カナリアの役目

旧約聖書「創世記」において、ノアは洪水が引いたかどうかを確かめるために、鳩を放った。
食べ物があれば、鳩は箱舟に戻ってこない。すなわち、水が引いて地表が露れたということだ。
そしてノアは、新しい大地に新たな一歩を踏み出した。
空には虹がかかっていて、新たな門出を祝っているかのようだ。
鳩が「平和の象徴」となったのは、この聖書の「ノアの洪水」に由来する。また鳩は歴史的に「伝書」の役割を果たした。
カナリアという鳥も、放った後に戻ってくるかが大きな意味をもつ鳥である。
昔、炭鉱では、坑道内部の危険を知るために、まずカナリアを放った。
炭鉱にガスが充満していればカナリアは帰ってこない。しかし、ガスが抜けていればカナリアは生きて帰ってくる。 つまり、カナリアは、先に「死」をもって人間に危険を告げた。
日本は、世界で初めてその「死臭」を嗅いだカナリアのような役割を果たしたことに気がつく。
HIROSIMA、NAGASAKI、MINAMATAの名が、すでに人々の記憶に刻まれている。
また、霞ヶ関で起きた日本のカルト集団による「地下鉄サリン事件」も、世界に類例がなく、KASUMIGASEKIも、そのひとつに入れることができよう。
FUKUSHIMAは、日々増え続ける放射能汚染水処理という前例のない課題をつきつけられている点で、スリーマイルやチェルノブイリとは異なる意義をもつ。
さらに日本で、人口の「逆ピラミッド」化という異様な形状変化が起きつつある。
世界が注目するのは、戦争や内乱が起きてイナイ平和な国における「急速な」人口減であり、各国は、こうした「ジャパン・シンドローム」を見守っている。
人に幸をもたらすハズの「医療」の発達も、この「逆ピラミッド」を頭に描くかぎりでは、「幸」とばかりは言い切れない。
また勤労世代が激減して「税収」は期待できず、社会保障費は伸び続けるバカリとなると、借金を返すために借金を繰り返すこととなり、財政破綻の危機は高まり、実際に日本の国債の格付けは段階的に下がり続けている。
ドイツは、かつて「病人」といわれる時代もあったが、憲法で借金を禁止し、失業保険削減、年金削減、など「身を切る」政策で、赤字財政を克服し、EUの優等生となった。
日本が、これから、どのような「社会設計」を行うかカナリア的な役割を果たすことになる。
さて1980年代に、経団連会長・土光敏夫会長が日本社会を「パンとサーカス」で滅びたローマ帝国の崩壊とを重ねた論文「日本の自殺」(グループ1984)に注目し、政治家や財界人に配った。
「パン」とは、属州やら植民市から、大量の食糧がとどけられる。ローマの皇帝達は「人気取り」のためにそれらを無料配布し、国家の「祭り」や「記念日」をドンドン増やしていった。
そういう祝日祭日に市民は「サーカス」を見て楽しむことができる。
カラカラ帝の造った「カラカラ浴場」が世界遺産となっているが、皇帝たちは己の名を冠した浴場を競うように立てた。
つまり、ローマ市内至る所にある公衆浴場は、皇帝の「バラマキ人気取り」政策のシンボルといってよい。
また「サーカス」は曲芸ではなく、 血なまぐさい「見せ物」であった。
それは、「剣奴」といわれる奴隷達に、相手を倒すまで戦わせるという「見世物」であり、刺激を求めるローマ市民にとってこの上ない楽しみであった。
そしてその為には「剣奴養成所」もつくられ、こういう見世物の「現場」こそが、イタリア最大の観光地・コロッセウムであり、収容人員は5万人にも達した。
ローマの金持ちはたくさん奴隷を使っていた。一般市民でさえ、町に出る時は最低二人はお付きの奴隷を連れていく。
ローマ市民は、広大な領土と奴隷によって次第に働かなくなり、政治家のところに行っては「パンよこせ、食料をよこせ」と要求するが、「大衆迎合的」な政治家はソレに応え続けたのである。
つまりローマ市民は、見るもの、食べるものにも、「刺激」を求めつづけたわけだ。
その結果、イタリア映画「サテリコン」にみるように、太った人間バカリになったのではなかろうか。
日本でも、バブル期までに身についた生き方は、財政赤字と大いに関係している。
そしてローマでは、「子捨て」が横行していたのである。だから「出生率」が低下したといっても、見かけ上の「出生率の低下」にすぎない。
五賢帝の二番目のトラヤヌス帝の時がローマ帝国の領土が最大となった。
それ以後ローマ帝国は、新しい征服地がなくなり、「戦争捕虜」も激減した。
それで奴隷の数が激減するかと思えば、意外にも奴隷の数は減らなかった。
理由は「子捨て」の増加のためであると推測される。
ローマには、「乳の出る円柱」とよばれる「捨て子」の名所があり、こうした捨て子を集めてまわる業者さえもいた。
こうした業者が捨て子を奴隷として育てて売り、これが奴隷の新たな「供給源」となったのである。
またローマは帝国の崩壊のもうひとの原因に、インフラの崩壊があげられる。ローマは隅々まで道路や設備をつくったが、帝国の衰退とともにそれらを瓦解にまかせ、水道管として使われた鉛管から、水中へ溶け出した「鉛イオン」が、市民たちの体内に長年蓄積した結果、市民の「健康被害」が広まり帝国衰退の原因となったといわれている。
日本でも、トンネルの天井落下や水道管破裂事故がおき、道路や上下水道、公共施設の老朽化が進み、インフラ改修に相当な予算が必要となる。
国交省の試算によると、2060年度までに約190兆円が必要となると試算している。

山あり 谷あり 神様あり。人も動物も、生者も死者も境なし。日本人は、もともと国土そのものを「神殿」と意識した信心深い人々であったように思う。
素材を生かし四季をおりこんだ日本料理は世界文化遺産となったが、そんな自然信仰と無関係ではない。
しかしその神殿たる国土が、原子爆弾の放射能で汚され、河川が水銀で汚され、地下鉄がサリンで汚され、そして原発でふたたびの放射能で汚された。
こうした異常物質の汚染が、清らかで明澄なものを愛する日本人の心をいたく傷つけてきた。
一方で、豊かな自然に育まれた日本人の伝統の智恵や感性が、「世界的な課題」に応えうるものであることが明らかになりつつある。
さて「ローマの物語」といえば近年、「テルマエ・ロマエ」が大ヒットした。タイムスリップしたローマ人の浴場デザイナーが、日本の銭湯文化に様々な「発見」し、それを自分の設計に生かそうとする物語だ。
そして今、日本の伝統の上にたつ「スーパー銭湯」が中国で人気となっている。
中国の家庭ではシャワーだけの浴室が一般的で、入浴施設も多くは水質や衛生面に問題がある。
そこで、日本から進出したスーパー銭湯のきれいなお湯の湯船にゆったりつかれるため人気になっている。
日本円にして大人2000円と少々高額にも関わらず、家族連れで楽しめるレジャー施設が少ないためか、上海のレジャー施設の中でナンバーワンの評判を得ているという。
水といえば、アジアの国々では、日本人には考えられないような汚れた河川の水を飲料水や料理に使っていおり、下痢が原因で死亡する乳幼児も多い。
そこで長年水質汚濁に取り組んできた福岡県北九州市の「水質浄化技術」は、ベトナムを中心にアジア圏に技術移転されれ、多くの人々に感謝されている。
そして、その「水質浄化技術」の基本に日本の和食に生かされる「納豆菌」があることは、あまり知られていない。
大阪にある小さな世界企業は、納豆のねばねば成分(ポリグルタミン酸)から独自に開発した「水質浄化剤」を低価格で販売し、世界の開発途上国の人々に貴重な飲み水を提供している。
この浄化剤で濁った水が入ったビーカーに一さじの粉を入れてかき混ぜると、あっという間に汚れが固まり、それが沈殿すると、きれいなうわ水が残った。
この浄化剤は、水中の汚れや重金属類などの毒物を短時間で「凝集」させ、「フロック」と呼ばれる微細粒子の集合体に変える魔法の粉で、工場の排水処理用として、自動車や製鉄業界などで幅広く利用されている。
海外からの注文も多く、現在、40か国に出荷しているという。
さらにこの会社は、ポリグルタミン酸に「磁性体」をもたせた凝集剤も発売している。
「フロック」が磁性をもつので、電磁石などを併用すれば、汚濁物質を引き寄せて回収することが可能となる。
東京工業大学の研究では、この「磁性体凝集剤」が、放射性物質であるセシウムをほぼ100%除去できることを明らかにした。
ウクライナ政府はこの「凝集剤」に関心を抱いており、この会社がチェルノブイリ原発事故現場から流れ出したストロンチウムなどの除去に協力していくことが決まっている。
納豆成分が、放射能汚染水の処理に一役買うとは、驚きである。
この会社の技術を福島第一原発の汚水浄化でこの技術を使用する話も進んでいたが、ナゼカその後頓挫し、何の音沙汰もなくなってしまったという。
この会社の創業者である会長は、この悲惨な状況を救える中小企業が多くあるのに、なぜオールジャパンで「国難」に取り組もうとしないのか憤慨している。

紙つまり「ペーパー」の語源は、古代エジプトに繁茂していた葦であるパピルスであり、植物性の繊維でつくられたものが始まりである。
紙はすぐに破れるものあったのだが、7世紀の初め中国から日本に伝えられた紙の製法は、日本ではまもなくその製法や材料が大きく変わり、畳んだり広げたりしても破れない、柔軟で美しい紙が作られるようになった。
そして、日本人が折ったり曲げたりすることに耐性をもつ「和紙」を作りだしたことは、日本に「折り紙」という文化を生み出すこととなった。
日本で「折り紙」がいつごろから作られるようになったのかは正確にはわからないが、手紙を折り畳んだり、紙で物を包むときに折ったりするようなことは古くから行われていた。
それらが武家社会で発達して様式的に整えられ、実用的また礼法的な折り紙の文化を生み出した。
「鶴」や「舟」など、具体的な物の形に見立てて折るものを遊技折り紙と言う。
それらはもともと、病気や不幸などを人間に代わって背負ってくれるようにと、江戸時代に入ったころからはじまったものだという。
元禄の頃より折り鶴や数種類の舟などの折り紙が衣装の模様として流行し、さかんに浮世絵などにも描かれるようになった。
ヨーロッパでも、12世紀に製紙法が伝えられて、やがて独自に「折り紙」が生み出されているが、日本ほど広く厚い「折り紙」文化の層を持っていた国は他にはない。
必ず正方形の紙を用い、のりやハサミも決して使わない。非常に制約された技法の中で美を競う折り紙こそ、まさに諸外国にない日本文化のオリジナリティーの象徴といってもよい。
さらに、和の伝統に「折方」(おりかた)というものがある。「折方」は、物を包む紙の「折り方」の作法なのである。
そして、日本人の意識の中から生み出された「折る」伝統は、今や現代の最先端のテクノロジーの中にも生かされている。
和の伝統でもある「折り紙」に対しては、様々な数学的研究が行われている。
折紙に関わる数学的探求活動を折り紙による作品づくりと区別するため、数学者の芳賀和夫が、1994年の第2回折り紙の科学国際会議において世界共通語である折り紙 (Origami) に学術・技術を表す語尾 (-isc) を合わせて「オリガミクス」という名称を提唱し一時注目された。
Computational Origami(計算折り紙)といわれる分野で、欲しい形を折るためには、どのような折り線を入れればいいのかをコンピューターで研究する研究分野である。
1980年代から研究が始まり、日本からも多くの優れたソフトが生まれている。
古くから関心をもたれる分野は、作品を傷めることなく折紙作品を平らに折り畳むことができるかどうかと、紙を折ることで、数学の方程式を解くことができるかどうかなどである。
そうした中でも「剛体折り紙」という分野で、「たたむ」伝統と最先端技術を合わせたものの中に「ミウラ折り」というものがある。
たかが「折りたたみ」の技と軽くみてはならない。「つづら折り」など、「折り方」にも特有の美意識があるし、後述するように「宇宙装備」にも応用されている。
また、1970年に東京大学宇宙航空研究所の三浦公亮(現東大名誉教授)が考案した折り畳み方「ミウラ折り」では、対角線部分を持って左右に引っ張ると一瞬にして広がり、たたむのも簡単。
そこから、強度をあげる吉村パターン、NASAが研究している折り畳んだ状態の約10倍(直径)になる太陽電池パネル。人工衛星の大きなソーラー・パネル配列を効果的に折り畳み、展開するなどといった応用がなされている。
また東大の助教授が「折り紙」を応用したシェルターを作った。 普段は平らな状態で保管するが、折りたたむことで強度が増し、被災地などでの活用が見込まれる。
また北海道大学の助教授は、人工血管のステントの試作品を創った。
いわゆる「なまこ折り」という折り方を応用して、金属製のステントグラフを開発した。 折り畳んだ状態で狭くなった血管内に入れると、自動的に開いて血管を広げる。
ステントを動脈硬化などで狭くなった血管にいれると、血液の中で直径1.7倍、長さは1.4倍に広がり、中を血液が流れる。
さらにこの助教授は、より細いステントを作ろうと「細胞折り紙」の研究を始めた。
一辺50マイクロメートルの正方形プレートをいくつも並べ、その上で細胞を培養すると、プレートにまたがるように成長した細胞内の引っ張る力が働き、折り紙を折るような立体的な構造ができる。
さらに研究を進めれば、平面で培養した細胞が臓器のような立体構造を作ることができ、血管など中が空洞の臓器を作る再生医療への応用が期待されるという。
日本の伝統が育んだ「オリガミ」だが、アメリカでは「オリガミ」の応用はさらにすすんでいる。
マサチューセッツ工科大学の33歳の教授が科学雑誌に掲載したものによれば、オリガミは100度の熱で収縮する形状記憶ポリマーのシートで作られた。
折りたたまれていたシートが、内蔵の電子回路の熱で縮むと体になり、約4分で昆虫のロボットのように組み上がり、秒速5分で歩き始める。
人の手を借りずに立体的に組み立てられるため、災害で狭い場所に閉じ込められた人の救助や危険な現場での復興作業などえの活用が期待される。
映画「トランスフォーマー」を思わせるハイテク・オリガミである。
さて、優れたデジタルコンテンツばかりが、「クールジャパン」とよばれるのは寂しいかぎりである。
グローバル化は、アメリカナイゼーションとばかり思い込みがちだが、最近、日本を発信する「好機」となっていることに気づかされる。
「課題先進国」ともいわれる日本の役目は、自ら死して危険を伝えるより、その伝統や智恵が危機を克服するのに有効であることを世界に示すことだ。