そのマスクは誰

サエない男が偶然に木の仮面を拾って自宅に持ち帰る。仮面をつけると、黄緑色の顔の怪人に大変身して大暴れする物語があった。
1995年公開の、ジム・キャリー主演の映画「マスク」で、あくまで漫画チックながらも、どこか現実感があるのは、マスクをつけると人間が別の人格になるというモチーフに原因があるのかもしれない。
英語で人間を表わす言葉は「パーソン」だが、その語源は「ペルソナ」で、ペルソナには「仮面」という意味が含まれている。
さて映画「マスク」は、木製仮面が川に浮いたシーンから始まる。
そして、その仮面は主人公の手を離れて、またも川を浮かび、再び誰かに拾われることを予感させつつ終わる。
現実の世界で人は、最もポピュラーな「仮面」を身に着けたがるが、何の運命のいたずらか、文字どうりポピュラーなマスクになった人がいる。
1880年、パリの川で謎の女性死体があがった。警察がすぐに引き上げ、検死官に渡し、身元を特定するため、検死官はその顔の「石膏型」を作った。
ところが、この石膏型の顔には人を引き込む何かが宿っていた。
この石膏をみた1人がその顔を気に入ってしまい、石膏型職人に手渡され、大量生産された。
ヨーロッパ全土へと広がった彼女の顔は、サラニ数十年後、ある玩具メーカーの目に留まり、ナント「心肺蘇生法」に使われるダミー人形となり、現在へと至っている。
ちなみに、水死体で上がった彼女は、当時16歳だったと言われているが、彼女が「誰」だったのかは今も判明していない。
この話で思い出すのは、ロマノフ王朝最後の皇女アナスタシアが発見されたというニュース。
舞台も同じヨーロッパの川で、アナスタシアの父親はロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世である。
ニコライ2世は、日本と縁深い人物である。
日露戦争当時のロシア皇帝というばかりではなく、その10年以上も前、当時皇太子だった時期に日本を訪問し、滋賀県大津を訪問した際、津田三蔵巡査に突然切りつけられた。
ニコライ2世は命に別状はなかったものの、これが世にいう大津事件(1891年)である。
さて、このニコライ2世と妻アレクサンドラとの間に四人の娘が生まれ、その末娘こそがアナスタシア・ニコラエブナであった。
父母は、娘達に深い愛情を注ぐのだが、夫婦そろって社交嫌いであった。
特に母のアレクサンドラは、ロシア宮廷の堅苦しいしきたりに馴染めず、世継ぎも生めないことから肩身も狭く、公式行事の参加を嫌がった。
ただ夫妻はレクサンドル宮殿に行くのが楽しみで、宮殿の裏の湖の「子どもたちの島」で、姉妹達はそれぞれ自分の家を持って遊んでいた。
末娘のアナスタシアは4姉妹の中でも一性格が明るく茶目っ気たっぷりで、よく人の真似をして笑わせるのが好きな子だった。
しかし、アナスタシアが3歳になろうとする1904年2月に日露戦争が始まる。しかし、ロシアは日本に破れ、ロシア全土で敗北への抗議が広がっていった。
その一方で、同じ年の8月に皇室にとって「男子誕生」の喜ばしいニュースがあった。
男の子アレクセイ・ニコラエヴィッチの誕生は、ロマノフ家に幸せを運んできてくれたように思われたが、アレクセイは「難病」を抱えた非運の皇太子であった。
そしてこの難病は、ロマノフ王朝に暗い影をなげかけることになる。
父ニコライ2世はよき家庭人ではあったが君主としての資質に欠けていた。
そうした王室の心の隙間に入り込んだのが、怪僧ラスプーチンである。
皇后アレクサンドリアは、皇太子アレクセイの病をきっかけにラスプーチンに出会った。
ラスプーチンは、最初宮廷に呼ばれた時、ベッドのアレクセイに何事かを話しかけると、アレクセイは急に見違えるように元気になり、ソノ話に耳を傾けたという。
この怪人物は、いつしか超能力者として見られることになり、皇后や皇女たちや、お付きの女医、さらには多くの女性の心を魅了して、宮廷内に深く入り込む。
しかし、皇后のラスプーチンへの偏愛ぶりは、ラスプーチンを嫌う他の聖職者や権力者の憎しみと反感を買うことになる。そしてラスプーチンは、1916年についに暗殺された。
また、こうした王室の乱れは、ロマノフ王朝から知識人や国民を離反させ、反体制グループが台頭する一因を成した。
さらに第一次世界大戦への参加により国民生活はますます困窮し、ロマノフ王朝はまさに風前のともしびとなった。
民衆の不満は最高頂に達し、宮廷の内外でもテロや陰謀が頻発していた。
そして1917年早春、ついにその日はやって来た。手に手に武器を持った民衆が、粉雪の舞う広場になだれ込んでゆく。
人々は口々に「自由を!」「平和を!」などと叫びながら走っていた。
かくして2月革命によって樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言。ここに皇帝ニコライ2世は退位し、ついに300間続いたロマノフ王朝も終焉の時が訪れたのである。
臨時政府によって監禁された皇帝一家は、ウラル地方のエカテリンブルクに移送され、そこにある大きな館に幽閉された。
この頃、ニコライ2世の家族は長女のオリガ21才、次女のタチヤナ20才、三女のマリア19才、四女のアナスタシア17才、唯一の男子であった皇太子アレクセイに至ってはまだ14才だった。
そして1918年7月、エカテリンブルクの館にて裁判手続きを踏まぬまま、銃殺隊によって家族・従者とともに銃殺された。
だが、ロマノフ王家は滅びたものの、なぜか末娘アナスタシアだけは生きているという噂が広がった。彼女に好意を持つ兵士によって密かに助けられ、どこかに匿われたというのだ。
アナスタシアという名前には「復活」の意味が含まれていたからかもしれない。
そして、皇女アナスタシアの生存に関する書物が数多く出版された。
そしてハリウッドでは、アナスタシア生存を題材にした1928年公開の映画「Clothes Make the Woman」を制作して反響をよんだ。
そのリメイク版は、イングリッド・バーグマン主演の「追想」(1956年)でさらに知られた。
ロシア帝国の元将軍(ユル・ブリンナー)がニコライ2世が4人の娘のためにイングランド銀行に預金つまり、ロマノフ家の遺産に目をつける。
元将軍はセーヌ川に身を投げて救助された「記憶喪失」の女性(イングリッド・バーグマン)を生存が噂されるアナスタシア皇女に「仕立て」て遺産を手に入れようする。
彼女に各種レッスンを施して「本物」らしく仕立て、デンマークで甥ポール王子と余生を過ごす皇太后(アレクサンドリア)との「涙の対面」にまでコギつける。
この映画における後の展開は省くが、人々はアナスタシア伝説もある種の「都市伝説」に過ぎないと思っていたところ、一つの衝撃的事件が起こった。
氷もまだ溶け切らぬベルリン市内を流れる運河のほとりに一人の女性が流れ着いたのだ。
その女性は体に深い傷を負い、軽い記憶喪失にかかっており、そのうえ精神錯乱に陥って衰弱が激しかった。
やがて、介抱され自分を取り戻した女性は、信じられないことを口にし始めた。
自分は、かのロシア皇帝ニコライ二世の4女アナスタシアで、革命政府によって処刑されるところを運よく逃げて来たと言うのである。
そして病院を抜け出した彼女は、精神錯乱の末、市内を流れる川に飛び込み自殺を計った。
しかし、彼女は運よく助けられることになった。
しばらくして、回復した彼女は、自分はかのロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアで、ボルシェビキ政府によって殺されるところを、間一髪、命からがら逃げ出して来たと主張し始めたのである。
事実、その女性が持つロシア宮廷に関する知識は驚くべきものだった。
足がひどい外反拇趾であること、額に小さな傷跡があるという「身体的特徴」も一致した。
それに加えて、彼女は、アナスタシアしか知り得ないと思われるようなことを知っていたりした。
そして「アナスタ・ブーム」が巻き起こった。
その後、彼女はアンナ・アンダースンと名乗り、ドイツで「ロシア王室遺産」をめぐる訴訟を起こす。
裁判は長期化する様相をみせるが、その間彼女こそアナスタシアだと信奉する人々から、手厚い施し物を受けて生活することができた。
彼女は1984年に84才で亡くなるまで、自分は正真正銘のアナスタシアだと主張し続けた。
果たして、彼女は本物のアナスタシアだったのか。
1991年になって、エカテリンブルク近郊で、ロマノフ家の遺骨が発掘され、 皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。
それらの遺骨は、その後のDNA鑑定で皇帝一家のものと判定された。
一方、アナタスシアを名乗ったアンナ・アンダーソンも、その死後10年の1994年、DNA鑑定でアナスタシアの一家との血のつながりは否定された。
こうして、DNA鑑定という最新の法医学の判定によって、数十年の長きに渡って論争された「アナスタシア伝説」も、ようやく幕を閉じた。
しかし逆に「アナスタシア」を名乗ったアンナ・アンダースンとは、一体誰だったのか。
なぜあのようにアナスタシアしか知りえない「個人情報」に通じていたのか。
彼女は「アナスタシア」を名乗るうち、つまりその「仮面」をカブルうち、いつしか自分がアナスタシア本人と信じたのか。
あるいはアナスタシアの魂がアンダーソンに乗り移ったのか、そんなコトしか思い浮かばない。

新潟県美術館に「花子像」というのがある。
どう見てもあまり美しい顔ともいえないが、注目すべきことはその作者で、ナント世界的彫刻家・ロダンである。
まず湧き上がる疑問は、この花子という女性が誰で、なぜロダンによって彫られたのかということである。
さて、パリが一番華やかだった時代を駆け抜けた、生粋のジャポニスムを地で行く2人の芸者がいた。
それが川上音二郎の妻・貞奴と、もうひとりが花子である。
アマリ知られていないことが、若き天才画家ピカソが貞奴の舞台姿を描き、 巨匠ロダンが花子の面像60体を彫刻している。
パリでは19世紀の半ばから20世紀の初頭までに6度の万国博覧会が開催された。
1889年パリ万博にエッフェル塔が完成し、1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道のオルセー駅が鉄道駅舎兼ホテルとして完成している。
1867年のパリ万博に日本が初めて、幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ 出展する。
当時パリではジャポニスムブームが起こり、ロートレック は「侍姿」で写真を撮っているし、モネが1876年に36歳で描いた「ラ・ジャポネーズ・La Japonaise 」やマネやゾラの日本趣味、ゴッホの浮世絵の模写など枚挙にいとまがない。
そしてそれは、パリ美と日本美が見事に交差した瞬間だった。
川上音二郎・貞奴一座は、1899年アメリカ興行後、ロンドンを廻り、1900年パリで行われた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったアメリカ人女性興行師、ロイ・フラーの劇場で「遠藤武者」「芸者と武士」の二本立てを公演する。
ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったというエピソードがある。
だが、その8月にはフランス大統領エミール・ルーベが官邸のエリーゼ宮で開いた園遊会に招かれ「娘道成寺」を踊った。
踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。
こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で日本人初の女優として一躍有名になる。
ドビッシーは貞奴の琴を聞き交響曲「海」に組み込み、アンドレ・ジッドは彼女の演技を絶賛している。
当時パリに来ていた19歳のピカソが描いた貞奴の舞台姿のスケッチ(パステル画)が、バルセロナのピカソ美術館に残っているが、1902年、34歳で踊子としてヨーロッパに渡った花子は一座を旗揚げし、1906年にロイ・フラーと共にマルセイユで開催されていた植民地博覧会で公演を行った。
その博覧会を訪れていたロダンは、旧知のロイ・フラーの勧めで「芸者の仇討ち」や「ハラキリ」を演じていた花子の公演を見る事となる。
特に、花子が桜の木の下で斬られて悶死する「断末魔の表情」に衝撃を受け、花子にモデルの以来を申し出て、1906年に66歳のロダンは、花子をモデルに制作を始める。
彼女は「プチト・ハナコ」と呼ばれ、巡業がない時は自宅でロダン夫妻と寝食を共にするほどの親交があった。
そして、ロダンが制作した花子の面像58体の彫刻やスケッチが、ロダン美術館に残っている。
その後日談があり、ロダンと花子との間を通訳をした人物の情報を元に、森鴎外は1910年に短編小説「花子」を発表している。

花子が断末魔の顔なら、近年ブームの小林多喜二には、「デスマスク」すなわち「死に顔」が残っている。
さて今日労働組合は加盟率は低下する一方で、そうした組合にすら入れない非正規労働者が増え、さらにはワーキング・プアという言葉も生まれた。
確かにプロレタリア運動の雄・小林多喜二が脚光を浴びた時代と重なる部分がある。
小林多喜二は北海道小樽市で一家で貧しい生活をしていた。当時の小樽は、北海道の縮図であると同時に日本の縮図であり、世界中の資本主義社会の縮図でもあった。
1920年代、第一次世界大戦によってヨーロッパが大きな被害を受けたことで北海道の穀物がヨーロッパへと輸出され、それにより巨万の富を得る豪商が生まれていた。
その一方で、日雇い労働で生活をつないで生きる人々も多くいた。
1日15~16時間労働は当たり前で、借金の代わりに自由を奪って労働させる監獄部屋という労働部屋もあった。
小林多喜二の一家はこの労働者の町でパンやもちを売って生活をしていた。
当時、彼の家があった地域には多くの貧しい肉体労働者が住んでいたため、彼の家にはタコ部屋で働かされていた労働者が何度となく逃げ込み、母親のセキは彼らにパンを持たせ逃がしてやったこともあったという。
その母親の姿は、小林の心に深く刻まれることになる。
その貧しかった小林に幸運が訪れた。伯父が商売で成功して学費を出してくれることになり、小林も勉学に励んで小樽高商に進学することができ、北海道拓殖銀行へ就職した。
しかし生活が安定している反面、自分が金持ちでもなく、貧乏人でもない中途半端な立場はケシテ居心地のよいものでもなかった。
小樽はその他にも、一世を風靡したニシン漁や石炭の輸出などによって財を築く者がいたが、その恩恵はごく一部の資産家に集中していた。
それは北海道開拓の歴史が、本州から飛ばされた武士や犯罪者、兵隊たちからなる屯田兵たちによって進められ時から始まっていたといえる。
一攫千金を夢見る人々が移住し、日本唯一のフロンティアとして発展し続けたが、現実は想像以上に厳しいものがあった。
さらに当時、労働者が政治に関与することは、治安維持法に違反すると逮捕された。
そのような時代にそして不当な扱いを受けて働く労働者を主人公とした小林多喜二の「蟹工船」が生まれた。
当時「蟹工船」はブームになるが、労働者のために戦う作家として知られるうち、北海道拓殖銀行を解雇された。
以後、小林は作家として生きていくが、それによって1933年2月に治安維持法違反で逮捕され、東京・築地署に投獄され厳しい拷問を受けることになる。
そして逮捕の3日後、心臓麻痺で死亡と公式に発表された。その時29歳という若さだった。
自宅に運ばれた小林多喜二の遺体は首や手首になわで縛られた後、こめかみには何かでなぐった打撲傷、下半身は内出血で腫れ上がっていた。
ペンをもつ右手の人差し指は完全に折られていた。
特高警察にとっては、多喜二の口をふさぐことと、ペンを持たせないようにすることが至上命令だった。
息子の変わり果てた姿をみた母親は泣きながら、「それ もう一度立たねか。みんなのため もう一度立たねか」と言ったといいう。
そして、「小林多喜二死亡」で集まった友人たちによって、拷問の残虐さを告発するために、石膏によってデス・マスクが作られた。
そのデスマスクは、小林が戦った「人間の尊厳」を踏みにじる力の巨大さを、まざまざと今という時代に伝えている。