その歌、本当の意味

4人組みバンドSEKAINO OWARIの大ヒット曲[ドランゴンナイト]の歌詞が気になる。
また、2014年「NHK紅白歌合戦]に初出場しさいに見せた、ボーカルのFukaseが背負う大きな旗とトランシーバーマイクの意味は何だろう。
ファンタジーのようでありながら、「正義」とか「手段が目的になる」といった歌詞からして、実は意味が深い歌なのかもしれない、などと疑問を抱きつつ、ネットで調べてみた。
まず旗は、デザインは赤のラインが上下にあり、真ん中の白いラインの上に「ドラゴン」が書いており、その周りに円でてっぺんが炎、その下が星、そして葉っぱのリーフがある。
トランシーバー型のマイクも奇妙だが、結構サマになっていて、声をこもらせる効果を生んでいる。
Fukaseは、2013年のアリーナツアーの後の打ち上げで骨折をした。
その時、曲「RPG」のPVの収録中だったので松葉杖の代わりに杖を持ったのがきっかけで、そのうち、旗をもつようになった。
こういうイデタチで歌う「ドラゴンナイト」は、見るものにとって衝撃を与え「ドラゲナイ現象」までおこしている。
しかし衝撃といえば、Fukaseの最近のカミングアウトはそれをハルカに超えたものだった。
Fukaseは本名深瀬慧(ふかせ さとし)。高校中退後アメリカに2年留学する予定で、アメリカン・スクールに通ったが、言語や生活習慣などの違いから2週間でパニック障害になり、帰国。
日本で精神病院の閉鎖病棟に入院した。現在は完治したが、精神病の治療薬の副作用に苦しんでいた時期があり、現在も精神安定剤を服用している。
その絶望的な状況にあって、音楽を始めた。
実は、SEKAINO OWARI は、「色々上手くいかなくて、自分にとって世界が終わったような生活を送っていた頃に、残されていたのが音楽と今の仲間だったので、終わりから始めてみよう、という想いを込めてつけたという。
実は、Fukaseの告白以前から、何かしら「痛さ」のある人だと思っていたが、そういう要素が多くの若者の共感を集めているにちがいない。
さて、その「ドラゴンナイト」の歌詞に注目したい。
「今宵僕たちは友達のように踊るんだ」という歌詞からすれば、ファンタジーのようである。
しかし、「ムーンライト」「スターリースカイ」「ファイヤーバード」という言葉は何を意味しているのか、ネットで調べてみた。
「ムーンライト」→ムッソリーニ、「スターリースカイ」→スターリン、「ファイヤーバード」(火の鳥)→ヒトラー、というように世界史上の「独裁者」に置き換えれば、意味は全体として通じる。
この曲を作った背景を、深瀬は「クリスマス休戦」であったといっている。
「クリスマス休戦」は第一次世界大戦中の1914年12月24日に、ドイツ軍とイギリス軍が一時停戦したといわれている出来事で、Fukaseは「味方でも敵でも楽しめる瞬間があってもいいんじゃないかと。それは本当に憎しみ合っているわけではなくて、いったんニュートラルに戻ってみればそんなに争うものでもないのかもしれないという意味も込めて」と曲に込めた思いを語った。
2011年にメジャーデビューするが、4人は東京大田区蒲田出身で、幼稚園から高校まで友人だった。
唯一の女性で、ピアノをひく藤瀬彩織は1年後輩で音楽大学出身である。
女流書道家の金澤翔子と小学生時代の級友である。
その母親は、2012年NHK大河ドラマ「平清盛」の題字の大役に抜擢され、一躍話題の人となった書家の金沢泰子である。
ちなみに母は娘の「書」について次のように述べている。
「私は鍛錬と努力を重ね、その果てにあまりに観念的になりすぎていいたのだろう。きっと翔子のようにその瞬間に生き、障害によって育まれた純粋度が保たれたた魂の領域で書く字が感動を呼ぶのでしょう。ただただ、誰かに喜んだもらいたく、ただただ、その時の想いを無心に書く。そんな書に、私の書などかなうハズがない」と。
次に、Fukase以外のメンバーの紹介をすると、ギター担当のNAKAJINは、本名は中島真一で、ハットと眼鏡がトレードマークでグループのリーダーを務めている。
Fukaseがヤンキーで中学の時集団リンチにあって、ほとんど学校に行けなくなったいた時、いつも迎えにいった人物。
ピエロのマスクをしているのが、DJ・LOVEで、はじめFukaseがマスクをしていたが顔がかわいいからという理由で、現在のDJ・LOVEに替わったという。
女性でピアノをひくSAORIこと藤崎彩織は、5歳の時にクラシックピアノを始め、音楽高校・音楽大学に通っていた。
音楽科の教員免許も取得しており、ピアノ講師としても4年間のバイト経験がある。
さて、SEKAINO OWARIの「原点」といえば、、東京都大田区の京急線大鳥居駅付近にあるクラブハウス「Club Earth(クラブ アース)」である。
Fukaseが音楽活動を始めたころ、仲間の集まることのできる拠点を作るために土地を探し、見つけた地下空間に自分達で作業をして作ったのが始まり。
しばらくは同所を活動の拠点としており、住み込みで作業をしていたが。現在は別の場所で家を借りてシェアハウスという形態でメンバーとスタッフで住んでいる。
なお、「Club Earth」では、現在でも様々なイベントを行われている。

「ざわわ ざわわ ざわわ」でよく知られた「さとうきび畑の歌」も奥深い歌である。
戦争のことに直接にはフレず、「戦争の悲壮」を伝える特異な歌といえよう。
最初に聞いた時、ザワワ、ザワワ抑制がきいたリズムが単調に波打つだけで、この曲いったい なに?としか思わないでなかった。
しかしこの歌が、サトウキビ畑の土の下に埋められた戦没者の声が「ざわわ ざわわ」のリフレインとなっていることを知って、ゾクッ。
そして当然に、この歌をつくった人のことや経緯のことが知りたくなった。
この歌を作ったのは東京出身の作曲家・寺島尚彦氏である。東京藝術大卒業後も音楽活動を継続していたが、1967年初めて訪れた沖縄に心を揺さぶられた。
寺島尚彦は、初めて訪れた沖縄で、抜けるような青い空の下、背丈より高いサトウキビに埋もれながら、うねるように続くサトウキビ畑を歩いている時、次のような地元説明者の言葉を聞いた。
「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています。」 その時のことを寺島尚彦氏は述懐する。
「一瞬にして美しく広がっていた青空、太陽、緑の波打つサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ轟然と吹き抜ける風の音だけが耳を圧倒し、その中に戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた。」
帰京後、寺島氏はこの時の衝撃を何とか作品にしようと試行錯誤の末、生まれたのが「さとうきび畑」の歌であった。
風がサトウキビ畑を吹き抜ける音「ざわわ」が66回もくり返される詞となった。
深く静かに、怒りと苦しみ、悲しみを伝えるには、それだけの時間の長さと空間的広がりが必要だった。
あの日、寺島氏が立ちつくしたたサトウキビ畑は「平和祈念公園」に姿を変え、24万人の戦没者の名を刻んだ黒い御影石が波のようにうねっている。
さて、沖縄戦の戦没者の歌としては「島唄(しまうた)」(1993年)で、この歌もその背景を知られなければ、その意味が充分に伝わらない歌といえよう。
2005年朝日新聞に「宮沢和史の旅する音楽」というシリーズが連載され、「島唄」の創作秘話が語られた。
4人組のバンド「BOOM」のボーカルは宮沢和史(みやざわ かずふみ)で通称MIYA。
宮沢は山梨県甲府市出身で、明治大学経営学部卒業後、1986年にTHE BOOMを結成し、歩行者天国でのライブを積み重ねた後にデビューした。
宮沢の特徴は、世界中を旅しそこで得たインスピレーションで音楽を生み出してきた点である。
楽曲は、すべてロックが下敷きになっているものの、沖縄民謡、サンバ、ケチャ、ジャズ、テクノなど、さまざまなジャンルに造詣が深い。
そして「島唄」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌である。
1991年冬、沖縄音楽にのめり込んでいた宮部は、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。
そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。
捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う。そんな極限状況の話を聞いた宮部は、そんな事実も知らずにノウノウと生きてきた自分に怒りさえ覚えたという。
宮沢が見た資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の中にいるような造りになっている。このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。
だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れており、このコントラストを曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思ったのがキッカケである。
歌詞の中に、ガマの中で自決した人々を歌った箇所がある。「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」というクダリだ。
宮沢は自分で「島唄」を作っておきながら、本土出身の自分がこの歌を歌っていいのかと悩んだことがあったという。
その時、名曲「花」の作者である喜納昌吉の次の言葉に背中を押された。
「音楽では魂までコピーしたら許される」という言葉だった。

漫画家の手塚治虫は、三つの人間の夢を入れると漫画がヒットすると語った。
「空を飛ぶこと」、「動物と語ること」「変身すること」がその三つだが、「鉄腕アトム」では、さらに主人公が「悩む」という要素を加えたことが、いっそう人々の共感を集めたといわれる。
さて、大人から子供まで誰もが知っているのがアンパンマンは、「飢餓」や「戦争」という厳しい現実を背景にしているということはアマリ知られていない。
またその主題歌「アンパンマンのマーチ」は、作者の弟への思いがこめられた歌である。
作者のやなせ たかしは1919年現在の東京都北区生まれ、父方の実家は高知県香美郡在所村(現:香美市にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家であった。
父親は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵政に勤めた後、講談社に移り「雄弁」で編集者を務めた人だった。
父親は東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年に特派員として単身上海に渡る。
その後、家族も上海に移住し、この地で弟・千尋が生まれるものの、父親がアモイに転勤となったのをきっかけに、再び家族は離散し、やなせらは東京に戻った。
1924年に父親がアモイで客死。遺された家族は父親の縁故を頼りに高知市に移住する。
弟は現・南国市で開業医を営んでいた伯父に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも同じく伯父に引き取られて育てられた。
この伯父は趣味人でもあり、兄弟はかなりの影響を伯父から受けたという。
やなせは、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学し、卒業後は田辺製宣伝部に就職した。
しかし1941年に野戦重砲兵として徴兵され、日中戦争に出征した。
やなせは陸軍軍曹として主に暗号の解読や宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたりもした。
幸いにも 従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。
ただ、その間に弟が戦死している。
終戦後、絵への興味が再発して1946年に高知新聞に入社し、翌年上京しして結婚。この頃、やなせは漫画家を志すようになる。
そして貧乏だけは嫌いで、三越に入社して宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める。
そのうち漫画の仕事が増え、1953年3月に三越を退職し、専業漫画家となった。
漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで「独立」を決意したという。
しかし、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、やなせが目指した「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去のものと看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていく。
漫画家としての仕事が激減したやなせだったが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはなかった。
業界内では「困ったときのやなせさん」という評判が立つほどだった。
やなせが、漫画家だと知らない人が結構いたし、この時期のコネクションが繋がって作品が生まれ、ヒットに至ることが起きている。
特に1960年、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、それが作詞家として「手のひらを太陽に」(1961年)を生む出会いとなった。
さらに、1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現・サンリオ)の社長辻信太郎が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深める。
出版事業に乗り出したサンリオの元で、やなせは絵本の執筆も始め、1969年には「アンパンマン」が初登場。ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの作品であった。
1969年に発表したアンパンマンを子供向けに改作した。
ただ、空腹の人たちの元へパン粉を届けるという点では共通している。
1988年には、テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の放映が日本テレビで開始される。
テレビ業界的にかなり不安視されており、スポンサーがつかなかったり、関東ローカルのみの放送などと逆境を余儀なくされるが、まもなく大人気番組となり、日本テレビ系列で拡大放映された。
またキャラクターグッズなども爆発的に売れ、やなせは一躍売れっ子になった。
震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソング的扱いをされたり、「笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻した」といった良い話がやなせの元に届いたことから、引退するのをやめたという。
ところで、アンパンマンを語る上で最も知っておく必要があるのが、やなせたかしの戦争でなくなった弟の存在である。
やなせたかしの弟は海軍に志願し特攻隊として戦場でその生涯を閉じた。更にやなせ自身も戦中・戦後の食糧危機に直面し非常に辛い思いをした。
それは、アンパンマンの主題歌の歌詞の中に痛切にこめられている。
「そうだ!嬉しいんだ生きる喜びたとえ胸の傷が痛んでも」 「何の為に生まれて 何をして生きるのか」 「答えられないなんて そんなのは嫌だ!」
また、弟は特攻隊として飛び立った彼は自分が二度と母国の地を踏むことは無いと知り胸の痛みを感じつつも生きている喜びを感じたにちがいない。
♪♪時は早く過ぎる 光る星は消える だから君は行くんだ微笑んで そうだ!嬉しいんだ生きる喜び たとえどんな敵が相手でも♪♪