汝の隣人「難民」

最近、シリア難民の3歳の男児の遺体がトルコの海岸に漂着した事件が、世界に衝撃を与えている。
このニュースに隠れるように、リトアニアで杉原千畝(ちうね)の記念式典があったことが伝えられた。
第二次世界大戦中、リトアニア副領事(領事代理)だった外交官・杉原千畝氏が、日本政府の訓令に背き、ナチスに迫害されたユダヤ難民に大量の「通過ビザ」を発給しその生命を救った功績を讃える式典である。
当時のユダヤ人難民は大西洋経路を通ることは絶望的で、「ヨーロッパ→シベリア→日本→南米」という経路で逃れるルートが一般的だった。
1939年、リトアニアのカウナスで杉原にとって、またそれそれ以上にユダヤ人にとっても運命的な出来事と出会う。
ユダヤ人難民たちは、ナチスから逃れるために、日本の「通過ビザ」を求めて、カウナスにある日本領事館に、殺到していたのである。
領事館の日本通過ビザ発行の訓令では、行き先の相手国が発行したビザ、あるいはそれに代わる書類の提示を必要としたが、ユダヤ人難民たちの多くは、希望する相手国が発行した書類をもつはずもなかった。
杉原は、緊迫してきた1940年7月から8月までに、何度も外務大臣あてに、電報をうち本省にビザ発行の許可を求めたが、ビザの発行を認めずという返事だけが返ってきたため、自分の責任において日本の通過ビザの発行に踏み切った。
そして杉原は、同年7月から8月26日までに、2139人の「杉原リスト」として知られるビザを発行した。
しかし8月29日、ドイツ併合下のプラハ総領事館勤務を命じられ、カウナスの領事館を閉鎖してベルリンへ向かった。その時、杉原は、汽車が発車する直前まで、ビザの発行を続けホームに助けを求めにきたユダヤ人に渡したのである。
また帰国の際に列車の中でもプラットホームのユダヤ人にビザを書き続けた。ユダヤ人たちは列車を追いながら杉原との再会を誓った。
ユダヤ人のために2000枚のビザを書き上げた杉原領事代理のとった行動は明らかに命令違反であったが、責任をとわれることなく、杉原はケーニヒスベルク日本総領事(1941年)、ブカレスト総領事(1942年)などを歴任している。
戦後、外務省はまもなく大々的なリストラを断行し、戦前の話とはいえ外務省の命令を意図的に無視した杉原はその対象とならざるをえなかった。
リトアニアでの命令違反が問題とされ、勝手にビザを発給した責任を追及されたのである。杉原はただちに辞表を提出し、二度と外交の世界に戻ることはなかった。
その後、杉原は得意のロシア語を生かして進駐軍やNHKに勤務したあと、日ソ貿易に従事してきた。
1986年一人のユダヤ人が突然杉原の会社を訪れ、彼は鞄から一枚の古びて黄色くなった紙を見せた。それは彼がカウナスで発行したビザの一枚であった。
1989年イスラエル政府は杉原をイスラエルにまねき、イスラエル国家への貢献に対してメダルと表彰状を渡した。
以上が杉原氏が「日本のシンドラー」となった経緯である。
しかし、最近或る本にこの「杉原美談」に次のような疑問が提示されており、なかなか説得力があった。というのも杉原氏の話に腑に落ちない点を感じていたからだ。
第一に杉原氏が自分だけの責任においてビザの発行に踏み切った点。もし通過ビザを大量発給したとしたら、杉原は政治難民をシベリア鉄道経由ウラジオストク、および日本の港湾に殺到させた責任を問われ、訓令違反だけではすまない。
つまり外務省を免職されるのが普通である。それは日本の蒙る迷惑の次元に留まらず、世界的規模の難民問題を誘発することになるからだ。
したがって最終目的地の入国許可を得ていない者には、通過ビザ発給を見合わせよという外務省の訓令は至極当然であり、同盟国ナチス・ドイツへの遠慮を理由にユダヤ人避難民へのビザ発給を渋ったというのは、根拠のないものである。
第二に、その訓令違反にもかかわらず、その後も杉原はその責任をとることなく、終戦までノンキャリア外交官としては最高級の外交官人生をおくった点。
杉原は「日本の提示条件を満たさない避難民の日本行き乗船を、ウラジオストクで拒否せよ」と意見具申しており、それは杉原氏が「訓令違反」を犯さなかったこと、つまり外務省の訓令に忠実に従ったことの証明ではないか。
第三に、終戦戦後外務省は大々的なリストラを断行し、戦前の話とはいえ外務省の命令を意図的に無視した杉原が、責任を追及されて退職に追い込まれた点である。
日本は占領下に置かれ、日本の外務省の組織を大幅に縮小する必要が生じたのは、致し方ないことで杉原のようなノンキャリア組がロシア専門家が不要になって、退職させられたにすぎない。
ただし、当時ヨーロッパ諸国がユダヤ人がビザの発給を拒否する中で、訓令に背こうが背くまいが、彼が発行したビザはユダヤ人にとって「命のビザ」であることに変わりはない。
では仮に「杉原美談」は作られたものだとしたら、ナゼこのような「美談」が作られたのか。そこには戦争中の日本政府の行為を出来る限り貶める政治勢力の影響を推測することができる。

最近、「ベトナムのシンドラー」とよばれる人が注目を集めている。当時、ベトナムの首都・サイゴンでシティバンクのアシスタントマネージャーをしていたリアダン氏の話である。
彼は、現地社員のベトナム人たちとも家族ぐるみの付き合いをするほど、親密だった。
しかし1975年3月、米国軍の撤退に乗じて北ベトナム軍が南ベトナムに侵攻を始め、4月にはサイゴンまで迫ってきていた。
本国からの「避難命令」を受けたリアダン氏は後ろ髪を引かれる思いで香港に脱出する他はなかった。
シティバンクのアメリカ人社員である自分の命ばかりではなく、自分の存在のせいで彼らにも危害が及ぶリスクが高まる可能性すらあったからである。
その旅立の前にリアダン氏はベトナム人の同僚たちに「必ず戻ってくる」と告げたのだが、「右腕」と頼むベトナム人社員は、「あなたがここを脱出することに責任はない。ただあなたは帰ってこないだろう。それがアメリカという国だからだ」と告げる。
その後、香港に渡ったリアダン氏は同僚のベトナム人社員とその家族を救い出す方法を模索し始める。
しかし、ヘリコプターでの輸送など様々な方法を提案するが、国益や自国民のためならいざ知らず、ベトナム人の救出となると米国政府も動こうとはしない。
それでもなおも救出にこだわるリアダン氏に銀行側は「解雇する」とまで言い放つ。
そこでリアダン氏は単独で救出することを決断してベトナムに帰還して、もはや陥落間近のサイゴンで同僚たちと再会した。
かつて右腕と頼んだベトナム人は、「あなたはどうしようもない馬鹿だ」と涙を流す。
実際リアダン氏は、彼らを、救出する方法をこれから考えねばならなのだった。
そして、CIAのエージェントと接触し、「米国人とその家族なら軍の貨物機で脱出できる」ということを教えられる。
リアダン氏はその手続きのため飛行場に足を運び、門番をする兵士には賄賂を渡して通過し、書類にベトナム人の同僚やその家族15人の名前を自身の「扶養家族」として記入し提出した。
「これおかしいだろ」と指摘されたらアウトだから薄氷を踏む思いだが、担当者は問いただすこともなく書類を受理。
そして、なんと4日間で10回も同じ方法で書類を通し105人のベトナム国外への脱出が許可されたのだ。
さすがに窓口の担当者が「あれ?前にも来なかった?」と尋ねてきたこともあったが、リアダン氏はシラをきり通した。
窓口の担当者もお役所仕事の上、現場が混乱状態であったことが幸いした。
こうして無事、同僚とその家族105人はグアムやフィリピンへ脱出し、その後カリフォルニアに移った。
気になるのは銀行の警告を無視して渡航したリアダン氏の処遇だが、ナントその勇気ある行動に銀行側はボーナスを支給し「英雄」として称えた。
それだけに留まらず、脱出してきたベトナム人社員たちに仕事を与え、100万ドルの資金援助までしたという。
ちなみに、このリアダン氏のことが公になったのは、2013年の放映のドキュメンタリー番組がキッカケだった。

緒方貞子は国連難民高等弁務官として、1991年2月から2000年12月までの10年間、世界の難民の保護と救済に活躍した。
彼女は、新しい難民支援の「枠組み」を作りあげ、その結果、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、緒方貞子以後国連の中心的な組織として、その役割も拡大した。
緒方貞子がこのポスト就任した1991年は、冷戦が終焉し代わって民族的、宗教的、社会的な国内紛争に次々と火がつきはじめた時期であった。
湾岸戦争終結後のイラクから、クルド難民140万人がイランへ、40万人がイラク・トルコ国境地域に流出したが、トルコが治安のために難民受け入れを拒否し国境を閉ざしたため、UNHCRはイラク領土内でクルド難民を救済することとになった。
難民条約は、難民は「国境の外に出てきた人」と定義しており、「国境を越えていない人々」を保護すべきかという問題に直面した。
緒方は、「人間として」救わなければならないという基本原則を守るために、「行動規範を変える」ことを決断し、イラク領内でのクルド難民救済に踏み切った。
また1991年、ユーゴスラビア連邦からスロベニア、クロアチアが分離独立するとともに、民族間の紛争が発生する。
当時、ユーゴ連邦の政治の実権はセルビア人が握り、領土を維持しようとするセルビア中心の連邦軍と、独立を図る各共和国軍という対立構造となった。
ボスニア・ヘルツェゴビナでは、独立を求めるムスリム人は人口の4割に過ぎず、反対するセルビア人、クロアチア人と対立する。そして、1992年4月に軍事衝突が起きると、壮絶な内戦が始まる。
セルビア系武装勢力の包囲によって孤立した首都サラエボに、UNHCRは軍との協力による物資空輸を1992年7月から3年半続けた。
この戦争は、難民の保護だけでなく、国内避難民や戦禍に巻き込まれた「一般市民」にまで保護を広げ、UNHCRの使命を拡大させることになった。
1994年7月にザイール(現在のコンゴ民主共和国)のゴマに向かって100万人規模で流出したルワンダ難民だが、その中には集団虐殺に関与した武装兵士や民兵が紛れこんでいた。
彼らと難民とどのように区別するかが大きな問題となり、結局は国連軍は派遣されず、道義的な問題を理由に有力なNGOも撤退した。
しかし、緒方は旧戦闘員を区別することなく食糧等を援助した。
さらに、ルワンダ難民については、帰還するばかりでなく定住するまでの保護がどうしても必要で、開発援助を行っている国際機関に支援を求めた。
しかしそれに応える機関はなく、UNCHRは直接援助活動を続け、予想どうり「越権行為」という批判を受けた。
緒方は、それが本来の役割ではないとしても、誰かがそれをやらねばと批判を覚悟の上で行ったという。
緒方貞子は、NHKの番組の中のインタビューで、現場の状況に応じて、「人の命」に最優先を置くことを自らの鉄則としていると語っている。

ヨーロッパにおしよせる「難民」がテレビで放映され、聖書で有名な譬のひとつ「善いサマリア人の譬え(たとえ)」が思い浮かんだ。これを新約聖書「ルカの福音書10章」から引用しよう。
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ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
彼は答えて言った「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります。
彼に言われた、「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し『この人を見てやってください。費用が余計にかかったら、帰りがけに私が支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
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イエスに一番大切な律法は何かと質問したユダヤ人律法学者だが、イエスから「どう読むかと」逆に聞かれ正しく言い当てるヤ、「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」といわれている。
しかし、この律法学者は、「そのとうり行いなさい」といわれて少々意表をつかれたようだ。
なぜなら彼は「自分を弁護する」ように、「では自分の隣人とは誰か」とわざわざ聞き返しているからだ。
当時ユダヤ人は、律法を守らぬサマリア人を嫌悪し交際していなかった。
その時代背景の下でイエスはこの譬えを語るのだが、その中で瀕死の旅人を見過ごす、律法学者や祭祀やレビ人などが語られる一方で、彼らが嫌悪するサマリア人を「慈悲深い人間」とたとえている。
次にイエスは、律法学者の「誰が隣人か」の質問に対して、この譬え話の中で「誰が隣人にナッタか?」と逆に問い返している。
それに対して律法学者は「隣人となったのはサマリア人です」と答えてもよさそうなのに、「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えて、あくまでもサマリア人という言葉は口に出そうとはしなかった。
このような差別感情がある律法学者に対して「あなたも行って同じようにしなさい」とは彼にとって実に「痛い言葉」であったにちがいない。
最後に、この「善きサマリア人の譬え」は、救いが「異邦人に伝えられる」という「新しい契約」の型であることを付言しておこう。
さてヨーロッパ社会ではキリスト教の伝統があり、難民の受け入れにつき寛容なのはこの「良きサマリア人の譬え」の教えの影響はけして小さくはないと思う。
その一方で、ヨーロッパでは、ヘイスト・スピーチや「移民排斥」の政党が勢力伸ばしつつある。
実際に難民とはいっても「避難民」ばかりではなく、ヨーロッパにあらたにイスラムの拠点をつくろという人々も紛れているにちがいない。
先日、中東から経済的に豊かなドイツなどを目指す難民や移民の経由地となっているハンガリーのオルバン首相は、EU=ヨーロッパ連合に対し域外との国境管理を強化して難民らの流入を抑える方針を伝えた。
ハンガリーといえば、「汎ヨーロッパ・ピクニック」なる企画を通じて東ドイツから西ドイツへの「避難路」を確保した。つまり1989年11月9日の「ベルリンの壁」に最初のヒビをいれた国である。
その国の首相が無制限な難民の流入に「待った」をかけたのだから、世界中で難民の急増が複雑で重い課題になっていくことが予想される。
「難民の隣人たりうるか」は、これからの日本人が突きつけられる問題でもある。