「世界」のお墨付き

今、世界でひとつの興味深い現象がある。
例年、世界遺産登録が決まる際の「世界遺産委員会」への取材陣は、日本が突出して多いのだという。
世界遺産になったからといって「中身」が変わるわけではなく、日本人は「世界」という言葉の響きに、とりわけ弱いのかもしれない。
戦後、日本が独立し海外に向けて動き始めた頃、産業や芸術・文化に国際的に評価されたものは稀でしかなかった。
それどころか「過去の否定」の上に戦後を築いた日本は、積極的に「何か」を発信しようともしなかったともいえる。
そのせいか、たまたま海外で評価されるようなことがあれば、ようやくソノ価値に気づくという経緯を辿ったものもある。
つまり、「世界のお墨付き」をえて、はじめて国内的評価が定まったものである。
1962年、日本人で初めてヨット・マーメイド号で太平洋単独航海を果たしたのは、当時24才の堀江謙一であった。
しかし当時ヨットによる出国が認められておらず、この偉業も「密出国」、つまり法にふれるものとして非難が殺到し、堀江氏は当初「犯罪者」扱いされていたのだ。
実は、堀江出立の3ヶ月前に、ドラムカン製イカダで太平洋を横断しようとした青年Kがいた。
Kは八丈島付近で巡視艇に見つかってしまい、強制的に引き返させられた。
巡視船に曳航される途中で、Kは何度も「死にたい」と思ったという。何しろKを待っていたのは、未決収容所での手厳しい「教育的指導」であった。
堀江もヘタをすれば、Kと同じ運命を辿っていたかもしれない。
日本では「冒険」というものが社会的に評価されにくい風潮があるのは確かだ。
「無謀さ」は本人を危険に陥れるばかりではなく、職場や親族縁者にまで迷惑をおよぼす、という配慮が働くからかもしれない。
しかし、無謀でない冒険などあるだろうか。もし無謀がダメなら冒険はするなということに等しい。
まして「法を犯す冒険」など絶対不可である。当時の日本の官憲も、報道もそんな論調であった。
ところが、堀江を迎え入れたアメリカ側の対応は、日本とはまったく対照的なものであった。
まず第一に、日本とアメリカの両方の法律を犯した堀江を「不法入国者」として強制送還するというような発想を、アメリカ側は絶対にしなかった。
その上サンフランシスコ市長は、「我々アメリカ人にしても、はじめは英国の法律を侵してアメリカにやってきたのではないか。その開拓精神は堀江氏と通ずるものがある」と肯定した。
さらに「コロンブスもパスポートは省略した」とユーモアをもってマトメ、堀江を尊敬の念をもって遇しサンフランシスコの「名誉市民」として受け入れたのである。
すると、日本国内でのマスコミ及び国民の論調も、手のひらを返すように、堀江の「偉業」を称えるものとなったのである。
ちなみに「マーメイド」の名は、掘江が資金不足に悩んでいる際、敷島紡績が同社の人魚マークを帆に入れるのならば帆を一式寄付するとの申し出を受け、その寄付を受けたことによる。

荻村伊知朗は、1971年の世界卓球名古屋大会において共産圏・中国の参加を実現した功労者である。
それは、日本卓球教会会長で愛知工業大学理事長の後藤鉀二がお膳立てした「中国参加」の意思を引き継ぐものだった。
ただ、この名古屋大会のバスの中で、アメリカ選手団と中国選手団のコンタクトがあり、この時ピンポン玉がコジあけた小さな風穴は、1972年の米中国交回復、さらには日中国交回復へと驚くべき展開を生みだしていく。
そして荻村は名古屋大会の20年後の1991年、千葉幕張世界大会における韓国・北朝鮮の「南北単一チーム」を実現している。
この頃には、荻村はすっかり「ピンポン外交」の代名詞となっていた。
ところで荻村氏は、「選手」として1954年初出場で世界チャンピオンに輝き、1956年の東京大会で二度目の世界チャンピオンになった実績がある。
元祖「世界のイチロー」となったわけだが、その国内的評価は充分に高いものとはいえなかった。
荻村が世界大会に最初に参加した1954年当時、参加選手は自分で80万円の渡航費用を手当てする必要があった。
しかし当時の日本は貧しく、一般のサラリーマンの平均年収が10万円に満たない時代であった。
つまり荻村個人ではとても用意できる金額ではなかったのだが、 卓球場の仲間たちが街頭募金や有料の模範試合などを開いて資金を集め、荻村の世界大会参加を実現させたのである。
しかし荻村が世界卓球に初参加した時の日本選手に対するイメージは最悪なもので、日本選手が出場するたびに「ブーイング」が起こったほどだった。
当時の日本は国連にも加盟できなかったばかりか、戦争中の「悪者」イメージがつきまとっていたからだ。
だが、ひとつのハプニングが観客の雰囲気を一新した。
ある試合の中で対戦相手の外国人選手がピンポン玉を拾いにフェンスを越えようとした瞬間にバランスをこわし転倒しそうになった。
そこに身を翻した荻村氏が床に飛び込んで、その選手を転倒の怪我から救った場面があった。
その姿を見た時から、観客の日本選手に対する厳しい視線が和らぎ、ブーイングがなくなったという。
そして荻村はこの大会で世界チャンピオンとなり、「卓球王国・日本」のアケボノを世界に印象付けた。
その後、荻村が主将として日本チーム団を率いて中国を訪問した際に、周恩来首相と面会した。
それは、日中戦争の傷もいえない時期であったが、周恩来は荻村に「胸の内」を明かすように語った。
それは、荻村にとっても「驚くような」内容であった。
中国には早くから国家的にスポ-ツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが婦人の間で広がっていた「纏足」(てんそく)という習慣であった。
「纏足」とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足が美しい(可愛い)とされた伝統があったからである。
しかし纏足は女性を家に縛り付けておこうという男性側の都合でできたトンデモナイ悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
卓球を広めていくことは、この「纏足」をヤメさせることに繋がるというものであった。
さらに中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に「劣等感」を持っていて、日本が卓球で世界一となり、外国に対する劣等感をハネ返したのにならい、中国も卓球というスポ-ツで自信を回復したいと語った。
さらに、中国は貧しい国なのでお金のかかるスポーツを採用する余裕はないが、卓球台ならば自給自足で何台でもつくれるので、卓球を「スポーツ振興」のために採用するという内容だった。
当時20代だった荻村は、この周恩来の言葉を聞き漏らさずにシッカリと受け止めた。
荻村にとって周恩来の葉は、国際大会で「悪者」扱いされながらも世界チャンピオンを勝ち取った荻村にとっても身にツマサレル思いだった。
そして荻村にとって周恩来の言葉は、日本の卓球世界一が、中国をも励ましていたことを知り、自分の使命への「呼びかけ」(コーリング)のように聞こえたにちがいない。
荻村はそのコーリングに応えるかのように、長く世界卓球協会会長の座にあって、「ピンポン外交」を展開していく。

1924年青森から東京に出てきたその男、好きなゴッホばかり描いて、作品を文展を継承した帝展に出品するが落選続きであった。
その間、木版画を学び出品してみると、そちらが先に「入選」を果たした。
1936年、国展にだした版画があまりに横長(よこなが)であったために置き場に困りモメていた。
そこにたまたま民芸派の陶工が通りかかり、その「化け物」ぶりに目がとまった。
すると早速民芸派のリーダー柳宗悦らが買い取り、彼らが棟方作品を全面的に支持したのである。
柳宗悦はいちはやく朝鮮の民芸の価値を見出した人物で「民芸派」の創始者であった。
なにしろ、朝鮮の民芸品に美しさを見出して「運動」を起したくらいの人だから、「西洋かぶれ/巨匠かぶれ」の評論家とは目のツケ処・心の在り様が違うといってよい。
棟方はその頃、版画も含め芸術の志向はヨーロッパであり、その流れに背をむけるように一人仏教や民族説話に題材を求めていった。
そして棟方は、「版画とは木に潜む精霊を呼び起こすこと」などという発言をして忌避されたりもした。
そして、誰も予想しないことであったが、棟方作品の評価は海外からやってきた。
「釈迦十大弟子」などの作品がスイスやサンパウロやヴェネチアで開催された国際版画展・ヴエンナーレ展で次々と受賞していく。 その結果、「世界のムナカタ」として国内で評価されるようになる。
棟方の場合、国際的評価が先行したカタチだが、「民芸派」との出会いがなければ、国際コンクールに出品されただろうか、とも思う。
棟方の国際評価の背景に、ヨーロッパで20世紀初頭に沸き起こった「ジャポニズム」の記憶が蘇ったのかもしれない。
ともあれ、周囲の風潮に惑わされずに「民族路線」を貫いた姿は、ゴッホばかりを描いて落選を続けていた若き日の棟方志功の姿と重なるものがある。
棟方志功は、1970年に文化功労賞者並びに文化勲章を受賞した。
そして1975年、まだまだ大きな可能性を秘めながらも72歳で亡くなった。

黒澤明監督の映画 「羅生門」(1950年大映) は、芥川龍之介の小説 「藪の中」 を原作とし、 同作者の 「羅生門」の舞台あわせて映画化されたものである。
バック・ミュージックのラベル作曲の「ボレロ」がとても印象的だったといいたいところだが、後でコノ曲は「ボレロ」に良く似た早川文雄の作曲であったと知った。
しかし「羅生門」は日本国内では不評で、興業的には「失敗」に終わったといってよい。
平安時代、京の郊外で起こった一つの殺人事件をめぐって、盗賊、殺された侍の霊を代弁する巫女、侍の妻、目撃者の樵(きこり)のそれぞれが証言する。
同じ一つの事件について三つの物語を、それぞれを自分に都合よく語る構成が、シンプルかつ面白い。
時代は平安末期、 若狭の国府の侍(森雅之) は、妻 (京まち子) を伴って、 京を立ち若狭へ向かう。
東海道を下り山科の駅を過ぎた頃、盗賊 (三船敏郎) とすれ違う。
盗賊は行き違いに見た侍の妻の美しさに惹かれ、このを奪いたいと心に思う。
盗賊は侍に近くに古塚があり財宝が埋めてあるので買わないかと言葉巧みに誘い込み、 そして不意に組み付いて大木の根本に縄で縛り付けて、 その目の前で女を手込めにして犯す。
翌朝、男は死骸となって木樵り (志村喬) に発見されるが、女は行方が分からなくなってしまう。
一体そこで何が起こり、何があったのか?。三人の当事者の語るところは、すべて食い違っている。
盗賊が検非違使(当時の警察)にが自白した話では、犯した女は気違いのように盗賊の腕に取りすがり、「二人の男に恥を見せたのは死ぬよりもつらいから、二人で決闘してくれ。勝った方の妻になる」と言った。
そこで、男の縄を切り太刀で斬り合いの結果、遂に男を斬ったが女は居なくなり、その後の行方はわからないという。
また侍の妻が観音菩薩の前で「懺悔」した話では、盗賊は妻を手込めにした後に去ってしまうが、夫はそのことによって自分を蔑むようになった。
こうなった以上、妻は夫と一緒には居られないから一緒に死んでくれと、小刀で夫の胸を刺し自分も喉を突こうとしたが、死にきれなかったという。
さらに、夫である侍が死霊が巫女の口を借りて語った話では、 盗賊は妻を手込めにした後、 自分の妻にならぬかと妻を口説いていた。
妻は応諾すると 「あの人が生きていては、貴方と一緒になれぬから、あの人を殺してくれ」といった。
それを聞くと盗賊は妻を蹴り倒し、夫に 「あの女を殺すか、それとも助けてやるか」と尋ねると、その言葉に妻は走り去った。
盗賊も侍の縄を切って去っていったが、侍は落ちていた小刀をその胸に突き刺して自害した。
以上のような三つの証言が、軽快なリズムの繰り返しとモノクロームの映像をバックとして、人間の心の深淵を次第に押し開くように描かれている。
真実はひとつなのに、語るものが多く情報が増えるほどに、「真実」が遠のいていく。ココでの情報が、各自のユニークな「物語」であるからであろう。
この映画のテーマは、とても普遍的で、人間というものは自らの物語で、無意識に己を正当化したり価値付けたりするものであるにちがいない。
「羅生門」は、1951年ベネチア映画祭で金獅子賞金賞を受賞し国際的評価を得て、黒澤の名が初めて世界に出る「記念碑的作品」となった。
さて、この夏安部首相によって「戦後70年談話」が、どのように語られるか注目が集まるが、映画「羅生門」は国家間の歴史観の相違までも想起させるものがある。
歴史の真相が「藪の中」というのは言い過ぎだが、たまたま朝日新聞の「折々のことば」に紹介されていた言葉を参考にしたい。
それは、フランスの哲学者ガブリエル・マルセルの言葉・・「私の過去は、私がそれを考察する限り、私の過去であることを止める」。
これをうけての鷲田精一氏の説明がよい。
「私が私の過去として語りだすものは、過去の無数の出来事から、いまの私がこだわり、ひっかかるものを選び出したものにほかならない。その意味で、私による私の過去の語りは、常に贋造されている可能性がある」。

ここで紹介した「世界のホリエ」、「世界のムナカタ」、元祖「世界のイチロー」、「世界のクロサワ」と、「世界の○○」と冠せられた人々は、いずれも日本国内よりも世界評価が先行した人々である。
今日、世界遺産登録ともなれば、観光客が増える。ツアーを販売する旅行会社や関連書を刊行する出版社も潤う。
「世界遺産登録」に、基本的に損するものがいないから批判派が出にくいが、日本の明治産業遺産群登録への韓国側からの批判は、一石を投じた。
九州を中心とした産業施設への朝鮮人の「強制徴用」についての異議は、たとえそれが「横槍的」なものだったとしても、明治産業遺産にはそういう側面があることを想起させたという点で、意義のある「待った」だったと思う。
また「世界遺産フィーバー」に少々「嫌な感じ」があるのは、そのことがビジネスチャンスの拡大に伴うある種の「利権」を生じさせ、腐敗が生じさせるのではないかという危惧が生じるからある。
最近では、185億円の巨額な金が動いたFIFA(国際サッカー連盟)の不正も生じている。
そんな不正はないとしても、我々は一体「世界遺産委員会」の内実を一体どれくらい知っているのだろうか。
さらには、多くの歴史遺産が、自然環境を破壊や奴隷的労働の上に立っているので、一点の翳りも曇りもない歴史遺産ナンテてどこにもない、といってよい。
地元が「世界の○○」を抱えたことを喜ぶのはヨシとしても、遺産が語る歴史のメッセージを洗い直し、地域との関わりを確認して、それを未来へのメッセージとして発信したいものだ。