頑強な物語

1995年の談話において、村山首相は、日本が植民地支配と侵略によってアジアおよび諸外国の人々に「多大な損害と苦痛」を与えたことを認め、「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」を示した。
この「談話」は第二次大戦に関する日本政府の公式見解となってきた。
ただ、安倍首相は2013年の国会で「侵略」という言葉には再解釈の余地があることを示唆した。
さらに国会での質問に、安倍首相は「村山談話」を全面的には支持しないと述べ、「侵略」という言葉について曖昧な答弁を行った。
このことにつき、アジア諸国から日本軍が戦時中に行った行為をうやむやにし戦争責任を回避しようとしているという批判が噴出した。
また、国会議員の中には、1993年の「河野談話」の内容を歪めようとする動きにも批判が集まった。「河野談話」において日本は、1932年~45年のアジアで、多くの若い女性たちを巻き込んだ性奴隷の実態に対する責任を認め、賠償を約束している。
さて、安部首相はコノ夏「戦後70年談話」を語る予定だが、学者などからの意見をとりいれ、「村山談話」「河野談話」を踏襲し「侵略」の言葉を外すことはしない方に傾いているようだ。
ただ、安部氏の独自カラーとして、日本がアジアの平和に貢献したことや未来において果たす役割を強調するようだ。
さて、安部首相のこれまでの対応の中に、戦後の歴史を明らかに「読み替えよう」という動きがあり、「歴史修正主義」という言葉がキーワードとして浮かび上がった。
個人的には、「侵略」という言葉がどれくらい「現実」を適切に表しているか、歴史事実について充分に知るわけでもなく、まして現場で検証したわけでもないので、積極的に言えるものではない。
ただ少なくとも、「侵略」という言葉は、過去の証言や証拠などで積み重ねられてきた上での「表現」でそれが政府の公式見解となってきたという事実である。
もし、それを削除するとなると、諸外国からみてアマリニも唐突にもみえるだろう。
それどころか「集団的自衛権行使容認」と合わせれば、日本が危険な方向に歩んでいると映るにちがいない。
何しろ安倍首相は、憲法解釈を従来の個別自衛権から「集団的自衛権行使容認」へと飛躍することを、なにほどでもないと思えるくらいだから、過去の歴史を超越するナンてことも大したことではないのかもしれない。
ただしこうした「飛躍」が、日本が唯一の被爆国として「世界平和」へアピールできる積極的役割さえも放棄することにはならないだろうか。
もしも、「歴史の修正」や「読み替え」をするならば、それまでの「積みかさね」に見合うほどの「客観的な証拠」「科学的根拠」があってコソ説得力をもちうる。
そのためには、日・中・韓の歴史の共同検証とか共通教科書の作成などの地道な努力の上に立ってはじめて可能になる。
さて、国をまとめるのに物語が必要なように、過去と決別するためには新しい物語が必要である。
例えば、戦後の国際秩序は、民主主義の全体主義に対する勝利によって形成された。したがって全体主義の国・日本やドイツやイタリアなどが「悪」として裁かれ、戦後の占領下、日本の戦前の価値観の多くが過ちであるという否定の上に新たな秩序をスミヤカに作り出す必要があった。
その判り易い例は、国際連合の中核を担う安全保障理事会は、5つの戦勝大国によってなり、「戦勝者クラブ」という性格を帯びたものなのだ。
そして、戦後の国際秩序には何らかの「物語」が必要となったが、歴史が勝者によって書かれるごとく、その物語は勝者によって作り出されるものである。
こういう物語の中にいると、日本の過去ばかりが悪いのかという気にもなるし、また自国の教科書でさえも自国の全面的な主権下で作成できない現状に「不条理」を感じる。
しかし残念ながらそれが「敗戦国」というものだし、そういう現状の中で歴史の読み替えをするには、よほどしっかりした科学的・客観的事実をもって粘り強く「真実」をアピールしかない。
現状においても、中国側のいうような虐殺の数の誇張は、科学的根拠をもって否定すべきであろう。
しかし、安部首相のいうように、突然日本軍の行為が「侵略」にならないなどということは、戦後世界の物語から「逸脱」することになり、むしろ諸外国には「後退」としか受け止められないであろう。
つまり、結果として「国益」を損なうのは目に見えている。

ここで、ひとりの野球人の人生を紹介したい。
その人生は、戦後の国際秩序を作り出した「物語」とはナンラ関係がない。
しかしこの「個人史」には、人間がナゼある種の「物語」を必要として、そこから逃れられないかを示している。
池永正明。下関商業高校に進んだ池永は超高校級投手として、輝かしい成績を収める。2年生の春の全国センバツ大会で優勝する。
下関商高2年の時、春のセンバツで優勝投手となった彼は、春夏連覇を臨んだ夏の大会、県大会5試合にすべて完封して勝利。春夏連覇の夢は、あと少しのところで破れ準優勝投手になる。
ルーキーの年にいきなり20勝を挙げた。1965年の入団以来、5年余りで103勝を挙げた天才投手だった。
少し時代を遡ると西鉄は野武士軍団の異名をとり、「アンチ巨人」にとってはたまらない存在であった。
その時のエースである稲尾和久にも衰えが見え、西鉄黄金期の記憶も薄れかけた頃に、「彗星」のごとく表れたのが池永正明であった。
ところが、100勝をこえて大投手への道を歩み始めたかに見えた池永の人生もしくは球団の運命は暗転する。
1969年10月、「西鉄・永易投手が八百長」という報道がきっかけだった。
報道記事の内容は、1968年、東映から西鉄に移籍してきた永易将之投手が、野球賭博を資金源とする暴力団関係者の依頼を受け、わざと負けるような投球をしていた疑いがあるというものだった。
そのため球団は事実を調査し、球界からの「永久追放処分」を決めた。
中西監督は5位という成績不振もあり監督を辞任し、新たに監督になったのは稲尾和久監督であった。
そして1979年、4月10日、記者会見した永易投手はみずから「昨年、知人に頼まれ、3試合で八百長をやった」と明かし、さらに関与していた者として、7選手の名を挙げた。T投手のほか、6人はすべて西鉄ライオンズの現役選手だった。
その中に池永正明の名が含まれていた。
依頼は野球賭博を行う堺市の暴力団だったことも判り、永易の八百長工作は西鉄だけでなく、他の選手も巻き込まれている気配であった。
調査が進められた結果、池永投手を含む3投手が永久追放になり、3人の野手がシーズン中の出場停止などの処分を受けた。
池永投手は「敗退行為」への関与を否定したが、現金授受の事実が問題となった。
池永によれば先輩のT投手から100万円預かっただけだったという。
日本野球機構は、「なぜ池永は、受け取った依頼金を返さなかったか。なぜ、誘われた事実を機構事務局に通報するのを怠ったのか。八百長行為が絶対に無かったという確証が無い」という見解をだした。
元西鉄のT投手は、ルーキーにプロの水を教え、相手打者のクセや弱点から、プロとしてのピッチングの心得を伝授した。池永はことさらTには恩義を感じていた。
その先輩投手は中日に行ったが、しばらくしてなぜか球場に現れて、池永を呑みに誘った。
そして球界の八百長に加担している選手名を次々と挙げ、池永を驚愕させたあと、池永にも投球に手心を加えるように頼みこんだ。
それだけはできないと断ると、それならとにかく預かってくれと新聞紙で包んだ「もの」を渡した。そして「1千万ほども負けがこんどる。もう首が回らん。頼む」そして「おれを助けてくれ」と土下座までしてきた。
そして指定してきたのは1969年秋、シーズン後半のロッテ戦であった。実はその日、予定されていた池永の登板はなかった。ローテーションの上では登板するはずだったが、監督の中西は二線級を起用、その先発がたちまちロッテ打線に打ち込まれ、大敗したからだ。
それゆえ、池永の「八百長はやっていない」と主張する根拠は明白だった。指定試合には登板していないのだから八百長をするにもできない。
しかし他の八百長を依頼された西鉄の選手たちは、その後の調べで敗退行為(八百長)をしたことをはっきり供述していた。
池永はその後、Tに預かっていた包みをTに返却しようとした。しかし過程はどうであれ結果的に西鉄が「大敗」し、助かったので受け取ろうとはしない。
押し問答が続く中、Tはこう提案する。「それじゃ、飲んじまおう」 藪の中へ捨てるわけにもいかないから、酒に流そうというわけだ。
当時、そのような細部を説明していれば、池永は助かった可能性があるのだが、寡黙をよしとする九州男児の気風もあってか多くを語らなかった。
また池永に渡ったとされた金は、事件発覚後、父親から全額楠根オーナーへ返されている。
野球界を「永久追放」となった池永は、かつての同期、ジャンボ尾崎の薦めもあってプロゴルファーを目指すが、クリーンなイメージを保ちたいゴルフ業界からも拒否されてしまう。
池永は、福岡市博多区の繁華街・東中洲にバーを経営し、自分の姿を人目にさらした。店で不快な言葉を投げかけられもしたが、訪れたファンが、激励コメントをマジックで書いたことが発端となり、トイレは池永へのコメントで埋めつくされた。
そのバーも、2007年限りで店を畳み今はない。
さて、池永が金銭授受の不明瞭さというだけで、なぜこのような重い処分処分をうけることになったのか。
また、そもそも「黒い霧」はどのようにして発覚したのかも疑問が残っている。
報知新聞の西鉄ライオンズ担当記者が、カール・ボレス選手から「チームメイトにわざとエラーをする選手がいる」という話を聞いていて、密かに真相究明をしていた。
その結果、報知は八百長疑惑を掴む。報知は親会社である読売新聞の社会部と組んでさらに調査を進め、公式戦でわざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を永易がしていたと確信する。
そういう経緯もあって、セリーグの人気球団へ八百長疑惑が及ぶのを恐れたプロ野球界が、パリーグのエース池永を犠牲にすることで、その拡大を防いだ、という見方がある。
稲尾和久や豊田泰光、ジャンボ尾崎(将司)や親交のある芸能人が中心となり、処分取り消しを求める署名活動が活発になっていく。
1998年、市民団体「復権10万人署名運動実行委員会」が、18万人もの署名を集め日本野球機構コミッショナー事務局に提出する。
しかし川島広守コミッショナーは「当時出された裁決の当否を再審査することはできない」とする結論をまとめ、この段階での「復権」は果たされなかった。
2001年12月25日、プロ野球マスターズリーグが発足。福岡ドンタクズの監督に稲尾が就任する。
稲尾は「もう一回池永をマウンドに立たせてやりたいし、またファンの人にも見て欲しいから」と池永に投手として参加を要請。マスターズリーグは、日本プロ野球機構とは関係の無い「プロ野球OBクラブ」主催であるため、出場することに問題は無かった。
ただ参加の記者会見で池永が語った一言「もういいかげん、許していただけないだろうか」が関係者の心を動かした。
2005年年3月のコミッショナー実行委員会およびオーナー会議の席で「野球協約改正案」が承認され、復帰申請による球界復帰の道が開かれた。
「永久追放者は処分発効から15年、また無期限出場停止者に対しても5年を経過した選手について、本人からの申請があり、かつ善行を保持して改悛の情が顕著な者とコミッショナーが判断した場合に球界復帰を認める」。
これにより池永は復帰申請を行い、4月日本野球機構は、池永に対する処分を解除し、池永は35年ぶりに復権した。
しかし客観的にみても「シロ」がでているにも関わらず、池永の復権には、どうしてこんなにも時間がかかったのか。
ある事情通の野球関係者は、池永復権問題がぶり返された時、困る人が出てくるからだということを語っている。
さらに、池永復権にはプロ野球のOBの一部が反対があったからだともいった。功成り名遂げた野球人の中にも、うしろ暗い過去を持っている人が居て、池永問題が表面化して、自分にも累が及ぶのが怖いからだという。
さらに、野球界には、選手に近寄ってくる八百長を資金源とする黒い人々がいて、「処分の解除」には踏み切れなかったこともある。
要するに、有力選手を「見せしめ」として、八百長をやれば永久追放だぞという、いわば「脅し」に使ったというのだ。
また池永が復権したにせよ、それは「物語」が否定されたというより、「物語」から解かれたということにすぎない。つまり客観的な証拠があってさえも、かくも「黒い霧事件」の物語は頑強なものだ。
プロ野球界の黒い霧事件は、人間はなぜ物語を必要として、そこから免れえないかを教えてくれる。
同時に、裁く側が作った物語の頑強さを物語っている。

安部首相の「70周年の談話」に向けて「歴史認識」が問題になっているが、それはホボ第二次世界大戦中の日本軍の行為につての「歴史認識」をさしている。
しかし日本中国の関係で不足していると思われる重大な「歴史認識」がある。
例えば1911年の孫文の辛亥革命において、日本人特に福岡の炭鉱経営者がどれだけ多くの資金援助をしたか、という点である。
戦後の史観では、平岡や頭山の玄洋社は「利権獲得」が目的の右翼集団のようなレッテルを貼られてしまっている。
そのためか、福岡県人がいかに中国革命を支援したかについて表立って語られることは少ないのは、福岡県人として残念で仕方がない。
ところで、孫文が福岡に来た際に宿泊した旅館が「常盤館」で、呉服町近くあったが今はソノ場所に小さな石碑がたつのみである。
孫文が滞在した場所として残っているのが、福岡市天神の中央公園、福博出会い橋付近にある「旧福岡県公会堂貴賓館」である。
ところで、蒋介石は日本との戦争において勝利宣言をした後、「我が国民は襟度(プライド)を保ち、日本人に対して“怨みに報ゆるに 徳を以ってせよ」と呼びかけた。
彼の命令は徹底し、軍も報復することなく、武装解除した日本軍と民間人を整然と帰国させた。
こうした、蒋介石のメッセージや日本に対して戦後請求権を放棄したこと、つまり国家賠償を要求しなかったことに対して、予想される共産党との戦いに備える必要があったからだともいわれている。
しかしそれは、孫文自ら日本の士官学校で留学し学んだことや孫文の辛亥革命を多くの日本人が支援したという事実と無関係ではないだろう。
さらに戦後の話をすれば、1977年中国の冶金工業部の幹部が来日し、大きなショックを受けたのがビール缶であったという。
日本では薄手のブリキ鋼板を使ったイージーオープン缶であったのに対し、中国では缶切りで開けるようなものしかできていなかった。
また、もうひとつが乗用車で、中国で一番のはずの車が先導する日本の車に追いつけず、ついにはエンストしてしまったという。
翌1978年、「日中平和友好条約」が結ばれ、鄧小平氏が訪日し、中国はまだ立ち遅れている国であり、日本人民に学びたいとと語った。
そして財界各社を訪問し、各社のトップに中国近代化のための支援を要請した。以降、我が国産業界あげての中国への支援が始まった。
ブラウン管の製造工場が合弁で北京に建設されることが決まり、今や中国が世界に誇る宝山製鉄所も建設されることになった。
各社はこぞって技術者や労働者を大量に受け入れ技術教育や操業指導を行い、「円借款」も含めてここまでやるかというくらいの支援であった。
こうした日本の官民合わせての支援なくして、中国のGDPが世界2位になるということはなかったであろう。
また両国民は、国会における「戦後70年」論議の最中に、天皇が皇后をともなってパラオを訪問して戦没者を悼むと同時に世界平和への祈りを捧げたことや、正月の所感で、戦争の恐しさを強調し、日本人に過去の教訓に深く学ぶことを呼びかけたことなどにも、心をむけたい。