悔悟と救い

死にそこなった経験は、人生を大きく変えうる。一度捨てた人生なら、何があっても平気だと肝が座るからであろう。
死にソコナイが、ひとり国家権力と戦い、「死の海」を蘇らせた話も、そのひとつといってよい。
1952年1月15日、韓国の李承晩大統領が国際法を無視するかたちで一方的に設定した水域境界線が「李承晩ライン」。
それまでのマッカーサーラインよりも日本に近かったため日本側は抗議したが、韓国側は受けつけず域内に入る日本漁船を次々と捕え漁民を何年間も抑留した。
1965年日韓基本条約(1965年)によって日韓関係が正常化されるまで、こういう状況が続いていたのである。
田尻宗昭は、1928年福岡生まれ、1940年に清水高等商船学校を卒業し、海員養成所の教官になった。
その後、海上保安庁に入り、その後佐世保で勤務し合わせて10年間、巡視船で「李承晩」ラインの監視をする仕事を務めた。
李ラインでの韓国側の日本船・拿捕(だほ)を防止するため、煙幕を炊いて、韓国の警備艇に体当たりなどして悪戦苦闘した。
しかし、命を縮めるような苦労をしながらも、結局のところ勇気のなさと認識不足とから、その苦労を少しも実らせることができなかったことに、悔恨の気持ちが残った。
その後、釜石で巡視船「ふじ」の船長を務め、運命を変える出来事に遭遇する。
1965年のある日、陸沖で、猛烈な暴風雨にまきこまれた。船体は山のような大波のなかに突っ込んで、まるで潜水艦のように水中に入って浮上しない。
そうするうちに船が、傾いたまま動かなくなり、「もう沈没だ。あの世に行くんだな」と直感した一瞬、胸をつきあげるような思いがヨギッた。
「いままでは何と中途半端な人生だったことか。体をはって自分をかけたことが一度もなかった。こんな人生のままでは絶対に死にたくない」という未練だった。
ハッと我にかえると、船がグーッと海面に浮上しているのがわかった。
奇跡的に助かり、数時間後、母港に帰港すると、見慣れたはずの港の景色が目に沁みるように飛び込んできた。
そして今度人生を終わるとき、二度とアノ思いをしないよう、鮮烈に生きたい。これからの人生はオマケ、一日一日を大切にかみしめ、味わいながら生きていこうと決意した。
そして1968年7月に、田尻は、三重県四日市海上保安部の警備救難課長に就任する。
釜石のきれいな海を見て来た田尻は「ここは海ではなくドブ溜め」というのが、四日市港の第一印象であった。
戦後、石油化学大手が共同出資した会社「昭和四日市石油」が政府の払い下げ土地(旧海軍燃料廠)で、1958年操業開始したことで、本格的開発が始まった。
その後、次々と企業を誘致し年々拡大していった四日市コンビナートだが、公害への世論の高まりのとともに、四日市市民の公害に対する感情は、潜在的には極めて強いものの、町内会有力者が企業に手なづけられ、反対運動が公然化することに対して強力なブレーキになっていた。
このような状況の中、四日市には四つの漁業組合があり、豊かな漁獲高を誇っていた。
しかし1955年ごろから工場の排水口近くでとれる魚が臭くなりはじめ、1960年に東京築地の中央卸市場で取引を停止すると通達される。
1963年には、漁民たちが実力行使に出る動きもあったが、地元の有力者の働きかけで収束し、以後漁民の運動は振るわずじまいだった。
そうして漁場の35%が埋め立てなどで失われ、漁業従事者が31%減少し、水揚げ量が全盛期の1/4以下になった。
そうして、漁民たちは、他の漁場に「密猟」を行う他に生活の糧を得るスベを失っていた。
1968年7月、四日市に赴任した田尻宗昭が、初期に任された仕事の一つがこの「密猟」の取り締まりだった。
しかし田尻は、取り調べた漁民から、水産資源を守る法律を破って魚を殺したのは企業の側ではないか。
それを取り締まらないでおいて、追い詰められた漁民だけを捕らえるのはどういうことか。
海保は企業の手先になって取り締まりをやっておるのか。
これらの漁民達の言葉を聞いて、田尻は深くショックを受けた。自分達は大きなものを「見落とし」ている。
弱い漁民たちがやっとの思いで魚をとってきて、かろうじて家族を養っている。それを自分達は一生懸命に追いかけて捕まえている。
つまり、摘発すべきは密漁する漁民達ではなく、海を汚している企業の側なのだ。
そして田尻に、李相晩ラインでも佐世保でも、多くの漁民の犠牲を食い止められなかったこととともに、北海の海で命を失いかけた体験が蘇った。
田尻は、海を汚す企業を摘発することを思い立ち、それによって海保に居られるなくなる覚悟を妻に告げた。
子供はおらず、どんなに反対しても夫はやる人だからと、妻はそれを承諾した。
田尻宗昭の生き方は、黒澤明監督作品「生きる」の主人公、志村喬演じる「渡邊勘治」に通じる。役所の中で、問題をすべて回避した1人の男が癌を宣告される。
そして初めて、動こうとしない役所にあって嘆願を繰り返し、やくざの脅しにもひるむことなく、小さな公園の設立を実現する話である。

1969年の10月ごろに、田尻の元に石原産業の労働者とおぼしき「匿名」の告発電話がかかってきた。
電話は「石原産業は毎日20万トンというケタはずれた量の硫酸水を流している、しかも何年も前からだ」という内容であった。
石原産業は1936年の設立以来、ずっと化学肥料を製造してきた企業だが、1954年ごろから「酸化チタン」の需要が伸びてきたため、その製造もはじめた。
当時、国内の酸化チタンのシェアの6割を独占し、わが国最大のチタン・メーカーであった。
石原産業はいちはやく四日市に進出した会社で、地元では絶大な権力を握っていて、四日市の支配者的位置にあり、「四日市天皇」と称されていた。
田尻は、工場20万坪、従業員3千人の石原の摘発なんて相手が悪すぎる、もうこの電話のことは忘れようと思った。
しかし、海上保安部の窓を開けると目の前が石原産業。その煙突がズラリとたちならんで、モクモクと煤煙をふきだしていて、毎日忘れようとしても、どうしても忘れられない。
果たして、あの厖大な生産工程のすべてを、われわれの手で解明できるだろうか。
そして、あの沈没の危機で味わった後悔を二度と味わいたくない。結果は問題じゃない。とにかく一歩ふみだそうと決意した。
そこへ部下の一人がやってきて、「課長、石原をやりましょう」といってきた。この言葉に、胸が一杯になるとともに気持がシッカリ固まった。
企業を裁判で訴えるためには、まず被害の科学的なデータを集めなければならない。
漁民に変装したり、釣り人に変装したりして「排水口」にちかづき、水をすくうなどして、水のPHを調べたりするなど「内偵」を進めた。
また、桟橋だけで荷役をする船が非常に短期間で冷却水系統のパイプに穴が空くといった物証を集めた。
そして1969年 2月1 7日、石原産業へ立ち入る一週間前というのは、「忠臣蔵」の討ち入り前夜のような心境だったという。
黒塗りの工場長の車が入って来ると同時にピタッとその車をつけて、石原産業に立ち入った。
工場に入ると、長大なタンクやパイプの存在に圧倒され、しかもほとんどがカタカナで書いてあった。
これを果たして解明できるのかと、絶望的な気分になった。
モハヤ行き詰まったと思えた時、1人の労働者がそっと彼らに情報を伝えた。その貴重な情報と、部下や巡視艇の10人の乗組員の血の出るような協力のもとに、「汚染水」の排出路とその量を割り出すことが出来た。
最後の難関は、それを企業が意図的に行っているかという「故意性」の立証が必要となる。
原料のイルメナイトから鉄分を溶解除去するために硫酸が使われる。
はじめのうち、そのときできるチタン工場の廃硫酸を硫安工場に回収して、これにアンモニアを加えて「硫安」をつくっていた。
ところが1968年の7月、第二工場を増設して、それまで月産4500トンだったチタン生産を月産6000トンにあげた。
このためチタン工場と硫安工場のバランスがくずれ、第二工場から流れ出てくる「廃硫酸」の処置がつかなくなってしまった。
このよう1日20万トンという「硫酸」を港の中にそのまま流さなければならなかったのは、法で規定された処理施設をつくらなかったからである。
通産省が指導するどころか、それを認めて、違法を承認していることに原因がある。
押収資料の中に、それを裏付けるメモがあったことから、ついに起訴に持ち込めると思ったが、検察庁の上層部から待ったがかかった。
証拠はそろい、審査会は「起訴相当」との結論を出したが、それでも地検は起訴しなかった。背後に、石原側から圧力がかかったと思われる。
田尻は、この問題を世論に訴える他はないと思った。
実は、田尻が佐世保時代に、地元出身の若き社会党議員石橋政嗣と面識があり、当時石橋が社会党書記長となっていた。
そしてこの「メモ」を石橋書記長に持っていった。その際に、公務員の「守秘義務」違反で処罰されることを免れないことも覚悟した。
石橋書記長は、1971 年2 月、衆議院予算委員会で、石原産業と通産局とのなれあい、ツマリ談合の事実と、廃硫酸たれ流しについて、事実を挙げての爆弾発言をやり、佐藤栄作内閣の宮沢喜一通産大臣も談合の事実を認めざるをえなくなった。
そして1971 年2 月19 日、港則法違反、水質資源保護法違反、工場排水規制法無届操業で津地方裁判所に起訴手続きがなされ、日本の歴史上初めての「公害刑事裁判」が始められることになった。
田尻の方は、公務員の「守秘義務」違反で処罰されることはなかったものの、3年という短い勤務期間で四日市海保勤務を外され、コンビナートのない、木材積出し港の和歌山県田辺海上保安部へ転勤の辞令を渡された。
四日市を去る時、田尻の元には多くの漁民達が訪れ、涙ながらに感謝の思いを伝えた。
しかし、捨てる神あれば、拾う神あり。
その後、社会党選出の美濃部亮吉東京都知事に招かれて、東京都の公害局主幹を務め、日本化学工業による六角クロム鉱滓の大量投棄事件の陣頭指揮に立つなどした。
そして大学の講師などに招かれ、日本の環境行政の充実に大きな足跡を残している。

以前TVで、故・本田美奈子さんによる「白血病骨髄バンク」のCMで流れていた歌声。
それは、「アメイジンググレイス」(驚くばかりの恵み)という世界で最も有名な賛美歌の一つである。
この「アメイジンググレイス」は1772年、ジョン・ニュートンというイギリス人の元奴隷商人によってつくられた。
ジョンの母親は敬虔なクリスチャンで子供に聖書を読んで聞かせたが、ジョンが7歳の時に亡くなった。
成長したジョン・ニュートンは、商船の指揮官であった父について船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に手を染め巨万の富を得るようになった。
当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。
このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡した。
ジョンも当然のように黒人に対してこのように扱っていたが、1748年5月、彼が22歳の時に転機はやってきた。
船長として任された船が嵐に遭い、死を覚悟するほど危険な状態に陥ったのである。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈 った。
敬虔な母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。
すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れたのである。彼はこの日をみずからの「第二の誕生日」と決めた。
その後の6年間も、ジョンは奴隷を運び続けたものの、当時の奴隷商としては飛躍的に改善された。 1755年、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の寄付を重ねて牧師となった。そして1772年「アメイジング・グレイス」を作詞作曲したのである。
この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことへの悔恨と、それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められている。
ジョンの「改心」は、死に瀕して行われたが、聖書には単なる「よびかけ」(コーリング)で劇的におきるケースが書いてある。
ザアカイは、イエスに名指しで「呼ばれ」ただけで、「自分は貧しい者に財産の半分を施す」と宣言した。
一体、彼の心の内で何が起きたのか。
ザアカイは取税人の頭であった。ユダヤ人から支配者であるローマに納める取税人たちを束ねていた。
背はひくいが金持ちであった、群衆の中で1人木に登って、当時人々が「キリスト」(救い主)ではないかと話題になっているイエスという男を一目見ようと、待っていた。
木に登ってみていたのは、背が低いからばかりではなく、民衆を上から見る日頃の習慣が推測できる。
多くの群集が居る中で、イエスが突然木を見上げて「ザアカイよ、急いでおりてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけた。
ザアカイは、その呼びかけに対して何を感じただろうか。
そもそも、なぜ自分の名を知っているのか、しかも旧知の仲であるかのように宿を貸してくれとはどういうつもりかと、サアカイは訝しく思ったに違いない。
実際に周囲の人々は、イエスが「罪人の家にはいって、客となった」と語り合ったことを伝えている。
一方、ザアカイはその人生で、こんなに権威をもってしかも親しげに声をかけられるなど、一度もなかったにちがいない。
イエスに声をかけられた喜びのほうが優ったのか、その不思議なコーリングに素直に応じている。
そればかりかザアカイは、「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを4倍にして返します」とマデ言っている。
こんな少ない言葉のヤリトリで、ここまで心をエグラレているのは驚きである。
イエスから「ザアカイよ」という言葉が発せられた瞬間、場面はとても厳粛なものに変わった。なぜなら、その一声で、人から搾り取ることにためらいのない男を、「悔悟」へと導いているからだ。
どんな人間も、本当に崇高なもの(愛)に出会ったら、変えられてしまうのかもしれない。
さらに、イエスは「今日救いがこの家にきた。人の子が来たのは失われたものを尋ねだし、救うためである」(ルカ19・9)と言っている。
普通、人の家に泊まる時は相手の都合を聞くのが常識だが、イエスはザアカイの都合も何も一切聞かずに、「今日宿泊することにしているから」といっている。
実は、ザアカイの家に「救い」がきたことと、イエスがザアカイの家に「宿泊する」ことには深い意味がある。
聖書には、各出来事ソノモノの中に「預言」や「型」が隠されているが、この「宿る」という言葉は、新約聖書にはしばしば登場する言葉で、イエスの十字架と復活後に下った聖霊が信徒に「宿る」ことの「型」と解することができる。