新日本国事情

元日航社員の深田祐介氏が書いた本「新西洋事情」(1976年)や「新東洋事情」(1988年)は、視点がユニークで読みごたえがあった。
その内容は企業の海外駐在員による異文化体験だったが、20年ほど前から様子が変わってきた。
そう痛感したのは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧邸を探して、東京新宿区の大久保に行った際、コリアン・タウンと化した旧「職安通り」を歩いて愕然とした時だ。
そこは、まぎれもない韓国であり、このような区画は、今や至るところに見られるに違いない。
そして、街角でハタと見つけた看板やオブジェなどに「異国」を見つけて押し明けると、そこから広がる世界があるということだ。
しかし、日本国内に「海外」が来ているのはわかるが、それぞれのコミュニティの事情までは捉えがたい。
また一方で、はるばるアジアや南米からやってくる人々にとって気になるところは、日本の食生活から治安ばかりではなく、日本国内のそれぞれのコミュニティが抱える事情に違いない。
例えば、池袋といえば、東口に西武百貨店やサンシャイン60、西口には東武百貨店や立教大学がある街。
そこににチャイナタウンがあるということを知ったのは、ごく最近のことである。
それもそのはず、「池袋チャイナタウン」は、横浜や神戸や長崎のように幕末の開港以来形成されたものではなく、1972年の日中国交正常化、1978年末以降の中国の「改革開放政策」などで、多くの中国人が日本に渡ってきた中国人によって形成された街である。
しかも、横浜や神戸のチャイナタウンのように巨大ではなく、意識しないと通り過ぎるかもしれない規模である。
池袋チャイナタウンの特徴は、中国の東北料理店が多く、香辛料や油をたっぷり使うことであり、日本人向けにアレンジされていない「中華料理」の味に出会うことができる。
さて、外国人のコミュニティの問題は、様々な事情をかかえて、外部からは気がつかない力学が働くことである。
1992年 アメリカで黒人への暴行に対する白人警察官への無罪評決をきっかけとしてにロス暴動が起きたが、そこにはマスコミの伝えない一面があった。
実は、黒人の主たる襲撃目標となったのが韓国人商店で、韓国人商店主らが防衛のために拳銃を水平発射しているシーンがTVで放映された。
実は、彼ら韓国人店主らの多くは「ベトナム戦争の帰還兵」だった。
ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵に米国政府が移住許可を与えたため、70年代に韓国系移民が4倍も増えた。
彼らは主に競合相手のいない黒人街で商売を始め、従業員には黒人でなくヒスパニック系を雇い、閉店すると店を厳重にガードし、そそくさと韓国人街へ帰るというスタイルで商売していた。
黒人の間では「自分達を差別しながら商売する連中」というイメージが定着し、そうした黒人による日頃からの韓国系への鬱憤が、暴動時の韓国人商店襲撃へと結びついたといわれている。
日本でも時代を遡ると、1923年、関東大震災におけるデマに基づく朝鮮人虐殺などの悪夢が起きている。
また、地震による被災で、中国人留学生約40数名も犠牲となったことは、朝鮮人虐殺に隠れてほとんど知られていない。
湯島の麟祥院の墓碑の裏側にはその時犠牲になった中国人留学生の氏名が記されている。
また国内にも、外国人のコミュニテイ同士の「折り合い」の問題があった。
日露戦争後に、日本の近代化に学ぼうと多くの中国人留学生が日本にやってきた。しかしその中国人留学生の中にもその出身地によって違いがあった。
黄興をリーダーとする「湖南省出身者中心」の華興会 孫文をリーダーとする「広東省出身者」中心の興中会で、この二つのグループを結束して「中華革命会」が結成され、それによって東京は辛亥革命の拠点となったのである。
そして両方の出身者の合同会が開かれたのが、東京神楽坂の「鳳楽園」という中華料理店であった。
また神楽坂から近い神田や神保町に中華料理店が多いことも、かつてそこに多くの中国人留学生が学んだことと関係している。
たとえば周恩来がよく通った「漢陽楼」は、当時の猿楽町から小川町へと少し場所を移動したが、そのまま神田で店をだしている。
初代店主は、周恩来と同じく紹興人であり、周恩来は同郷の味をもとめてここに通ったと思われる。
神保町の白山通り近くに「愛全公園」という小さな公園があるが、1913年秋、松本亀次郎が中国留学生のために創設した東亜高等予備学校があった場所で、「周恩来ここで学ぶ」の石碑がかろうじて当時の面影を残している。

池袋西口といえば石田衣良の書いた「池袋ウエストゲートパーク」の舞台となった場所である。
その場所に「ショヒド・ミナール」という不思議なオブジェがたっている。
この像は「国際母国語の日」を記念したこのオブジェなのだそうだが、一体どんな経緯があってそれがここに建つことになったのか。
1952年2月21日、当時は東パキスタンであったバングラデシュに母国語を愛する運動がはじまり、ベンガル語を護る人々が警官隊に発砲され犠牲となった。
バングラデシュでは、この出来事を忘れまいと、ベンガル語を「守った」人々を称える国際母国語の日を象徴するオブジェ「ショヒド・ミナール」が建てられた。
ユネスコも動いて1999年11月参加188カ国の下、2月21日を「国際母語の日」と制定し、母語の振興を通じて異なる民族・文化間の寛容と尊敬を確立することを、全会一致で宣言した。
実は「生物絶滅」については国際的な意識の高まっているが、あまり注目されないことが「言語の絶滅」である。
世界の約6000の言語のうち、半数近くが21世紀中に消失する。もっとも悲観的に見ると、95%の言語が消失してしまうという。
しかし、各民族が長年の歴史の中で築き上げてきた文化とそれをささえる言語とは、人間がもつ豊かな可能性の現れではないのか。
それが「人類」にとって本当の進歩といえるかという問題意識から「国際母語の日」が生まれた。
東京都豊島区池袋には仕事場が多く家賃も安いためバングラデシュからの人々が多く住んでいたた。「ショヒド・ミナール」は、池袋西口公園(東京芸術劇場前)での「ボイシャキメラ」(バングラデシュのお正月祭り)開催を「きっかけ」として、2005年7月12日、バングラデシュ人民共和国から豊島区へ寄贈されたものである。
池袋西口公園に設置された「ショヒド・ミナール」 は本物の「10分の1」の縮小スケールとはいえ、高さ2.6メートル、 幅2.5 メートルのレプリカで、中央の部分は、母親である言語を両側の4基は、それを守る子どもたちを表しているという。
ところで、世界三大宗教の一つで、11億人以上の信者がいるといわれるイスラム教だが、我々が日常生活の場で接する機会は少ない。
ただ、ここ2~3年、イスラム教に入信する日本人が増えているという。
イスラムに入信するにはイスラム教徒2人の立ち会いのもとに、「アッラーのほかに神なし/マホメツトは神の御使いなり」の意味のアラビア語で信仰告白するだけでいい。
日本では、おおよそ、5000人以上の信者がいるといわれている。
、 日本人の入信はおよそ三つのケースがある。
第一に、10年ほど前から留学や仕事でイランやパキスタンなどから来日する海外のイスラム教徒が増えたこと、日本人が海外で働くようになり、結婚によって入信したケース。
イスラムでは、結婚するにはイスラム教徒同士でなくてはならないためだ。結婚するカップルは、年間200組ほどで、うち9割が少なくとも片方が日本人だという。第二は、結婚によって生まれた二世。
第三に、自発的に入信するケースで、観光や日本各地にできたモスクなど、礼拝所の近辺でムスリムの姿に触れて入信する人々が多い。
モスクは神戸、東京、名古屋など6~7カ所にあり、もっと簡便な礼拝所だと全国に50カ所、金曜日に行う集団礼拝をする場所だと200カ所以上といわれている。
それでは、イスラムのどこが彼らを引きつけるのか。
イスラムには聖職者がいないことも魅力の一つのようだ。聖職者がこうだというものではなく、神から直接くるものを求めるのがいい。
共同体(ウンマ)を大切にする、イスラムの同胞意識がいいという意見もある。同じ宗教というだけで、国や顔が違っても心が通じ合うものがある。
イスラム共同体の一員になって、黒い皮膚の人、黄色い皮膚の人、白い皮膚の人と兄弟のように一列に並んで礼拝をする。
これはイスラムの教えである神の前での「平等」の精神に則したものであり、東北震災での孤立感や格差社会に対する不満が背景にあるようだ。
さて、東京渋谷区代々木上原には、「東京ジャーミイ」とよばれる巨大な回教寺院がある。
東京ジャーミイはトルコ共和国在東京大使館(渋谷区神宮前)の所属であり、オスマン様式によるモスクを特徴とする。
モスクの光熱費などはトルコ共和国宗務庁が負担しており、指導者であるイマームも同庁からの派遣である。
東京ジャーミイには現在、イスラム教(回教)やトルコ文化を紹介する「トルコ文化センター」が併設されている。
「ジャーミイ」とは「人の集まる場所」を意味するアラビア語を語源として、要するに大規模なモスクをあらわすものである。
ではなぜこのようなモスクがこの場所に建ったのか。そこには壮大な歴史がある。
今から約800年前、モンゴルにチンギス・ハーン(ジンギスカン)が登場し、中国から中央アジア、現在のロシアにいたる広大な地域を征服し、モンゴル帝国を作った。
ロシア人の王朝は滅ぼされ、それから200年以上の間、「キプチャク汗国」としてモンゴル人に支配された。
この屈辱はロシアでは「タタールのくびき」(タタールとはモンゴル人の別名)と呼ばれ、ロシア人が屈折した精神構造を持つようになった一つの原因と考えられている。
だから1917年のロシア革命以降、1920年にソ連がモンゴルを支配するようになったとき、まずやったことは、チンギスハーンの存在を、モンゴル人の頭の中から消してしまうことだった。
公式な場の発言でチンギスハーンの名前を出した人は「反革命」の政治犯にされ、博物館では彼の肖像画などの展示を禁じられた。
チンギスハーン一族の子孫であると自慢していた貴族たちは「人民の敵」として処刑された。
ソ連時代の最初の20年間で、貴族や仏教の僧侶など、国民の1割(約10万人)が殺されたり、シベリアに流刑されて死んだ。
そこには、ロシア人のモンゴル人に対する「報復」という側面が強く感じられる。
その一方で、ロシア領内に住んでいた回教徒・トルコ民族の多くは国外に避難し、特にザバイカル州及び満州在住の回教徒商人ら約600人は日本に移住してきた。
そのうち約200人は東京周辺に居住し、タタール族の僧正クルバンガリーらは1924年に「東京回教徒団」を結成した。
同団ははじめ、千駄ヶ谷会館を礼拝所として使用していたが、1931年になると会堂の建設が決定された。
僧正を会長として、日本人有志らから10万円(当時)の寄付が集ったことから現在地(代々木富ヶ谷)にサラセン式ドームを持つ礼拝堂が建設され、1938年に落成式が行われた。
この礼拝堂の建設の背景には、当時の日本政府の国策としての対イスラム宣撫政策があり、建築資金は日本側の寄付によってまかなわれた。
さらに、落成式には大日本帝国陸軍や海軍の有力者が参列した。
これが東京ジャーミイの前身である東京回教学院の始まりである。
その後1938年にロシア出身のタタール人たちのためのモスクとして設立された。
同モスクが老朽化のため取り壊された後、亡命タタール人たちがトルコ共和国の国籍を取得していた縁から、トルコ宗務庁の援助によってオスマン様式で再建され、2000年6月に開堂した。
モスクの礼拝者は東京周辺に居住するイスラム教徒で、その国籍はトルコ、パキスタン、インドネシア、マレーシア、バングラデシュ、日本などで、金曜日の礼拝への参加者が400人程度となっている。
その他、日本を訪れるムスリムの観光客も多く訪れる。

地下鉄東西線沿いは、前述の中華革命の震源地となった神楽坂以外にも、いくつかある。
学生の街として知られる高田馬場があり、ミャンマー人が多く暮らす。高田馬場だけで約500人のミャンマー人が暮らしている。
多くは旧軍事政権による迫害を恐れ、本国を逃れてきた難民である。
また高田馬場から地下鉄東西線が延びて千葉方面に向かうと西葛西という駅がある。隣駅には葛西臨海公園の水族館もあり、ディズニーランドがある浦安にも近い。
この地の名前を西村賢太の「苦役列車」(2011年芥川賞)で見つけたが、コノ作家自身にすれば家族離散という「人生の苦役」の始まりの場所であったようだ。
その西葛西がいつの間にか、インド人が多く住む街になっていると聞いた。
都心へのアクセスがいいので、ベットタウンとしてマンション・アパートが多数立ち並ぶ西葛西には、2000人以上のインド人がすむという。
インド人の外国人登録者は、日本全体で約2万2000人だから、そのうち約1割がこの街を中心に江戸川区に在住している。
そしてその西葛西に住むインド人の90%がIT関係の仕事に就いている。
西葛西を選んだ理由は、IT企業が多い都心への通勤が便利ばかりではなく、近くを流れる荒川が、規模は違えどもガンジス川を髣髴とさせ、インドの光景に近く、散歩などをするとホッとするらしい。
さて、カラオケのタイトルにもなった「サウダージ」や「エスペランサ」はポルトガル語やスペイン語の言葉である。
ちなみに「サウダージ」は「郷愁」を意味するポルトガル語で、「エスペランサ」は「希望」を意味するスペイン語である。
「サウダージ」を歌ったポルノグラフティの二人は広島県因島出身であるが、広島は歴史的にブラジルと交流が深く、特に因島に近い呉市は今でも在日ブラジル人の非常に多い所である。
また「エスペランサ」を歌った西野カナの出身地の三重県には「志摩スペイン村」がある。
ここにスペイン村が作られた理由は、計画当時バルセロナ・オリンピックとセビリア万博の開催期に当っており、日本でもスペインへの関心が高まっていたことがある。
またスペインのイメージは「明るい太陽と海辺」というものだが、三重県志摩もそういうイメージで観光化していこうというネライがあったの、カナ。
ただし、ポルノグラフティの歌「サウダージ」は歌の内容からして「望郷」というよりも、異性への「思慕」を意味するようだ。
ところで1990年代より、日本に「定住」している在日ブラジル人が増え、関東圏では、群馬県の大泉町が有名で、三洋電機や富士重工業や凸版印刷などがあるため、 それらの工場で働くブラジル人が非常に多い。
群馬県では他に太田市、栃木県小山市、茨城県常総市には、日系移民の子孫のブラジル人などが多く住んでいる。
また東海地方では、ヤマハやスズキの静岡県浜松市は、日本で一番ブラジル人の多い市で、愛知県豊田市にはトヨタ自動車関連の工場が数多く、そこで働くブラジル人が非常に多くなっている。
ということで、急速なグローバル化と少子高齢化の進展、地域消失・寺院消失などもおきている一方で「海外」が予想以上に日本に浸透している。
ただ国内とはいえ、扉の向こうの世界はつかみ難いのが現状で、そういうコミュニティを数多く抱えつつあるのが、新日本国事情の一側面といえよう。