ひきあう力

谷川俊太郎の詩に「二十億光年の孤独」がある。その後半部を抜粋すると次のとうり。
「万有引力とは、ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした」。
さて詩人のいう、宇宙は「ひずんでいる」とはどういう意味か。
アインシュタインによると、万有引力とは時空の歪みのことなのだそうだ。
ニュートンはリンゴが地球に重力によって「落ちる」ことまで説明したけれども、リンゴにその重力がドノヨウに物質に働くかまでは説明しなかった。
それをアインシュタインは、「重力によって空間が曲がるために生じた引力による」と説明した。
むずかしすぎるので、わかり易くいうと、座布団の上にリンゴを二つおいてドコカを押して窪ませると、その「窪み」に向かってリンゴは動き出しドコカでくっつく。
この座布団を「空間」と見立て、窪みを「空間の曲がり」とすれば、二つのリンゴがひとりでに「引き寄せられた」ように見える。
我々が高速で走る地球上に「時々浮くこともなく」立っていられるのも、そういうチカラの作用が起きているからなのだ。
またアインシュタインは、光は波の性格をもった「粒子」であるとした。したがって「重力」によって「曲がって」進むと考える。
そこで「皆既日食」の日に、大きな重力を持つ太陽の下で、光も曲がるとヨンダため、昼夜の星の位置が違うことを予測した。
では、なぜ「皆既日食」の日を選んだのかというと、太陽があるのに「真っ暗」になる瞬間だから、この瞬間に太陽付近の星の位置を調べるられるからだ。
それによって、昼の星の位置と夜の星の位置と異なることが観測でき、「光が重力による曲がる」ことが証明できたのである。
この予測により、アインシュタインの名前は一夜にして世に知られた。
光が天体などの重力によって曲げられ、観測者からの見え方が変わることを「重力レンズ効果」というが、これによって我々が「見ている世界」は、真実の世界から「ワープ」した世界であることが判明したのである。
つまり詩人のいうとうり、宇宙は「ひずんで」いるのだ。だから求め合うように引き合う。
次に、宇宙は「どんどん 膨らんでいる」とは、どういう意味か。
宇宙は今から137億年前に「ビッグバン」という大爆発によってつくられたという。
すべてはここから始まった。「すべて」というのは、「物質」だけではなく「空間」も「時間」までも含んでのことだ。
これらの物質は、大爆発のエネルギーによってあらゆる方向に飛び散った。宇宙に飛び散った物質は「濃い」ところもあれば、「薄い」ところもある。
濃いところでは「引力」が働き、さらに濃くなって膨大な量の「物質の塊」ができ、中心は摩擦で高熱を発し、その結果「核融合」が始まる。
さて、原子は、原子核と電子からできているが、原子核は陽子と中性子から出来ている。
原子核において、陽子と中性子を結びつける力を「結合力」という。
この「結合力」は、原子の大きさによって異なるが、水素原子のように小さな原子は「不安定」であるために、2個が「融合」してヘリウムになると「安定化」し、余分のエネルギーを「放出」する。
つまり、水素原子の塊は高温となり、「核癒合エネルギー」を光と熱として放出し、燦然と輝き出したのである。
暗黒の宇宙に「光」があらわれたのだ。これが恒星であり、我々の「太陽」である。
実は太陽は、質量をエネルギーに変ることで燃えていて、その質量欠損は一秒に50億キログラムという。
太陽は徐々に軽くなっているわけだが、太陽から飛んでくるニュートリノは、そこで「核融合反応」つまり質量がエネルギーに転換されていることを如実に物語っている。
さて、我々の目に見える星々の質量は、すべて足し合わせても宇宙の全エネルギーの0.5パーセントにしかならず、ニュートリノを加えてもたった1パーセントにしかならない。
さらに星やガスや粒子をすべて集めても、全エネルギーの4.4パーセントにしかならない。
そして2003年に、全宇宙の96パーセントが「原子」以外のものでできていることが判って、科学界に衝撃を与えた。
それでは原子ではない96パーセントとは何なのか。
「正体」はわかっていないものの、ソコニ「在る」事だけはハッキリしていているので、名前もそれらしく「暗黒物質」と名づけた。
しかし、宇宙はスデニわかっている原子4.4パーセントに、この「暗黒物質」を加えても23パーセントにしかならない。
それでは残りの73パーセントは何なのか。
それは、もっと得体の知れない「暗黒エネルギー」というもので、宇宙の膨張をどんどん「加速化」させているものの正体である。
普通、空間が広がっていけば物質の密度は薄くなるのだが、気味の悪いことに、この暗黒エネルギーの密度はどんなに空間が広がっても薄くはならない。
当時の計算によると、宇宙の大きさは20億光年。そう考えると詩人と同様に、くしゃみがでそうになる。
暗黒エネルギーは、宇宙全体の原子の約5倍もあり、その「重力」なくして太陽系は天の川銀河にとどまれないほどのものだという。
ということは暗黒エネルギーなくして、太陽系自体が存在せず、従って人間も存在しえなかったのである。
つまり我々は、得体の知れない「暗黒なもの」によって支えられているのだ。
さて、聖書は次の言葉で始まる。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。"光あれ"こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である」。
神が「光」と「闇」とを「分けられた」という言葉に注目したい。
「闇」は、光の裏面として生じたのではなく、「光」と等価なものとして「在る」ということなのだ。

詩人が「二十億光年の孤独」のなかで語った「ひきあう力」とは、何なのか。
カール・セーガンのベストセラーを映画化した「コンタクト」(1997年)は、地球外知的生命体と人類との「接触」を描いた。
ジョディ・フォスター主演の娯楽作品を超えたシリアスなSF映画だった。
もしも地球外知的生命体とのコンタクトが可能になった時、人は、政治は、メディアはどう反応するのか。
そんなシミュレーションを徹底的に行ったドラマ。
この作品が一段深いのは、母を父を幼くして失った少女が、神を信じることなく成長し、遂に地球外の存在と触れ合った時、どう変わったのかというテーマ。
何も無神論者が宗教家に転ずるという話ではないが、とても実存的な内容の映画だった。
実は、主人公エリーが演じた執念の電波天文学者「エリー・アロウェイ」にはモデルとなった女性がいる。
ジル・ターターという実在の人物で、そのことはセーガン自身が言及している。
そして映画「コンタクト」でエリーが繰り返し言うセリフ。それが「こんなに広い宇宙に私たちだけじゃ空間がもったいない」。
さて、周知のとうりすべての物質は「原子の集まり」である。
原子が最小限の単位つまり「素粒子」かと思われていたが、「原子核」の発見で原子はさらに「分割」することができることがわかった。
さらに「原子核」の周りを、電子がクルクルと回っていることがわかった。
原子の大きさを野球場とすれば、原子核は「ボール1個」分ぐらいの大きさである。
だから原子の大きとは、電子が回る軌道の直径であるが、原子核からすれば、電子はハルカ遠くを飛んでいることになる。
ところがコレで「行き止まり」ではなく、原子核にも「陽子」や「中間子」といった内部構造があり、その陽子や中間子もいくつかの粒子によって形づくられていることがわかった。
「素粒子」つまりこの世で一番小さいものは、10のマイナス35乗メートルという大きさである。
以上は「極小」世界の話であるが、「極大」の方の「宇宙の広がり」は、10の27乗メートルという大きさである。
この気が遠くなる「極大」と途方もない「極小」。
両者の距離からして、何の関わりもないと思いがちだが、最近の科学はこの間に「兄弟」のようなキズナがあることを明らかにした。
そして「素粒子」を探ることが、「宇宙の成り立ち」ばかりではなく「生命の起源」を知る上でも、重大なヒントが「隠れている」ことが判った。
さて、こういう宇宙と素粒子との「結びつき」への視点を提供したのが前述の「ビッグバン」の発見である。
ビッグバンとは、この宇宙には始まりがあって、爆発するように「膨張」して現在のようになったとする説である。
それは、ビッグバン直後には、宇宙は極小の素粒子だったという「奇想天外さ」なのである。
では、ナゼ宇宙が「加速的に」膨張しているのが判かったのかというと、「明るさ」の決まっている超新星の光を観測することで、判明したという。
つまり、ビッグバンの理論に基づく「宇宙観」によれば、宇宙空間とは我々が住んでいる世界と「別次元」でもなんでなく、「同質の世界」であるということである。
ニュートリノのような宇宙のチリをどうして莫大な費用をかけてまで捕まえようとするかだが、実はそこに「宇宙の成り立ち」のヒントが隠されているからである。
ハヤブサが惑星イトカワまで行って、8年かけてゴミを集めてきたことも、そのひとつの表れだ。
宇宙と地球は同質であること、つまり同じもので成り立っている。だからこそ人類は、詩人のいうように「仲間」を宇宙に求めようとするのかもしれない。
実は、宇宙からいろんなものが届いている。
最近では、隕石ばかりか人工衛星の落下もあるが、そればかりではない。
宇宙から降り注ぐ粒子の一つが「ニュートリノ」。
人は仲間をもとめてか、宇宙からの何らかのメッセージの一端を捉えんと、まずはニュートリノをつかまえることに成功した。
ニュートリノが地表に着くと、なにかが揺れるハズ。それを感知できる装置がカミオカンデ。
岐阜県の神岡鉱山の地下に、1987年2月に、地下1000メートルに3000トンも水を湛えたタンクを用意して、11個「ニュートリノ」をつかまえたのである。
我々の体はニュートリノを1秒間に何10兆個もあびながら、何事もなかったように体の中を通り過ぎる微小なもので、ナカナカ捕らえることができないのだそうだ。
そこで、地下深くの「雑音」のナイ世界を人工的な池をつくって微細な振動きを捉えようとした。
そこは、詩人の言の葉(ことのは)ひとつさえも許されない「静寂」の世界だ。
新約聖書の「ベテスタの池」を思い出す。
そこは天使が舞いおりてきて一瞬水面をかきまぜるという伝説のある池である。
2012年 東京大学の小柴昌俊教授を中心として作られたカミオカンデで、世界で始めて「ニュートリノ」を捉えることに成功した功績によりノーベル賞を受賞した。
その弟子である梶田隆章氏が、その掴まえられたニュートリノから「素粒子のふるまい」を明らかにして、ノーベル賞を受賞し、師弟での受賞となった。
さて、物質というものは、電荷を帯びていてプラスの電荷が物質となり、原子構造はまったく同じでもマイナスの電荷を帯びたものが「反物質」という。
「ニュートリノ」という言葉は、「ニュートラル」から連想されるように電荷的にプラス・マイナスではなく「中立」ということらしい。
宇宙が誕生した時、通常の物質と一緒に、その反対の電荷をもつ「反物質」が同数生まれたはず。
ところが、この二つが出会うとエネルギーを出して消えてしまう。
しかし、「物質」だけは残って我々は現に存在している。
つまり、物質と反物質は、異なるフルマイをするハズ。
そういう思考の延長上に、梶田隆章教授の「素粒子振動」という「素粒子」が姿を変えることの発見につながった。
姿を変えられるのは何らかの質量をもっているということに他ならない。それは、宇宙のシナリオを変えてしまうほどの大発見なのである。
前述のとうり、モノに質量があれば「引力」が生まれ、ニュートリノが集まる空間がひとつに固まっていき、膨張を続ける宇宙は再び縮小する可能性がでてくるからだ。
そして、時間も空間もない「無」に帰るということだ。
聖書には、「天地は巻き去られ、地は崩れ、跡形もなくなった」(ヨハネ黙示録21章)とある。

近年、人間は宇宙の「成り立ち」を知ろうと、宇宙のゴミを集めるに至ったが、人間は「理性」の力で神をとらえんとする努力は、それよりもはるか以前から進められている。
キリスト教の神学は、実はプラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学の影響のもとで構築された。
そのなかでも、11世紀ごろから「普遍論争」は、カタチをかえながらも、今に至るまで続いている。
それほど、キリスト教の「根幹」に関わる大問題なのである。
そこには二つの考え方があり、「実在論」では、普遍的概念は個物に先行すると考える。
対する「唯名論」では、個物は普遍に先行すると考える。
少々難しい話だが、「普遍的概念」に神を、「個物」に人間をあてはめてみよう。
「実在論」では、「神」は「人間」に先行する。「唯名論」では、「人間」は「神」に先行する、ということになる。
つまり、「実在論」では、「人間の存在などには関係なく、超越的に神は存在する」という立場をとる。
それに対して「唯名論」では、極端にいえば「神は人間の頭がヒネリ出したもの」という発想にも繋がるのだが、それをアカラサマに言っては、「破門」になってしまう。
そこで、少々話をスリ替えて、神に対して人間がどう対応するか、という問題にしたのである。
「実在論」の側は新プラトン主義の発想そのままに、「神秘主義的」に神に対して無条件に祈ればいいのだとする。
これに対して、アリストテレスの影響を受けた「唯名論」の立場では、それではあまりに「主体性」がなく、人間のもつ「理性」の光で神というものを捉えようととする。
これが後のルネサンス期のヒューマニズムに繋がっていく。
そして結局、「普遍論争」とは、神に対する態度として「信仰か理性か」という問題を焦点に展開されていくことになるのである。
近代的的自我の始まりは、デカルトの「我思うゆえに、我あり」といわれる。
デカルトは、あらゆるものを疑って存在が確かなものは「我」だけであり、この「我」を起点にして世界をとらえんとする。
同時代のパスカルは、デカルトを次のように批判している。
「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学の中で、できれば神なしに済ませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにはいかなかった。それがすめば、もはや彼は神を必要としない。」
ちなみに、デカルトのような立場を「理神論」という。
無神論ではないが、もはや「生ける神」を締め出した。
そのうち、その位置に「我=理性」が完全に置き換わっていく。
それではデカルトとパスカルの差はどこで生まれるか。究極的にいえば、神と人との関係も、「ひきあう力」で決まる。(ヤコブの手紙4章8節)。