傲慢リスクと「神老」

以前、「希望学」という学問が誕生したことを聞いたことがあるが、最近では「傲慢学」という新たな学問が登場した。
昨年開かれた「傲慢学会」には、欧米の脳外科医、生化学者、精神分析医、経営・組織学などの専門家ら約300人が集まった。
背景には、企業経営においてトップが「助言」を聞かず冷静な判断ができなくなって暴走し、企業が存亡のフチに立たされることが多いことがある。
直近では乗務員のサービスに激怒して飛行機をひきかえさせた「ナッツ・リターン騒動」があった。
長く経営のトップにあると周囲が見えなくなるケースとや、助言者のいうことを聞かないことなどがある。
ビジネス界では、トップの「傲慢」を経営リスクのひとつとして捉えるようになった。
特にゼロからたたきあげて会社を創業したようなトップは、いつまでも古い「成功モデル」に固執することが多く、最近の大塚家具の騒動にもそういう側面があるように思う。
大塚家具は、創業者の大塚勝久の卓越した経営力によって成功を収めた企業であることは間違いない。
儲けの蓄えを示す利益余剰金は280億円つまれており、銀行からの借入金がない「無借金経営」という類まれな会社である。
大塚勝久会長の販売方法は、巨大なショールームに輸入品を含めた幅広い品揃えの家具を展示し、名前や住所を登録した来客店に従業員が寄り添って接客するやり方であった。
しかしリーマンショック以降売り上げや利益が伸び悩み、2014年12月に営業赤字に転落している。
その一方で、家具業界のユニクロともいわれるニトロが、低価格を実現するために製造から小売まで手がけ消費者の支持を集めていった。
娘の大塚久美子社長は、高付加価値の商品ばかりではなく中価格の家具にも幅を広げ、小型店の展開も視野に入れ気軽に来店できる店にしようと販売方法の転換をはかった。
会長と社長の両方にとって「皮肉」なことは、無借金経営であるために、銀行という強力な「第三者」のアドバイスが得にくいことが推測される。
結局、「成功は失敗の元」という言葉も真実で、自らの引き際を早くから定めているケースもある。
ソフトバンクの孫正義が19歳の時に立てた、次のような「人生50年計画」が思い浮かぶ。
それは、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1千億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、 60代で事業を後継者に引き継ぐ」というものである。
孫社長がこの言葉どうりに事業を後継者に引き継ぐかは、ひとつの見所でもある。
また、第三者の忠告を聞き入れ、引退を決断した経営者のことを思い浮かべる。
本田技研工業創業者・本田宗一郎は、1973年60代で45歳だった河島喜好に社長の座を譲っている。
しかも退任後は会長ではなく、実権のない名誉職・最高顧問に就任している。
本田はホンダの創業者であり天才技術者でもある。
普通なら、跡を継いだ新経営陣に対して、「社長にしてやった」だけでなく、「教え育てやった」という意識があって当然だ。
会長としてあれこれ注文をつけ、「院政」を敷いてもおかしくない。
しかし本田は、役員会に顔を出すこともなく、みずからが創業したホンダという会社を、若い経営者に完全に任せている。
しかし、それはそれほど速やかにいったわけではなく、ひとつのキッカケがあった。
「ホンダの独創性は"空冷エンジン"にある」との信念を抱き続けてきた本田宗一郎。
しかし、若手技術者には「空冷は時代遅れ」という認識があり、「空冷水冷論争」が起こる。
研究所で陣頭指揮に立つ本田は、その空冷エンジンを搭載する市販車開発において、エンジニアに何度も設計変更を指示する。
現場はその都度、仕事が滞って混乱してしまうということが起こった。
研究所長は「過去にすごい成功体験を持っている強力な創業者が技術のトップに立っている。行くところまで行かないととても止められない企業体質だった」と振り返る。
手段であるはずの技術が目的になり、新しい空冷技術を商品化した新車「H1300」は大衆にアピールせず、販売は不振をきわめた。
手の技術者が集まって、どう本田に反省してもらうかを議論するが、その場に本田の朋友で副社長の藤澤も招かれた。
藤澤は研究所の幹部からもじっくり話を聞いて「水冷」に分があると再認識した。
かつて、藤澤は本田から「技術については口出ししないでくれ。その代わり、俺はカネのことは口出ししない」と言われ、ずっとそれを守ってきた仲であった。
それでも藤澤は、初めて「聖域」に踏み込む。
「あなたは本田技研の社長としての道をとるのか、それとも技術者として残るのか。どちらかを選ぶべきではないか」
しばらく沈黙の後、本田はこう言った。「俺は社長をしているべきだろう」。
本田はついに水冷エンジンの開発にゴーサインを出し、同時に技術の第一線から退く決断を下した。
70年、創業以来の本田と藤澤による二人三脚の指導体制から、4人の専務による集団指導体制に変更された。
そして73年、副社長の藤澤は引退を宣言、本田は「俺は藤澤武夫あっての社長だ。藤澤が辞めるなら、俺も一緒。辞めるよ」と67歳の若さで取締役最高顧問に退いた。
ところで「傲慢」は企業にかぎらず、家庭から施設まで、周囲はそれに悩まされる人たはが多く、自らを常に省みて戒めなければならない厄介なものでもある。

さて冒頭の「傲慢学会」に集まったメンバーを見ると、老いによる「脳の硬直化」も傲慢の原因と捉えられているようだ。
塩野七生女史はローマに住み、ローマ帝国興亡の1000年を描く「ローマ人の物語」にとりくんでいる。
古代ローマ人たちは「老い」に対する考え方でした。
いったい、ローマ人たちは高齢者をどう見ていたのか。
17歳から45歳まで兵役が義務づけられていたローマ帝国においては、老人とは文字通り「健康な精神は健康な肉体に宿る」という理念を体現した人と見られていた。
常に戦争の絶えなかったローマにおいて、幾多の戦闘をくぐり抜けて生き残ってきた老人たちは、それだけで強い肉体と意志と勇気と知恵をあわせ持った理想の人間として尊敬を受けていたのである。
そしてローマ人たちの多くは、45歳を過ぎてから政治家になって国家の要職についたり、商売をはじめたりしている。
古代ローマには60歳以上の高齢者しか参加できない「元老院」という組織があり、実質上のローマの政治をとりしきっていた。
一般に高齢者は風呂を好むものだが、ローマには有名なカラカラ浴場やディオクレティアヌス浴場など、「風呂文化」がしっかりと根づいていた。
「パスク・ロマーナ」と呼ばれるローマの平和な時代は、高齢者にとっても生きがいの持てる幸福な時代だったのだ。
それでは、日本において「パスク・ロマーナ」に近い300年近く続いた江戸時代はどうだったか。
そして江戸時代こそは、日本史に特筆すべき「老い」が価値を持った社会であった。
儒教に基づく「敬老」「尊老」の精神が大きく花開いたからだ。
徳川家康は江戸幕府を開く前に「論語」を愛読していたそうだが、幕府の組織をつくるにあたっても、将軍に次ぐ要職を「大老」とし、その次を「老中」とした。
家康がいかに「老」という文字を大事にしていたかがよくわかる。
また、現代日本から見て、江戸という社会の特徴は「リサイクル」と「ボランティア」という二つの言葉で言い表わされる。
江戸の暮らしは自然のリズムにそって流れているし、人もモノもゆっくりと動いていた。
人がその一生を通じて蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立った。
「若さ」をたたえる社会よりも、人にも自然にもやさしい社会であり、文化であった。
ローマにせよ江戸にせよ、幸福を人生の前半に置くのではなく、後半に置くというのは共通している。
つまり農耕社会において人間は年を取れば取るほど経験が豊かになってその智恵を必要とするため、当然に老人を尊重する社会となっていく。
日本にもそういう意識は、戦前まではっきりと残っていたと思う。
ところが、現代はエネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、「若さ」が特権とする文化と言い換えることもできる。
逆に、日本が江戸時代に実現していた「循環型」の暮らしや、相互扶助の豊かな伝統が失われたことを示している。
次々に新しい技術を導入し、規格大量生産を完成させ、そのため経験や蓄積よりも、すばやく反応できる運動神経や、長時間労働に耐えられる体力や、新しい技術を速やかに覚えなじむ記憶力が重視されるようになった。
最近のJCやJKは、20代の後半にでもなれば「おばさん」とよぶし、高齢者は「負い」を感ぜざるをえない雰囲気だ。
情報量もコンピュータやインターネットの普及により、若者の方がはるかに優っている。
今の高齢化の現状は、政治や経済の対策の遅れもあって、「老い」をもて余している感がある。

現代社会は、高齢者が「情報(経験)優位者」というわけにはいかず、「老人の智恵」は貴重なものとは尊重されなくなった。
かつての「老人の智恵」は、条件さえ打ち込めばコンピュータのソフトが代替してくれる。
だから、せめて輝ける老年を送ってこそ、若者に夢を与えられるのではなかろうか。
ちなみに「論語」には次の有名な言葉が出てくる。
「われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」。
孔子によれば、60になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。70になると自分の思うままに自由にふるまって、それでいて道を踏み外さないようになったという。
ここでは、「老い」は衰退ではなく、「人間的完成」としてとられている。
人は老いるほど豊かになるという発想なのだが、現実の老人の一体どれくらいが、このような境地に至り得るものだろうか。
この境地に至る前に、認知症によって徘徊など始めている可能性もある
そこで、この論語の言葉があてはまりそうな、ドイツ現代史における「輝ける老人」の話をしよう。
2015年1月、元ドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカーが亡くなった。94歳だった。
ワイツゼッカーといえば、ドイツの戦争責任やユダヤ人迫害の歴史と向き合うよう国民に求め、ガウク大統領はメッセージの中で「過去と立ち向かうドイツの立場を世界中で代弁してきた」と死を悼んだ。
  1985年5月「荒れ野の四十年」と題したドイツ敗戦40周年の連邦議会演説で発した「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」との言葉は有名だ。
ドイツ国民が犯した罪と歴史を直視しなければナチス・ドイツが迫害したユダヤ人や近隣諸国との真の「和解」はできないとの訴えで、国内外で大きな反響を呼んだ。
ワイツゼッカーは、第二次大戦に従軍し、ポーランド戦線で一緒に戦っていた次兄は戦死した。
戦後のニュルンベルクの戦犯裁判でナチスの外務次官だった父親の弁護に加わった。
戦後、中道右派の「キリスト教民主同盟」(CDU)に入党し、連邦議会議員、西ベルリン市長をへて、84年に連邦大統領就任している。
94年の退任後も、欧州連合(EU)の機構改革を提言するなどして、今や「ドイツの良心」とまで評されている。
しかし、このワイツゼッカー以上の「老人の星」ともいうべき人物がいる。ワイツゼッカーが属した「キリスト教民主同盟」を創立したコンラッド=アデナウアーである。
第2次世界大戦後の西ドイツ首相。キリスト教民主同盟の指導者。冷戦時代の西ドイツ首相として、その経済復興を実現させた。
西ドイツの首相(在任1949~63年)として、その「奇跡の経済復興」を指導した政治家として重要な存在である。
戦前にはケルン市長を務めたがナチスには反対し度々投獄された。
第二次世界大戦後の1945年にキリスト教民主同盟を結成し、ドイツが東西に分離独立してドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立すると、その初代首相に選出された。
しかし、わずか1票差で選出あり、政権はキリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟連合と自由民主党など小政党の連立内閣であった。
しかしアデナウアーは、アメリカのマーシャル=プランなどの経済援助によってドイツ経済を復興させ、さらにNATO加盟とともに再軍備を認めさせるなど、50年代の冷戦時代のドイツをリードして奇跡の経済復興を実現した。
彼は一貫して東ドイツを国家として認めず、対話を拒み、西側の一員として西ドイツを繁栄させることを最優先した。
その政策は統一に冷淡であると次第に人気を失い、1963年のド=ゴールのフランスと間で独仏友好条約を成立させたのを花道にして引退した。
ところで、コンラッド=アデナウアーが西ドイツの首相に就任したのは、70歳をすぎていたが、どんなに好意的に見ても人並み外れた優れたものを見いだすことはできない、と評されている。
アデナウアーが70歳で首相になったのは、それより若い世代の多くが戦争で亡くなり、ナチスだったために排除され、そして若者の多くが疲れ果てていたからだった。
そこで、老人が頑張らなければならなくなった。
なぜならドイツの政界は、砂漠と化した森のように、すっかり人材が枯渇してしまったからである。
当時の40代、50代のいわゆるナチス世代は、ボロボロに潰され、威信を失墜していた。
30代の若者は戦没兵士の墓地に横たわるか、捕虜収容所でうずくまっていた。
そのために70歳の老人が日の当たる場所に立つことになったのだが、彼は賛成派、反対派双方の期待を上回る「老人パワー」を発揮したのだった。
まさかドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、1949年の発足後わずか5、6年のうちに、戦勝国とほぼ対等の同盟国にまでのしあがり、賠償や解体の問題にけりをつけ、「再軍備」まで許されるまでになるとは、誰一人予想していなかったろう。
そしれ、まさか議会制民主主義が、立派に機能するようになるとは、いったい誰が予想できたであろうか。
こうした内政・外交両面の成功は、まさにアデナウアーがもたらした成功である。
アデナウサーが、なぜ年老いてから輝き始めたのか。
1946年、70才になった彼は決意を固めた。それと同時にこれまでたまりにたまったエネルギーがいっきに爆発したかのようだ。
決断力、指導力、忍耐力、目的意識、確固たる自信があふれ出て、3年の間にいっきに頂点、すなわちドイツ連邦首相の地位に就き、14年ものあいだトップに君臨し続けた。
アデナウアーは、老いて自由闊達となった「神老」というべき存在である。