ヨルダン川を渡る

「ルビコン川を渡る」という出来事は、カエサルのローマ入城の出来事にちなんで、イチかバチかの最後の決断をする意味として知れ渡っている。
川を渡ってしまったカエサルは、「さいは投げられた」という言葉を発するが、これは踏み出した以上もう元には戻れないという意味である。
さて、本稿のタイトルとした「ヨルダン川を渡る」は旧約聖書の或る歴史的な出来事を指すが、新約聖書を合わせてよく読むと実に奥行きの深い言葉であることがわかる。
現在公開中の映画「エクソダス」の意味は「出エジプト」で、かつての名作「十戒」と同じ出来事を映画化したもので、高度な撮影技術が駆使されている。
とはいっても、旧作「十戒」の圧倒的な感動に比べられるほどのものではなかった。
「出エジプト」のハイライトといえばイスラエルが「紅海を渡る」奇跡のシーンだが、「ヨルダン川を渡る」シーンは地味な扱いどころか、そもそも映画の場面としては登場しない。
BC13C、モーセに率いられたイスラエルが紅海から十戒のシナイ山をへてカナンの地(現在のパレスチナ)に帰還する。そのゴール目前にヨルダン川が流れているのだ。
実際に見てきた方によれば、我が福岡市の中央を流れる那珂川くらいの大きさなのだそうだ。
BC9C、らい病にかかった誇り高きアラム王の将軍ナアマンが、預言者エリシャにヨルダン川で体を7回洗ったら癒されるといわれ、こんな川でいいのかと訝しがったくらい、ありふれた川である。(列王記Ⅱ5章)
というのもナアマンが見てきたティグリス・ユーフラテス川とは比べようもなかったからである。
さて、聖書を旧約・新約合わせて読むと、ヨルダン川は単に地理的な境界ではなく、「この世」と「神の国」の境を意味するものであることがわかる。
聖書が永遠のベストセラーである理由は、ひとつひとつの出来事に「霊的な意味」が含まれており、それを感じ取らない限りは、退屈な書物であるにすぎない。
「出エジプト」の出来事において、イスラエルが距離からすれば1ヶ月もあれば充分に帰還可能なのに、シナイの砂漠を40年もの間さすらった理由について、聖書は驚くべきことを語っている。
移動中にバアル神などに対して偶像崇拝などの罪を犯した者が「すべて死に絶える」まで、神はイスラエルがカナンの地に入ることを許さなかったのである。(申命記9)
モーセの後継者ヨシュアに率いられてカナンの地との境界を流れるヨルダン川を渡ったものは、皆「新しく」生まれたものであった。(ヘブル3)
つまり新世代によって「約束の地」は受け継がれたのである。
聖書は同時に、カナンの地に住む先住民アモリ人の罪が「極みに達する」まで、イスラエルの攻略を許さなかったという恐るべきことも書いてある。(創世記15)
さて「ヨルダン川」の名が世界に知られているのは、現在のパレスチナ紛争地であるはるか以前、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を施した川としてである。
新約聖書では、旧約の「乳と蜜の流れるカナン」を「神の国」に喩えているため、その境界たる「ヨルダン川を渡る」ということは、約束の地である「神の国」に入ることに対応している。
つまり「ヨルダン川を渡る」は、新約聖書における「救い」の型あるいは影を意味するのである。
そして新約聖書は、旧約に対応するかのように、「人は新しく生まれなければ神の国にはいることができない」といっている。
つまり人間は善人であれ悪人であれ「素のまま」では神の国にはいることはできないということだが、「新しく生まれる」とはどういうことか。
新約聖書は「人は水と霊によって新しく生まれなければ」と明解にその条件を語っている。(ヨハネ3・3)
「水」は洗礼を意味するが、「霊」はイエスがかねて語っていたとうり「ヨハネは水でバプテスマをさずけたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(マタイ3)と語った「約束の御霊」を指している。
また「聖霊があなたがた下るとき、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダとサマリア全土、さらに地の果てまで私に証人になるであろう」(使徒1)と語った、その聖霊を指す。
そしてその約束どうりに、十字架の死から50日目に聖霊が下り信者達は聖霊を受ける。「使徒行伝」には、その使徒たちが聖霊に導かれ活動する様が生き生きと記されている。

さて、聖書全般のトーンは、「寄留」という言葉をヌキに考えることはできない。
それは、飢饉のためにヘブライ人(ユダヤ人)が、カナンの地からエジプトに移り住み、そこに400年もの間寄留したことに始まっている。
さらにいえば、パウロは自らこの世の寄留者であり、国籍は天にあると語っている(ピリピ3章)。
さて「神の国」に喩えられたカナンの地とは、当時どのような場所であったのであろうか。
カナンの地は、広い意味では南はガザから北はオロンテス河畔のハマテまでを指し、名前の意味は、「紫(パープル)の国」である。
紫の染料は、古代では貴重であり、エジプトでも珍重された。
カナンで産する悪鬼貝から絞りだしたものだが、入手困難な高価な品物で、紫の染料は世界中の高貴な人の衣服に使われた。
ギリシャ人は、地中海沿岸の紫染料業者と職人を、「ホエニキアン」と呼んだが、これがフェニキアの国の名の由来となっている。
更に、ビブロスという町の名前が、ギリシャ語の「本」と言う名前・ビブリオンになり、それが最後には「バイブル」という言葉になった。
紀元前9世紀頃に、フェニキア文字が地中海を渡り、アルファベットになっている。
さらに、カナンの地の一部が、後にパレスティナと呼ばれるが、これはこの辺りに住んでいたイスラエルの不倶戴天の敵「ペリシテ人」からきている。
ということは、当時の対立が現代の「パレスチナ紛争」にまで引き継がれているとことになる。
当時のカナンの地は、「エジプトの川から大河ユーフラテスに至る」(創世記15章)細長い地域までだから、今日のパレシチナよりも広く、ペリシテ人ばかりではなく「カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト(ヘテ)人、ペリジ人、レファイム人、、カナン人、ギルガシ人、エブス(イエブス)人、アモリ人」などの先住民がおり、それぞの王が抗争を繰り返していた。
神はアブラハムにこの地を彼等の子孫たちに与えると約束しているのだが、アブラハムの孫のヤコブの息子・ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまう。
しかし夢占いが的中した事や賢明さがパロ(ファラオ)に認められ、大臣のような地位につく。
しかし、飢饉を逃れてヨセフの一族はエジプトに移住するが、その後およそ400年間は旧約の「空白期間」となっている。
この「空白」それ自体が、アブラハムの子孫つまりヘブライ民族がエジプトで奴隷状態に陥っていた事実を物語っているが、そこに「神の声」を聞いて立ち上がったのがモーセである。
BC13Cごろモーセは、奴隷状態にあったヘブライ民族を率いてエジプトを脱出する。
この出来事は、エジプトが大変繁栄したラムセス2世の時代にあたるが、エジプトが安価な労働力をそうやすやすと手放すわけはなく、神の様々な不思議によってそれが実現していく、その過程こそが映画「十戒」や「エクソダス」に描かれている。
カナンに向かいながら、モーセは後継者となるヨシュアを含む斥候(スパイ)を送り様子をさぐりつつ、長い放浪の末にようやく「ヨルダン川」を渡ることになる。
ところがカナンの地は「約束の地」とはいえ、異民族の真只中に投げ込まれたイスラエルの民は、異民族との戦いに明け暮れることになった。
したがってイスラエルの神はまるで「戦の神」すなわち「軍神」の如く立ちあらわれている。
またそれは「十戒」に代表されるように、律法を守ることを厳しく要求する神であり、イスラエル人にとって信仰とは戒律を守ることであったといってよい。
旧約聖書の「申命記28章」には、戒律を「守ること」・「守らないこと」ことが強烈なコントラストをもって語られている。
//1もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう命じるすべての「戒め」を守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
2 もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
3 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。
4 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。(5~11略)
12 主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。
13 主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。
14 きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。//
また「戒律を守らぬこと」の結末は、15節以下にあって「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれるものも、地の産物も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、入るときにものろわれ、出て行くときものろわれる」とある。

人間にとって戒律は危険なものである。それは必ずしも人間が戒律を守れないからではない。「戒律を守る」ことでさえも危険なのである。
それは「戒律」を守ることで己を完全だと思う、つまり「律法主義」陥りソノ結果、神を崇めなくなる。
手段が目的と化してしまう「律法主義」の陥穽を厳しくツイタのがイエスであった。
後にパウロは「新しい契約」(新約)につき、初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったが、キリストはそれよりさらに優った”契約の仲保者”になられたといっている。(ヘブル8章)
神は、戒律によっては救いえない人間をみて、「新しい契約」を結ぶことを預者エレミヤを通じて語っている。
「主は言われる、見よ、私がイスラエルの家およびユダの家と"新しい契約"を結ぶ日が来る。それは、わたしが彼らの先祖達の手をとって、エジプトから導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主がいわれる」(エレミヤ31章)。
パウロは「旧約」は「文字に仕える」信仰であり、「新約」はそれよりも一段高い「聖霊に仕える」信仰であると語っている。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリントⅡ)。
最近、世の中を騒がせているイスラム教徒は、極度に文字に仕える者が陥る「狂気」である。
またパウロは、「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた」(コロサイ人2章)という。
具体的には、「すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。」(ヘブル人10章)
つまり神自らが定めた罪の贖いたる「いけにえ」のルールにのっとり、人間の罪の代価をはらうために自ら「十字架につけられた」とい う。
そして「洗礼」とは、その十字架の贖罪に与ることなのである。
それは、イエスが親族の結婚式(カナの婚礼)に出て最初に表わした奇跡の中に、端的に表れている。
この結婚式で、招待客がぶどう酒を呑み空かしてなくなってしまい困っていたところ、イエスが僕(しもべ)たちに水を持ってこさせる。
すると水が、何十年もかかって醸成されるぶどう酒へと一瞬にして変わってしまう。
ここで奇跡が起こったことを知りえたのは、水を運んできた僕たちだけであった。
実は、この「水がぶどう酒に変わる」奇跡こそが「洗礼」の本質である。つまり洗礼とは、イエスの血によって清められるということだ。

さて、欧米が「罪の文化」であるのに対して、日本人は「恥の文化」であるといわれる。
それは、人々の意識が神に向かうよりも、「世間」に向かう傾向があるからであろう。
また罪の意識から遠い日本人は、この世の中いい人ばかりなのに、なぜそんなに罪深く定められたものかと思いがちである。
しかし、聖書が教えるところは、神を求め拝することをしない人間は、それ自体ではケシテ神に喜ばれる存在ではなく、まして「約束の祝福」に与ることのできる存在ではないということである。
それは、善人であるとか悪人であるとかの次元とはまったく異なることである。
さて、パウロは厳格な律法学者の家に生まれキリスト者を迫害していたが、ダマスコに向かう途中で強烈な光を浴びて回心する。
そのパウロは自分を「その当時はキリスト無く、またイスラエルの民籍に縁無く、約束に基づく種々な契約にも与らず、この世において希望なく、また神無き人であった」(エペソ2章)と語っている。
さらに自分を「怒りの子」であったと語っている。
「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」と。
しかしパウロは突然の回心によって、「異邦人伝道」という明確な使命を与えられる。
パウロは「救いはユダヤ人のもの」であると思い込んでいた。
ところが、異邦人が聖霊をうけて祈る言葉を聞いて、「異邦人」がユダヤ人と同じく「神の救い」にあづかることを目撃している。(使徒10章)
つまり、旧い契約の対象はユダヤ人であったが、新しい契約の対象は全人類に広がっていく。
そしてパウロは「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪過によって救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためであり、神は、イスラエルの不信仰の罪を、むしろその恵みの福音(救い)が異邦人の世界すなわち、全世界に伝達される驚くべき機会とされたのである」(ローマ人11章)と語っている。
ヨルダン川を渡るのは、カナンの地をめざしたイスラエル人ばかりではなく、水と霊によって新しく生まれた者ということである。