正義の視点

最近「通過階表示」のないエレベーターが増えている。ナント不親切なと思っていたら、そうではないらしい。
ボタンが押された階の情報をもとに、コンピューターがどういう動きをしたら「客の待ち時間」を最小にするかを瞬時に計算して動くため、時には客のいる階を通過することもありうる。
その複雑な動きをいちいち表示すると、通過された階の客にイラダチを与えるという配慮により「通過階の表示」をしなくなったのだそうだ。
今時、様々な施設で客の「待ち時間」をどうするかが、「客集め」のポイントの一つになっているという。
我が地元・福岡の太宰府にある遊園地で、一定のお金をだせば、「待ち時間なし」で施設が利用できるようになっていると聞いて、そこまでするかという思いにかられた。
待ち時間の問題とは少々ズレるが、マスコミ各社が注目裁判の限られた傍聴席をめあてに、複数の人間を並ばせて「抽選」にあたる確率を高めて「傍聴券」を手にいれようとするなどの素朴な努力は、もしも金で「傍聴席」も買えるようになると、吹っ飛んでしまう。
ハーバード大学のサンデル教授の「それをお金で買いますか」という本の中で、2倍の料金を払えばユニバーサルスタジオの列に割り込めることに言及していたが、それ以外にも「金で買えること」につき次のような実例をあげている。
ある刑務所では、特別料金を払うと清潔な独房に入ることのできる。
ひたいや太ももなどの身体の一部を「広告用」に貸し出しだしたり、外国の部隊に「雇用兵」として戦闘に参加することや、インドの代理母に金を払って「妊娠」をアウトソーシングするなどである。
そして、サンデル教授は、金銭的インセンティブを増やせば供給も増えるとしても、それが「質の劣化」や「腐敗」をもたらしていることを指摘する。
例えば、結婚式や葬式のスピーチをする人が、金を払って別人に書いてもらったと聞いたらがっかりするだろう。
成績不振の生徒に、1冊読むと2ドルといった具合に報奨金を出して読書を奨励する学校がある。
確かに、子供が本を読むたびに「お金」を払えば、子供はモット本を読むかもしれない。
だが問題は、読書の質であり、そうした方法が果たして人間の成長に資するだろうか。
また「腎臓の売買」は、あたかも人間をパーツの集まりとみなす結果となり、本来の「生命観」というものを歪めないだろうか。
また、自国の戦争に外国人の傭兵を雇えば、同胞の命は失わずにすむが、「国民」であることの意味が貶められるのではないか。
というように、サンデル教授は、何もかも「金と引き替え」にすることで、必然的にその「本質」が失われいくということ、様々な場面で裕福ではない人の生きにくさを増している意味で「不公正」であるとしている。

最近、「正義論」なるものを見聞きすることが多くなった。社会全体が豊かになっているという実感のもてる社会では「正議論」は前面には出ないとしても、どこかを細らせながら、どこかを肥え太らせているような社会は、自然と「公正さ」つまり社会的正義というものが、人々の意識にのぼらざるざるをえないからではなかろうか。
最近テレビで「日本の子供の貧困率」というものが紹介されていた。所得統計の中央値の50パーセントの所得水準を「貧困ライン」とすれば、日本は子供(17歳以下)の貧困率が、今や世界の先進国で1位となっているというデータだった。
つまり6人に1人が相対的貧困状態にあり、1980年代の「一億総中流意識」のアンケート結果が嘘のようだ。
日本では少子高齢化の進度が「世界最速」といわれているが、「格差の広がり」の進度も、世界最速になりつつあるのかもしれない。
そういうわけで、日本社会で何が「公正なのか」という議論がなされてしかるべきなのである。
さて、サンデル教授がハーバードの学生に投げかけた印象的な議論があった。
それは「トロッコ問題」として語られたが、その背景にはカントの「定言命法」とベンサムの「功利主義」という二つの正議論の観点が語らえた。
仮に、あなたがトロッコ列車の運転士だとしよう。
その時、急にブレーキが利かなくなってしまった。
そのままいけば前方で作業している5人を殺すことになる。ところが、待避線にハンドルを切れば、前方を歩いている1人を殺すだけで済むとしよう。
どちらを選ぶかだが、定言命法的観点と功利主義的観点で、「正義」の意味が異なってくる。
定言命法はカントがとなえたもので、旧約聖書の「十戒」を思わせるが、「~すべし」というように、正しい行いについて無条件の義務を求めるものである。
それは、いついかなる場合でも、絶対的に従わなければならない「倫理的な命令」である。
ただ、カントはこの「命令」が神が命じるからそうすべきというのではなく、皆がソレゾレの意思にしたがって生きているとして、自分の行為を「普遍化」したらドウナルカを考えてみて、導き出せるものだといっている。
そしてカントは「人間をけして手段にすることなく、目的として扱うべき」として人間の尊厳を語るが、それも聖書の「汝と同じように汝の隣人を愛せよ」「汝にして欲しいと思うことを汝の隣人になせ」という言葉を想起させる。
こうしたカントの思想からすれば、道徳というものが「金」で変わるようなことがあってはならないことになる。
一方、イギリスのベンサムによって唱えられた「功利主義」は、善悪の判断を幸福や快楽をもたらすか否かで判断する。
さらに、ベンサムは「最大多数の最大幸福」を唱えた。
これは、社会の利益を最大化するには、少数の人が幸福になるよりも、多数の人が幸福になる行為の方が望ましいことになる。
この二つの思想を「トロッコ問題」に当てはめると、功利主義の方は非常に分かり易い。生き残った人の数が多いほど「幸福の総量」が増えるからである。
「定言命法」は、たった1人の人間の尊厳と、5人の人間の尊厳を「比較衡量」するようなことがあってはならない。
そこに違いはないのであるから、列車がまっすぐ進んでいる以上、わざわざ待避線にハンドルを切る理由を「明白には」見出せないことになる。

カントは、「人間を他の人間の目的のための手段にしてはならない」といったが、その一番の背反事例が「奴隷制度」ではなかろうか。
世界史の中で、「基本的人権」についての金字塔といえば「フランスの人権宣言」と「アメリカの独立宣言」である。
「アメリカ独立宣言」は、全ての人間は平等であり、生命、自由および幸福の追求の権利などが盛り込まれてはいるが、後に第三代大統領となるトマス・ジェファーソンが原文を起草し当初の原文には奴隷制度反対の立場を明らかにする文言が盛り込まれていた。
しかし、各々の植民地の思惑や建国の父たちの間で激しい論争がおき、事態収拾を主導したのがアダムズは、歴代大統領の中で例外的に奴隷制大農園主ではなかったにもかかわらず、奴隷制度反対の部分の削除した。
それによって人類に普遍の権利を高らかに謳いあげた体裁の「独立宣言」がなされたにもかかわらす、奴隷制度は温存されていった。
「人間の尊厳」は普遍的なものだとしても、巧妙にそうはならない仕掛け、つまり誰かが誰かの目的の手段になるような仕掛けは、この世にはいくつも幾重にも仕掛けられているように思う。
つまりどんなに貧困者によい見せかけるている政策でも、その果実は最終的に富者にまわってしまうといった仕組みである。
例えば、アベノミクスは景気論や成長論として語られることがほとんどだが、「分配論」の視点からみると違ってみえてくる。
例えばアベノミクスの結果、円安となることによって輸出産業が潤う。実際、トヨタは過去最高の利益をだしたという報道があったが、輸出で稼いでいる企業は日本を代表する企業なのでそちらに富がまわることになる。
一方、円安がもたらす原油高騰などで経営が苦しく破綻する企業は中小企業に多い。
アベノミクスは、「分配論」の観点からみて、貧者から富者へと富を「再分配」させることになるのである。
さて、「正義」を富の分配から考えた人に、ジョン・ロールズがいる。ロールズは正義のニ原理を次のように措定する。
「第一の原理」は、各人は等しく自由である。ただしこの自由とは思想とか身体とか生命とかいう根本的な自由にかぎらられる。
「第二の原理」は、社会的な経済的な不平等は、ある地位や職業につくための機会の均等が保障されている場合にのみ認められる。
そしてロールズは、人々に「無知のヴェール」をかけるという「思考実験」を行う。
つまり、皆がコノ社会の中でどのような位置づけ(社会的地位)になるかわからないという「初期状態」にあるとすれば、自分が陥るかもしれない「最もめぐまれない人々」が最大の便益をうるようなカタチで富の分配が行われるような社会を形成することになろう。
抽象的な話なので、以下自分流の解釈を試みた。
仮に移民たちがつくる新しい社会(つまり機会均等の社会で、つまり平等な自由の或る社会で)を想定する。
移民する人々はこれから自分がどんな社会的地位につくかにつき無知であり、いわば「偶然」にゆだねることになる。
そしてあるものは農夫、或るものは大工、或るものは教師、あるものは医者になったとする。
それぞれの職業は、仕事に必要な能力の「稀少性」によって決まるとして、医者にもっとも高い配分が与えられ、農夫は一番低い配分が与えられる。
ただ一番下の農民だとしても、事前の契約で最低の中での最大の配分が与えられる。
ここでのポイントは、こうした社会を形成する上でのポイントが「無知のベール」で、ひとりひとりが自分とまわりの能力や特性を知らないため、一番低い層に入る可能性もあるため、少しでもその「所得分配」を上げようというインセンテブが働くということである。
これがロールズのいう「ミニマックス原理」であり、ロールズはこの原理によって、自由の行き過ぎに歯止めをかけようとしたのである。
ノーベル賞を受賞したインドの経済学者アマルティア・センは、ロールズの正議論は人々のニーズを「物の再分配」に限定しすぎていると批判した。
センも、障害者と健常者という初期状態における「不平等」を想定した上で、障害者は健常者と同じ配分を得ることができれば満足するだろうかと考察する。
人間存在は富を追及するばかりではなく多様なニーズを求めているわけだから、ものを与えればよいというものではなく、自分達がの望んでいる状態に、自分自身が行動がとれるようにする支援こそが大事であると説く。
この考えを、発展途上国の支援のあり方に適用すると、貧しい国に単純に富を分配することではなく、彼ら自らが富を生み出せるような力や環境を作り出すための支援の方こそが大事だといえる。
つまり魚を与えるよりも、釣り道具の作り方と釣り方を教えることが重要だ説いたのである。

最近の政治用語に「リバタリズム」という言葉をよくきく。これは「自由至上主義」を意味し、これを主張する人々をリバタリアンという。
畢竟、国からのからの干渉を一切受けたくない極端な個人主義ともなるが、必然的に「何が正義か」という問題についても、その立場は明瞭である。
貧困者が貧しくなったのは、彼または彼女の「自助努力」が不足していたためであり、貧者を救済するための「福祉」が過剰だと「依存」を生み出し、さらには社会の活力を低下させるから、それがますます貧困を生み出している。
従って公的な扶助は、必要最小限度にとどめるべきであるという立場をとる。
こう考える人にとって、国家が裕福な人に課税して、その財源によって不遇な人に再分配をコナウことは、財産権の侵害に繋がると考え、税家の安い南の島に移り住んだりする人々である。
従って、この立場からは相互扶助は否定され、人々は自分で身を守るのがただしい。アメリカが銃社会であるのも、結局こういう考えが根強いからではなかろうか。
これに対して人間は一定のコミュティの歴史を担って生きた存在で、単独者ではないのであるから、コミュニティの制約を受けるというのが、コミュニティアニズムである。
これを主張する人々をコミュニタリアンという。
実はマイケル・サンデル教授はこの立場をとる人で、リベラリズムのいう「自己」の概念は、歴史や伝統、共同体といった文脈から切り離されたバラバラの個人を意味していると批判した。
コミュニタリズムは、共同体の中に幸福をみいだそうということで、政治的には「リベラリスト」の立場に沿うものではなかろうか。
リベラリストは次のように考える。彼または彼女が貧しくなったのは、親が貧しかったために十分な教育をうけられなかった、幼少時に健康を害した、あるいは生まれつき能力が劣っていたなど、本人には「不可抗力」の受難ゆえのことである。
であるから今、現在健康で豊かでいられるのもある部分「幸運」によるものだから、仮にもう一度生まれ変わるチャンスがあるとすれば、不幸な境遇に生れ落ちる可能性さえあるということである。
そこでロールズならばこういうだろう。あなたが生まれる社会のなかで、アリウベキ潜在的な可能としての「もっとも不幸な境遇」を出来るカギリ改善することが、民主主義の「黙約」となってしかるべきであると。
最近、「無縁社会」という言葉もあるが、リバタリアズムの立場からは問題ではなく、自己責任によって解決すべき事柄に収斂される。
最近、イスラム国が世界中から若者を集めるのも、そういうリバタリズムの行き過ぎにあり、イスラムがもたらす「共同体」にひかれるのではなかろうか。
一方、コミュニタリズムは「孤独死」などがおきることに対して、それを防ぐ対策を講じなければならないことになる。
日本のような高齢化で、政府も財政難となると、老々介護や孤独死などの悲しい現実がますますふえてくるかもしれない。
となると、新たな「コミュニティ」復活こそが望まれる。それは旧来の「村社会」というものではなく、東北被災地でうまれているような、一台の車を複数で所有するなどの「シェア・コミュニティ」のようなカタチで起きているようなものも、そのひとつであろう。
リバタリズムとコミュニテリアズムの対比に、天童荒太が書いた小説「悼む人」(2009年)を思い浮かべた。
この小説は、現代の無縁社会を描いたが、このタイトルの中に、何かこの社会に対する「異議」が潜んでいるように思える。
「悼む人」は、誰かのために悼まねばならないと意思している人の話である。
「悼む人」の主人公は、凶悪事件や大事故に巻き込まれ亡くなった人をも悼むのだが、「悼む人」の主人公は災難に出会い亡くなった故人のことを知るために、故人の遺族にこう聞く。
「故人は誰に愛されたか、誰を愛したか、誰かに感謝されて生きたか」。
この問いは、自分を含む各人の生がユニークであり、その生死を愛しむ思いから自然に湧き出た問いだが、正義の視点とも無縁ではないように思う。
本来、もっと悼まれ看取られていいはずなのにそれがナサレナイという問題、それはマザー・テレサの活動にも通じる。
インドやアフリカでは餓えたまま打ち捨てられるように死ぬ人々が大勢いる。とはいえ「悼む人」のいない死は、「無縁社会」と化しつつある日本も、よその国のこととして見過ぎすことはできない。
「孤独死」に代表されるように、人知れず亡くなる人々の死の「偶然性」や「無名性」に何も感じなくなっている。
大事故や事件に見舞われ、誰が死んでもよかったかのような死を、何も準備されずに強いられる人々がいる。
そのうえ死者数百何十人の一人としてしか扱われないような死は、確かに「いたましい」と思う。
それは花が手向けられることのない「無名戦士」の墓に似ているかもしれない。
昔、「ビルマの竪琴」という映画を見た。ミャンマーの僧となって日本への帰国を拒んだ日本人兵士こそ「悼む人」の一典型といえないだろうか。
現代の死は「無名性」を帯びているので、「悼まれぬ死」を悼まねばならぬ、と思う人が居てもいい。
もっとも「悼む人」とは、ひょっとしたら大して「悼まれない」側にマワルであろう「自分」を悼んでいるのかもしれない。