「再来日」のドラマ

「ドリフタ-ズ」(漂流者達)のドラマは、フィクションから実話まで数々ある。学生時代に見たイタリア映画「流されて」(1974年)は、結構印象に残った映画であった。
日本は海洋国家であるから、当然漁にでたまま漂流しそのまま行方不明となり、魚の餌となった人々も少なからずいたであろう。
特に江戸時代、大量輸送の中心は海運であり、弁才船などが悪天のために 漂流し後は潮と風の運まかせで海の藻屑と消え去った者達も相当多くいたことが推測できる。
ところで江戸時代に記録を紐解くと日本の民間人による海外渡航例が、「記録に残るもの」で百数十例あるという。
「記録に残るもの」という意味は、数ヶ月か1年あまりの漂流の果てに外国へ漂着し、それでも無事に帰還できた事例を指している。
漂流し生存したとしても日本に戻ってこない限りは記録に残りようもない。つまり当地に骨を埋めた漂流者の数は相当数に上るだろう。
ただ帰還に成功したものには、ある共通点がある。記録によればこうした漂着船の積荷はほとんどが米で、それを食べ繋ぐことによって生存できたわけで、他の貨物を積んだ船や漁船の場合、生還率はかなり低かったといえる。
ところで日本に無事戻ってきた漂流者の中で外国での生活をした者は、江戸時代の鎖国政策の中で危険人物である反面、貴重な情報源であった。
もし彼らが高い語学力を習得していたとすれば、開国へと向かおうろする日本で、高い稀少価値をもつ人材であった。
日本史の中で「漂流者」というだけなら大黒屋光太夫など数人の名前が思いうかぶ、漂流体験が歴史に与えた影響の大きさという点で、通訳として日米交流に貢献したジョン万次郎や、日本初の「民間紙」をだしたジョセフ彦を超える人物を思い浮かばない。
ジョン万事郎は1827年土佐の国中浜谷前の漁師の次男として誕生した。しかし、1841年14才の時、正月5日足摺岬沖で漂流する。
10日間漂流して南海の孤島・鳥島に漂着し仲間と143日間生きながらえ、たまたま立ち寄った米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受けた。
漂流仲間とはホノルルで分かれ一人捕鯨船員として太平洋を渡った。そして16才で船長の故郷・マサチューセット州フェアーヘブンに帰航した。
そして万次郎はオックスフォード校、バートレット専門学校で英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受けた。
24才の時に沖縄より上陸し帰国した。取り調べの後解放され26才で土佐藩の士分にとりたてられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。
このとき後藤象二郎、岩崎弥太郎などが直接万次郎の指導を受けている。
1860年33才の時には批准書交換のための使節団一員として艦長勝海舟の「咸臨丸」に乗船した。
この時万次郎は教授方通弁主務として乗船し、この船には当時26歳だった福沢諭吉も同行しした。
米国民は、万次郎の流暢できれいな英語に驚嘆したという。
ちなみに、アメリカで万次郎はミシンを初めて日本に持ち帰っている。
1860年42才の時、明治政府の命を受け開成学校(東京大学)の教授となり最高学府の教壇に立った。そして1898年、東京・京橋の長男中浜東一郎医博宅で72才の生涯を終えた。
彼の数奇な運命に導かれた貴重な知識や、技術、体験は幕末から明治にかけての近代日本の夜明けに、日米の友好を始めとする国際交流の礎に多大な影響を与え幾多の業績を残した。
なお、現在でもホイットフィールド家と中浜家は子孫の交流が続いているとのことである。

終戦間もない1946年のある日のこと、福岡県の田主丸町にひとりのアメリカ人がやってきた。
彼の名はジエームス・ヘスターで、久留米にあった駐留米軍の教育課長として働いていた。
このアメリカ青年は、田主丸の村人たちに「民主主義とはなにか」を流暢な日本語でわかりやすく語った。
その晩、ヘスター氏の宿となったのは老舗の「造り酒屋」若竹屋酒造であった。
若竹屋の十二代目、林田博行氏はスキヤキをつつき、酒を飲みかわしながらヘスター氏と夜遅くまでこれからの町づくりについて語り合った。
林田氏が、なぜアメリカ人はそんなに体が大きいのかと尋ねると、ヘスター氏はミルクや肉など良質なタンパク質をいっぱいとっているからだと答えた。
そしてヘスター氏は、将来を担うこどもたちの身体をつくることが大切で、乳牛がこれからの地域振興につながるので、できるだけ牛を集め立派なこどもたちを育てようと提案した。
林田氏が、こんな田舎でも牛を手に入れることができるかと問うと、ヘスター氏は北海道にに多くの牛がいるので、我々も最大の援助をしようと約束した。
そしと米軍の協力を約束した。
こうして3年間で200頭もの乳牛が田主丸へとやってきた。
しかし牧草の不足から田主丸の酪農は8年で行き詰まってしまう。
実は、この8年間がとても大きな意味をもつのだが、多くの酪農家は再び田畑へ戻り、新たな農業の指針を建て直そうと模索した。
そして、田主丸の農民達の失敗が思わぬ「副産物」を生むことになった。
田主丸の再生のためには、農民もこれからは勉強しなければと、研究者をよんで新しい技術を身につけようとした。
そして越智通重という研究者と出会うことになる。
越智氏は、品種交配により新しい葡萄品種「巨峰」を生み出した大井上康博士の一番弟子だった。
そして47人の農家が出し合った開設資金をもとに、越智氏を招いて「九州理農研究所」を設立した。
田主丸の農民がつくりあげた九州理農研究所は、全国でも例のない農民による農民のための研究所であった。
彼らを中心に、より高品質な巨峰の栽培を追及する「果実文化」という機関紙も発行されていた。
越智氏が師匠の大井上博士から受け継いだ「栄養周期説」とは、あらゆる植物は発芽から枯れるまで同じ育ち方をするのではないので、その段階に応じた手入れや施肥をするというものだった。
農民たちは毎日のように研究所に通い、議論し、時に越智が愛する酒を酌み交わしながら、巨峰栽培の情熱を語り合っていた。
越智氏は彼らと研究をすすめるにつれ、大井上博士の遺志「巨峰」をこの地で花開かせることができるかもしれないと考るようになった。
この土地が山砂まじりの排水性の高い土であるうえ、不思議と十分に肥えた地力を備えていたからである。
実はその土には、アメリカの「民主主義」を説いた教育課長ヘスター氏との出会いで導入された牛達の糞が染み込んだものだったのである。
その後、越智氏生が持ち込んだ葡萄の苗木は、悲願の大粒の実をつけることに成功した。
そして田主丸は、全国初の「観光果樹園(果物狩り)」という商法を編み出し、「巨峰ワイン」を生むなどして「巨峰のふるさと」として知られている。
実は、ヘスター氏との出会いから53年後の1999年は「巨峰開植40周年」であるが、田主丸の農民達はヘスター氏の消息をたどった。
すると驚くべきことがわかった。
ヘスター氏は、田主丸を訪れた翌年に帰国し、その後再釆日して1975年には東京青山の「国連大学」の初代総長として、その創設に関わっていたのである。
さらには、グツゲンハイム財団のトップとして、アメリカ教育界の重鎮であることも判明した。
農民達が手紙を出すと、若竹屋酒造の十二代目の林田氏のもとにヘスター氏からの返事が届いた。
そこには、田主丸の産業へ思わぬ寄与ができたことへの驚きと喜び、そしてできるならば田主丸を訪れてみたいとの一文が記されていた。
林田氏は、ヘスター氏が日本に来ることになったら、またスキヤキを一緒に食いたいと返事を書いた。もちろん巨峰ワインとともにである。
そうして、その年の秋の「巨峰ぶどうとワイン祭り」で林田氏とヘスター氏の二人は、感動の再会を果たすのである。

スターリン時代のソ連は、ヒットラーに優るとも劣らぬほどユダヤ人を弾圧していたが、ウクライナ地方キエフの町にユダヤ人レオ・シロタ・ゴードンという音楽家と貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
父レオ・シロタはオーストリアのウイーンに留学し、1920年代「リストの再来」と評され、世界の三大ピアニストに数えられるほど、超絶技巧を誇るピアニストとして注目されていった。
しかし、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、一家三人は半年間の「演奏旅行」のツモリで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへと向かった。
そしてレオ・シロタはこの「演奏旅行」の途中で、日本を代表する音楽家・山田耕筰と「運命的」な出会いをする。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰がホテルを訪れ、日本での公演を依頼したのである。
レオはその年に訪日して1カ月で16回もの公演を行ない、山田耕筰によって東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘された。
さらに世界恐慌でのヨーロッパ情勢の不穏の中、ゴードン一家は日本に滞在し続けるのである。
現在、東京・赤坂の「東京ミッドタウン」がある一帯は、かつては「赤坂区檜町」と呼ばれていた。
古くから著名人や外国人などの集まる地区の一つであり、ウィーンからシベリヤ鉄道経由で日本にやってきたゴードン一家もここで暮らすことになった。
ゴードン一家では、父レオが上野の音楽学校から帰ってくると、ベアテと両親に家庭教師を含めた4人で食卓を囲んだ。
食卓の4人で交わされるのは、音楽学校の生徒のこと、町で出会った日本の人々のこと、ベアテが経験した日本の子供達との遊びのことなどであった。
ベアテは家の近くの乃木神社の境内などは格好の遊び場となり、日本の子どもの遊びであるオハジキ、紙芝居、自転車、羽子板などはすべてやったと振り返っている。
また、遊びと結びついた童歌や童謡などをも聞きながら日本の文化を学び、日本に来て3カ月ぐらいで日本語を話せるようになっていた。
またベアテは、6歳ごろからはピアノ、ダンスを習い始めたのだが、自分にピアノの才能がないことは、父レオが自分よりも他の生徒達を熱心に指導することなどから、自然に悟らざるをえなかったのだが、ベアテには自然にモウヒトツの道が開かれていた。
実は、ゴードン家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まる「サロン」と化していた。
ゴードン一家での会話や、ゴードン家に集まる人々との情報のやり取りの中で、ベアテはさまざまなことを吸収していった。
とりわけ、ゴードン家では日常的に日本語、英語、ドイツ語、ロシア語、フランス語が飛び交う環境で暮らしていたことも幸いして、ベアテ自身はさして努力をしているワケでもないのに、日本語をはじめとする5カ国語の会話とラテン語をマスターしていったのである。
さてゴードン家は、洋画家・梅原龍三郎の家のすぐ近所でもあったが、近所に著名なピアニストが引っ越してきたと聞いた梅原氏が、自分の娘にもピアノを教えてもらえないかと訪ねてきた。
梅原氏は、5年間ほどフランスに留学した経験からフランス語が話せたため、両家の間で自然に交流が生まれた。
そしてゴードン家の方から梅原氏に、身の回りの世話を頼める「家政婦」さんを紹介してくれないかという申し出があった。 そして紹介されてやってきたのが、小柴美代であった。
小柴美代は、静岡県沼津の網元の娘で、高い能力がありながら、「教育を受ける機会」がなかったという、当時の日本人女性を代弁しているような女性であった。
ベアテは、5歳から15歳という多感な時期を日本で過ごすが、小柴は毎日の生活の中で一番身近に接していた日本人女性であったといえる。
そして好きな人と結婚することもできず、父母の決めた全然知らない人と結婚させられること、正妻とおめかけさんが一緒に住んでいること、夫が不倫しても妻からは離婚は言い出せないことなど、「子守唄」を聞くようにして日本の女性についての「情報」が蓄積されていった。
ただベアテにとって、このことがどんなに大きな人生の展開を生むかは知る由もないことだった。
また幼いベアテにとって忘れられないの日があった。
1936年2月26日の大雪の日である。226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、日本人は表立っては優しいのに、内面にはかり知れないものを秘めていると思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心にも感じとった。
1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、もうすぐ16歳になろうとしていた。ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあった。
両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにあるミルズ・カレッジに留学させることにした。
ミルズ・カレッジはアメリカでセブン・シスターズとよばれる名門女子大のひとつであった。
ベアテ女史は、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をしていた。
1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な「軍関係」の仕事を探した。
そして、偶然見つけた仕事がGHQの民生局であった。
民生局の仕事を見つけた当日、民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、政党科に配属されたという。
ただGHQ民生局のメンバーとして日本に帰ってきたベアテ女史にとって、美しい風景が無残な焼野原に変ってしまていることに、「悲しみ」を抑えることができなかった。
ベテア女史の両親は軽井沢に逃れていたために難を逃れていたが、乃木坂にあった家は焼けつくされており、玄関の門の柱だけが、かつての自宅の場所を確認する唯一の目印だったという。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そしてベアテ女史の抱いた悲しみは、日本で新しい「憲法草案」を作るという「使命感」によって打ち消されていった。
それどころか、全人類に適用できる、民主的で世界に誇れる憲法を作ろうという理想にも燃え立っていたのだという。
そしてケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女性に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
しかし、そんなベテア女史の仕事は「極秘事項」であり、両親にさえ口外することが許されていなかった。
もしそれがわかったら、そんな小娘に日本国憲法が書かせたのかと、「反対勢力」に利用される可能性があったからだ。
ベアテ女史は10年にわたる日本の暮らしから、日本人女性に何の権利もないことを知っていた。
まずはジープで図書館を回り、世界の憲法が「女性の権利」をどのように定めているかをリサーチした。
草案の作成は「極秘」で行われていたために、民生局の人が沢山の本を持っていったとか、一カ所だけで調べものをしたりすると怪しまれるので、いろいろな図書館を回って資料を集め、それをGHQの「民政局」に持ちこんだのである。
ベアテ女史は草案の中に、母親・妊婦・子供、養子の権利、職業の自由までをも含めて書き、それを民生局課長ケーディス大佐の所にもっていた。
しかし大佐は「社会保障について完全な制度をもうけることまでは民生局の任務」ではないと一蹴し、その権利条項の大半が削られた。
ベアテ女史はその時、悲しさと悔しさで涙が止まらなかったという。
さて、ベアテ女史が「両性の本質的平等」(憲法24条)の草案を書くにあたって、乃木坂の家で家政婦として働いていた小柴美代の存在が、小さいものでなかったことは、ベアテ女史が講演会などで必ず「家政婦のミヨ」との出会いを語っていることや、ニューヨークの自宅に美代を呼んでいることでもわかる。
ちなみに、小柴美代をゴードン家に紹介した洋画家・梅原龍三郎と同時期に活躍した洋画家・赤松麟作には自分の幼い娘を描いた「良子」という作品がある。
この娘こそ、後にベアテ女史が涙をのんで削除した「女性の権利」を、約40年後に「男女雇用機会均等法」としてカタチあるものにした女性キャリア官僚の先駆け・赤松良子である。