死の谷、涙の谷

日本の明治産業革命の遺産が、ユネスコの「世界文化遺産」として登録される見通しとなり、各地で喜びの声が上がっている。
しかし産業遺産よりも、産業革命の裏面に繰り広げられた人間ドラマこそ、さらに見るべきものがある。
ところで、産業技術の世界で「死の谷」という言葉がある。
どんなに素晴らしい技術を開発しても、それを「事業化」するには幾多の困難を乗り越えなければならない。
特に「基礎研究」 と「製品開発研究」との狭間にある大断層は、あたかも「死の谷」のごとく深い。
ソコを滑り落ちればそれでオシマイで、どこかのタイミングで、資金援助や市場開拓などの支援がなされておけば「埋没技術」にならなくて済んだものもある。
例えば、「3Dプリンター」を発明したのは日本人だったが、「死の谷」を乗り越えることができず、日本で陽のメを浴びることができなかった。
しかし「死の谷」をいうならば、イギリス産業革命の発明家が乗り越えたものこそ、その言葉にふさわしい。なぜなら彼らはソレを「比喩」ではなく文字どうりに経験しているからだ。
ところで旧約聖書詩篇(23篇)には「死の影の谷」という言葉があるが、彼らは幾多の「涙の谷」(84篇)も通り抜けたにちがいない。
さて、産業革命の口火をきるのはワットの蒸気機関だが、実はワットは蒸気機関の発明者ではなく「改良者」である。
蒸気機関は1710年にニューコメンによって作られていたが、それは炭坑の地下水を排水するためのポンプとして使われていた。
1769年ワットがこれを改良して、これがマンチェスターの紡績工場に導入可能にしたことが産業革命の本筋といってよい。
以後様々な機械の動力として利用され、幕末にペリーがやってきた黒船も「外輪船」とよばれる蒸気船だった。
17世紀に、イギリス東インド会社がインド貿易をはじめると、「インド綿布」はイギリスで大流行した。
そのかわり、イギリスの毛織物業者は売り上げ減で危機感を抱き、その働きかけでイギリス政府は1700年、インド綿の輸入を禁止する。
しかし、綿布の需要はあるのだから、自分達で作るほかはない。というわけで西インド諸島などから原綿を輸入して、イギリス国内で綿布の生産が始まった。
消費に生産が追いつかないほどで、大量生産のための技術改良が、産業革命の「導火線」となった。
その産業革命史の冒頭近くを飾るのが時計職人のジョン=ケイで、1733年「飛び杼(とびひ)」を発明した。
布というのは縦糸と横糸が交差して織られる。
杼というのは横糸を載せる道具で、これを縦糸のあいだに通して横糸を張る。
織り職人は、機織り機の向こう側に手を伸ばして、右手と左手で杼を受け渡しして横糸を通すことになる。
これは時間がかかるし、布の横幅は両手の届く幅より広く作れない。
これを改良し、杼を手で持たず、ひもを引っ張ることで、左右に飛ばすようにしたのが「飛び杼」である。
横糸を通す作業が簡単になり、布を織るのにかかる時間が短縮された。
しかしこの画期的な発明でも、ジョン=ケイは成功できなかった。
職人達に、こんな機械を作られたら仕事がなくなると「恨まれ」て、生まれ故郷の町に住めなくなった。
一方で、使用料を払わずに機械を使う輩があらわれて、使用料の支払いを求める裁判の費用が払えず、最後は「破産」してしまう。
ともあれ、「飛び杼」によって、布の生産能率が上がると、今度は糸の生産が追いつかなくなった。
糸というのは、繊維にヨリをかけて作られる。その前に、綿のかたまりから細く繊維を引っぱり出す。
ちょうど夜店の綿菓子はお箸をまわして巻きつけるが、それと同じく「紡錘」という棒状の道具を使う。
ぶら下げた紡錘を手でひねって回転させると、糸がよじれてよりがかかる。
ある程度よりがかかったら糸を紡錘に巻き取っていく。
そして技術が少し進歩すると「糸車」を使う。
糸車を回すと、ベルトでつながっている紡錘が高速で回転する仕組みとなる。
しかしこれでも、「糸不足」を解消するために充分ではなく、「紡績機械」の発明があいついだ。
その始まりが、大工のハーグリーブスが1764年に発明した「ジェニー紡績機」である。
これは、8本(後に16本に改良)の糸を同時に紡ぐことのできる多軸紡績機で、奥さんの名前か「ジェニー紡績機」と名づけられた。
糸車が床に倒れた際に糸車と紡錘が回り続けたのをヒントに、複数の紡錘を垂直に並べて置けば、複数の糸を一度に紡ぐことができると気付いた。
レバーで糸と紡錘の角度を変えることによって、撚りをかける作業と巻き取り作業を「切り替える」ことができる点にも「新しさ」があったが ジェニー紡績機もまた暴徒に破壊されたりして、ハーグリーブスは企業家としては成功しなかった。
実は「紡績技術」にはもうひとつ技術的な課題があった。
それが「緯糸/経糸」の違いで、ジェニー紡績機の難点は、木綿の「緯糸」の生産には十分だったが、「経糸」に使える品質の糸を生産できなかった点である。
理髪師のアークライトが1771年発明した「水力紡績機」はこの課題を解決した。
アークライトは、若い頃からの苦労人 で、父は仕立屋でアークライトを学校に通わせることができず、いとこから読み書きを習わせた。
そして床屋を営むニコルソンに弟子入りし、理髪師兼かつら職人として働き始めた。
そして1750年代初めにはボルトンで店を持つようになる。
そこで当時の「かつら」に使う防水性の染料を発明し、その収入が後に紡績機製作の資金となった。
アークライトは頭髪や染料を求め英国各地を訪れており、その際様々な紡績業者と接触し紡績業に関する情報を得ていたことが、大きな利点となった。
後にかつら着用の流行が廃れると、紡績へと転換した。
そしてジェニー紡績機を改良した「水力紡績機」は、綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、人力ではなく「水車」の力で動かした。
これにより、高品質の「経糸」用の糸の生産がはじめて機械化された。
ただアークライトの功績は、単に技術的上の発明にとどまらない。それまでの小規模な家内工業から大規模な工業システムを開始したことにある。
クロムフォードの工場は当時最も近代的な工場で、労働者の為の住居(コテジ)やパブ(パブリック・ハウス)などを伴う複合施設を建設した。
そしてオーバーラップを含む13時間のシフトで1日2交代制を採用した。
これらの設備によって安価なキャラコが織れるようになり、その後の綿織物産業発展の基盤となった。
結局、産業革命の企業家で「富豪」となったのは、このアークライトぐらいかもしれない。
さて、アークライトの「水力紡績機」に次いで、クロンプトンが「ミュール紡績機」を発明している。「ミュール(mule)」とはラバ(馬とロバの雑種)の意味である。
ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすい、一方水力紡績機の糸は丈夫だが太い。クロンプトンは、それぞれの長所を取り入れ、細い良質糸の大量生産を可能とし、ようやくインド産に匹敵する品質の綿織物が生産されるようになったといわれている。
クロンプトンは、綿布工の子として生まれた。彼の生産する糸の異常な細さと美しさに注目し始めた近隣の工場主達は、窓に梯子をかけ、壁に穴をあけたりしてミュールの秘密を盗みとろうとした。
クロンプトンはあくまでつつましやかで特許をとることもせず、工場主達の言葉を信頼して自発的な寄付金と引き換えに「ミュール」を公開したものの期待した寄付金は集まらず失望した。
しかし、イギリス議会に友人とともに彼の綿業における貢献の評価を請願した。
そしてイギリス議会は彼に5千ポンドの賞金を与えたが、この金も事業の失敗や息子の放蕩で無駄に費やされてしまう。
1827年、ミュールが各工場に導入されるころ、この天才は貧困のうちに生涯を終えている。
さて、このミュール紡績機の登場で、糸の供給は大幅に増加し、今度は逆に、糸の生産に織布が追いつかず、糸がだぶつくようになる。
そこで布を織る工程の改良が望まれ、登場したのが1785年にカートライトが発明した「力織機」である。
カートライトは、イギリスのノッティンガムシャーの旧家の家柄に生まれ、カレッジを卒業後、以後40代頃までイングランド国教会の牧師を生業とした。
特書すべきことは、牧師であったクロンプトンはこの発明については他人の発明の改良に過ぎないと謙遜し、最後まで特許を申請することなかった点である。
「力織機」は織機の動作を自動化して、一人で何台もの織機を操作できるようにしたものである。
そのために、動力として「蒸気機関」を使うという画期的な発明で、マンチェスター中心部に織物工場を建設し500台の「力織機」を導入する予定だったが、30台を設置した時点で火災で焼失した。
手織り機の織り手が職を失うことを恐れて放火したのではないかと見られている。
ちなみにこの工場は再建されなかった。
しかし1809年英国議会庶民院がカートライトの功績を称え11万ポンドを贈った。その後はカートライトはケントに移住し1821年、王立協会のフェローに選ばれた。
カートライトは1823年に亡くなるが、事業家としては必ずしも成功したとはいえないものの、「力織機」の発明家としての名誉に浴する機会は充分に与えられたといってよい。

イギリスのカートライトが「力織機」を発明した頃、アメリカでそれと深く関わる技術を開発したのがホイットニーである。
そしてこの人物の発明品は、アメリカの歴史に大きな影響を与え、後に日本の明治維新とも深く関わることにもなる。
ホイットニーは、ジョージア州のプランテーションで木綿栽培を見てその重労働を知り、「綿花の種とり作業」の工夫に熱中し、「綿繰り機」を発明している。
この綿繰り機はフックのついた木製のドラムを水力を動力として回転させ、金網越しに木綿の繊維だけをドラムが巻き取る方式で、種は金網を通らない仕掛けとなっていた。
ホイットニーは、猫が金網越しにニワトリにちょっかいを出して数枚の羽根しか得られない様子を見て、この仕組みを思いついたという。
1台の綿繰り機で、1日に25kgの木綿から種を除くことができ、これにより作業能率が従来の50倍も向上することになり、綿花の産地である南部の経済発展に寄与した。
しかし皮肉にも、この発明によって得られた富こそ、南部でのアフリカ人を奴隷として使う制度を定着させることになった。
さて、ホイットニーは1794年に綿繰り機の特許を取得したものの、その法外な手数料は怨みを買ったばかりでなく、機構が単純だったこともあって、必然的に「模倣品」を作る者が現れた。
あわててホイットニーは綿繰り機の製造販売を開始したが、需要を満たすほどは製造できず、他の製造業者の方が売り上げを伸ばした。
1790年代後半、ホイットニーは綿繰り機の訴訟で債務を抱え破産寸前の上、ニューヘイブンの綿繰り機工場が全焼したため、さらに借金を抱えることになった。
この苦境を乗り越えるために開発・製造を始めたのが「銃」であった。
折りしもフランス革命の勃発で、フランスとイギリス・アメリカとの関係に暗雲が立ち込めていた。
1798年5月、アメリカ議会はフランスとの戦争勃発に備え、小火器と大砲の代金として80万ドルの予算を議決した。
さらに精密な武器を製造できる者には、まず5000ドルを与え、それが尽きたらさらに5000ドルを与えるとした。
借金を抱えていたホイットニーはこの契約を早速請け負った。契約は1年間だったが、彼は様々な理由をつけて1809年まで銃を納入しなかった。
当時、アメリカではイギリスと戦争状態にあったが、なにぶん銃が圧倒的に少なく、軍用小銃(マスケット銃)の大量生産が急務であった。
ホイットニーだけでなく、サミュエル・コルト(6連発拳銃の創始者)などが「部品互換性」による大量生産に取り組んだ。
それでも1801年、ホイットニーは軍関係者の前で、完成した複数の銃をばらし、その中から任意に取り出した部品により、再び銃をくみ上げるデモンストレーションを行い、関係者を驚かせた。
そして「部品互換性」による大量生産をアメリカで最初に取り組んだのがホイットニーであった。
このため、ホイットニーは部品の寸法精度を正確に測定するノギスの発明や平面削りの精度を高めるフライス盤の改良なども行ったのである。
その後ホイトニーは軍用のマスケット銃の製造を政府から請け負うようになり、1825年に亡くなるまで武器製造と発明を続けた。
1825年、コネチカット州ニューヘイブンにて59歳にして死去したが、彼が開発したマスケット銃をもとに改良がなされ、さらに精度の高いミエニー銃などが開発された。
また、幕末に坂本龍馬がミニエー銃400丁を買い付けていろは丸に乗せて運搬中に紀州藩の船と衝突し沈没したと主張したことがあるが、このミニエー銃とは、本来滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんで精度を高めたもので、「ライフルマスケット」とも呼ばれる。
1853年にイギリス軍が開発・採用した「ライフルマスケット」は、完成度は極めて高く、これがアメリカの南北戦争で南軍の主力銃として大量に使用され、戦後60万挺が払い下げられている。
日本の明治維新に至る戊辰戦争は南北戦争が終結した直後であったため、日本ではこうした銃を輸入して雄藩のほとんどで採用されており、戊辰戦争の主力銃となったのである。

1895年、一人の新聞記者がスイスのハイデンにある養老院で1人の老人を見つけたことを報道した。
この老人はこの時すでに70歳になっていたのだが、この老人に1901年に赤十字誕生の功績が認められ、第1回「ノーベル平和賞」がおくられた。
この老人とは、スイス人のアンリー・デュナンである。
デュナンは1859年6月、フランス・サルディニア連合軍とオーストリア軍の間で行われたイタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノ近くをを通りかかった。
そこで4万人にもおよぶ死傷者がうち捨てられているという悲惨なありさまを目撃する。
デュナンは、すぐに町の人々や旅人達と協力して、放置されていた負傷者を教会に収容するなど懸命の救護を行った。
ジュネーブに戻ったデュナンは、自ら戦争犠牲者の悲惨な状況を語り伝え、1862年「ソルフェリーノの思い出」という本で、敵・味方もない傷病者の救護の必要性を訴え、それをいつでも実践できる世界的な組織としてまとめあげる必要性を訴えた。
またその本の中でナイチンゲ-ルを高く評価している。
この訴えはヨーロッパ各国に大きな反響を呼び、1863年赤十字国際委員会の前身である5人委員会が発足した。
そして戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護すること、そのための救護団体を平時から各国に組織すること、そしてその目的のために国際的な条約を締結しておくことを取り決めた。
ところがデュナンは、赤十字創設に没頭のあまり本業である「製粉会社」の経営に失敗し、1867年、39歳の時、「破産宣告」を受けて放浪の身となり、いつしか消息を絶ってしまった。
デュナンは人生の後半生のほとんどを放浪者として過ごし、その生活は70歳でにして養老院で発見されるまで続いたといえる。
ノーベル平和賞授与後、デュナンは、ロシア皇后から賜った終生年金だけで余生をおくり、1910年10月、ハイデンの養老院で82年の生涯を閉じている。