宣教師の子

宣教師の子でもなければ、外国で生まれるはずはなかった。そして宣教師の子として生まれたばかりに、想像を絶する運命に投げ込まれる人もいる。
その中でも、カナダ人宣教師の息子として日本で生まれたハーバート・ノーマンほど激しく、その過酷な運命の只中に巻き込まれた人はいない。
1957年4月4日、カナダ人外交官ハーバート・ノーマンがエジプト・カイロのビルから飛び降り、命を絶った。
その時点から時間を原点まで逆回しすると、ハーバートが生まれ育った長野の涼やかな山中には、彼が遭遇する運命を暗示する一片の翳りも、見出すことはできないように思われた。
長野県・軽井沢町の中心部には、「ノーマン・レーン」と呼ばれる数百メートルの小径がある。
近くの別荘にいた宣教師・ダニエル・ノーマンにちなんで名づけられた道で、人々は彼を「ノルマンさん」の愛称で親しんだ。
ノーマンは、近くの農家を訪れると、大根や菜っ葉の漬物を手に番茶をおいしそうにすすって、日本農民に成りきった様子であったという。
ノーマンには、妻キャサリン、長男ハワード、長女グレース、次男ハーバートと3人の子がいた。
そして日米関係の悪化とともに家族は本国カナダへ帰国するが、ダニエル自身太平洋戦争勃発「真珠湾攻撃」を知ることなく他界している。
ところが1950年代、「ノルマンさん」の次男ハーバートは、日本語ができたこともあって外交官となるが、北米で吹きあれたマッカーシズムの「標的」となる。
ソ連のスパイ、共産主義者の疑いをかけられ尋問を受けていた。
それは米ソニ大国の激しい覇権競争を背景としており、アメリカ政府もカナダ政府も、自分に対する追求を緩めることはないと、前途を悲観したと思われる。
ハーバートが自殺直前まで日本映画「修善寺物語」を見ていて、何かを啓示を受けたと語った後に、謎の自殺をとげた。
しかし1990年、カナダの公文書は、「ノーマン・ソ連スパイ説」には一片の証拠もないと断定し、名誉回復が行われた。
公文書は、ノーマンはケンブリッジやハーバードでの学生時代にコミュニズムへの同調者であったものの、知的成熟とともに共産主義から離れ、39年カナダ外務省入省以来、国家への忠誠に疑わしさを抱かせるような点は一切みあたらないと結論づけたのである。
公文書は、一度クロとみなされた人物を、国家や社会どれほどの容赦なく悪意が取り囲むかを示していると同時に、「マッカーシズム(赤狩り)」というものが、いかに狂気じみたものものであったかを明らかにする結果となった。
それを如実に示すのが「偽の遺書」で、公文書は、スパイとしてのやましさを抱えて死ぬと思わせるような心情をつづった遺書は、何者かによる偽者だと断定している。
さてハーバート・ノーマンという人物は、ハーバード大学における都留重人らの交流ばかりではなく多くの日本人の知識人と交流を もっている。
それはハーバートが、日本で幼少期を過ごしたことが最大の理由だが、交友のあった丸山真男は、ハーバートを「歴史の幹線から離れた入り組んだ路地や、そこに人知れず咲く野草にも似た雑録に関心を向けた」と振り返っている。
その代表が江戸時代の「忘れられた思想家」安藤昌益の思想の意義を解明し、安藤を封建制度への初めての根本的な批判者と位置づけたことが一番の功績であろう。
ちなみに宣教師として来日した父・ダニエル・ノーマンの足跡を、「ダニエル・ノーマン記念学園軽井沢幼稚園」などの名前に、いまだに見出すことができる。

1960年代前半に駐日大使を勤めたエドウィン・ライシャワーも、宣教師の子どもとして日本で育っている。
宣教師の父オーガスト・カール・ライシャワーは、日露戦争終結直後の1905年、妻とともにキリスト教の宣教を目的として来日した。
その5年後にエドウィン・ライシャワーは誕生した。
日本で生まれたライシャワーは、16歳まで日本のアメリカン・スクールに学ぶことになる。
箸を自由に操り、パンよりごはんを三度の食事に好む少年として、「日本を発見する必要がなかった」と自ら述べている。
つまり日本的なことで不思議に見えたり、異国風に感じられるものは一つもなかったということである。
ただアメリカ人家族の中にいたということは、自然と物事を二つの角度から見る癖が付いてしまったことを意味する。
16歳でオハイオ州のオーバリン大学に入学するために渡米し、オーバリン大学を卒業後、ハーバードの大学院で東アジアを研究することになった。
そこを卒業しても職にありつけるという保証はなかったが、皮肉にも戦争という悲劇が、東アジア及び日本研究の必要性をアメリカにおいて高めることになった。
アメリカは日本という敵を倒すために、ライシャワーを必要とし、戦後の日米関係改善のためにもライシャワーを必要とした。
ライシャワー一家は西洋優越主義からから免れた稀有の一家であり、こうした環境で過ごしたライシャワーは、日米の「架け橋」となるよう運命付けられていたといってよい。
ライシャワーは、「ふつうの日本人」に対する信頼を失うこともなかったといわれている。
日米間に大きな亀裂を残した安保闘争直後の1960年夏、日本を訪れたライシャワーは、「損なわれた対話」と題した論文を外交専門雑誌に発表し、この論文が当時就任して間もないジョン・F・ケネディ政権の国務次官の補佐官の目にとまり、「駐日大使」への就任要請へとつながった。
ところで、ライシャワーの両親は、宣教そのものより、教育の面で果たした功績の方が大きい
そのひとつが1918年には、新渡戸稲造などの協力を得て、東京女子大学の創設に成功し、母のヘレンも1920年に日本聾話学校の開設を行った。
娘(ライシャワーの妹)が聾唖者であったため、聾教育に関心を持ったためであるが、これが日本最初の聾話学校となった。
ラオシャワーは、最愛の妻を病で亡くしているが、日本女性ハルと再婚し、1961年に彼女を伴いながら「駐日大使」として日本に赴任している。
ところでライシャワーの伴侶・ハル夫人は、明治の元勲・松方正義の孫で、アメリカンスクール・イン・ジャパンの後輩である。
しかし、夫人をライシャワー大使の陰でひっそり咲いた「大和撫子」などと評するのは、ソノ真実を伝えていない。
夫人は、その英語力と情報力においてライシャワーにひけをとらず、二人が真っ向からディベートの火花を散らし、お互いに一歩も譲らないほどのものだったという。
子どもは父ライシャワーについて、自己の教えと、書いていることが論理的で正確であり、実際に起きることによって正当化されるという確信はゆるがなかったと書いている。
そうしたライシャワーを負かすほどの日本人論客は、ハル夫人以外にはおらず、ライシャワーを育てたのはハル夫人だったのかもしれない。
ライシャワーは、駐日大使在任中にほぼすべての都道府県を訪問し、妻のハルも女性団体やその他各種団体などの会合に積極的に出席するなど、市民との接触も積極的に行い、その活動は数多くのマスコミで大きく報道された。
ところが1964年3月24日、日米両国民にとって衝撃的な事件が起こった。ライシャワーが日本人の暴漢に襲われたのである。犯人は政治的動機の全くない精神障害者であった。
大量の輸血によって一命を取り留めたものの、大量の輸血後、ライシャワーは「日本人からたくさんの血をもらったから、これで本当の日米混血になった気がする」と語り、周囲を笑わせた。
しかし、この輸血が原因で生涯肝炎で苦しむことになる。
日米関係を配慮してか、1年間は大使を辞任することなく、かろうじて東京に留まる。
大使を辞任して帰国後、ハーバード大学教授に帰任し、1973年にハーバード大学日本研究所所長に就任し、極東問題の専門家として歴代政権やキッシンジャーやブレジンスキーなどの外交関係者に対し助言を行っている。
そしてライシャワーは1990年9月、80歳の誕生日を迎える前に亡くなった。ちょうど日本の「バブル経済」がハジケはじめた時期で、その結果生じた「失われた10年」を目撃することはなかった。
最後の数ヵ月は、カリフォルニア州ラホーヤで、妻と子供や孫たちに囲まれて過ごしたが、日本をまたしても敵対的で、脅威であり、不思議で、理解不能と描く批判者たちが一見、力を得ているのを嘆いたという。
ライシャワーは葬儀も、花も、宗教的儀式もいっさい望まなかった。彼の望みどうりに、家族は太平洋に近い丘に集まり、小型機が上空を舞い、彼が愛した二つの国をむすぶ青い海に灰をまくのを見守った。

パール・バックといえば小説「大地」。中国を舞台に描いた世界は、他の自伝的作品とともにノーベル文学賞をもたらした。
彼女もまた、宣教師の子どもとして中国で大半をすごしている。そして、日本にも足跡を残している。
1892年6月、パール・バックはアメリカ、ウエスト・バージニア州のヒルズボロで生まれた。
両親は熱心なクリスチャンで、宣教師として中国へ赴いていたが、母は出産のため一時里帰りして娘のパールを生んでいる。
パール・バックは、父親が宣教の地を中国ではなく、日本を選んでいたらどうだったか、この才女は何をえがいただろうか。
そんなことを思うのも、格好の材料があるからだ。
女流作家の円地文子の小説「女坂」をたまたま読んでいて、ハタと思った。これはパールバックの「大地」の焼き直しだと。
そしてパールバック「大地」の訳者をあらためて確認すると、円地文子という名を見出したのである。
パールの「大地」も円地の「女坂」も、社会の中で女性がおかれた「忍従」の姿を描いたという点で共通しているからだ。
日本の明治という時代、つまり成功した男が何人も妾を囲って生きている社会に舞台を置き換えている。ちなみに、女性が生きるにつらい長い道のりを円地文子は「女坂」と表現している。
パールの父親は、1880年に中国の杭州に上陸してから、1931年に南京で亡くなるまで、50年間を中国でキリスト教宣教師として活動している。
この父を子供の頃には崇拝していたパールだが、成長するにつれて父を批判的な目で眺めるようになる。
父親アブサロムは、少年の頃家族から愛されていないという劣等感を埋めるために、何か人とは違った英雄的な生涯を送らねばならないと考えるようになったらしく、中国に渡って異教徒を救うことだったのである。
パールの父を含む宣教師たちが、いわれのない優越感をもって中国人に臨むときに、中国人の方でも宣教師への反感から、いろいろなデマを飛ばしていたという。
こんな状態だったから、アブサロムの努力にもかかわらず、成果はほとんどあがらなかったのだが、これは当時、中国にいた千人以上の宣教師にしても同じような状況だったという。
父に対するパール・バックの批判は、そのいわれのない民族的な優越感に対してだけではなく、聖書の記述を文字通りに解釈する点、教会が福祉活動に参加すること反対した点などであった。
つまり父は、古いキリスト教的信念を片意地に守り、キリスト教の新しい潮流を受け入れず、宣教師仲間の間で浮いたばかりか、家族の間でも孤立していたという。
母親のケアリーは信仰心が厚く、海外布教を自分の使命と感じて夫と共に中国に渡ったのだが、結核を病んでいて病弱だった。
そのために彼女自身マラリアや赤痢にかかり、生まれて来た子供も長男を除いて三人が相次いで死ぬという不幸に見舞われていた。
パール・バックは、この夭折した三人の子供の後に生まれた女児だったのである。
理想に燃えて中国にやってきたケアリーも、夫が自分に冷淡なばかりでなく子供の死に対しても感情を動かそうとしないのを見て、次第に夫を憎むようになった。
そしてパールが見た世界とは、男尊女卑はもちろんのこと、一夫多妻(妾に掠奪婚)、幼児の間引き殺人、纏足、女に教育を施さない世界であった。
当時の中国では、実に多くの女性が、夫や親類の女性たちの酷い仕打ちのために自殺していたのだ。
衝撃的だったことは、縊死しようとした女性の口をふさぐ人々がいた。女性の息がほとんど身体から出てしまったので、女性の中にまだ残っている息を閉じ込めておくためだという。
パールは、この事件を家族に知らせた手紙で、「これらの人々の無知や迷信には全く際限がありません」と書いている。
こうした体験に接するたびに、パールは虐げられている女性のために何かを書かねばならないという気持ちを強くしたのだった。
1900年には義和団事件が勃発する。残酷な暴動で被害を受けたり、殺されたりした外国人が沢山いたのだ。
パール一家は暴動を避けるべく上海に向かい、そこからアメリカへ戻ったのである。
成長したパールは米国のランドルフ・メイコン大学に入った。成績は良かったが、中国育ちのパールは同級生の女子学生に馴染めない。しかも、彼女の服や髪型は時代遅れで、同級生から哀れみを受ける始末。
同級生から浮いていたパールは、孤立感をひしひしと感じていた。
そんなパールもロッシング・バックという青年と巡り逢い幸せな結婚ができたかに思えた。
農業経済学を専攻するロッシングは、やがて南京大学の教授に就任する。
しかし、パールの目から見ると彼は父親のアブサロムにそっくりだった。
父が伝道に熱中して家庭を顧みなかったように、夫は学究的な生活に没頭して家のことには全く無関心だった。
そして父が妻は現状に満足していると信じ切っていたように、夫もパールが教授の妻という立場に満足しているものと思いこんでいた。
さて、彼女は次第に結婚相手に失望し、知的障害児のキャロルを二人の間に残して破綻することになる。
また、キャロルの生まれた翌年に、母のケアリーも亡くなる。
しかし彼女の心の奥深さは、 知的障害児の娘キャロルの存在と母親としての自身の体験があった。
「大地」には主人公、王龍(ワンロン)の娘として一人の智恵遅れの娘が登場する。
娘は常に家族の悩みの種になり、足手纏いになるが、しかしその母、阿蘭(アーラン)や家族はつねに娘のそばに寄り添い、暖かく見守ってゆく。
また激動の時代にあっても、この娘の存在だけは変わることがなく、慰めと安らぎを与える。
ところで「大地」は逞しく大地に立つ母親の姿はそれ自体がテーマであり、パールは自身の夢と理想、そしてさまざまな思いをこの阿蘭に託し、投影させた。
「大地」は1930年南京において執筆され、1931年に出版された。
ある評論家は、初期のころの未熟で幼稚な作風にくらべると、飛躍的に成長し「大地」という作品が突然あらわれたと言う。
理由はただ一つ。キャロルを育てた10年間が彼女の心を「耕し」たということだ。
この作品には彼女の決意がみなぎっており、キャロルの存在なしに「大地」という作品はありえなかったともいえる。
さて1926年から27年にかけて、蔣介石率いる国民党の北伐が始まり、その部隊は広東から杭州、武漢へと進み、南京を巡る攻防となった。
百人を超える外国人はアメリカの駆逐艦に乗せられ、駆逐艦は西洋人難民を乗せて上海へ向かった。そしてパール一家は上海を出て、日本の長崎に近い雲仙へと旅立った。
パールは雲仙の景色を「世界一美しい海岸線」から松の木や山々がそびえ立ち、その組み合わせが絵のように美しかった表現している。
日本は効率的で近代化が進んでおり、南京よりもずっと暮らしやすかったにちがいない。しかし、パールは中国に対する義務感の方が強く、中国に愛情を感じていたのである。
パールは何より、大地にしっかりと根をおろした大木のような家族を夢見ていたに違いないが、パールが日本滞在でもっとも興味を示したのは、やはり「家族制度」だった。
1960年に再来日したパールは、「家族という考え方は一種の国父である天皇から盗人の頭まであらゆる組織にあります」「大会社は封建領主が置き換わったようなものです」と書いた。
さらには「日本では、少なくとも、誰かと一緒にいるということでは若者も老人も一人として孤立していません。誕生から死まで家族に囲まれているからです」と。