孫文と孫正義

ソフトバンク社長の孫正義の社長室には、等身大の坂本竜馬の肖像が掲げてある。
孫社長が高校時代に読んだ「竜馬が行く」(司馬遼太郎作)を読んで、坂本竜馬の生き方を人生の指針としたらしい。
ただし、孫社長の伝記を読むと、違う人物の人生が浮かびあがってくる。孫文である。
清朝を辛亥革命で打倒し、1912年中華民国の初代大統領となる人物である。
孫文と孫正義の共通点は、何といっても「革命」をおこす気概であろう。
また、障害を乗り越える不屈の精神と「プレゼンテーション力」。そしてもうひとつあげろといわれれば、二人の風貌である。
さて、二人に共通する「孫」姓の由来は何であろうか。
中国の著名な一族に、春秋時代の兵家である孫武の一族がいる。
孫武は斉の宗族の出身であり、兵法家として名をなし、孫子と尊称され、後に彼の業績は「孫子の兵法」として伝えられた。
孫武の子孫には中国戦国時代の兵法家で自らも孫子と尊称され斉に仕えて活躍した孫堅がいる。
ちなみに、孫堅の家系は孫堅の次男・孫権が、兄・孫策の死後その家督を継承し、三国時代において「呉」を建国した。
その後、呉は晋により滅亡させられるが、孫氏の末裔は現在の中国杭州の富陽市南部の龍門古鎮という村に住んでいるとされ、この村では9割の人間の姓が「孫」である。
また、同じ富陽市の場口鎮の外れにある集落にも孫氏の末裔がいるとされ、「孫氏宗祠」を守っている。
最近、孫文が、兵法の大家「孫子」の70代目の子孫に当たるという研究がなされ、新聞でも報道された。
一方、孫正義の孫家はもともと中国から韓国に渡ったとされ、終戦後、朝鮮南部から船で日本へ渡ってきている。
系図によれば、孫家の19代は日本でいう首相の役職を務めていたので、代々武将や学者が多かった。
そのため、孫家は父親の方針の下、将来は韓国大統領を目指すよう教育されるなど非常に勉強熱心な家風であった。
また孫正義は祖父から、先祖は高麗将軍の「孫幹」と聞かされていたために、戦国武将に対して憧れをもっていたという。

孫文と孫社長は、いかにして「青雲の志」を抱いたのか、対比してみよう。
孫文は清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれる。当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、1878年、オアフ島ホノルルに移住、後に同地のイオラニ・スクールを卒業。
同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒する孫文を心配し、1883年中国に戻された。
帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学ぶ間に革命思想を抱くようになり、マカオで医師として開業した。
一方、1947年に孫正義一家は朝鮮の大邱から日本にきて、正義の父・三憲によって、消費者金融、密造酒、パチンコを家業として財を築いた。
最盛期には年商は100億近くあったが、バブルで一気に瓦解し、株式投資だけで44億円の損失を出し、鳥栖郊外の豪邸を差し押さえられた。
その後、正義は二男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に出生した。
男ばかりの4人兄弟で、正義は通名「安本正義」と名乗った。
正義は、進学した久留米大付設高校の一年生の夏休みに、カリフォルニアに1ヶ月の短期留学をする。
カリフォルニアの青い空と、アメリカという国のスケールの大きさに圧倒され、アメリカで結果を出せば、日本で認めてもらえるという思いが強くなり、アメリカの高校への編入を心の中で誓った。
その時父は病の床にあり、周囲の誰もが「早すぎる」と反対した。
しかし、今アメリカ行きを躊躇したら自分の道は開けない、大義の為には時に人を泣かすことがあると、親類縁者にも累がおよぶ「脱藩」の罪を犯して国家大事を選んだ坂本竜馬の心境に自分を重ねた。
そして自分のアメリカ行きに賛成してくれた唯一の人が、誰あろう父親だったのだ。
孫社長は、1974年に高校を中退して、米国サンフランシスコセラモンテ高等学校の2年生に編入するがレベルの低さのため飛び級。高校卒業検定試験に合格したため、高校を3週間で退学する。
そして1975年にカレッジに入学後、1977年にカリフォルニア大学バークレー校経済学部の3年生に編入した。
さらに1979年、シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に、米国でソフトウェア開発会社を設立する。
そして安くなったインベーダーゲーム機を日本から輸入によって資金力を得、カレッジ時代に知り合った女性と結婚する。
そして1980年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業し、帰国して準備期間を置いて福岡でソフトバンクの前身にあたる会社を設立した。

孫文と孫正義の「革命」とは、それぞれどのようなものであったろうか。
孫文は、清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月ハワイで興中会を組織した。
翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し日本に亡命する。
1897年、宮崎滔天の紹介によって玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受け、住居である早稲田鶴巻町の屋敷は犬養毅が斡旋したという。
1899年、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するがこれも失敗に終わる。
その後、アメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を「倫敦被難記」として発表し、世界的に革命家として有名になる。
直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「ハワイのマウイ島生まれ」としてアメリカ国籍を取得し、革命資金を集める為、世界中を巡った。
一方、孫正義は1981年、福岡市博多区に、コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立後、福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立した。
1990年に孫社長は「情報革命」によって人々を幸せにしたいと日本に帰化して事業を拡げていく。
孫は、2001年からヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo!BBの提供を開始し、それまでのPCソフト卸やPC出版から「通信」に軸を移した事業を展開していく。
そして、そこからが風雲児として「情報革命」を起していくのである。
孫は、情報産業の「インフラ提供者」を志し、街頭では「パラソル部隊」と呼ばれる販売キャンペーンと、「世界一安く、速い」サービスで日本のブロードバンド(高速インターネット)の市場において驚異的にシェアを拡大した。
そして世界ではじめて、100パーセントIPによるネットワークを作った。
日本全国がIP(インターネット・プロトコル)によって繋がれている。
これまで誰もどこもないえなかったことを、孫の率いるソフトバンク・グループがなしえたのである。

孫文と孫正義の共通点として優れた「プレゼンテーション力」があるが、それが発揮された場面をみてみよう。
宮崎滔天は香港の同志から、革命家・孫文のことを聞いて関心をもっていた。それで、横浜の亡命先へ孫文を訪ねる。
1906年9月のことで、宮崎が27歳の時であり、孫文は24歳。孫文は、満州王朝(清国)への抵抗の意志を示して、弁髪をきり落としていた。
西洋医学校に学んだ孫文は、頭髪をポマードでなでつけたモダンな紳士として滔天の前に現れる。
だが、髭面・巨漢の滔天には革命家を英雄豪傑とするイメージがあるから、目前の紳士はなんとも頼りないのだが、中国革命について話せば話すほど、孫文の魅力に引きつけられていく。
そして「余は恥じ入(い)りて、ひそかに懺悔せり。われ思想を二十世紀にして心いまだ東洋の旧套を脱せず、いたずらに外貌(がいぼう)によりてみだりに人を速断するの病あり。これがためにみずから誤り、また人を誤ること甚だ多し」と反省している。
「孫逸仙(孫文)のごときは、実にすでに天真の境に近きものなり。彼、何ぞその思想の高尚なる。彼、何ぞその識見の卓抜なる。彼、何ぞその抱負の遠大なる。しかして彼、何ぞその情面の切実なる。わが国人士中、彼の如きもの果して幾人かある。誠にこれ東亜の珍宝(ちんぽう)なり」とまでいわせしめている。
しかし、孫文の真骨頂はプレゼン力というより「広報力」といったほうがよいかもしれない。
「先に声を発して敵の気力をそぐ」という、中国古来の兵法のままに、声を発して戦い続けた。
声はタダである。最強の弾丸である。正義を言い切っていく明快な声、悪を断ち切っていく強い声、折伏の声、励ましの温かい声、ほめたたえ、ねぎらう優しい声ともかく、内外を問わず、人と会い、声をかけていくことである」と。
つまり対話してこそ正義の前進があるとし、鋭く、堂々と、破折しゆく言論にこそ、広宣流布を開<道があるといっている。
孫文はそれを実践するかのように、揺るぎない信念をもって「皇帝時代においてはただ一人の人間が皇帝だったが、民国になってはこの四億人がすべて皇帝なのです。これが、民をもって主となすということであり、これこそ民権の実行であります」と、壮大なスケールで人々の覚醒を促した。

さて、現代の「プレゼンの達人」といえば、故スティーブ・ジョブズだが、孫正義もそれに優るとも劣らずの名人である。
孫社長がプレゼンを行うと、打ち出す施策には「説得力」が生まれ、彼が「全力で事に当たろうとしている」と強く感じられるという。
したがって社員もその気になるのだが、孫社長の「プレゼン力」は、もってうまれたものではないかと思う。
それは、大学検定試験受験の際に、早くも発揮された。
また、大学の検定試験の際にも、「この問題は日本語ならば必ず解ける。」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出た。
試験官は、自分の上司にあたる人間に相談。さらにその上司は、自分の上司に相談。そうこうしているうちに、最後は州知事にまで孫は電話で交渉して、「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」をのませたという。
さらに、州知事との交渉において知事は「厳密な終了時間」を決めておらず、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という結論が出されたことから、無期限の時間延長と孫は独自解釈して、最後までテストを受けて合格したという。
また高校時代に、藤田田(日本マクドナルド創業者)の「ユダヤの商法―世界経済を動かす」という本を読んで感動し、面会するために藤田の会社に行く。
最初は門前払いを受けるが、何度も訪れて根負けした藤田についに社長室に通されたという。
そこで「今度渡米するのだが、アメリカで何をすべきか」と尋ねると、コンピューター関連を学ぶように助言された。
その後成功した孫は藤田を食事に招待し、藤田はあの時尋ねてきた高校生が孫正義だったかと驚き、非常に感激し、孫の会社に自社パソコン300台を発注したという。
孫正義は、カリフォルニア大学バークレー校へと編入が認められたが、仕送りの負担や猛勉強の必要などの条件を満たすためには、発明以外ないと毎日ひとつの発明のアイデアをノートに書き込んでいった。
そして音声付自動翻訳機を考えついたが、これを商品として完成させて儲けを出すには20年はかかりそうだった。そこでバークレー校の研究者の名簿から一流を選りすぐり、彼らに発明に協力してもらうよう交渉した。
その中にスピーチ・シンセサイザーの世界的権威がいた。若き孫は、この世界的権威氏を「今は金はないから成功報酬で」と説得した。 その世界的権威氏をして、この若者に賭けてみようと思わせたのが、すごいところである。
そして、この「音声機能付き他言語翻訳機」を当時シャープに約1億円で売り込み、その資金を元に米国で事業を起こす。
ただし日本に帰国後、創業した会社で、みかん箱の上に乗ってわずか二人の社員に熱い思い「30年後のわが社は1兆・2兆を数の単位とするような会社にするぞ!世界の人々に情報革命を提供するんだ!」とぶちあげた。
しかし、「この人おかしい」「法螺吹き」と思ったのか二人の社員は逃げ出したというから、この時ばかりは孫のプレセン力も通じなかったわけだ。

孫文と孫正義」は共に「障害(=不利)」があればあるほど燃える性格で、これが「七転び八起き」の不屈の生き方に繋がっている。
偉大なる先覚者のつねか、孫文の人生もまた迫害につぐ迫害であった。
「孫文の犯罪」という悪辣なデマの文書を、国の内外にばらまかれたこともあったし、首に懸賞金もかけられた。
それでも、「挫ければ挫けるほど奮い立ち、事あれば事あるほど勇み立ち」と、悠然と前へ進んだ。
そして孫文の革命の人生は「七転び八起き」どころか、「十三転び十四起き」といわれているほどの失敗の連続であった。
ふつうは一度、負けてしまうと、そのまま勢いをなくしてしまうものであるが、失敗のたびに、ますます闘志を燃やし立ち上がった。
それどころか、失敗のたぴに新しい仲間を増やし、味方をつくり、連帯を拡大した。
孫文は「わが心が、これは行ないうると信ずれば、山を移し海を埋めるような難事でも、ついには成功の日を迎える。わが心が、これは行ないえぬと信ずれば、掌をかえし枝を折るような容易なことでも、成功の時は来ない。心の作用はかくも大きいのである。心とは万事の本源である」と語っている。
ユニソン・ワールドを起業する際、日本名である「安本」ではなく韓国名の「孫」の名前で会社を興すことを決め、そのことを一族に伝えた。
しかし親や親戚からは、就職では間違いなく差別され銀行も絶対金を貸さない、お前の認識は甘い、ハードルは十倍あがる、わざわざ好んでその難しい道を行くのか、と猛反対された。
それに対して孫は「たとえ十倍難しい道であっても、俺は人間としてのプライドを優先したい、俺はどれだけ難しい道だって堂々と正面突破したいんだ」 と答えた。
また孫の名前にこだわったのは、何十万人といる在日韓国人が、日本で就職や結婚や、それこそ金を借りるとき差別を受けている。
でも在日韓国人であろうが日本人と同じように能力があることを、事業で成功して証明し、これからの在日の若者にそのことを背中で示さなければいけないのに、自分が本名を隠してやったのでは、意味がないと語っている。
アメリカから帰国後の起業の際に肝臓病で入院した時、医師から5年の命と言われている。孫にとって、この時が「どん底」の時であった。
その時に「竜馬がゆく」を再読し、龍馬が最後の5年位で人生で最も大きな仕事をし33歳で死んていることに気がついた。
そして、アップルの創業者スティーブジョブズの死を知った時、孫正義は「スティーブからは事業の成功というより、1回限りの人生で何をなしたか、何をなそうとして精一杯生きたかということの方がはるかに大切だということを学んだ」と語っている。