聖地擾乱

4月30日、ポールマッカートニーが来日し、日本武道館で49年ぶりのコンサートがあった。
ポールが「ヘイジュード」を歌ったその翌日、日本武道館で全日本柔道選手権があった。「ヘイジュード」と、柔道とは何の関係もないが。
ただこの流れは、1966年6月のビートルズ初公演における、「日本武道館」という会場をめぐるひと騒動を思い出させた。
同年5月22日にTBSテレビで報道された「時事放談」の中で、細川隆元氏が「ビートルズを日本文化の象徴たる日本武道館で興業させるとはなにごとだ」と発言した。
この番組を観た当時の佐藤栄作首相が「ビートルズに武道館を使わせるのは問題だ」と側近にもらし、その発言が、読売新聞の社主であり、当時の「日本武道館館長」でもあった正力松太郎氏の耳に入った。
それを受けて正力氏は「ビートルズのような武道の精神に反するものには武道館を使わせない」と発言し、これにマスコミが飛びつき、テレビ・週刊誌・新聞で、続々と特集が組まれた。
今では信じられない話だが、日本武道館には、当時、日本文化の聖地という意識があったのだろう。
ちなみに正力氏は日本武道館の替わりに「後楽園球場か読売ランドを使えばいい」と言っていたらしい。
そして、この騒動のあと、ビートルズの日本公演のプロモートを頼まれていた人物が正力氏と会見をもち、「ビートルズに会場の変更を断られた」ことにして、あっさりケリがついた。
しかし、それでも、マスコミのヒステリックな騒ぎは収まらなかった。
ついには右翼までが登場し、電柱などにベタベタ貼られた。
そのビラには「青少年を不良化するビートルズを日本から叩き出せ/日本武道館をビートルズなどに汚されるな」と書かれていた。

終戦まもないGHQが日本に駐留していた時代、日本社会を震撼させた「帝銀事件」が起きたのは東京池袋の西南に位置する椎名町(旧長崎町)である。
日本帝国銀行椎名町支店は今は存在しないが、西武池袋線の椎名町駅から歩いて10分の「長崎神社」に直接面した場所にあり、今はマンションが建っている。
当時の犯人もこの「鎮守の森」で何らかの下準備をしたに違いないと想像できる。
東京なのにナゼ「長崎」という地名なのかと調べると、鎌倉時代の北条氏の筆頭家臣で執事の家柄であった長崎氏(平氏)の所領があったからだ。
、 1948年1月26日の15時過ぎ、すでに帝国銀行・椎名町支店は扉を閉め、中では行員たちが閉店処理に追われていた。
この時、一人の男が勝手口より入ってきた。
男は40~50代のように見える。コートには「防毒消毒員」と書かれ、東京都のマークが入った赤い腕章を左腕につけていた。
男は行員に「支店長はと問い」名刺を差し出した。名刺には「東京都 衛生課」と記載されていた。
男は、この近隣で4名の集団赤痢が発生したと話し始め、赤痢の発生した家を調べると、感染者の一人が今日、この銀行に来ていることが分かったと答えた。
後からGHQの中尉が消毒班と共にここへ来ることになっているため、その消毒をする前に予防薬を飲んでもらいたいと、男は金属製のケースから液体の薬らしきものを取り出した。
この薬をこれから飲むということを察して、行員の一人が人数分の湯飲みを用意して持って来た。
この時銀行内にいたのは、行員14人と行員の家族が2人の、合計16人だった。
男は飲み方を教えますからと、最初の薬を飲んだ後、1分くらいしてから2番目の薬を飲むよう指示した。
男は、スポイトで薬の量を計って、16人分の湯飲みに分配した。
そして男が実際に飲んだことで、行員たちは完全に男の言うことを信用し、16人が一斉に薬を飲んだ。
しかし、まるで強い酒を飲んだ時のように行員たちはノドや胃が急に熱くなり始め全員が一斉に洗面所や風呂場に駆けよった。そして次々とうずくまり、16人全員が苦痛にノタウチマワリ始めた。
気がつくと男の姿はすでに銀行内にはなく、1人の女性行員が、時々意識を失いながらも必死に床を這い、勝手口から外に出て助けを求めた。
外に出るとたまたま女子学生が通りかかっていたので、彼女たちに事情を告げて警察を呼んでもらい、事件が発覚した。すぐに警察も救急車も来たが、最初は銀行内の食中毒と誰もが思っていたので、大した事件とは思われていなかった。
しかし16人のうち10人は銀行内ですでに死亡しており、救急車で病院に運ばれた6人も、その内の2人が病院で死亡した。
結局生存者は4人、死亡者が12人という大惨事となった。
この事件の容疑者として平沢貞通というひとりの画家が逮捕された。
画壇の一角をしめる実力派画家であったが、過去に銀行相手の詐欺事件を4回おこしていることや、出所不明の大金とをもっていたことなどが大きな逮捕原因だった。
しかしこの画家がどうして特殊部隊さながらに「科学薬品」を手際よく使いこなして10人以上を殺害したのか、「冤罪事件」の可能性もあり歴代の法相はついに「死刑執行」の印を押さないまま、平沢は1987年、八王子医療刑務所で亡くなっている。
この帝銀事件が起きた場所(長崎神社)から歩いて15分ほどで、「さくらが丘パルテノン」につく。
この辺りには、1930年代に旧長崎町を中心にアトリエ付き住宅群が多数建てられ、画家や彫刻家、詩人といった芸術家達が、苦境の中にも、自由で旺盛な創作活動を送り「池袋モンパルナス」とよばれた。
帝銀事件の容疑者平沢がこのあたりを活動の拠点にしていたとは聞かないが、実際に歩いてみると帝銀事件の舞台とあまりにも近接しており、帝銀事件は、「聖地擾乱」の怪事件だったように思えた。
長崎アトリエ村の住宅は、赤いセメント瓦に木の壁で、北側が15畳ぐらいのアトリエになっていて、大きな窓と天窓があり、とてもモダンな家であった。
初見六蔵という富豪が「さくらが丘」のアトリエを作る時、石炭殻を敷きつめて貸アトリエをつくったのがきっかけで、ギリシャの美の神殿にあやかって「パルテノン」と名付けた。
地域ごとに「さくらが丘」「つつじが丘」「光が丘」「緑が丘」などと冠している。
その中で最も大きなものは、長崎2丁目にある「さくらが丘パルテノン」で、セツ・モードセミナーを設立する長沢節、洒落た文章を書く野見山暁治、洋画家となる麻生三郎らが、交錯するように住みこんだ場所である。
「さくらが丘パルテノン」のアトリエ住宅は第1~第3に分かれていて、合計で約60軒もあった。 さて、帝銀事件の舞台に最も近い「さくら丘パルテノン」は、今そのアトリエの痕跡を見出すことが難しいが、アトリエの在所を示す「案内板」の中に、我が地元・福岡に縁のある二人の画家の名前を見出すことができた。
寺田政明は、福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)出身の洋画家である。父は八幡製鉄につとめ、政明の実子に俳優の寺田農、元女優の寺田史がいる。
寺田が上京して最初に居を構えたのが「代々木八幡」だったのは、偶然だったのかどうかは知らない。
絵を描くきっかけととなったのは、幼き日に 蛍取りに行ったところ崖から転落し、これが原因で足が不自由になるが、入院中に医師が絵画を描いているのに興味を持ち、絵の道を志すようになる。
また野見山暁治氏は嘉穂高等学校(1938年3月卒)で、現代を代表する洋画家の一人である。
1976年に糸島市志摩の丘陵中腹にアトリエを構え、1年の約3分の1を糸島で過ごしている。
野見山はインタビューで、糸島の印象を「糸島の自然は本当に素晴らしい。姫島の近くへ陽が沈む夕焼けの光景を見ていると、地球上に自分だけがいるような充足感に浸れる。この土地で身近に触れ合う人々は、人情味に溢れ、気さくで細やかに気が利く、仕事に対しても熱心で誠実だ」と語っている。
この野見山らが若き日を送った「さくらが丘パルテノン」の位置を探すのは今や困難だが、一番分かり易い「目印」は、千早町の住宅街の中にひっそりと佇む「熊谷守一美術館」である。
というのも、数年前NHKの「新日曜美術館」という番組で、この画家のことを知り、最近ようやくその住居跡にできた美術館を訪れることができた。
テレビには熊谷守一宅の白黒写真が映し出されていて、家は平屋で、庭は生い茂った植え込みですっかり覆われていた。
とても一流画家の邸宅とは思えない簡素なたたずまいで、しかも彼は30年間、庭の草木や昆虫を友として、ほとんど家から出たことがなかったというから驚きである。
「石ころ」ひとつでもあれば、心豊かに生きていける人で、庭のいきものを観察することと、画業を深めることだけで成り立っていたのだった。
しかしこうしたシンプルライフとは裏腹に、それまでの彼の生き方は作品と同様に「破格」だったといってよい。
熊谷は、東京美術学校に学んで、青木繁と同窓だった。才能の点では青木にまさるといわれ、美術学校を首席で卒業し、文展にも入賞している。
その彼が、画家としての華やかな未来をナゲウッテ、いきなり故郷の岐阜県付知町に引っ込んでしまう。
そして、筏流しの労働を6年間続けている。
36歳の時、友人に促されて上京し、東京で画家としての生活を再開する。
画家として名声を得てからも、熊谷守一の「画学生」風の飾らない生き方は変わらなかった。
熊谷守一は、文化勲章を受けることを辞退しているが、その理由というのが、そんなものをもらったら、来客が増えて困るではないかというものだった。
こんな風だったから、彼の家族は経済的に絶えず窮地に立たされていた。熊谷守一の結婚は遅く、42歳で24歳の若い妻をめとっている。
この妻との間に5人の子供が生まれているが、そのうちの3人が病死しているのも、ひとつは貧しさからきたものだった。
彼はうまい絵を否定して、印象派の対極にあるような絵を描いている。
仲間の画家が壁面を覆うような大作を発表するときに、彼はハガキ4枚の大きさの板きれに色紙を貼り合わせたような絵を描いた。
刻苦精励の感じがせず、どこまで真面目だったか疑わせるような作品もある。
昆虫や小鳥、あるいは草花や猫を描いた彼の作品は、一見稚拙な感じの輪郭線で縁取られているが、見るものをひきつける。
結局、それら生き物たちが、長年の観察に裏付けられ、固有の相を正確に描き取られているからだ。

松本清張の小説「砂の器」は、日本神話の里「出雲」を舞台に設定している。
この小説の中の殺人事件の突破口は、「方言」だった。
殺された被害者が前夜、連れの若い男とバーで交わしたことばは、女性従業員らにはズーズー弁、東北訛りに聞こえた。
清張の父が生まれたのは鳥取県日南町。父の故郷の村に初めて向かった時、清張はある宿屋で、初老の夫婦の話し声で、出雲の言葉が東北弁に似ていることに気がついた。
それが「砂の器」の謎解きに生かされ、「カメダ」とは「亀嵩」(かめだけ)のことで、ヤマタノオロチ退治などの神話に彩られた島根県奥出雲町の山ふところだった。
山陰線の宍道と備後落合を結ぶ木次線に亀嵩駅がある。
駅から国道沿いに5キロほど行くと、733年編纂の「出雲国風土記」に記載された湯野神社があり、入り口には、樹齢400年を超す大ケヤキ、若槻慎治氏ら地元が建立した「砂の器記念碑」がある。
「早春に東北訛(なまり)の奥出雲」の句は、松本清張が揮毫(きごう)した。
この碑を建立した若槻慎治氏は、2人の弟とともに新聞に連載中の「砂の器」の方言を校正した「亀嵩算盤」(そろばん)会社の経営者である。
清張が島根を訪問するとき、決まって案内役に指名したのがこの人だった。
ちなみに亀嵩は「雲州そろばん」発祥のこの地で、当時、古代史に強い関心があった清張は、大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡(出雲市)をめぐっていた。
さて、社会の裏面を掘り返して日にさらすのが、清張作品の魅力だが、「砂の器」の登場人物の背景にあったのは「ハンセン氏」病である。
神話の里に、隔離された人々の悲劇を描いたのは、松本清張ならではの舞台設定だったかと思う。
さて「神話の里」で起こった悲劇といえば、或る汚染事件を思い起こす。
日本神話の古里・高千穂・天岩戸神社からさらに4キロほど山峡を登った山奥深くに土呂久村がある。
この村では「約半世紀」近く原因も分からぬまま多くの人が亡くなるということが続いていた。
日本でようやく公害問題が騒がれ始めた頃、土呂久村の48歳の婦人が公害報道をテレビで見て何か「胸騒ぎ」を覚え日記をつけ始めた。
そのうち不自由な目と弱った足で村人の「健康調査」を始めた。それまでは「一歩も」村の外へ出たことがなかった彼女が宮崎県人権擁護局へ訴えを起こしたのが、ハジマリといえばハジマリだった。
しかし「彼女の訴え」は一顧だにされることはなかった。そのうち一人の「新任教師」が岩戸小学校に赴任してきた。
彼は土呂久のの娘と恋に落ち結婚を考えるようになった。しかし彼女が病弱なのが気になった。
彼女の小学校時代の記録を知ろうと「指導要録」をみたところ、そこに見たものは彼女ばかりではない生徒達の「異常な欠席数」だった。 教諭は、この村には何か秘密が隠されていると思った。
そして教諭は土呂久からきている生徒を家庭訪問した時のことを思い出した。 生徒は体調不良で欠席が多かったので家庭訪問したのだが、彼が住む集落一帯が古い「廃坑」地帯であったことを思い起こした。
江戸時代にこの地域は銀山が栄えた時期があったことは聞いていた。
しかしその後は静かな山里に戻っていた。さらに土呂久の歴史を紐解くと、この山奥の村でおきたことが、実はアメリカのアラバマで起きた出来事とつながっていることがわかった。
1920年、アメリカ・アラバマの綿花地帯がゾウリムシの被害を受けていた。そしてゾウリムシ撲滅に「亜砒酸」が欠くべからざることがわかり世界的に亜砒酸の値段が上がった。
そして一人の男が、この村にやってきて廃坑になっていた銀山跡から「硫砒鉄鉱」を採掘し、土呂久川べりに亜砒酸の「焼き窯」を築いたのである。
昭和の30年代ころまで、、硫砒鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜砒酸を製造するいわゆる「亜砒焼き」が行われたいたのだ。 「亜砒酸」は農薬・殺虫剤・防虫剤・印刷インキなどに使用された。
亜砒焼きが始まると、土呂久の谷は毒煙に包まれ、川や用水路に毒水が流れ、蜜蜂や川魚が死滅し、牛が倒れ、椎茸や米がとれなくなった。
この教諭はさらに、土呂久から岩戸小学校に通ってくる生徒達の体格が他にくらべて劣っていることにも気がついた。
そして他の教諭とともに土呂久住民の「健康調査」に取り組んだのである。
そして、各家庭に配布した健康調査表が回収されるにつれて、土呂久地区の「半世紀にわたる被害」の実態が明らかになっていった。
そして1971年1月13日、岩戸小学校の教師15人の協力による被害の実態が教研集会で発表された。
1975年にようやく住民による土呂久公害訴訟が起こり、1990年にようやく和解が成立した。
認定された患者は146名、うち死者70名(1992年12月時点)を数えている。