狙撃された人々

狙撃されて銃弾が体を貫いた身でありながら、たくさんの人前に身をサラスということはそれ自体大変な勇気がいることだとおもう。
例えば、14歳でタリバーンに襲撃され、瀕死の重傷を負ったマララさんの姿をみるとそう思う。
マララさんの父親は地元で女子学校の経営をしており、娘のマララさんは彼の影響を受けて学校に通っていた。
彼女は数学が苦手だったが、医者を目指していた。
2007年に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動が一家が住む地域の行政を掌握すると恐怖政治を開始した。
特に女性に対しては教育を受ける権利を奪っただけでなく、教育を受けようとしたり推進しようとする者の命を優先的に狙おうとした。
マララさんは11歳の時、恐怖におびえながら生きる人々の惨状をBBCのブログにペンネームで投稿して、ターリバーンによる女子校の破壊活動を批判した。
そして女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、英国メディアから注目される。
2009年、パキスタン軍の大規模な軍事作戦によってタリバーン勢力が彼女の住む地域追放された後、パキスタン政府は彼女の本名を公表し「勇気ある少女」として表彰した。
その後、パキスタン政府主催の講演会に出席し、女性の権利などについて語っていたが、タリバーン勢力はこれに激怒し命を狙われた。
そして2012年10月9日、中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男が銃撃。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷した。
銃弾は頭部から入り、あごと首の間あたりで止まっていて、外科手術により摘出されて奇跡的に回復し、2013年1月、約2カ月半ぶりに退院した。
2014年、史上最年少17歳にしてノーベル賞受賞者となり、授賞式では自身の戦いを「終わりではなく、始まりに過ぎない」と表明した。

大統領または大統領候補の狙撃事件は衝撃的であるが、フランスのシャルル・ドゴール大統領狙撃を描いた小説に「ジャッカルの日」(1971年)がある。
原作は後にイギリス下院議員ともなるフレデリック・フォーサイスで、同名のタイトルで映画化された。
フォーサイスは1960年代初頭にフランスに特派員として駐在しており、多くの情報源に接する中でこの小説の構想をえている。
ただし、この小説どこまでがフィクションで実話なのかがよくわからなかった。
まずは、1960年代当時のドゴール大統領が置かれていた状況につき説明したい。
フランスは、アフリカの植民地アルジェリアがあり、独立を果たそうとするアルジェリアと1954年より戦争になったが泥沼状態に陥った。
現地駐留軍やフランス人入植者の末裔(コロン)らは、フランスの栄光を願う右派世論を味方に付けてアルジェリア民族解放戦線やアルジェリア人の村落を殲滅する。
しかし、当時のフランス本国はインドシナ戦争に敗退し、相次ぐ爆弾テロや残虐になる一方の戦争で、「厭戦気運」が広がり世論は分裂した。
1958年、本国政府の弱腰に業を煮やした現地駐留軍の決起によって「第四共和政」は崩壊し、フランスの栄光を体現するシャルル・ド・ゴールが大統領に就任した(第五共和制)。
アルジェリアの軍人やコロンたちは、ドゴールが「フランス固有の国土」のための戦争に一層力を入れてくれると期待したが、ドゴールは戦費拡大による破綻寸前の財政などから、9月にアルジェリアの「民族自決」の支持を発表した。
1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、翌年、戦争は終結した。
現地軍人やコロンらは大混乱のうちにフランスに引き揚げたものの、アルジェリアでOAS(秘密軍事組織)という組織を作ってテロ活動を続ける一方、フランス本国でも「政府転覆を狙って」ド・ゴールへのテロ活動を行った。
しかし、現役のエリート軍人らによる暗殺計画はことごとく失敗し、組織の優秀な軍人達は逮捕され銃殺刑に処された。
また、OASにはフランス官憲のスパイが入り込み、メンバーや活動の実態が判明してしまい、官憲の実行部隊により容赦なく壊滅させられるに至った。
それによって、支援者だった企業オーナーらも離れていった。
以後、OASの主要メンバーたちは国外逃亡して雌伏と屈辱の日々を送るが、1968年の五月革命の際に、軍部がド・ゴールに協力する代償として彼らへの「恩赦」を取り付ける。
以上がこの事件の背景にある史実であり、以下は映画の内容に沿う。
仲間がつぎつぎと処刑されるOSAの幹部は、組織が壊滅状態で内部情報が察知されているため、1963年、オーストリアの潜伏先で、「組織外」のプロ暗殺者を雇うことを決める。
そして、狙撃が超一流、要人暗殺の実績も豊富な長身のイギリス人男性「ジャッカル」が暗殺を請け負う。
OASが組織を挙げてフランス各地で銀行などを襲い資金を集める間、ジャッカルは図書館でド・ゴールの資料を徹底的に調査し、1年のうちに1度だけ、ド・ゴールが確実に「群衆の前」に姿を見せる日を見つけそれを「決行日」(ジャッカルの日)と決めた。
ジャッカルは、全ヨーロッパを移動しながら必要な特注の狙撃銃、偽造の身分、パスポート、衣装、入出国経路などを抜かりなく用意する。
一方、フランス官憲は、ローマに移動し籠城して動きを全く見せないOAS幹部たちに不審な気配を感じていた。
そして1人のOAS幹部を拉致し拷問し、OASが外部の「ジャッカル」とよばれる暗殺者を雇ったことを突き止める。
そして捜査は実績の豊富なルベル警視という老刑事に一任された。
ルベル警視は、その個人的な伝手も用いて、ジャッカルの正体を洗うべく各国の警察に問い合わせを行いイギリス人であることを突き止める。
またイギリス警察も怪しい「偽造戸籍」を発見し、「ジャッカル」とよばれる男の容貌や暮らしぶりなどが判明する。
その情報を元に、ルベル警視はフランス全土の警察・憲兵らを指揮し「不審者の入国」を阻止しようとする。
しかしそれは、ジャッカルは車の内に銃を隠し、偽造パスポートで南仏から侵入した後だった。
このあたりから、物語は一気に緊迫感を増し息詰まる展開になっていく。
そして変装したジャッカルはパリのパリに入り、その日が来るのを待つ。
パリでは全国の警察を動員し、裏町の隅から隅まで徹底した大ローラー作戦を行うが、ジャッカルは見つからない。
しかしド・ゴール大統領は、暗殺の危険を訴える側近の声に耳を貸さず、例年通りパリ市内で行われるある8月25日のパリ解放記念式典に出発する。
つまり、ジャッカルとルベル警視の対決は、ド・ゴールが姿を現す「その時間、その場所」にまでもつれこむ。
ジャッカルは「傷痍軍人」を装いアパートの一室で、松葉杖に偽装した狙撃銃を組み立てる。
そして壇上の大統領の動きを追いつつ、静止した瞬間に弾丸を発射する。しかし狙撃の名手であるはずの銃弾は外れてしまう。
映画では説明がないのでアレっと思うが、勲章の授与とキスのために屈んだため外してしまったのである。
イギリス人であるジャッカルには、こういう場でキスをする習慣をしらなかったのである。
想定外の事態にジャッカルは弾丸を詰めなおすが、このとき、傷痍軍人が非常線を通ってアパートに入ったことを聞きつけたルベル警視は彼こそジャッカルだと踏んで、部屋に突入しジャッカルを撃ち果たした。
ジャッカルがイギリス人であることは政治的判断から曖昧にされ、ジャッカルはパリ市内の墓地に埋葬された。
イギリスでは、ジャッカルの本名とされた名前は、アリバイがある別人のものと判明し、本名・出自は謎のままで終わった。
ド・ゴールが自身の後頭部をかすめた弾丸に気付いたかどうかは、映画では何も語られない。また、外部から警察に銃声がしたようだ問い合わせがあったが、回答は「エンジンがバックファイアした爆音らしい」であった。
この物語は、フィクションであるもののドゴール大統領が実際に命を狙われていたことは確かで、ひょっとしたらドゴール大統領自身も知らぬ「狙撃」が起きていて、それを官憲が闇に葬ったということが実際にあったのかということを匂わせるに充分なストーリーであった。

昭和天皇も狙撃されたことがあるといったら、驚かれるかもしれない。ただしそれは皇太子時代の話で、もちろん弾ははずれたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負っている。
この出来事を「虎ノ門事件」(1923年12月27日)というが、この事件はある1人の人物の運命を決定的に変える。
それは当時、天皇警護の現場を指揮していた警察官僚の正力松太郎である。
正力はその後、読売新聞社長におさまるが、何しろ読売新聞は左翼思想ではあるが優秀な記者も多く、警視庁長官として彼らの「プロファイル」を知り尽くしていた立場から、読売新聞の経営を軌道にのせていった。
また、アメリカの野球を習いに武者修行にでかけていた野球人を集めて「職業野球」を構想し、「読売巨人軍」を創設する。
実は巨人軍・長嶋茂雄がサヨナラホームランで阪神を破った天皇皇后御臨席の「天覧試合」(1959年6月25日)を演出した人物こそ正力松太郎である。
したがって、アノ「天覧試合」は、場所と場面を変えての天皇と正力松太郎が再び「同席」した場であったのだ。
では正力がなぜ「天覧試合」の実現に執念を燃やしたのか。ひょっとしたら、虎ノ門事件の屈辱を晴らしたかったからかもしれない。
さて、一度狙撃された経験をもつ昭和天皇が21年から29年にかけ8年間にわたり国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされた「全国地方巡幸」の勇気は大変なものだったと思う。
天皇はいわゆる「人間宣言」あと、その生身の御姿を国民の真近にあらわされた。
終始巡幸に随行した侍従長は「昭和22年は大巡幸が5回、小巡幸が1回で、21県を行脚せられた。その自動車での走行距離だけでも、優に1万キロを突破するだろう。合計67日間は文字通りの南船北馬であり、櫛風木雨の旅であった」と語った。つまり苦行を思わせる旅であった。
この全国巡幸は、もともと天皇自らの意思ではあったが、占領軍の側がそれを認めたのも、ある思惑が働いたものといってよいだろう。
ふつうなら終戦直後のこの時期「夫を返せ!」「せがれを返せ!」の悲痛な叫びがあがっても不思議ではないのである。
天皇としても死の覚悟ができなければ全国巡幸などできなかったことではなかろうか。
さて、天皇を今の常識では考えにくい、あまりにも危険に満ちた全国巡幸にかりたてたものは、様々な要因があったかと思うが、終戦直後に皇居周辺で起きていた次のような事態も理由の一つにいれてもよいと思う。
戦前、皇室関係者は7500人ほどであったが、GHQの指示により6000人が食糧も仕事のない街にほうりだされた。
ある裁判官が、法に対する誠実さを自ら貫徹したために餓死したほどの飢餓と貧窮の時代なのである。
GHQは皇族に食糧割当を実施したが、天皇はそれに手をつけることを許さず、解雇職員の老齢者に廻させた。
一方職員削減により、皇居の広い庭には雑草がはびこり、その小道も乾季にはチリとホコリと小石で埋まったというようなニュ-スが広まるにつれ、全国の村々で寄合が開かれ、有志が召集され、村々や島々から東京へ群れをなして清掃にやってきた。
全国から集まる清掃部隊は非常に増え、そのうち当番表がつくられたりした。これより毎年、約二万人の日本人が皇居清掃に上京し、その費用は村の寄り合いが負担し、いずれも懸命に熱心に作業した。そうして皇居清掃はあたかも巡礼と化した。
1945年、マッカ-サーは、日本政府に神道に対して国家補助のすべてを打ち切るように指令し、神社は没落する運命かと思われたが、清掃部隊は神社にも現れたのである。
天皇の全国巡幸の意図は「終戦喪失状態に彷徨せる国民の鼓舞」ということだが、国民の側からの以上のような働きがあり、天皇の巡幸には、人々の以上のような行為に対する恩返しの気持ちも働いたのかもしれない。
ところで、天皇は戦時中は雲の上の存在として一般国民がその姿に触れることはめったになかったが、マッカ-サーの下のナンバー2のホイットニ-准将はこう考えた。
「天皇がその貧弱な姿を国民の姿をさらせば、天皇がカミ等といった虚妄は完全に打ち砕かれる」と。
これはGHQが意図する天皇の神格の否定と、連合軍がお膳立てしたいわゆる天皇の「人間宣言」が意図するものとぴったりと合致するはず、と思った。
天皇は、かつての軍服で白馬にまたがった大元帥の勇士から、背広に中折帽とういう庶民的な服装に変身し、人々に近づいて気軽に声をかけた。
そして、そのぎこちない会話や帽子を上にあげる独特のしぐさがかえって国民には新鮮に映り、戦争で疲弊した国民は、現人神であった天皇の姿に驚きながらも、親しみと感激をもって天皇を迎えたのである。
また、工場訪問の際には、天皇は労働者の間をぎこちなく歩き回られ、手を差し伸べて握手され、労働者のしどろもどろの言葉に耳を傾け、「ああ そうですか」と繰り返し返答された。
こうした天皇の全国巡幸はホイットニー准将の予想とは異なり、天皇の権威を貶めていくどころかしだいに天皇の人気を高めていくように思えた。
1946年2月世田谷の兵営住宅を慰問された時にクリスチャンの賀川豊彦が巡行の案内役を勤めた時のことを、次のように書いている。
賀川が一番驚いたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、陛下がいちいち挨拶せられた時であった。
左翼も解放せられている時代に、天皇は、親友に話すように近づき、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったのである。
そして貧民窟で37年間、社会事業に専念してきた賀川でさえも、天皇のそうした姿勢には「負けた」と思ったそうである。
そして、1947年の関西巡幸がはじまる頃には歓迎側の余りのフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、また当時軍国主義の象徴として禁止されていた「日の丸」を掲げる者がでてきたことともあいまって、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸の1年間中止することにした。
このあと1949年に再開され、52・53年の中断を経て、足かけ8年、1954年8月に残っていた北海道を巡幸して、1946年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。
ただし、悲惨な地上戦(沖縄戦)が展開され、多大に犠牲者を出した沖縄は除かれた。
昭和天皇の中で、ついには実現することはなかった沖縄訪問(巡幸)は、終生の悲願であったようである。
1987年、秋の国体で沖縄を訪問される直前、昭和天皇は病 に倒れ、手術の3日ほど後、「もう、だめか」と言われた。それを聞いた医師たちは、ご自分の命の事かと思ったが実はそうではなく、「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。
昭和天皇の痛恨の気持ちは次の歌にうかがわれる。
「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」。