるスズのインゴットが発見された。
これは、アメリカと日本から提供された阿波丸の積載貨物に関する資料と符合していた。
更に、潜水隊員が持ち帰った2枚の名札も、犠牲者リストにある人物のものと確認された。
さらに1980年7月9日、サルベージ船の調査によって、沈没船が阿波丸であることを直接証明するものとして、貨客船に備え付けられていたベルが発見された。
そのベルには「阿波丸」の三文字が刻まれており、建造年代と所属する船会社の社名も鮮明に読み取ることができた。
そして35年間海底に沈んでいた阿波丸の船首がついに海上に現れた。
阿波丸の船名はすでに海水に浸食されていたが、英語名の省略表記「AAAR」は完全な状態を保っていた。
この年、中国政府は世界に向け、正式に阿波丸のサルベージ作業の終了を宣言したのである。
阿波丸の引揚げの過程で、中国政府は日本側と協力し、引揚げられた阿波丸の犠牲者の遺骨や遺品の収集と鑑定を行った。
1980年、中国政府は日本に阿波丸の犠牲者の遺骨の引き渡しを決定し、中国政府を代表して、上海紅十字会が368体分の遺骨と218箱分の遺品を3回に分けて日本政府に引き渡した。

阿波丸撃沈事件を題材にしたフィクションが浅田次郎の小説「シェヘラザード」で、阿波丸は「弥勒丸」という名で登場する。
2004年7月、コノ原作をもとにドラマ「シェへラザード」がNHKで放映された。
原作のタイトルは、弥勒丸ではリムスキー・コルサコフ作曲の「シェヘラザード」(1888年)の曲がしばしば蓄音機から流れていたという設定によるものである。
「シェヘラザード」は、伊藤みどり、浅田真央らのフィギュアのプログラムでしばしば使われる曲だが、アラブの王様に千の話を一夜のごとく面白く語り、王様のお后となった女性の名前によるものである。
そして物語は、戦時中に台湾海峡で米海軍の潜水艦に撃沈された弥勒丸と共に沈んだ時価2兆円といわれる「金塊」を餌に、日本の政財界の長老達を動かしてこの船を引き揚げようと画策する謎の「台湾要人」と、弥勒丸乗船者で生き残った一人の民間人らが登場して展開していく。
この「阿波丸撃沈事件」の最大のナゾは、アメリカの「要請」で航行しソノ安全が保障されていたにもかかわらず、なぜアメリカ軍により攻撃されたのか。
そしてこの謎は、自民党創設資金と噂される「M資金の存在」や「北京原人の人骨の失踪の謎」までをもひきよせている。
北京原人の人骨は、終戦間際に北京の協和病院から忽然と消え行方不明になっており、阿波丸によって運ばれていたのではという説がある。
さて実際の阿波丸は、連合国人捕虜や抑留市民向けの救援物資約800トンを神戸港で積みんだ。
その後、陸軍の船舶輸送指令部があった広島県の宇品港に立ち寄り、宇品で弾薬や飛行機部品など大量の戦略物資を積み込んでいる。
そして日本の支配下にある台湾、香港、仏領インドシナ、マレー、ビルマ、タイ、ジャワ、スマトラ、ボルネオなどを巡回しシンガポールに到着している。
そして軍は帰路、南方華僑から集めた金塊と軍需物資(ゴム、錫、石油)を積み込み、それ等を隠蔽するためにも民間人を2千名余も便乗させたとされている。
この経路で注目したいのは、阿波丸の巡回先の台湾には当時「九份」(きゅうこう)とよばれる東洋一の金鉱があったことである。
金鉱の地は、台湾北部の山あいの水田と茶園を営む農家が九戸があるのみの何もない地であった。
そこから後年この地は「九份」と呼ばれるようになったが、1890年、基隆河で砂金が発見され、金の鉱脈が基隆山のすそ野に広がっていることが分かり、3000人の採金者が集まったのである。
1895年 日清戦争後、台湾は日本の植民地となり、日本の財閥(藤田組)が金鉱を管理するが、それを台湾の事業家、顔雲年に譲った。
それ以来、顔家(台陽鉱業)が「九份」のオーナーになったのである。
九份はゴールドラッシュとなり、金を求め、鉱夫が殺到。3~4万人の人口にふくれあがった。
居酒屋、映画館、市場が並び、「小上海」「小香港」と呼ばれるほどの繁栄をみせたた。
そして、抗口の数は155、全長165㎞に及んぶ東洋一の金鉱となったのである。
太平洋戦争後に、中国に復帰し顔家の「台陽公司」のもとで金の採掘が行われ、活況を呈した。
しかし次第に金脈が枯渇、1971年に閉山して、人口流出が進んだ。
しかし、全盛期につくられた街並みが産業遺産となり、美しい自然と相まって独特の雰囲気をかもしだし、人々を誘う街並みになっている。
日本による台湾統治の初期、九份の金鉱経営で財を成した顔雲年は台湾でも有数の財閥を形成した。
その子・顔恵民が、一青妙、窈姉妹の父にあたる人物である。
あるテレビ番組で、一青妙、窈姉妹まだ子供の頃に亡くなった父の面影を求めて、父親の故郷でその知人に話を聞きにいく旅をするドキュメンタリーをみたことがある。
顔恵民はスキーに山登り、そして本が大好きな高等遊民だったが、顔一族を背負って立たねばならないというプレッシャーに負け、精神的に行き詰っていたことを知る。
ところで浅田次郎の小説「シェヘラザード」は、弥勒丸(すなわち阿波丸)撃沈の理由として積み込んだ「金塊」にあることを匂わせている。
それは単なる誤射であったかもしれないが、水深60メートルぐらいでの比較的浅い海域での「撃沈」にも何らかの意図があったのかもしれない。
それと同時に、阿波丸には日本が在外地で集めた「金塊」が積み込まれているとされるが、日本は台湾を統治下においていたため、阿波丸の金塊が、顔一族の「台陽公司」の金鉱と無関係とは考えくい。
もしそうならば、顔一族は、新・旧二つの阿波丸の運命と関わったことになる。
ひとつは、顔一族の一青窈が911テロに際して、アメリカに阿波丸によって運ばれたサクラの返礼を題材にして「ハナミズキ」という曲を作ったこと。
そしてもうひとつは、日本軍が南方で集めた金塊を積んでいた阿波丸の悲劇。
とするならば一青窈の「ハナミズキ」の歌には、本人も知らぬまに、911テロばかりではなく、阿波丸撃沈の戦没者への祈りも込められているのかもしれない。
ともあれ、サクラをアメリカに送った旧・阿波丸のエピソードを重ねるとき、撃沈された阿波丸の悲劇はなお一層際立ってくるように思える。
ちなみに、中国側で引き上げられた「阿波丸」だが、中国の潜水隊員はアメリカと日本から提供された沈没船の資料に基づき細心に捜索を進めたにもかかわらず、「阿波丸伝説」を飾るところの金40トンとプラチナ12トン、それと大量の工業用ダイヤモンドは最後まで発見できなかったという。